婚約者の本性を暴こうとメイドになったら溺愛されました!

柿崎まつる

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52.蛇の生殺し(グラシアン視点)①

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あれから、十年。グラシアンは教養を磨いて、喋り方や所作まで変えた。家族三人はいつ彼が諦めるか賭けまでしたが、グラシアンは最後の最後まで音をあげなかったのだ。腹が立っても足元にある物を蹴とばさず、唇をゆがませる前に心のなかで深呼吸した。為せば成るものだ。
 
 一方、アリスは水の精霊から無限の祝福を受けて、王太女の風格と聡明さを身に着けた美しい乙女へと成長していった。
 最初に彼女の手の甲に口づけを許された時、グラシアンは己の幸福に酔いしれたものだ。その週は始めから終わりまで、白昼夢を見ているかのよう。浮かれた様をコリンに笑われたが、その時は毛ほども気にならなかった。

 二年前女王に認められて、ようやく王太女の婚約者として収まったものの、正直彼女に慕われている実感はなかった。人格者として振る舞っているはずなのに胡散臭そうな目で見られるし、人目がなくなった途端猫のように毛を逆立ててくる。グラシアンはその態度に凹んだものの、アリスの頑なな心を溶かすまで尽くす覚悟はできていた。十年待った男に焦りはないのだ。
 
 そんななか、思わぬことが起きる。結婚式まで二ヶ月に迫ったある日、いきなり本人が屋敷にメイドとして現れたのだ。入念に変装しているもののグラシアンには他の誰にも見えなくて、最初はただただ目を疑った。
 
「意地を張らずに、治療を受けてください。剣を握られなくなってもいいのですか?」

 使用人にしては強すぎる言葉に、グラシアンは激しく動揺する。
 アリスはどうして、自分が怪我をしていることに気が付いたのだろう。その前に、どうしてここに来たのか。
 とにかく自分を落ち着けようと、彼女を先に部屋へと向かわせる。グラシアンは疾風のごとく、コリンの執務室に飛び込んだ。

「どうしたんだ、グラシアン? 怖い顔して、……うわああっ!」
「どうして、彼女がこの屋敷にいるんだ? 答えろ、コリン」

 椅子にどっぷり埋まった兄の胸ぐらを掴みあげると、短くて丸い脚がバタバタと宙を蹴る。二人の身長差は十センチあるので、コリンの身体はいつも浮いてしまうのだ。

「突然なんだよっ! 僕は疲れてるんだよ! 暴力反対っ!」
「死にたくなければ、いますぐ吐け。こっちは三日間ほとんど寝てないうえに消火活動までやらされて、文字通り死にかけているんだ」
「わかった、わかった! おまえの方が疲れてる! だから放してくれ!」

 仕方ないので下ろしてやると、コリンはいかにも鍛錬と縁のなさそうなぷよぷよな指で、クラヴァットを直した。

「これでも次の当主でおまえの兄なんだから、敬意を払ってくれよ。――で、なんだって?」
「……『彼女』がいる」

 コリンは無表情に呟いた弟に、目を丸くする。
 
「へぇ。もう、あの子に気が付いたのか? 王太女殿下の洞察力には脱帽だが、おまえの観察眼も捨てたもんじゃないな。やー、我が国の未来も明るいな」
「話が見えんぞ。殿下がどうしたって?」

 眉根を寄せて、兄の感慨をぶった切る。コリンは悪鬼めいたグラシアンの顔に後ずさった。

「落ち着けって。一週間だけ、殿下の専属の侍女をメイドとして置いてくれって、王宮の執事長から頼まれてたんだよ。……それにしても、純朴な眼鏡っ子って新鮮でいいよねぇ。どう見ても、あれは処女っぽいし」

 ――コリンは、あのメイドがアリス本人だと気が付いていないのか。

 グラシアンは、顔の下半分を手で覆って首を傾けた。だったら、自分も気が付いていないふりをした方がいい、と結論付ける。

「やめろ、彼女には一切手を出すな。その日が命日になるぞ」
「言ってみただけだよ。僕だってむやみに王太女様の怒りは買いたくないさ」
「王太女殿下が俺に興味があるって言ったのか?」
「興味があるというのは、ちょっと違うかな? おまえの嘘くさい笑顔が、信用できないんだって」
「……嘘くさい」

 グラシアンは、思わず繰り返した。世間を欺いている自覚はあるのでその言葉に異論はないが、アリスの本音にショックを受ける。
 
 ――なるほど。だから、あんなに警戒されたのか。だからといって、それを暴くために本人がわざわざメイドになって潜入するほどのことか?

 成人の儀を終えた王太女は、女王の仕事の何割かを引き継がなくてはならない。そのうえ、アリスの性格なら一週間メイド務めるためにそれなりの準備をしたはずだ。
 興味を持ってもらえたことは嬉しいが、そのために手間をかけさせた。罪悪感を覚えた彼に、コリンは投げかける。

「あのメガネっ子に本性を見せるのも隠すのも良し。どうせ、結婚を取り消すことはできないんだから、お前に任せるよ。ただし、あの子を脅して王太女殿下の機嫌を損ねないでくれよ。この時期に婚約破棄されたら、うちの家門もどうなるかわからない」
「あたりまえだ。誰にものを言っている」

 兄の部屋を後にしたグラシアンは、自分だけでなくブライスの傷の手当てを彼女に頼んだ。メイドがアリス本人であるというより強い確証を得るためだ。
 治療は水の魔法の使い手にしかできない。体内にある豊富なマナを完全にコントロールして、相手のマナの流れを読みながら自分のマナをなじませていく難しい魔法だ。流れてくるマナが十年前のそれと同じことに感動していると、身体の芯から渇望するような欲が湧いてきた。
 
 敢えて野暮ったく変装しているにもかかわらず、ストッキングに包まれた細い足首や水仕事など縁のなさそうな滑らかな指先を見ているだけで、グラシアンの胸が熱くなる。改めて、自分が彼女にどれだけべた惚れなのかを認識させられた。
 
 ――少しくらいなら手を出してもいいだろう?
 
 どう見ても高位貴族の立ち居振る舞いなのに、一生懸命メイド仲間に馴染もうとしている彼女のいじらしさに構いたくて仕方がなくなる。今となっては言い訳以外の何物でもないが、そのときの彼は自らの理性の耐久性に自信満々だったのだ。
 
 その日は早速、アリスを膝に乗せてお茶を飲んだ。グラシアンの口に運ぶ菓子を持つ手が震えているのが可愛い。菓子を食べるついでに指を舐めたら、動揺してイチゴのように頬が真っ赤になった。言うまでもないが、グラシアンが本当に食べたいのは菓子ではなくアリスだ。恋焦がれた遥か高位の相手が自分に仕えている、不可思議な現実。まるで夢のなかにいるみたいだった。

 ――一瞬たりとも、目を離したくない。
 
 ともに時間を過ごすうちに、彼女が自分をそれほど嫌っていないことがわかってきた。それどころか、グラシアンが傍に寄ると、アリスは恥ずかしそうに顔を赤らめる。彼は自分に群がる女性たちのそんな表情を見るたびにめんどくさいとげんなりしたものだが、相手がアリスとなればすべてが違っていた。この十年で、今ほど表情筋を保つのに苦労したことはない。間違いない、アリスは自分に惚れているのだ。

 ――両想いなら、何の問題もないだろう。ここで、いただいてしまおう。

 悪魔のような考えが自分の頭を支配しては、首を振ってその誘惑を払う。あと二月もすれば、合法的にアリスを自分のものにできるのだ。十年待っていられたのに、ここにきて二ヶ月も待てができない理由は何だろう。答えは簡単だ、生身の彼女が目の前にいるからだ。
 
 そのようにぐらついた理性は、あの夜の薔薇園であっけなく決壊してしまった。薄手の夜着を身にまとい、月に照らされた彼女。男にどうみられるか全くの無頓着で、なのに身を屈めてグラシアンにキスをする。その途端、彼は強烈な劣情に支配され、本性を晒してしまった。無垢な女神を穢して、自分色に染めたい。本能の訴えを止めることができなかった。
 
 アリスは身体中どこも柔らかくて、感じやすくて、グラシアンが想像した以上に素晴らしかった。出来るなら、最後までアリスを堪能したい。しかし、純真無垢な彼女に自分の汚いを見せるのかと我に返り、あやういところで悲劇を回避した。
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