5 / 74
5.婚約者と幼馴染③
しおりを挟む
バルはわたしたちに茶目っ気たっぷりの笑顔を振りまくと、足取り軽やかに廊下を曲がってしまった。
「……もう! バルったら」
あの幼馴染が何をしたかったのか、わたしにはわからない。ただ、成人して身体は大人になったけれど、心はそこに届いていないのは、わたしだけではないのかも。
「バーソロミュー王子とは、仲がよろしいんですね」
「……ぃっ!」
バルの行動にあっけにとられたわたしは、いきなり耳元で囁かれた言葉に度肝を抜かれる。振り返れば、グラシアンがいつもの笑顔を浮かべていた。
――はー、びっくりした……。
わたしは気取られまいと、平静を装う。
「……幼馴染なのです。わたしと歳の近い王族が傍にいないので、陛下がバロモンテ国王にお願いして、一年に何度か遊びに来てもらっていた仲です。今は周辺国を遊学中で、先月からここに滞在しています」
「そうですか。――殿下」
顔を上げると、意外なほどグラシアンが近かった。彼の手がすっと、わたしの左頬に添えられる。重量のある剣を片手で操る指は、繊細な見た目より硬かった。どうしてか、わたしの胸がドキドキし始める。
「痛っ!」
その指が突然、わたしの頬をきつく擦ったのだ。思わず両手で押さえたわたしに、グラシアンがしれっと言う。
「失礼しました。ゴミが付いておりましたので」
「ゴミ? ……そう、ですか。……ありがとうございます」
あっけにとられて、思わず間抜けな返事をしてしまった。
――おかしいわね。窓で自分の顔を確認したときは、何もついてなかったはずなのに。それとも、バルに抱き着かれてついたのかしら?
「参りましょうか、殿下」
「……ええ」
差し出された左手に自分の右手を添えると、彼の脇と腕がいつもより離れていないことに気が付いた。おかげで私まで彼と引っ付いて歩かなくてはならない。近い、近すぎる。絶対いつもより距離が近い。
こちらの動揺をよそに、大きな指がわたしの指に絡んできた。火のマナを操るだけあって、グラシアンの体温は高く、懐からは木を燃やしたようなほのかな香りがする。服越しにもわかる、鍛えられた胸の筋肉と引き締まった腰回り。意識すまいとすればするほど、先ほどの講義の内容が頭をめぐった。
どうしていいのかわからない。振り払ったり握り返すこともできず、黙って下を向くと隣からくすっと笑い声がこぼれる。
――わざとやっているの?
わたしは猛烈に恥ずかしくなって、思わず彼の手を払ってしまった。グラシアンが驚いた表情を浮かべる。
「殿下? どうしました?」
売られた喧嘩を買ったなら、最後までやり通さねば。何事も勢いが重要。やった勢いで、相手をにらみつけた。
「前にも言ったとおり、わたしはまだあなたのことを認めていませんし、人の目がないところで、わたしに気を使う必要はありません。――そ……」
「麗しい殿下を前に、それは無理な話ではありますが」
まるで恋焦がれるような低い声と、熱のこもったルビーの瞳で訴えかけられて、わたしは言葉を詰まらせてしまう。勢いをそがれた挙句、どうにも息苦しくなって目をそらした。
「人の言葉を遮らないでください。――それから、衣装の打ち合わせにはあなた一人で行ってもらえますか? わたしは後でいきます。まだ、信頼できない方とはご一緒したくないので」
ここまで言えば、さすがのグラシアン卿も顔色を変えるだろう。しかし、彼は何事もなかったように言ったのだ。
「それでしたら、先に殿下が打ち合わせなさってください。わたしは殿下が終わられてから参ります。結婚式の主役は殿下ですから」
「……わかりました。終わったらあなたを呼ぶよう、侍従に伝えておきます」
「ありがとうございます。――殿下」
「なんですか?」
立ち去ろうとしたところで呼ばれて、振り返る。
「いまだ未熟者のわたしですが、いずれ殿下から信頼していただける人間になるよう努力する所存です。そう長くお待たせするつもりはありません。どうか、その日までわたしをお見捨てにならないでください」
わたしが言い淀んでいる間に、グラシアンは目を伏せた。
「では、失礼します」
一礼すると姿勢よく歩き出す。後ろ姿まで端正で、その完璧さには感心してしまう。創造の神がいかに不公平であるか、彼を例に出すだけで誰もが納得するだろう。
だが、わたしは彼と会うたびに、どうしてもイライラしてしまうのだ。
「なになに? 婚約者と喧嘩してるの? アリス」
のんびりした声が聞こえるとともに、後ろから覗き込まれてビクッとした。
「バル! 陛下のところに行ったんじゃなかったの?」
「こんなに面白そうな場面、見逃すわけないじゃん。僕のこと『ゴミ』だってさ、失礼しちゃうよね」
なんのことやら見当もつかないわたしを、バルが愉快そうに笑う。
「アリスは陛下に大事にされていると思っていたけれど、どうやらそうでもないみたいだね。普通の親なら、娘の意思をまず尊重するものじゃないのかな?」
「バルは、他人の家庭の内情をよく知っているわね。でも、陛下のお考えに間違いはないわ。この人選にもちゃんと理由があるのよ」
――きっと。
自分に言い聞かせるように言ったわたしを、バルは都合よく無視した。
「グラシアン卿は一見、そつがなさそうだけど、君にあんな態度をとられたのに顔色一つ変えないなんて、ちょっと不気味じゃない? 自尊心が低いようには見えないけれど」
「知らないわよ」
「でも、君に対する独占欲はあるみたい」
「それこそ、自分の自尊心を守るためじゃないかしら?」
グラシアンもわたしに会うたび、嬉しいだの喜ばしいだの言うが、そんなものは貴族の社交辞令に過ぎない。真に受けるほうがおかしいのだ。
「アリスは、グラシアン卿が嫌いなの?」
「……『嫌い』までいってないわ。ただ、信用できないだけよ」
顔だけなら文句なく好みだが、それが相手を全肯定することにはならない。グラシアンを信用するには、材料が足らないのだ。
バルは眉間に指先を当てて、首をかしげた。
「アリスにしては浮かない返事だね。僕で力になれることがあったら、いつでも言ってよ」
「ほんとうに、……なんともないわ。でも、気持ちはうれしい。――わたし行くわね、皆を待たせているの」
「うん、またね」
バルと別れてから、長い廊下を進む。途中で窓ガラスを覗き込んで、自分の顔から赤みが引いているか確認した。
――大丈夫。いつもの王太女の顔よ。
顔を上げて背筋を伸ばす。そうして、わたしは自分が起こした小さな騒動のせいで、バルの様子がいつもと違うことを忘れてしまった。
「……もう! バルったら」
あの幼馴染が何をしたかったのか、わたしにはわからない。ただ、成人して身体は大人になったけれど、心はそこに届いていないのは、わたしだけではないのかも。
「バーソロミュー王子とは、仲がよろしいんですね」
「……ぃっ!」
バルの行動にあっけにとられたわたしは、いきなり耳元で囁かれた言葉に度肝を抜かれる。振り返れば、グラシアンがいつもの笑顔を浮かべていた。
――はー、びっくりした……。
わたしは気取られまいと、平静を装う。
「……幼馴染なのです。わたしと歳の近い王族が傍にいないので、陛下がバロモンテ国王にお願いして、一年に何度か遊びに来てもらっていた仲です。今は周辺国を遊学中で、先月からここに滞在しています」
「そうですか。――殿下」
顔を上げると、意外なほどグラシアンが近かった。彼の手がすっと、わたしの左頬に添えられる。重量のある剣を片手で操る指は、繊細な見た目より硬かった。どうしてか、わたしの胸がドキドキし始める。
「痛っ!」
その指が突然、わたしの頬をきつく擦ったのだ。思わず両手で押さえたわたしに、グラシアンがしれっと言う。
「失礼しました。ゴミが付いておりましたので」
「ゴミ? ……そう、ですか。……ありがとうございます」
あっけにとられて、思わず間抜けな返事をしてしまった。
――おかしいわね。窓で自分の顔を確認したときは、何もついてなかったはずなのに。それとも、バルに抱き着かれてついたのかしら?
「参りましょうか、殿下」
「……ええ」
差し出された左手に自分の右手を添えると、彼の脇と腕がいつもより離れていないことに気が付いた。おかげで私まで彼と引っ付いて歩かなくてはならない。近い、近すぎる。絶対いつもより距離が近い。
こちらの動揺をよそに、大きな指がわたしの指に絡んできた。火のマナを操るだけあって、グラシアンの体温は高く、懐からは木を燃やしたようなほのかな香りがする。服越しにもわかる、鍛えられた胸の筋肉と引き締まった腰回り。意識すまいとすればするほど、先ほどの講義の内容が頭をめぐった。
どうしていいのかわからない。振り払ったり握り返すこともできず、黙って下を向くと隣からくすっと笑い声がこぼれる。
――わざとやっているの?
わたしは猛烈に恥ずかしくなって、思わず彼の手を払ってしまった。グラシアンが驚いた表情を浮かべる。
「殿下? どうしました?」
売られた喧嘩を買ったなら、最後までやり通さねば。何事も勢いが重要。やった勢いで、相手をにらみつけた。
「前にも言ったとおり、わたしはまだあなたのことを認めていませんし、人の目がないところで、わたしに気を使う必要はありません。――そ……」
「麗しい殿下を前に、それは無理な話ではありますが」
まるで恋焦がれるような低い声と、熱のこもったルビーの瞳で訴えかけられて、わたしは言葉を詰まらせてしまう。勢いをそがれた挙句、どうにも息苦しくなって目をそらした。
「人の言葉を遮らないでください。――それから、衣装の打ち合わせにはあなた一人で行ってもらえますか? わたしは後でいきます。まだ、信頼できない方とはご一緒したくないので」
ここまで言えば、さすがのグラシアン卿も顔色を変えるだろう。しかし、彼は何事もなかったように言ったのだ。
「それでしたら、先に殿下が打ち合わせなさってください。わたしは殿下が終わられてから参ります。結婚式の主役は殿下ですから」
「……わかりました。終わったらあなたを呼ぶよう、侍従に伝えておきます」
「ありがとうございます。――殿下」
「なんですか?」
立ち去ろうとしたところで呼ばれて、振り返る。
「いまだ未熟者のわたしですが、いずれ殿下から信頼していただける人間になるよう努力する所存です。そう長くお待たせするつもりはありません。どうか、その日までわたしをお見捨てにならないでください」
わたしが言い淀んでいる間に、グラシアンは目を伏せた。
「では、失礼します」
一礼すると姿勢よく歩き出す。後ろ姿まで端正で、その完璧さには感心してしまう。創造の神がいかに不公平であるか、彼を例に出すだけで誰もが納得するだろう。
だが、わたしは彼と会うたびに、どうしてもイライラしてしまうのだ。
「なになに? 婚約者と喧嘩してるの? アリス」
のんびりした声が聞こえるとともに、後ろから覗き込まれてビクッとした。
「バル! 陛下のところに行ったんじゃなかったの?」
「こんなに面白そうな場面、見逃すわけないじゃん。僕のこと『ゴミ』だってさ、失礼しちゃうよね」
なんのことやら見当もつかないわたしを、バルが愉快そうに笑う。
「アリスは陛下に大事にされていると思っていたけれど、どうやらそうでもないみたいだね。普通の親なら、娘の意思をまず尊重するものじゃないのかな?」
「バルは、他人の家庭の内情をよく知っているわね。でも、陛下のお考えに間違いはないわ。この人選にもちゃんと理由があるのよ」
――きっと。
自分に言い聞かせるように言ったわたしを、バルは都合よく無視した。
「グラシアン卿は一見、そつがなさそうだけど、君にあんな態度をとられたのに顔色一つ変えないなんて、ちょっと不気味じゃない? 自尊心が低いようには見えないけれど」
「知らないわよ」
「でも、君に対する独占欲はあるみたい」
「それこそ、自分の自尊心を守るためじゃないかしら?」
グラシアンもわたしに会うたび、嬉しいだの喜ばしいだの言うが、そんなものは貴族の社交辞令に過ぎない。真に受けるほうがおかしいのだ。
「アリスは、グラシアン卿が嫌いなの?」
「……『嫌い』までいってないわ。ただ、信用できないだけよ」
顔だけなら文句なく好みだが、それが相手を全肯定することにはならない。グラシアンを信用するには、材料が足らないのだ。
バルは眉間に指先を当てて、首をかしげた。
「アリスにしては浮かない返事だね。僕で力になれることがあったら、いつでも言ってよ」
「ほんとうに、……なんともないわ。でも、気持ちはうれしい。――わたし行くわね、皆を待たせているの」
「うん、またね」
バルと別れてから、長い廊下を進む。途中で窓ガラスを覗き込んで、自分の顔から赤みが引いているか確認した。
――大丈夫。いつもの王太女の顔よ。
顔を上げて背筋を伸ばす。そうして、わたしは自分が起こした小さな騒動のせいで、バルの様子がいつもと違うことを忘れてしまった。
11
お気に入りに追加
297
あなたにおすすめの小説
不器用騎士様は記憶喪失の婚約者を逃がさない
かべうち右近
恋愛
「あなたみたいな人と、婚約したくなかった……!」
婚約者ヴィルヘルミーナにそう言われたルドガー。しかし、ツンツンなヴィルヘルミーナはそれからすぐに事故で記憶を失い、それまでとは打って変わって素直な可愛らしい令嬢に生まれ変わっていたーー。
もともとルドガーとヴィルヘルミーナは、顔を合わせればたびたび口喧嘩をする幼馴染同士だった。
ずっと好きな女などいないと思い込んでいたルドガーは、女性に人気で付き合いも広い。そんな彼は、悪友に指摘されて、ヴィルヘルミーナが好きなのだとやっと気付いた。
想いに気づいたとたんに、何の幸運か、親の意向によりとんとん拍子にヴィルヘルミーナとルドガーの婚約がまとまったものの、女たらしのルドガーに対してヴィルヘルミーナはツンツンだったのだ。
記憶を失ったヴィルヘルミーナには悪いが、今度こそ彼女を口説き落して円満結婚を目指し、ルドガーは彼女にアプローチを始める。しかし、元女誑しの不器用騎士は息を吸うようにステップをすっ飛ばしたアプローチばかりしてしまい…?
不器用騎士×元ツンデレ・今素直令嬢のラブコメです。
12/11追記
書籍版の配信に伴い、WEB連載版は取り下げております。
たくさんお読みいただきありがとうございました!

死神令嬢は年上幼馴染からの淫らな手解きに甘く溶かされる
鈴屋埜猫
恋愛
男爵令嬢でありながら、時に寝食も忘れ日々、研究に没頭するレイネシア。そんな彼女にも婚約者がいたが、ある事件により白紙となる。
そんな中、訪ねてきた兄の親友ジルベールについ漏らした悩みを克服するため、彼に手解きを受けることに。
「ちゃんと教えて、君が嫌ならすぐ止める」
優しい声音と指先が、レイネシアの心を溶かしていくーーー
腹黒宰相との白い結婚
黎
恋愛
大嫌いな腹黒宰相ロイドと結婚する羽目になったランメリアは、条件をつきつけた――これは白い結婚であること。代わりに側妻を娶るも愛人を作るも好きにすればいい。そう決めたはずだったのだが、なぜか、周囲が全力で溝を埋めてくる。

婚約破棄される令嬢は最後に情けを求め
かべうち右近
恋愛
「婚約を解消しよう」
いつも通りのお茶会で、婚約者のディルク・マイスナーに婚約破棄を申し出られたユーディット。
彼に嫌われていることがわかっていたから、仕方ないと受け入れながらも、ユーディットは最後のお願いをディルクにする。
「私を、抱いてください」
だめでもともとのその申し出を、何とディルクは受け入れてくれて……。
婚約破棄から始まるハピエンの短編です。
この小説はムーンライトノベルズ、アルファポリス同時投稿です。

責任を取らなくていいので溺愛しないでください
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
漆黒騎士団の女騎士であるシャンテルは任務の途中で一人の男にまんまと美味しくいただかれてしまった。どうやらその男は以前から彼女を狙っていたらしい。
だが任務のため、そんなことにはお構いなしのシャンテル。むしろ邪魔。その男から逃げながら任務をこなす日々。だが、その男の正体に気づいたとき――。
※2023.6.14:アルファポリスノーチェブックスより書籍化されました。
※ノーチェ作品の何かをレンタルしますと特別番外編(鍵付き)がお読みいただけます。
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる