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第二部
23.魔女、魔女さまを引退する
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あまりに意表を突いていて、さすがのウルリッヒも、すぐには飲み込めなかった。魔女は長命で人智を越えた異種であり、決して人間側の事情に左右されない。
「人間? イルヴァが?」
戸惑うウルリッヒをまえに、彼女はホットワインで唇を湿らした。まるで、長年の秘密を明かす勇気を得ようとしているかのようだ。
「本命がいても、他の男と寝る魔女はいるわ。わたしにもそれができれば、あの森を去ることはなかったのに。十六歳のあなたが訪れてくれるのを心待ちにする森の生活は、きっと楽しかったでしょうね。あなたがわたしのことを忘れても、思い出をよすがに新しい生活を始められたわ」
「……どうして、俺の気持ちが冷める前提なんだ?」
彼は心外なことを言われ、少し気分を害した。イルヴァは、長命種らしい見解を述べる。
「二十年前のあなたは性に対して好奇心旺盛で、とてもわたし一人で満足するとは思えなかったの。自分のために魔女が人間になるのは、男性側にとっても重い話よ。子どもの……、いいえ、まだ若かったウルリッヒにそれを背負わせるのは、とても難しいわ。わたしも人間になった途端、捨てられるのは嫌だったし……」
ウルリッヒは、イルヴァという理想の女性に出会えて、目移りするなど思えない。しかし、ほかを知ったからこそ、やはり自分には彼女しかいないと気がついたのも、また事実だ。
彼女の緑色の瞳が、風をうける森の木のようにさざめいていた。
「あなたを忘れるために離れたのに、結局すこしも忘れられなかったわ。『晩餐』にもあずかれず、魔力も枯渇して、気が付けば二十年経ってしまったの」
あくまで不本意に話すものの熱い告白には変わりなく、胸を鷲掴みされるウルリッヒである。事情は把握していても、やはり本人の口から聞かされるのではまったく違うのだ。そのとき、ウルリッヒは、大魔女・アクセリアの言葉を思い出した。
『あの子の母親もその母親も、いつもそう。さっさと新しい魔女をよこしなって、あの子に伝えておくれよ』
イルヴァは、師匠の名前を聞いて一瞬顔を歪めたものの、次には苦笑した。
「アクセリアは、とっくに気づいていたのね。わたしたちは、子宮のなかに『魔女の核』なるものを持っていて、それが男性の精力を魔力に換える働きをしているの。核を殻で包めば妊娠できるようになるけれど、二度と魔女に戻れないわ。『魔女の核』は最初に産んだ女の子に継承されるの。母は十六歳で父を『晩餐』の相手に選んで、そのままわたしを妊娠したのよ。祖母も似たようなもの。話を聞いたときは、まったく信じられなかったわ」
「だから、二十年前、俺の前から姿を消したんだな?」
イルヴァはためらった後、こくんと頷く。
「わたしは、どうしても人間になりたくなかったの。あなたには悪いけれど、人間は心も身体も弱いし、すぐに死んでしまうわ。それに、魔法も使えないのよ」
ウルリッヒには、彼女の気持ちが理解できた。イルヴァは、誇り高い魔女だ。強い魔力と永遠に近い美貌が、イルヴァをイルヴァたらしめているのだ。それをすべて自ら捨てる覚悟を持てというのは、とても酷な話だ。
「今からでも魔女で居続けられる方法を考えた方がいい。俺もあと四、五十年はくたばるつもりはないから、その間に見つけよう。後継者のことは、俺がどうにかするから、イルヴァが犠牲になることはない。これまで通りの関係でいいんだ」
ウルリッヒはそう言って、ほそい手を握る。愛してくれるだけで、満たされている。彼女には、好きなように永いときを生きてほしい。だが、イルヴァは少し泣きそうな顔で笑った。
「これは、犠牲じゃないわ。自分よりあなたが大事になってしまっただけよ。ウルリッヒは、わたしが嫌がるから、ほかの人とは結婚しないと決めてくれたんでしょう? だったら、わたしにもあなたを愛している証拠を示させてほしいの」
ウルリッヒにとって、信じられないことが起きていた。彼女が自分のために、人間になろうとしている? イルヴァが心を決めたなら、彼も黙ってそれを受け入れる準備をしなければならなかった。それもまた、愛している証なのだ。
イルヴァが席を立ったのに合わせて、彼も立ちあがる。薄い肩を抱くと、わずかに震えていた。彼女は、この告白にそうとう勇気を振り絞っている。ウルリッヒの胸はえもいわれぬ喜びに熱くなる。
「……わたしを妃にしたいという申し出は、まだ有効?」
「ああ、もちろんだ。何度だって言う。――結婚してほしい。一生、俺のそばにいてくれ」
「ありがとう。わたしの一生もあなたの隣よ」
彼女は至福の笑みを浮かべる。ほのかな明かりに照らされるそれが、あまりに美しかったので、ウルリッヒはたまらず彼女を抱きしめた。
「ずっと一緒にいられるなんて、信じられない。あなたはもう『晩餐』が必要なときにしか、来てくれないと思っていたから」
「実を言うと、一週間も留守にするつもりはなかったわ。『魔女の核』を殻で包む方法を知らなくて、長老たちを訪ねたのだけど、大魔女はたいてい退屈して、話し相手を欲しがっているから、一度捕まるとなかなか帰ってこれないのよ」
「自分に、魔法をかけるのか?」
イルヴァはウルリッヒの腕のなかから抜け出すと、彼を見上げる。そして、はかなげに微笑んだ。
「魔女の最後のおこないよ。この場に立ち会えるなんて、めったにないことだわ」
彼女は両手を胸の前で組むと、瞑想に入る。やがて、華奢な身体を温かな光が包みこみ、夜の庭を淡く照らした。ウルリッヒは数歩退いて、見守る。
柔らかな風が彼女にまといつき、デコルテのレースがふわふわと揺れた。イルヴァの表情は静かに慈愛に満ち、まるでお腹にある『魔女の核』に向かって、語りかけているようだった。温かな光はしばらく彼女を包んでいたが、少しずつ小さくなり、最後は完全に消えた。最後の魔法は、手のひらでとける初雪のように、淡くはかないものだった。
夜の庭は、わずかなろうそくの光と静寂だけが残る。ウルリッヒの身体を包んでいた暖気が急に無くなり、彼は自分の上衣をイルヴァの肩に羽織らせた。
夢から覚めたようにゆっくりと瞼を開いた彼女が、微笑みを浮かべる。
「ありがとう。あなたは寒くないの?」
「こうすればいい」
もう一度抱きしめると、ドレスシャツの背中に両手をまわされた。その細い腕や、華奢な骨格、たしかにか弱い女性のものにほかならなくて、彼女を守るものはこの世に自分しかいないことを実感させられた。それは意外なほど、ウルリッヒを幸福へと押しあげる。
彼女は、持っているものすべてを自分に捧げた。ウルリッヒはそれにどれだけ、報えるだろうか。
「あなたには、決して辛い思いはさせない。幸せにする」
「ありがとう。ウルリッヒを信じるわ」
「人間? イルヴァが?」
戸惑うウルリッヒをまえに、彼女はホットワインで唇を湿らした。まるで、長年の秘密を明かす勇気を得ようとしているかのようだ。
「本命がいても、他の男と寝る魔女はいるわ。わたしにもそれができれば、あの森を去ることはなかったのに。十六歳のあなたが訪れてくれるのを心待ちにする森の生活は、きっと楽しかったでしょうね。あなたがわたしのことを忘れても、思い出をよすがに新しい生活を始められたわ」
「……どうして、俺の気持ちが冷める前提なんだ?」
彼は心外なことを言われ、少し気分を害した。イルヴァは、長命種らしい見解を述べる。
「二十年前のあなたは性に対して好奇心旺盛で、とてもわたし一人で満足するとは思えなかったの。自分のために魔女が人間になるのは、男性側にとっても重い話よ。子どもの……、いいえ、まだ若かったウルリッヒにそれを背負わせるのは、とても難しいわ。わたしも人間になった途端、捨てられるのは嫌だったし……」
ウルリッヒは、イルヴァという理想の女性に出会えて、目移りするなど思えない。しかし、ほかを知ったからこそ、やはり自分には彼女しかいないと気がついたのも、また事実だ。
彼女の緑色の瞳が、風をうける森の木のようにさざめいていた。
「あなたを忘れるために離れたのに、結局すこしも忘れられなかったわ。『晩餐』にもあずかれず、魔力も枯渇して、気が付けば二十年経ってしまったの」
あくまで不本意に話すものの熱い告白には変わりなく、胸を鷲掴みされるウルリッヒである。事情は把握していても、やはり本人の口から聞かされるのではまったく違うのだ。そのとき、ウルリッヒは、大魔女・アクセリアの言葉を思い出した。
『あの子の母親もその母親も、いつもそう。さっさと新しい魔女をよこしなって、あの子に伝えておくれよ』
イルヴァは、師匠の名前を聞いて一瞬顔を歪めたものの、次には苦笑した。
「アクセリアは、とっくに気づいていたのね。わたしたちは、子宮のなかに『魔女の核』なるものを持っていて、それが男性の精力を魔力に換える働きをしているの。核を殻で包めば妊娠できるようになるけれど、二度と魔女に戻れないわ。『魔女の核』は最初に産んだ女の子に継承されるの。母は十六歳で父を『晩餐』の相手に選んで、そのままわたしを妊娠したのよ。祖母も似たようなもの。話を聞いたときは、まったく信じられなかったわ」
「だから、二十年前、俺の前から姿を消したんだな?」
イルヴァはためらった後、こくんと頷く。
「わたしは、どうしても人間になりたくなかったの。あなたには悪いけれど、人間は心も身体も弱いし、すぐに死んでしまうわ。それに、魔法も使えないのよ」
ウルリッヒには、彼女の気持ちが理解できた。イルヴァは、誇り高い魔女だ。強い魔力と永遠に近い美貌が、イルヴァをイルヴァたらしめているのだ。それをすべて自ら捨てる覚悟を持てというのは、とても酷な話だ。
「今からでも魔女で居続けられる方法を考えた方がいい。俺もあと四、五十年はくたばるつもりはないから、その間に見つけよう。後継者のことは、俺がどうにかするから、イルヴァが犠牲になることはない。これまで通りの関係でいいんだ」
ウルリッヒはそう言って、ほそい手を握る。愛してくれるだけで、満たされている。彼女には、好きなように永いときを生きてほしい。だが、イルヴァは少し泣きそうな顔で笑った。
「これは、犠牲じゃないわ。自分よりあなたが大事になってしまっただけよ。ウルリッヒは、わたしが嫌がるから、ほかの人とは結婚しないと決めてくれたんでしょう? だったら、わたしにもあなたを愛している証拠を示させてほしいの」
ウルリッヒにとって、信じられないことが起きていた。彼女が自分のために、人間になろうとしている? イルヴァが心を決めたなら、彼も黙ってそれを受け入れる準備をしなければならなかった。それもまた、愛している証なのだ。
イルヴァが席を立ったのに合わせて、彼も立ちあがる。薄い肩を抱くと、わずかに震えていた。彼女は、この告白にそうとう勇気を振り絞っている。ウルリッヒの胸はえもいわれぬ喜びに熱くなる。
「……わたしを妃にしたいという申し出は、まだ有効?」
「ああ、もちろんだ。何度だって言う。――結婚してほしい。一生、俺のそばにいてくれ」
「ありがとう。わたしの一生もあなたの隣よ」
彼女は至福の笑みを浮かべる。ほのかな明かりに照らされるそれが、あまりに美しかったので、ウルリッヒはたまらず彼女を抱きしめた。
「ずっと一緒にいられるなんて、信じられない。あなたはもう『晩餐』が必要なときにしか、来てくれないと思っていたから」
「実を言うと、一週間も留守にするつもりはなかったわ。『魔女の核』を殻で包む方法を知らなくて、長老たちを訪ねたのだけど、大魔女はたいてい退屈して、話し相手を欲しがっているから、一度捕まるとなかなか帰ってこれないのよ」
「自分に、魔法をかけるのか?」
イルヴァはウルリッヒの腕のなかから抜け出すと、彼を見上げる。そして、はかなげに微笑んだ。
「魔女の最後のおこないよ。この場に立ち会えるなんて、めったにないことだわ」
彼女は両手を胸の前で組むと、瞑想に入る。やがて、華奢な身体を温かな光が包みこみ、夜の庭を淡く照らした。ウルリッヒは数歩退いて、見守る。
柔らかな風が彼女にまといつき、デコルテのレースがふわふわと揺れた。イルヴァの表情は静かに慈愛に満ち、まるでお腹にある『魔女の核』に向かって、語りかけているようだった。温かな光はしばらく彼女を包んでいたが、少しずつ小さくなり、最後は完全に消えた。最後の魔法は、手のひらでとける初雪のように、淡くはかないものだった。
夜の庭は、わずかなろうそくの光と静寂だけが残る。ウルリッヒの身体を包んでいた暖気が急に無くなり、彼は自分の上衣をイルヴァの肩に羽織らせた。
夢から覚めたようにゆっくりと瞼を開いた彼女が、微笑みを浮かべる。
「ありがとう。あなたは寒くないの?」
「こうすればいい」
もう一度抱きしめると、ドレスシャツの背中に両手をまわされた。その細い腕や、華奢な骨格、たしかにか弱い女性のものにほかならなくて、彼女を守るものはこの世に自分しかいないことを実感させられた。それは意外なほど、ウルリッヒを幸福へと押しあげる。
彼女は、持っているものすべてを自分に捧げた。ウルリッヒはそれにどれだけ、報えるだろうか。
「あなたには、決して辛い思いはさせない。幸せにする」
「ありがとう。ウルリッヒを信じるわ」
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