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第一章
10.舟遊び(1)
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水面に映る、しだれ柳は本物よりも美しいという。
手に入りそうで入らないものが如何に人の目に惜しく映るのか、溪蓀はその言葉に初めて共感を覚えた。かつては『そんなものに浸る時間があったら手を動かして稼ぐわよ』と息巻いていたが、恋というものに触れてみれば、単純明快なはずの心にも人並みに複雑な感情が描かれる。それに感心するやら唖然となるやら、自分でも訳が分からなかった。
そもそも、遊び人で無職の李浩海に胸がときめくとはなにごとか。溪蓀は自分自身をかなり買い被っていたのだ。若いのに浮ついたところのないしっかり者のはずなのに、結果は散々なものだった。結局自分を公主様気分にさせてくれる、絵物語に出てくるような美男子にのぼせ上ってしまったのだから、全くたわいもない。
その一方、彼女はもはや浩海を外面がいいだけの『ゴミ』とは考えられなかった。彼は冷たい湖に飛び込むぐらい勇敢で、顔も知らぬ花茶の内職婦を思いやるぐらい優しい。その上、好きだと言いながら、嫁入り前の溪蓀をおもんばかって、指一本触れようとしない紳士だ。異性慣れしていない自分のような娘に、端から対抗できる相手ではなかったのだ。
向かいの彼は涼しい顔をしているが、さぞや腹の中では勝利の余韻に浸っていることだろう。
――それもすぐに忘れたくなるような、不快な話の一部になるだろうけれど。
そんなことを考えながら、小舟の上で溪蓀は溜息を落とした。
「今日は元気がないね、どうしたの?」
「いいえ、いつもと変わらないわ」
そう、いつもと変わらない。湖畔の散歩で終わるところを珍しくも『小舟に乗りたい』と溪蓀がねだっただけ。彼は一度は顔をポカンとさせたが、次には美形の得を最大限に生かした笑顔を浮かべた。言うまでもなく溪蓀の顔は真っ赤になったが、それでも撤回しようとは思わない。何故なら、会うのは今日で最後だから。
渋る両親に駄々をこね乗せてもらって以来、舟遊びは何年ぶりだろう。あれは自分が十歳のころで、以来次は絶対恋人と乗ろうと夢見ていたのだ。若い頃の父がしてくれたみたいに、向かいに座る男性に力強く櫂を漕いでほしかった。
器用貧乏だと自認するだけあって、浩海の櫂さばきは見事である。何でも出来るのに何もしない、不思議な人。恋人にはなれなかったが、溪蓀が生まれて初めて好きになった相手。アヤメの花言葉は『気まぐれ』で、そんな言い訳を自分に許して相手を振り回し、夢が一つ密かに叶えられた。
彼は櫂から手を離して、その場に小舟を止めた。他にも何艘かの小舟が浮かび、恋人や家族連れのはしゃぐ声が聞こえたが、自分たちの舟は静かである。浩海の端正な面が傍まできて、彼女はつい後ろに下がってしまった。
「なによ?」
「今日は本当に変だよ。船に誘ってくれたことは嬉しいけれど。――僕で良ければ聞くよ?」
「あなたに相談して解決することなら、とっくに解決してるわよ」
それって好きな人に向ける言葉じゃないでしょ、と心の声に突っ込まれた溪蓀だが、浩海はいつもの通り苦笑する。少し寂しそうな笑顔で。
「そうだね。溪蓀さんの言う通りだ」
――浩海さん、今大声で怒っても良かったのに。
ほとんど庶民という、年下の小娘に言われたのだ。名門貴族で進士様の彼には、とても無礼な出来事だろうに。
母親には強く念押しされたが、浩海には後宮に入ることを話す気はなかった。優しい人だ、話せば多分自分のために動いてしまう。
彼が好き。でも自分はきちんと教育を受けていないから教養も足らないし、見た目も手入れが行き届かずみすぼらしい。彼への劣等感が強すぎて、自分の気持ちを正直に打ち明けることが出来ない。好きだからこそ甘えられない。彼に好かれたいのに哀れみをかけられたくない。
彼女は結局深入りすることを恐れている。浩海にとって自分は、一度は夢中になっても季節の移り変わりと共に忘れてしまう、触れられぬ花のままでいたいのだ。
「ねぇ」
最後に教えてちょうだい、と彼女は心の中で付け加える。彼は先程の口撃にめげることなく笑顔で応じた。
「なんだい?」
「将弓という人は、あなたにとってどういう存在だったの?」
彼は目を大きくしたが、二回目の質問をはぐらかそうとはしなかった。
「同い年の親友だったんだ。この前話したとおり亡くなった母の一族で、一応貴族だけど、僕と違ってあんまり裕福じゃなかった。でも、あいつは不器用なのになんでも一生懸命でいつも誰かのために動いていて、科挙を目指したのも家族のためだった。偉いやつで、その志を買った父が姻戚のあいつを援助し始め、僕の家に下宿するようになった。僕は何となく興味をひかれて、それまで適当だった童試の勉強に初めて本腰を入れるようになったんだ」
童試というのは科挙を目指す人間が最初に受ける試験だ。十五歳になって受けると途端に難しくされるため、たいていその前に受験する。溪蓀の弟の青行が目指しているのもこの試験だった。子供が受けると言っても、とても難しいものらしい。
「ちょっとうまく行ったら飽きてしまう僕には、到底真似が出来ないぐらいの努力家だったよ。……そういうところ、溪蓀さんにも似てるかな。自分があっさりと適当だから、コツコツ頑張る人には頭がさがる。
僕は将弓の真剣さに惹かれて、勉学に没頭した。終わりの見えない勉強も二人でやれば面白かったよ。やがて、府試から会試まで突破して、僕たちは有頂天だったんだ。この北都であいつと仕事が出来るんだって、ずっとそう思っていた」
輝くように在りし日を語る浩海をみれば、当時どれだけ充実した毎日を過ごしていたか分かろうものだった。二人で勉学に励みながら、国の理想を語り合ったかもしれない。あるいは、将弓は一族の復興を夢見たかもしれない。溪蓀の父が若かりしころ考えたように。だが、それは叶わなかったのだ。
手に入りそうで入らないものが如何に人の目に惜しく映るのか、溪蓀はその言葉に初めて共感を覚えた。かつては『そんなものに浸る時間があったら手を動かして稼ぐわよ』と息巻いていたが、恋というものに触れてみれば、単純明快なはずの心にも人並みに複雑な感情が描かれる。それに感心するやら唖然となるやら、自分でも訳が分からなかった。
そもそも、遊び人で無職の李浩海に胸がときめくとはなにごとか。溪蓀は自分自身をかなり買い被っていたのだ。若いのに浮ついたところのないしっかり者のはずなのに、結果は散々なものだった。結局自分を公主様気分にさせてくれる、絵物語に出てくるような美男子にのぼせ上ってしまったのだから、全くたわいもない。
その一方、彼女はもはや浩海を外面がいいだけの『ゴミ』とは考えられなかった。彼は冷たい湖に飛び込むぐらい勇敢で、顔も知らぬ花茶の内職婦を思いやるぐらい優しい。その上、好きだと言いながら、嫁入り前の溪蓀をおもんばかって、指一本触れようとしない紳士だ。異性慣れしていない自分のような娘に、端から対抗できる相手ではなかったのだ。
向かいの彼は涼しい顔をしているが、さぞや腹の中では勝利の余韻に浸っていることだろう。
――それもすぐに忘れたくなるような、不快な話の一部になるだろうけれど。
そんなことを考えながら、小舟の上で溪蓀は溜息を落とした。
「今日は元気がないね、どうしたの?」
「いいえ、いつもと変わらないわ」
そう、いつもと変わらない。湖畔の散歩で終わるところを珍しくも『小舟に乗りたい』と溪蓀がねだっただけ。彼は一度は顔をポカンとさせたが、次には美形の得を最大限に生かした笑顔を浮かべた。言うまでもなく溪蓀の顔は真っ赤になったが、それでも撤回しようとは思わない。何故なら、会うのは今日で最後だから。
渋る両親に駄々をこね乗せてもらって以来、舟遊びは何年ぶりだろう。あれは自分が十歳のころで、以来次は絶対恋人と乗ろうと夢見ていたのだ。若い頃の父がしてくれたみたいに、向かいに座る男性に力強く櫂を漕いでほしかった。
器用貧乏だと自認するだけあって、浩海の櫂さばきは見事である。何でも出来るのに何もしない、不思議な人。恋人にはなれなかったが、溪蓀が生まれて初めて好きになった相手。アヤメの花言葉は『気まぐれ』で、そんな言い訳を自分に許して相手を振り回し、夢が一つ密かに叶えられた。
彼は櫂から手を離して、その場に小舟を止めた。他にも何艘かの小舟が浮かび、恋人や家族連れのはしゃぐ声が聞こえたが、自分たちの舟は静かである。浩海の端正な面が傍まできて、彼女はつい後ろに下がってしまった。
「なによ?」
「今日は本当に変だよ。船に誘ってくれたことは嬉しいけれど。――僕で良ければ聞くよ?」
「あなたに相談して解決することなら、とっくに解決してるわよ」
それって好きな人に向ける言葉じゃないでしょ、と心の声に突っ込まれた溪蓀だが、浩海はいつもの通り苦笑する。少し寂しそうな笑顔で。
「そうだね。溪蓀さんの言う通りだ」
――浩海さん、今大声で怒っても良かったのに。
ほとんど庶民という、年下の小娘に言われたのだ。名門貴族で進士様の彼には、とても無礼な出来事だろうに。
母親には強く念押しされたが、浩海には後宮に入ることを話す気はなかった。優しい人だ、話せば多分自分のために動いてしまう。
彼が好き。でも自分はきちんと教育を受けていないから教養も足らないし、見た目も手入れが行き届かずみすぼらしい。彼への劣等感が強すぎて、自分の気持ちを正直に打ち明けることが出来ない。好きだからこそ甘えられない。彼に好かれたいのに哀れみをかけられたくない。
彼女は結局深入りすることを恐れている。浩海にとって自分は、一度は夢中になっても季節の移り変わりと共に忘れてしまう、触れられぬ花のままでいたいのだ。
「ねぇ」
最後に教えてちょうだい、と彼女は心の中で付け加える。彼は先程の口撃にめげることなく笑顔で応じた。
「なんだい?」
「将弓という人は、あなたにとってどういう存在だったの?」
彼は目を大きくしたが、二回目の質問をはぐらかそうとはしなかった。
「同い年の親友だったんだ。この前話したとおり亡くなった母の一族で、一応貴族だけど、僕と違ってあんまり裕福じゃなかった。でも、あいつは不器用なのになんでも一生懸命でいつも誰かのために動いていて、科挙を目指したのも家族のためだった。偉いやつで、その志を買った父が姻戚のあいつを援助し始め、僕の家に下宿するようになった。僕は何となく興味をひかれて、それまで適当だった童試の勉強に初めて本腰を入れるようになったんだ」
童試というのは科挙を目指す人間が最初に受ける試験だ。十五歳になって受けると途端に難しくされるため、たいていその前に受験する。溪蓀の弟の青行が目指しているのもこの試験だった。子供が受けると言っても、とても難しいものらしい。
「ちょっとうまく行ったら飽きてしまう僕には、到底真似が出来ないぐらいの努力家だったよ。……そういうところ、溪蓀さんにも似てるかな。自分があっさりと適当だから、コツコツ頑張る人には頭がさがる。
僕は将弓の真剣さに惹かれて、勉学に没頭した。終わりの見えない勉強も二人でやれば面白かったよ。やがて、府試から会試まで突破して、僕たちは有頂天だったんだ。この北都であいつと仕事が出来るんだって、ずっとそう思っていた」
輝くように在りし日を語る浩海をみれば、当時どれだけ充実した毎日を過ごしていたか分かろうものだった。二人で勉学に励みながら、国の理想を語り合ったかもしれない。あるいは、将弓は一族の復興を夢見たかもしれない。溪蓀の父が若かりしころ考えたように。だが、それは叶わなかったのだ。
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