上 下
10 / 86
第一章

10.舟遊び(1)

しおりを挟む
 水面に映る、しだれ柳は本物よりも美しいという。
 手に入りそうで入らないものが如何に人の目に惜しく映るのか、溪蓀シースンはその言葉に初めて共感を覚えた。かつては『そんなものに浸る時間があったら手を動かして稼ぐわよ』と息巻いていたが、恋というものに触れてみれば、単純明快なはずの心にも人並みに複雑な感情が描かれる。それに感心するやら唖然となるやら、自分でも訳が分からなかった。 

 そもそも、遊び人で無職のリー浩海ハオハイに胸がときめくとはなにごとか。溪蓀シースンは自分自身をかなり買い被っていたのだ。若いのに浮ついたところのないしっかり者のはずなのに、結果は散々なものだった。結局自分を公主様気分にさせてくれる、絵物語に出てくるような美男子にのぼせ上ってしまったのだから、全くたわいもない。

 その一方、彼女はもはや浩海ハオハイを外面がいいだけの『ゴミ』とは考えられなかった。彼は冷たい湖に飛び込むぐらい勇敢で、顔も知らぬ花茶の内職婦を思いやるぐらい優しい。その上、好きだと言いながら、嫁入り前の溪蓀シースンをおもんばかって、指一本触れようとしない紳士だ。異性慣れしていない自分のような娘に、端から対抗できる相手ではなかったのだ。 
 向かいの彼は涼しい顔をしているが、さぞや腹の中では勝利の余韻に浸っていることだろう。

――それもすぐに忘れたくなるような、不快な話の一部になるだろうけれど。

 そんなことを考えながら、小舟の上で溪蓀シースンは溜息を落とした。 

「今日は元気がないね、どうしたの?」
「いいえ、いつもと変わらないわ」

 そう、いつもと変わらない。湖畔の散歩で終わるところを珍しくも『小舟に乗りたい』と溪蓀シースンがねだっただけ。彼は一度は顔をポカンとさせたが、次には美形の得を最大限に生かした笑顔を浮かべた。言うまでもなく溪蓀シースンの顔は真っ赤になったが、それでも撤回しようとは思わない。何故なら、会うのは今日で最後だから。

 渋る両親に駄々をこね乗せてもらって以来、舟遊びは何年ぶりだろう。あれは自分が十歳のころで、以来次は絶対恋人と乗ろうと夢見ていたのだ。若い頃の父がしてくれたみたいに、向かいに座る男性に力強くかいを漕いでほしかった。
 器用貧乏だと自認するだけあって、浩海ハオハイの櫂さばきは見事である。何でも出来るのに何もしない、不思議な人。恋人にはなれなかったが、溪蓀シースンが生まれて初めて好きになった相手。アヤメの花言葉は『気まぐれ』で、そんな言い訳を自分に許して相手を振り回し、夢が一つ密かに叶えられた。

 彼はかいから手を離して、その場に小舟を止めた。他にも何艘かの小舟が浮かび、恋人や家族連れのはしゃぐ声が聞こえたが、自分たちの舟は静かである。浩海ハオハイの端正な面が傍まできて、彼女はつい後ろに下がってしまった。

「なによ?」
「今日は本当に変だよ。船に誘ってくれたことは嬉しいけれど。――僕で良ければ聞くよ?」
「あなたに相談して解決することなら、とっくに解決してるわよ」

 それって好きな人に向ける言葉じゃないでしょ、と心の声に突っ込まれた溪蓀シースンだが、浩海ハオハイはいつもの通り苦笑する。少し寂しそうな笑顔で。

「そうだね。溪蓀シースンさんの言う通りだ」

――浩海ハオハイさん、今大声で怒っても良かったのに。

 ほとんど庶民という、年下の小娘に言われたのだ。名門貴族で進士様の彼には、とても無礼な出来事だろうに。
 母親には強く念押しされたが、浩海ハオハイには後宮に入ることを話す気はなかった。優しい人だ、話せば多分自分のために動いてしまう。
 彼が好き。でも自分はきちんと教育を受けていないから教養も足らないし、見た目も手入れが行き届かずみすぼらしい。彼への劣等感が強すぎて、自分の気持ちを正直に打ち明けることが出来ない。好きだからこそ甘えられない。彼に好かれたいのに哀れみをかけられたくない。
 彼女は結局深入りすることを恐れている。浩海ハオハイにとって自分は、一度は夢中になっても季節の移り変わりと共に忘れてしまう、触れられぬ花のままでいたいのだ。

「ねぇ」

 最後に教えてちょうだい、と彼女は心の中で付け加える。彼は先程の口撃にめげることなく笑顔で応じた。

「なんだい?」
将弓チェンゴンという人は、あなたにとってどういう存在だったの?」

 彼は目を大きくしたが、二回目の質問をはぐらかそうとはしなかった。

「同い年の親友だったんだ。この前話したとおり亡くなった母の一族で、一応貴族だけど、僕と違ってあんまり裕福じゃなかった。でも、あいつは不器用なのになんでも一生懸命でいつも誰かのために動いていて、科挙を目指したのも家族のためだった。偉いやつで、その志を買った父が姻戚のあいつを援助し始め、僕の家に下宿するようになった。僕は何となく興味をひかれて、それまで適当だった童試の勉強に初めて本腰を入れるようになったんだ」

 童試というのは科挙を目指す人間が最初に受ける試験だ。十五歳になって受けると途端に難しくされるため、たいていその前に受験する。溪蓀シースンの弟の青行チンシンが目指しているのもこの試験だった。子供が受けると言っても、とても難しいものらしい。

「ちょっとうまく行ったら飽きてしまう僕には、到底真似が出来ないぐらいの努力家だったよ。……そういうところ、溪蓀シースンさんにも似てるかな。自分があっさりと適当だから、コツコツ頑張る人には頭がさがる。
 僕は将弓チェンゴンの真剣さに惹かれて、勉学に没頭した。終わりの見えない勉強も二人でやれば面白かったよ。やがて、府試から会試まで突破して、僕たちは有頂天だったんだ。この北都ベイドゥであいつと仕事が出来るんだって、ずっとそう思っていた」

 輝くように在りし日を語る浩海ハオハイをみれば、当時どれだけ充実した毎日を過ごしていたか分かろうものだった。二人で勉学に励みながら、国の理想を語り合ったかもしれない。あるいは、将弓チェンゴンは一族の復興を夢見たかもしれない。溪蓀シースンの父が若かりしころ考えたように。だが、それは叶わなかったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

【R18】愛され総受け女王は、20歳の誕生日に夫である美麗な年下国王に甘く淫らにお祝いされる

奏音 美都
恋愛
シャルール公国のプリンセス、アンジェリーナの公務の際に出会い、恋に落ちたソノワール公爵であったルノー。 両親を船の沈没事故で失い、突如女王として戴冠することになった間も、彼女を支え続けた。 それから幾つもの困難を乗り越え、ルノーはアンジェリーナと婚姻を結び、単なる女王の夫、王配ではなく、自らも執政に取り組む国王として戴冠した。 夫婦となって初めて迎えるアンジェリーナの誕生日。ルノーは彼女を喜ばせようと、画策する。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

(R18)灰かぶり姫の公爵夫人の華麗なる変身

青空一夏
恋愛
Hotランキング16位までいった作品です。 レイラは灰色の髪と目の痩せぎすな背ばかり高い少女だった。 13歳になった日に、レイモンド公爵から突然、プロポーズされた。 その理由は奇妙なものだった。 幼い頃に飼っていたシャム猫に似ているから‥‥ レイラは社交界でもばかにされ、不釣り合いだと噂された。 せめて、旦那様に人間としてみてほしい! レイラは隣国にある寄宿舎付きの貴族学校に留学し、洗練された淑女を目指すのだった。 ☆マーク性描写あり、苦手な方はとばしてくださいませ。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

処理中です...