あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

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第一章

14.馬蹄銀(2)

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 落ち着いた溪蓀シースンは、ちょっとだけ寂しそうに笑った。

「だめよ。それはあなたの稼いだお金じゃないでしょう? わたし、あなたのお父様に何の義理もないのだもの。お金は受け取れないわ」
「でも、このままだと君は一生後宮に閉じ込められてしまう。陛下はまだ十二歳だ。溪蓀シースンさんとは六歳も年が離れていて、こんなことを言いたくはないけれど、ホアン鄭世ジェンシ氏程度の後ろ盾で陛下の目に留まることは難しい。君がどんなに美しくても」
「やけに詳しいわね」
「幼いころから、父を見てきたからわかるよ。貴族に権力を移さないために、国母は敢えて市井から選ばれるけれど、すぐにどこかの派閥の手先として利用される。そうしないと、後宮で生き残ることが出来ないからだ。美姫たちがこぞって陛下の寵を争うように見えて、本当は奸臣どもが権力を奪い合うための代理戦争にすぎないのさ」

 梓禁城が伏魔殿とはよく聞くが、市井の暮らししか知らない溪蓀シースンには複雑怪奇で理解不能な場所に思われた。脅されて怖じ気付く気持ちがないわけではないが、溪蓀シースンは彼の前では気位の高い娘のままでいたかった。学も教養も無い、針仕事でなんとか食べているだけの名ばかり貴族。見栄っ張りと言われても仕方ない。
 彼のお金は受け取れない。それがきっと浩海ハオハイ自身が稼いだお金であっても。彼は関係ない。溪蓀シースンは自分の意地を通すために、後宮の門をくぐるのだ。
 彼女は端正な顔を仰ぎ見る。

「わたしは自分の力で家族を助けるのよ。恥ずかしいことではないわ」

 苦い表情を浮かべた浩海ハオハイ溪蓀シースンを壁に追い詰めた。好意を突っぱね、今度こそ怒らせてしまったのだろうか。彼女は後退りし、壁に後ろ手を着く。もう後がないと分かると、今度は浩海ハオハイの胸板に両手を着いた。
 
「ど、どうしたの?」
 
――彼に触ってしまった。

 彼が妹を助けたときに少しだけ裸を見たが、白くて細い割には筋肉がついていた。あれが目の前に迫っていると思うと、心臓がどきどきする。自分の鼓動に耐えられなくて、頭を上げれば涼し気な美貌がすぐ目の前にあった。

「ねぇ、離れてちょうだい」
「口づけしたい」

 彼の心の内を晒されて、溪蓀シースンの顔は火が出そうなくらい真っ赤になる。
 
――口づけ? 口づけですって?

「駄目よ。そんなことしたら」
「そんなことしたら、後宮に上がれない? ――本当にそうなればいいのに」
「やめて」

 反射的に頭を上げると、浩海ハオハイが切なそうに笑っていた。本当は泣きたいのに、無理に作ったような笑顔だった。

――彼も私と同じくらい別れを嘆いてくれているのかしら?

「ねぇ。僕にまじないをかけるために一度だけ許して? 溪蓀シースンさんにもう一度出会えるように」

 彼女はしばし考えた。彼に口づけのまじないをかければ、また会える? いつか会いたいと願うだけなら、きっと皇帝陛下への不貞には当たらないに違いない。

「いいわ」 

 溪蓀シースンは、無意識に花のような笑みを浮かべた。それから、眼前に迫ってくる男の影に慌てて眼を瞑る。相手の唇が自分のそれに合わさった。何とも言えないふわりとした柔らかい感触。一瞬だけの恋人。胸がはち切れそうなほどドキドキする。唇を離されても、胸の高まりは収まらなかった。

「これであなたにまた会える?」

 夢心地で相手を見上げた彼女だが、これで終わりではなかった。なんと、突然強引に腰を引き寄せられてしまった。

「こんなんじゃ全然足りないよ」

 ささやかれた直後、思いもしない侵入に眼を見張る。

「あっ……」

 白い歯列を割られ、何かぬるっとしたものが入ってくる。それが相手の舌だと気が付いて、溪蓀シースンは錯乱した。おまけに上半身のみならずお腹同士がぴったりと引っ付けられているではないか。彼の身体が熱い。

――いけない、これは間違いなく罪深きこと。

「んっ! ふぅ……」

 溪蓀シースンが両手で突っぱねて必死に抵抗したものの、浩海ハオハイの敵う相手ではなかった。深い口づけを交わそうと、頭の後ろを支えられる。

「ハオ、ハ……さ、ん、……だっ」

 彼女の視界に入ったのは端正な顔のアップだった。欲をはらんだ熱っぽい瞳、少しだけ赤く上気した頬の線、この行為に続きがあること予感させる危険な香り。
 唇を甘噛みされ、歯の裏を舌でかき回され、さらに深く繋がろうと角度を変えられた。刻み煙草の匂いがかすかにし、自分の知らない浩海ハオハイの一面を垣間見せられる。

「んっ……、あ……」

 抵抗は長く続かなかった。浩海ハオハイの舌が怯えて縮こまる彼女のそれを絡めとり、音を立てて吸われる。気持ち良くて熱い波に翻弄されて、はしたないことはいけないと思うのに逃れられない。口づけにこんな激しいものがあるなんて、知らなかった。
 息も絶え絶えになりかけた頃、名残にちゅっと音を立ててゆっくり解放された。唇と唇をつないだ粘液がひとときの銀糸のようで、見るのも堪えないぐらいいやらしい。どうしてか、股の間がさわさわとして落ち着かない上に、まるで月のものが巡って来たときのようにじっとりと濡れた感じがした。溪蓀シースンは膝に力が入らず、しばらく浩海ハオハイに身を任せるしかなかったのだ。
 彼の腕にぎゅっと抱きしめられ、露わになった首筋に頬を寄せられた。
 
「絶対迎えに行くよ。待っていて」

 別れ際の口づけで、忘れじのまじないをかけられたのは溪蓀シースンの方だったかもしれない、と彼女は思った。
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