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第一部

6. 魔女、王子さまに癒される

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 ウルリッヒは寝ている間もイルヴァに抱き着いて、離れようとしなかった。あどけない寝顔を見ていると、こちらの口元が無意識にゆるんでしまう。

――温かい。それに、この子のそばにいると寂しくないわ。

 年端もいかぬ少年に抱かれて、ぬくもりに癒されて、いったいどうしたことだろう。イルヴァにとって、『晩餐』はあくまで魔力を蓄える手段だ。存分に働いてくれた殿方を寝かして癒して、翌朝は笑顔でさようなら。相手が深みにはまって二度目をねだられたら、魔法の杖をふるって記憶を消して終わり。その繰り返しで、百三十年生きてきた。

 なのに今は、情事の余韻すら愛おしい。かつて、こんな風に心も体も満たされた記憶はなかった。ウルリッヒと一緒にいると、笑顔が絶えない。いつまでも、この天使のような寝顔を見ていたい。

――明日が来なければいいのに。

 かなうはずもないことを願って、イルヴァは白い額に唇を落とした。

※※※※※

 翌朝は快晴だった。森の澄んだ空気、小動物の鳴き声。生活になじみ、この身に幸福を与えるはずのものが、今のイルヴァにはわずらわしい。昨夜は一睡も出来なかった。

 だが、目の前の少年はご機嫌だ。
 ブランチはふわふわのパンケーキと、硬めの目玉焼きと、もちもち食感の焼きチーズだった。付け合わせはもちろん、今が旬のベリー。定番のメニューをおいしい、おいしいと平らげる育ち盛りの少年がなんとも可愛らしい。
 向かいでじっとそれを眺めていた彼女は、ウルリッヒの口元に残っていたシロップを拭ってやった。

 紺色のジュストコール、純白のドレスシャツに黒いキュロット。それらは魔法で新品のように整えられている。ふわふわの金髪をきれいに整えてやれば、誰もが首を垂れる貴公子の出来上がりだ。人間の貴族社会はよく知らないが、ウルリッヒはその中でもハイクラスに属するのだと、彼女もいい加減気が付いていた。

「送っていくわ」
「大丈夫。明るくなったら、方向が分かったよ。イルヴァを連れていくとややこしい話になりそうだから、一人で戻ったほうがいいんだ」

 今は、と続けたウルリッヒの言動を彼女は無理やり聞かなかったことにした。嬉しいとか、みじんも思ってはいけない。

「親御さんとの確執は、もういいの? それが原因で家出したんでしょ?」
「家出は子どものすることだ」

 ウルリッヒが少しだけ身長の高い彼女を抱きしめてくる。小暴君が一晩ですっかり男らしくなり、人間の成長に恐れ入るイルヴァである。
 両手で髪をかき分けられ、そっと唇を重ねられた。まるで、壊れ物を扱うようなしぐさに、こころがとくんと波打つ。重ねられるときもドキドキするが、唇を離されるときに見つめられ、胸が熱くなる。とろけるような甘い視線だ。それをまっすぐ受け止めるには、イルヴァは年を重ね過ぎていた。
 ウルリッヒは居住まいをただすと、大人びた表情をうかべる。春の日差しに照らされ、絵画のなかの天使が呼吸しているようだと、イルヴァは見とれた。

「この森は、もともと父上の直轄地なんだよ。今まで使っていた狩猟場でシカの頭数が減ったから、新しい狩猟場を探して皆で下見に来ていたんだ。父上の愛妾の一人がこの環境を気に入って、ねだられた父上がこの森に決めたんだ。……南に進んだところに、小さな城館を建てるらしい」

 少年が珍しく、吐き捨てるようにして言った。きっと、それがウルリッヒの家出の原因なのだろう。彼女は気づかなかった振りをする。

「そう、騒がしくなるわね。わたしも引っ越さなきゃいけないかしら?」

 長年放置されていた森なので、イルヴァは誰の許可も得ず勝手に住みついていたのだ。住み続けて百年ほど。思い入れのある森だが、さすがに出ていかねばまずいだろう。
 だが、ウルリッヒは首を横に振った。

「心配しないで。イルヴァが住めるように僕が許可を取る。ただ、猟が行われる日は家の外に出ないでほしい。あなたは美しいのにいつも一人だから、見つかればきっと悪だくみする人間が出てくると思う」
「気持ちはありがたいけれど。わたし、人間に負けたりしないわよ。見た目通りの女じゃないの」
「知っている。ぼくに人の愛し方を教えてくれた魔女だ」

 再び彼女を包んでくる熱い視線。イルヴァは、思春期の少女のように落ち着かない自らの鼓動を苦々しく思った。

「わかったわ。この家が見つからないよう、目くらましの魔法をかけておくわ。扉には閂もかけて、わたしも一歩も家を出ない。約束するわ」

 懇願に折れる振りをすると、ウルリッヒはやっと笑顔をのぞかせた。肉薄の唇からのぞく白い歯がまぶしい。

「その扉、ぼくには開いて?」 
「もちろんよ。そろそろ行かないと、あなたをお捜しの人たちがここまで来てしまうわ。わたしのことは心配しないで」
「迎えに行くから、待っていて」

 何度も振り返る少年を見送って、イルヴァは小さくため息をつく。
 そのとき、彼女は少年をどこで見たか思い出した。一番近くの都市に買い物に行ったときに広場で見上げた、王家の肖像画。国王と亡き王妃に続き、三枚目に並べられた肖像画のまえで、若い娘たちが黄色い声を上げていた。

――あの肖像画の主は、たしか。

 ウルリッヒ・アーロン・フォン・ベルトン。この国の王太子だった。

 王になるべくして、この世に生を受けた男。
 道理で、まだ子どもというのに精力が強いはずだ。イルヴァは納得した。
 寝不足にもかかわらず、いま彼女の魔力はみなぎっている。主義には反するものの、あと何回か関係を続けるのは、やぶさかではなかった。

――あの子の二回目の訪問を待つの? 『晩餐』に授かるために、彼の秘密の恋人になるの?

 そこまで考え、彼女は急に首を振った。問題はイルヴァの方だ。
 これから先、ウルリッヒの容姿や高い精神性に、言いよる女性は後を絶たない。そのうえ、彼は若く好奇心旺盛だ。数々の女性と逢瀬を重ねるうちに、森の奥に住む魔女のことなど忘れてしまうだろう。それを責めることはできない。えてして若い男はそういうものだ。

――でも、そうなったらわたしはどうなるの? 

 魔女の尊厳も矜持も何もかも奪われて、何も残らない。突如、足元にできた点のような穴が次第に広がっていく恐怖に襲われる。無意識に両腕をさすっていたイルヴァだが、そこではっと初歩的なことに気づいた。

――ちょっと待って。今から捨てられる心配をするなんて。

「……わたし、ウルリッヒくんに惚れているの?」

 その事実に、魔女の足元が凍りついた。 
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