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21.ピクニックに行きましょう①
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「もう、出来たのですか?」
翌朝、わたしはグラシアンに清書した日記帳を手渡す。見上げた赤い切れ長の瞳には、驚嘆が込められていた。
「はい」
グラシアンが、一枚一枚丁寧に開いて読みはじめる。最後のページで視線が何度か上下したが、内容についてのコメントはなかった。
「ご苦労様でした。あなたの字はまっすぐで力強いですね。見ていると、ほれぼれしてしまいます」
「そんなことはありません。グラシアン様の字は流麗ですね」
「おや? わたしが書き物をしているところを、キャロルに見せたことがありましたか?」
――しまった。わたしが見たのは、王太女と侯爵家令息の婚約のための書類だった。
「あの、昨日契約書に書かれた字を見たのですが、もしかしてあれはコリン様の字でしたか? てっきり、グラシアン様のものかと……」
「そういえば、兄さんの手伝いでわたしが書いたような気がしてきました。うっかりしているので、たまに忘れることがあるんですよ」
「まあ、グラシアン様にもそんなことがあるのですか?」
わたしが尋ねると、グラシアンはいたずらっ子のような笑顔を見せる。
「ありますよ」
「いつも完璧なグラシアン様にもそんな一面があると知ったら、ますますグラシアン様の人気があがっちゃいますね。そういうの、なんていうんでしたっけ? 昨日、メイド仲間に教えてもらったんですけれど……」
グラシアンは優美に小首をかしげて見せた。
「……ギャップ萌えですか?」
「そうです! ギャップ萌えです! さすがは、グラシアン様。何でもご存じですね!」
――ふぅ。なんとかごまかせた。
わたしは内心の汗を拭うと、ベッドメイキングに取掛かる。しかし、いつもこの男はいつも部屋にいる。一週間の休みをまさか、すべて家の中で過ごすつもりなのだろうか。
そんなことを考えていると、背後から話しかけられた。
「キャロル。家のなかばかりでは飽きるでしょう? 明日はピクニックに行きませんか?」
グラシアンが『ピクニック』と発音すると、わたしはなにやら違和感を覚える。ピクニックが趣味だとは知らなかった。それは幼い子どものいる家族の楽しみで、グラシアン卿とは縁もゆかりもないものだと思っていたのだ。
――まあ、わたしは好きだけど。
薔薇の咲き乱れる中庭を夕焼けが支配するこの時間、部屋のカーテンを閉め終えたわたしはグラシアンを振り仰ぐ。知らない間に背後に立たれて、息を呑まなかったことは褒めてほしい。
「厨房に伝えてまいります。グラシアン様は食べられないものがありますか?」
「とくにありません。お任せしますから、あなたが食べたいものを頼んでください」
そろそろ桃の収穫時期だから、桃のタルトが食べたい。あとは、取れたてのレタスとよく漬かったピクルスと厚いハムをパンで挟んだもの。澄んだ青空を見あげながら、美味しいランチを満喫したい。少し暑くなってきたから水魔法でミストをだして、ひんやり快適な環境にするのもいいかも。
「キャロル、よだれが垂れていますよ」
「ありえません」
表情のコントロールには自信がある。だてに十年、王太女などやっていないのだ。
「残念です。あなたの慌てる顔が見たかったのに」
グラシアンのニコニコした顔が癪に障ったわたしだが、ちょっと待って、と首をかしげる。
「ピクニックにはほかにどなたが参加されるのですか? ランチの依頼をするのに人数を把握したいのですが」
「あなたとわたしの二人です」
彼がしれっと答えたので、わたしはこぶしを握った。
「殿方がメイドと二人でピクニックなんて、良くない噂が立ちます。せめて、護衛と従僕をお連れください」
「自分のことは自分でできますし、我々の魔法力があれば護衛は必要ないでしょう。それに、あなたと出かけられるなら、どんな噂を立てられようと構いません。エルト海岸まで馬を走らせませんか?」
それはもちろん行きたい。エルト海岸は風光明媚で海からの風が気持ちよく、打ち寄せる夏の波は白と青のコントラストがたいそう美しいらしい。王太女ともなればスケジュール調整も難しくかつ行けるところが限られているので、わたしはまだ行ったことがなかった。
わたしは、湧き上がる喜びを抑えつけて、あえて渋々とした態度をとる。
「グラシアン様がお望みなら仕方ありません。お供いたします」
「それは良かった。明日が楽しみですね」
グラシアンは、爽やかな笑顔を浮かべる。相変わらずの黒づくめのラフな姿のなかで、ルビーのような瞳が生き生きと輝いていた。王宮で見た笑顔は嘘臭く思えたが、今はそれほど気にならない。少なくとも、グラシアンがピクニックを楽しみにしているのは間違いないようだ。
メイド仲間と夕食をとりに行きがてら明日のお弁当を頼むと、厨房は急に慌ただしくなった。グラシアンがピクニックに行くと言い出したのは、今日が初めてのことらしい。早速、メイド長と厨房長が献立の相談をし始めていた。
メイド長の息子であるブライスの火傷は、グラシアンの伝手で高位神官に秘密裏に治してもらったことにしてあった。幼いころから世話をしてきたグラシアンの好物をあげていくメイド長の笑顔がまぶしい。
予定外にブライスを治療してしまったが、誰かの力になれたのは嬉しかった。王宮では、わたしを前にすると、誰もがよそ行きの顔になる。礼儀は、位の高い者を孤独にする。思っていた以上に、わたしは人との距離に飢えていたらしい。
翌朝、わたしはグラシアンに清書した日記帳を手渡す。見上げた赤い切れ長の瞳には、驚嘆が込められていた。
「はい」
グラシアンが、一枚一枚丁寧に開いて読みはじめる。最後のページで視線が何度か上下したが、内容についてのコメントはなかった。
「ご苦労様でした。あなたの字はまっすぐで力強いですね。見ていると、ほれぼれしてしまいます」
「そんなことはありません。グラシアン様の字は流麗ですね」
「おや? わたしが書き物をしているところを、キャロルに見せたことがありましたか?」
――しまった。わたしが見たのは、王太女と侯爵家令息の婚約のための書類だった。
「あの、昨日契約書に書かれた字を見たのですが、もしかしてあれはコリン様の字でしたか? てっきり、グラシアン様のものかと……」
「そういえば、兄さんの手伝いでわたしが書いたような気がしてきました。うっかりしているので、たまに忘れることがあるんですよ」
「まあ、グラシアン様にもそんなことがあるのですか?」
わたしが尋ねると、グラシアンはいたずらっ子のような笑顔を見せる。
「ありますよ」
「いつも完璧なグラシアン様にもそんな一面があると知ったら、ますますグラシアン様の人気があがっちゃいますね。そういうの、なんていうんでしたっけ? 昨日、メイド仲間に教えてもらったんですけれど……」
グラシアンは優美に小首をかしげて見せた。
「……ギャップ萌えですか?」
「そうです! ギャップ萌えです! さすがは、グラシアン様。何でもご存じですね!」
――ふぅ。なんとかごまかせた。
わたしは内心の汗を拭うと、ベッドメイキングに取掛かる。しかし、いつもこの男はいつも部屋にいる。一週間の休みをまさか、すべて家の中で過ごすつもりなのだろうか。
そんなことを考えていると、背後から話しかけられた。
「キャロル。家のなかばかりでは飽きるでしょう? 明日はピクニックに行きませんか?」
グラシアンが『ピクニック』と発音すると、わたしはなにやら違和感を覚える。ピクニックが趣味だとは知らなかった。それは幼い子どものいる家族の楽しみで、グラシアン卿とは縁もゆかりもないものだと思っていたのだ。
――まあ、わたしは好きだけど。
薔薇の咲き乱れる中庭を夕焼けが支配するこの時間、部屋のカーテンを閉め終えたわたしはグラシアンを振り仰ぐ。知らない間に背後に立たれて、息を呑まなかったことは褒めてほしい。
「厨房に伝えてまいります。グラシアン様は食べられないものがありますか?」
「とくにありません。お任せしますから、あなたが食べたいものを頼んでください」
そろそろ桃の収穫時期だから、桃のタルトが食べたい。あとは、取れたてのレタスとよく漬かったピクルスと厚いハムをパンで挟んだもの。澄んだ青空を見あげながら、美味しいランチを満喫したい。少し暑くなってきたから水魔法でミストをだして、ひんやり快適な環境にするのもいいかも。
「キャロル、よだれが垂れていますよ」
「ありえません」
表情のコントロールには自信がある。だてに十年、王太女などやっていないのだ。
「残念です。あなたの慌てる顔が見たかったのに」
グラシアンのニコニコした顔が癪に障ったわたしだが、ちょっと待って、と首をかしげる。
「ピクニックにはほかにどなたが参加されるのですか? ランチの依頼をするのに人数を把握したいのですが」
「あなたとわたしの二人です」
彼がしれっと答えたので、わたしはこぶしを握った。
「殿方がメイドと二人でピクニックなんて、良くない噂が立ちます。せめて、護衛と従僕をお連れください」
「自分のことは自分でできますし、我々の魔法力があれば護衛は必要ないでしょう。それに、あなたと出かけられるなら、どんな噂を立てられようと構いません。エルト海岸まで馬を走らせませんか?」
それはもちろん行きたい。エルト海岸は風光明媚で海からの風が気持ちよく、打ち寄せる夏の波は白と青のコントラストがたいそう美しいらしい。王太女ともなればスケジュール調整も難しくかつ行けるところが限られているので、わたしはまだ行ったことがなかった。
わたしは、湧き上がる喜びを抑えつけて、あえて渋々とした態度をとる。
「グラシアン様がお望みなら仕方ありません。お供いたします」
「それは良かった。明日が楽しみですね」
グラシアンは、爽やかな笑顔を浮かべる。相変わらずの黒づくめのラフな姿のなかで、ルビーのような瞳が生き生きと輝いていた。王宮で見た笑顔は嘘臭く思えたが、今はそれほど気にならない。少なくとも、グラシアンがピクニックを楽しみにしているのは間違いないようだ。
メイド仲間と夕食をとりに行きがてら明日のお弁当を頼むと、厨房は急に慌ただしくなった。グラシアンがピクニックに行くと言い出したのは、今日が初めてのことらしい。早速、メイド長と厨房長が献立の相談をし始めていた。
メイド長の息子であるブライスの火傷は、グラシアンの伝手で高位神官に秘密裏に治してもらったことにしてあった。幼いころから世話をしてきたグラシアンの好物をあげていくメイド長の笑顔がまぶしい。
予定外にブライスを治療してしまったが、誰かの力になれたのは嬉しかった。王宮では、わたしを前にすると、誰もがよそ行きの顔になる。礼儀は、位の高い者を孤独にする。思っていた以上に、わたしは人との距離に飢えていたらしい。
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