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第一章
9.没落令嬢の矜持
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その話が来たのは、丁度アヤメの花が咲き出したころだった。
紫に黄と白、三色入り混じった花弁がたおやかに庭を飾っている。溪蓀の名はここから付けられたものだが、花ではなくて剣のような緑葉の危うさが如何にもお前らしいと、亡くなった祖母にはからかわれたものだ。
「こんな話をして、親として面目ないと思っている」
父の前置きのあと、母が本題に入る。湯呑を卓子に置いた、カタンという音がやけに悲しく響いた。
「返済が滞っていた借金なんだけど、礼部侍郎の黄鄭世様から立て替えて下さるとお話があったんだよ。同姓のよしみとかで。……ただ、お前が皇帝陛下の側室として宮殿に上がることが条件だと言われてね……」
前触れもなく訪れた人生の転機を前にして、彼女の心は不思議なほど静かだった。
家の借金は何も両親のせいではない。
溪蓀の祖父は『呑む・打つ・買う』を繰り返す根っからの遊び人だった。祖母に働けと責められると父親の遺産で危うい商売に手を出し、周囲が思ったとおりに大損して新たな負債を抱え込む悪循環を繰り返していた。それが代をまたぐほどの借金に膨らみ、二代後の自分すら苦しめている。
だが、自分が後宮に上がることでそれも完済されるのだ。『美貌の没落令嬢』と褒めているのか貶しているのか分からない呼び名を与えられるに至った顔に、産んでくれた母親に感謝したい一瞬だった。(人から綺麗と言われるのは嬉しいが、整い過ぎて冷たく感じると思われるのは悲しいのだ。)
取り立ての焦燥が無くなれば、ようやく家族は前を向いて、静かな日常を過ごすことが出来るのだ。
溪蓀は口許をゆるませる。
「ありがたいお話じゃない」
「溪蓀や」
「借金が無くなるなんていいことだわ。わたしは三食昼寝つきで一生遊んで暮らせるし、運が良ければ国母様にもなれるのよ。藍珠は良いところにお嫁に行けて、青行も童試の勉強に集中できるわ。良いこと尽くしじゃないの。黄鄭世様の気が変わらないうちに早速返事をしましょうよ」
妓楼で『はやくこっちにいらっしゃい』とからかわれるような自分だ。一転して、皇帝陛下のお妃に選ばれたのだからこんなに栄誉なことはない。娼妓になるのとは違い、自分の品位を貶めるどころか高めることが出来るときて、両親は何を戸惑っているのか分からない。
すると、鳥紗帽を斜めにかしげる父親が、娘を気遣うように言葉を選んできた。
「だって、お前。李浩海様のことが好きなんだろう?」
「まさか。わたし、お祖父様みたいな人は嫌いなの。浩海さんは藍珠の命の恩人、それ以外はどこかの遠い若様よ」
疲れた顔をした母親が大きな溜息をつく。
「お前、またそんなことを言って。入内の話は、正直なところ、お父さんもわたしも突然すぎて面喰っているんだよ。まだ正式に返事をしたわけじゃないから、よく考えて決めておくれよ」
「こんなこと、考えさせてすまないなぁ、溪蓀」
両親は親として『子供のことを第一に考える』道徳を掲げながら、それが叶えられない現実に苦しんでいる。自分は幸せなのだ。その両親に愛情がなければ、今頃妓楼で客を取っていたかもしれないのだから。そう思えば、大切な家族の為なら自分が後宮に上がることなどどうという訳でもない気がする。
だが、父親が再び思いもよらないことを口にした。
「余計なことかもしれないけれど、一度若様にちゃんと話をしたらどうだ? お前の気持ちはともかく、若様がお前を気に入っているのは確かだろう」
浩海に話? 彼の気持ち? 何の冗談だ。身を預けるから代わりに借金を払ってくれないかって?
――とんでもないことよ! わたしには山より高いプライドがあるのよ!
「彼は無職で遊び人よ。わたしのことも遊びの延長なの。そんなこと、お父さんたちだってわかってるでしょ? 重い話をしたら、たちまち尻尾巻いて逃げちゃうわ。……まあ、そのほうがいいけれど」
「左丞相様のご子息だ。働かなくても生きていける人種がこの世にはいるんだ。李浩海様なら、正式にお前を娶って下さるかもしれないじゃないか」
「そうだよ。若様の温情におすがりするのは気が引けるけれど、あの方も所帯を持てば働こうという気になるかもしれない。大丈夫、進士様なんだからその気になればどんな仕事にも就けるよ。一度話してみたらいいじゃないか」
その瞬間、溪蓀のなかに激しい竜巻が起こり、自分でも知らないうちに声を荒げていた。
「いや、ぜったいにいや。あの人にお金で買ってもらうなんて。そんなことをしなくても、喜んでこの話を受けるわよ」
「いきなり、どうしたんだい」
「溪蓀や。そこまで必死になることはないだろ」
彼女の剣幕に恐れをなした両親が口々に言えば、彼女は対抗するように声高になった。
「とにかく嫌なものはいや。もう彼の話は一切出さないで!」
二人は唖然として娘を見る。溪蓀は自分でもどうしてここまで過剰な反応に出るのか、分からなかった。とにかく嫌なものは嫌なのだ。一度高まった気はなかなか静めることが出来ず、彼女は窓の外に視線を移して息を整える。庭のアヤメが自分を憐れんでいるように揺れたが、下唇を噛んでそれを無視した。
「もう決めたわ。黄鄭世様に返事をして。私がこの家の借金を返すの」
横を向いたまま言い切った娘に、母親は大きな溜息をこぼす。頑固者の娘に対する呆れか哀れみか、溪蓀にはそのように映った。
「お前がそう言うなら仕方ない。ただ、目をかけて下さった若様にはちゃんと事情を説明しておくれよ。いきなり姿を消して、失礼があってはいけないからね」
「……わかったわ」
その隣の父親が面目なさそうに頭を下げたが、しおしおとうな垂れる姿が哀愁を誘った。
「……すまない、溪蓀。わたしが満足に稼げないばかりに、お前に不本意な道を歩ませることになってしまった」
あまりに言葉に力がなかったので、溪蓀は振り返って頭を振る。お父さんのせいじゃないわ、と。
紫に黄と白、三色入り混じった花弁がたおやかに庭を飾っている。溪蓀の名はここから付けられたものだが、花ではなくて剣のような緑葉の危うさが如何にもお前らしいと、亡くなった祖母にはからかわれたものだ。
「こんな話をして、親として面目ないと思っている」
父の前置きのあと、母が本題に入る。湯呑を卓子に置いた、カタンという音がやけに悲しく響いた。
「返済が滞っていた借金なんだけど、礼部侍郎の黄鄭世様から立て替えて下さるとお話があったんだよ。同姓のよしみとかで。……ただ、お前が皇帝陛下の側室として宮殿に上がることが条件だと言われてね……」
前触れもなく訪れた人生の転機を前にして、彼女の心は不思議なほど静かだった。
家の借金は何も両親のせいではない。
溪蓀の祖父は『呑む・打つ・買う』を繰り返す根っからの遊び人だった。祖母に働けと責められると父親の遺産で危うい商売に手を出し、周囲が思ったとおりに大損して新たな負債を抱え込む悪循環を繰り返していた。それが代をまたぐほどの借金に膨らみ、二代後の自分すら苦しめている。
だが、自分が後宮に上がることでそれも完済されるのだ。『美貌の没落令嬢』と褒めているのか貶しているのか分からない呼び名を与えられるに至った顔に、産んでくれた母親に感謝したい一瞬だった。(人から綺麗と言われるのは嬉しいが、整い過ぎて冷たく感じると思われるのは悲しいのだ。)
取り立ての焦燥が無くなれば、ようやく家族は前を向いて、静かな日常を過ごすことが出来るのだ。
溪蓀は口許をゆるませる。
「ありがたいお話じゃない」
「溪蓀や」
「借金が無くなるなんていいことだわ。わたしは三食昼寝つきで一生遊んで暮らせるし、運が良ければ国母様にもなれるのよ。藍珠は良いところにお嫁に行けて、青行も童試の勉強に集中できるわ。良いこと尽くしじゃないの。黄鄭世様の気が変わらないうちに早速返事をしましょうよ」
妓楼で『はやくこっちにいらっしゃい』とからかわれるような自分だ。一転して、皇帝陛下のお妃に選ばれたのだからこんなに栄誉なことはない。娼妓になるのとは違い、自分の品位を貶めるどころか高めることが出来るときて、両親は何を戸惑っているのか分からない。
すると、鳥紗帽を斜めにかしげる父親が、娘を気遣うように言葉を選んできた。
「だって、お前。李浩海様のことが好きなんだろう?」
「まさか。わたし、お祖父様みたいな人は嫌いなの。浩海さんは藍珠の命の恩人、それ以外はどこかの遠い若様よ」
疲れた顔をした母親が大きな溜息をつく。
「お前、またそんなことを言って。入内の話は、正直なところ、お父さんもわたしも突然すぎて面喰っているんだよ。まだ正式に返事をしたわけじゃないから、よく考えて決めておくれよ」
「こんなこと、考えさせてすまないなぁ、溪蓀」
両親は親として『子供のことを第一に考える』道徳を掲げながら、それが叶えられない現実に苦しんでいる。自分は幸せなのだ。その両親に愛情がなければ、今頃妓楼で客を取っていたかもしれないのだから。そう思えば、大切な家族の為なら自分が後宮に上がることなどどうという訳でもない気がする。
だが、父親が再び思いもよらないことを口にした。
「余計なことかもしれないけれど、一度若様にちゃんと話をしたらどうだ? お前の気持ちはともかく、若様がお前を気に入っているのは確かだろう」
浩海に話? 彼の気持ち? 何の冗談だ。身を預けるから代わりに借金を払ってくれないかって?
――とんでもないことよ! わたしには山より高いプライドがあるのよ!
「彼は無職で遊び人よ。わたしのことも遊びの延長なの。そんなこと、お父さんたちだってわかってるでしょ? 重い話をしたら、たちまち尻尾巻いて逃げちゃうわ。……まあ、そのほうがいいけれど」
「左丞相様のご子息だ。働かなくても生きていける人種がこの世にはいるんだ。李浩海様なら、正式にお前を娶って下さるかもしれないじゃないか」
「そうだよ。若様の温情におすがりするのは気が引けるけれど、あの方も所帯を持てば働こうという気になるかもしれない。大丈夫、進士様なんだからその気になればどんな仕事にも就けるよ。一度話してみたらいいじゃないか」
その瞬間、溪蓀のなかに激しい竜巻が起こり、自分でも知らないうちに声を荒げていた。
「いや、ぜったいにいや。あの人にお金で買ってもらうなんて。そんなことをしなくても、喜んでこの話を受けるわよ」
「いきなり、どうしたんだい」
「溪蓀や。そこまで必死になることはないだろ」
彼女の剣幕に恐れをなした両親が口々に言えば、彼女は対抗するように声高になった。
「とにかく嫌なものはいや。もう彼の話は一切出さないで!」
二人は唖然として娘を見る。溪蓀は自分でもどうしてここまで過剰な反応に出るのか、分からなかった。とにかく嫌なものは嫌なのだ。一度高まった気はなかなか静めることが出来ず、彼女は窓の外に視線を移して息を整える。庭のアヤメが自分を憐れんでいるように揺れたが、下唇を噛んでそれを無視した。
「もう決めたわ。黄鄭世様に返事をして。私がこの家の借金を返すの」
横を向いたまま言い切った娘に、母親は大きな溜息をこぼす。頑固者の娘に対する呆れか哀れみか、溪蓀にはそのように映った。
「お前がそう言うなら仕方ない。ただ、目をかけて下さった若様にはちゃんと事情を説明しておくれよ。いきなり姿を消して、失礼があってはいけないからね」
「……わかったわ」
その隣の父親が面目なさそうに頭を下げたが、しおしおとうな垂れる姿が哀愁を誘った。
「……すまない、溪蓀。わたしが満足に稼げないばかりに、お前に不本意な道を歩ませることになってしまった」
あまりに言葉に力がなかったので、溪蓀は振り返って頭を振る。お父さんのせいじゃないわ、と。
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