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6.メイドの先生①

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  その晩、侍女がわたしの髪を梳いているときだった。唐突に昼間の件を思い出して、鏡のなかの自分がぶつぶつと文句を垂れる。
 
「あの男、いったい何なのよ……っ、ほんと、何を言っても表情一つ変えないんだから。きっと笑顔を作る表情筋以外、死滅しているのよ。そうじゃなかったら、感情が欠落しているんだわ」
「もしかして、グラシアン卿の話をされています?」
「そうよ。わたしの『完璧な』婚約者の話」

 キャロルは向かいの鏡のなかで、信じられないと目を見張った。

「顔良し、性格良し、家柄良しの三拍子じゃないですか。前から不思議だったのですが、何がそんなにご不満なんですか?」

 ブラウンの髪に黄緑色の瞳、白い頬に浮かんだそばかすが愛らしい。実年齢は二十代半ばなのに、見た目は十代後半にしか見えない彼女は、専属になって五年目の、わたしの侍女だ。
 髪を梳くのが終わったタイミングで、わたしは鏡台に伏せる。

「わからないけれど、あの笑顔を見ているとイライラするの。口説かれても、空虚な気持ちでいっぱいになるの。正直、まともな結婚生活が送れる気がしないわ」
「でも、婚約してから半年ですよ。アリス様は前々からグラシアン卿のことを嫌だとはおっしゃっていましたが、結婚生活のことまで言及されたのは、今回が初めてではないですか?」
「それは……」
「それは?」
「今日まで、わたしが子どもを作る方法を知らなかったせいよ」

 キャロルは、悲鳴を押しとどめるかのように両手で口を押えた。わたしはがくりと頭を落とす。

 ――やっぱり、わたしだけ知らなかったんだわ。恥ずかしい!

 恋愛小説を読んでも、そこまで詳しく書いていなかった。ベッドの上でヒロインは恥ずかしそうにヒーローにぴったりと身を寄せるだけ。なんとなく、その先があるんだろうと思っていたが、具体的には何も知らなかったし誰にも聞いたことがなかった。
 今日、講師であるディンチ侯爵夫人は、イラスト入りの教材で赤裸々な『初夜』の講義をした。話を聞いているうちに、わたしは次第に冷静ではいられなくなってしまったのだ。

『貴族の令嬢が初々しいなら男性に喜ばれるでしょうが、王太女殿下の場合は違います。いついかなるときも優雅さと気品を忘れず、初夜も完璧にこなさなくてはなりません。いいですか、殿方を躾けるには最初が肝心なのです。殿下はどの場面においても、グラシアン卿に王族たる威厳を示さなければなりません』

 ――あんなアクロバティックなことが行われていたなんて。

 わたしは男女が裸でもつれ合うイラストから目が離せなくて、悲しいかな侯爵夫人の言葉を全く聞いていなかった。

 ――ムリよ、ムリ。絶対ムリ。

 世の中のあらゆる大人がこの難局を潜り抜けてきたかと思うと、頭が下がる。あんなことなんともないと思える日がわたしに来るとは到底思えない。ふと、それについてグラシアンがどう思っているか気になった。

『まるで君に何の感情を抱いてないみたいじゃないか』
 
 バルの言うとおりだ。グラシアンはきっと端からわたしに興味がないのだろう。あの貼り付けたような笑顔で、それこそ初夜だろうがなんだろうが、そつなくこなすに違いない。

 わたしはため息をこぼした。我ながら、非生産的なことをしている。寝台のとばりが下ろされた後に何が行われようが、数日たてばきっとたいした問題ではない。答えの出ないことをぐるぐる考えているなら、答えを出すために動いたほうが何倍もいい。今のわたしがしなければならないのは、グラシアンが王配にふさわしいかどうか見極めることだった。
 わたしは、勢いよく身を起こした。

「決めたわ!」
「何をです?」
「わたし、カニア侯爵邸に潜入するわ」
「え? 潜入とおっしゃいますと……」

 いつもはわたしの話ににこにこと相槌を打つキャロルが、珍しく動揺を見せる。無理もない。わたしだって、他人がそんな話をしたら正気を疑うに決まっている。

「来月、陛下から成人の祝いに一週間の休暇をいただけるでしょう? 最初はベオグの離宮でゆっくりするつもりだったけれど、このままじゃとてもそんな気分になれないわ」
「……何のためにされるのか、伺ってもいいですか? どうして、結婚前にお相手の屋敷に忍び込む必要があるんですか」
「グラシアン卿の本性を暴きに行くの。間違いないわ、あの気持ち悪い笑顔の下には絶対何かがあるはずよ」
「は……?」

 わたしはくるっと振り返って、専属侍女の両手を握った。 

「だから、わたしにメイドの仕事を伝授してほしいの。キャロル」
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