αの末裔

ぱんぶどう

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素晴らしきこの世界

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 無力だ。
 土戸秀夫医師の脳裏にはその二文字が浮かんでいた。
 救急センターから連絡が入ってから1時間が経過していた。運ばれてきた女性は雷雨の中、山道を車で走行中にカーブを曲がりきれず転落。重症であるとの連絡が入っていた。電話を受け取ったのは土戸医師であった。大学を首席で卒業し外科医となった彼は経験こそ浅いが医者としてのプライドを持っていた。助けられる可能性のある生命は絶対に見捨てたくなどなかった。その思いから彼が夜勤の担当の時には積極的に急患を受け入れていた。そんな一種傲慢とも言える彼の姿勢は時には同僚には暑苦しいと言われ、先輩医師や上司からは煙たがられる事もあったがそんな事は彼にとってどうでも良かった。自分には生まれつき備わった才能と、磨き学んだ知識とスキルがある。そんな自分に助けられない、直せない患者などいない。事実、彼はそう言えるほどの腕前を有していた。その事実は彼の尊大な性格をより傲慢にした。
 運ばれてきた患者を診て彼は絶句した。落下の衝撃か骨は砕け折れた骨の数本は内臓にまで達していた。こんな状態でなぜ意識を保っていられるのか不思議であるほどであった。それでも彼は彼女を助けようとした一縷の望みをかけるしかないと奮起した。彼女のお腹に影が映るまでは。
 彼女は妊娠していた。出産間近であろう2つの影がお腹の中に写っていた。事故の衝撃による腹部の膨張かと救急隊すら見逃してしまっていた。その事実は土戸医師に迷いを与えた。手術をしなければこの女性は確実に死んでしまうであろう。しかし手術をすれば僅かな可能性はある。しかしそれはこの女性が妊婦でなければの話だ。お腹の中の胎児は激しい手術には耐えられないであろう。逆も然りだ。おそらく出産に母体は耐えられない。しかしどうすればいいのだ。今辛うじて生きているこの生命か。それとも新たに生まれてくる生命かどちらを救うかを選択しなければならない。土戸医師は祈りたい気分であった。彼は祈りとは生来無縁であった。それは弱き人の救済のためにあるもので、人々を救う力を持った自分とは無関係の代物であると思っていた。神なども弱き人々が生きるための支えとして発明されたものだと捉えていた。しかし今や彼を支えるものなど何もなかった。自らの医学大学で学んだ知識も、学生時代から今に至るまで育んだ薄っぺらなプライドも突きつけられた現実の前に何も意味を持たなかった。無力だ。彼はそう悟ったのだ。
「先生」傍に立った土戸医師に患者の女性が話しかけた。
「先生、私助からないんでしょう」
「いえ、助かります。絶対に助けます」懇願するかのように彼は言った。普段の落ち着き払ってどこか俯瞰的な彼の姿とは似ても似つかないものであった。
「ありがとう。でも自分自身の事ぐらいわかります」女性が少し微笑んだように彼の目に映った。
「ねえ。ひとつだけお願いがあるの」
「はい。何でしょう」
「これから生まれてくる子どもたちに名前を伝えてほしいの」
「あなたが伝えてください。必ず助けますから」叫ぶように土戸医師は言った。まるで祈る様だと彼自身ですら感じていた。これを奇跡に縋るこの思いを、いのりと呼ばなければなんと呼ぶのだろうと。
「ダメよ。神様が与えてくれた時間が来たのだわ。私はもうここまで。今だって延長してもらっている様なもの。可愛い我が子たちに会えないのが心残りだけれども」
「助けます。助けます」他人から見ればまるで彼が読経している様に見えたであろう。彼は殆ど呟く様に、自らに言い聞かせる様に言い続けた。
「だからね。最後に子どもたちに名前を残していきたいの。何も残せない私が唯一子どもらに残せるもの。本当は一緒に生きてあげられたら良かったのだけれども、守ってあげられたら良かったのだけれども、それはちょっと難しそうだから。せめてその名前がこの子たちの行く末を守ってくれる様に。願いを込めて」土戸医師はもう何も言わなかった。彼女の目は死んでいなかった。今まで医師として何人かの死を目の当たりにしてきた。その死者の生気無き目とは違い彼女の目には希望が写っている様に見えた。とても死にゆく者の目では無かった。こうしている間にも彼女の肉体はどんどん死に向かっていると言うのに彼女の目には栄光すら写っているかの様に見えた。
「伝えます。必ず」彼は唾を飲み込んだ。その姿を見て女性は今度こそ本当に微笑んだ。
「先に生まれてくる子が鉄人。その後に生まれてくる子は牧人。」そう言うと女性は安心したかの様にふぅと息を放った。
「ああ、強く生きてね」彼女は涙ぐみ、続けた。
「この子たちをよろしくね」
任せてください。土戸医師のその声が聞こえたのか聞こえていなかったのか分からない。小さな病室の虚空に心停止を告げる心電計の音だけが響いていた。
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