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弐の巻 追想、あるいは走馬燈、幼き日のこと
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「与一!」
五歳になったばかりの竜巳は、弾んだ声で友の名を呼んだ。
「よく来たな、竜巳」
「うん! だって与一、今日は遊んでくれるって約束したもの」
与一は決して嘘をつかない。
竜巳の中ではそれが常識だった。
美しい髪に端正な顔立ちをした少年は声も鈴のようでで、天女のような美しさだった。実際、竜巳は出会った当初、彼を女子だと勘違いしていたのである。
与一は村の外からやってくる、五つから七つぐらい年かさの上の少年だった。竜巳の友であり兄のような存在である。彼と村を少し離れた山の中で遊ぶのが唯一の楽しみだった。
村の中に竜巳の居場所はない。その昔、祖父母が水田の水路を独り占めしようとして他の村人たちの反感を買い、村八分にされてしまったのだ。下手をすればその連鎖は末代まで続く。両親はもちろんのこと、竜巳も多聞にもれず村の子供たちから避けられ、寂しい思いをしていた。
それを無くしても、竜巳には忌避される理由があった。瞳の色である。父母の子に間違いはないというのに、竜巳は琥珀のような色の瞳を持っていた。村の子どもは竜巳を鬼の子、化け物などと呼び、誰一人として竜巳に近づこうとしなかった。
彼らが楽しそうに遊ぶ様子を寂し気に眺めていた日々が変化したのは、一人、山で遊んでいたときのことだった。
川辺で、一人の少女に出会った。足にひどい怪我を負った少女、いや少年は血にまみれ、肉の見えかけた足をどうすることもできず、横たわって呻いていた。鳶色の髪を束ねた、左目の目じりに黒子のある子どもだった。人と深くかかわったことのない竜巳にとって、見知らぬ者に声をかけるのは勇気が必要だったが、女子を一人にしておくわけにはいかないと思った。
何より気にかかったのは、その蜜のような甘い色をした瞳だった。
己と同じだ。竜巳は直感的に悟った。
「だいじょうぶ?」
着物を割いて、母の真似をして血止めを施してやったのを覚えている。傷口は獣に襲われたものらしく深かった。しかしそのころには何かの薬草が既に塗りたくられていた。少女は手当をする竜巳に驚いていた様子だったが、形ばかりの処置が終わったところで、竜巳を見て笑いかけた。
「すまない」
その柔らかな笑顔の美しかったこと。与一の顔と、声と己を撫でる優しい手つきは、今でも鮮明に思い出すことが出来た。否、もう一生、忘れることなど出来ないだろう。
少年は「与一」と名乗った。そこでやっと女と間違えたことを告げると、「よくあることだ」と彼は困ったように言ったのだった。
二人の他愛のない逢瀬が始まったのはそれからである。与一はよく山にやってきては遊ぶようになった。
「今度は竜巳が鬼だぞ」
川で魚を取ったり、食べられる葉を教えてもらったり、ただただ走り回ったりした。
最も印象に残っていることと言えば、桜の木の周りで遊びまわった時のことだろうか。花吹雪の中佇む彼は、本当に美しかった。瞬いた次の瞬間、花びらの向こうに消えてしまうのではないかと思ったほど儚く、まるで桜の精のようだったのを覚えている。
一緒に昼寝をするときには腕を貸してくれた。これまで一人でやって来た淡々とした遊びの数々だったが、与一といるだけで味気ない景色にさえ鮮やかに色がついたような錯覚を覚えた。
与一も竜巳をひどく気に入ってくれていたようだった。
突然の別れがやって来たのは、それから二年経った頃のことだった。
母が流行り病で急死し、沈んでいた竜巳は山に向かった。与一との約束があったからだ。大丈夫、彼に逢えばきっとまた元気になれる。そう信じて、家を飛び出して山へと向かった。
しかし待てど暮らせど、与一は来ない。そこでやっと、去り際の彼の言葉を思い出したのだ。
『お前と会うのも、これからは難しくなるだろう』
どうして、と聞いても与一は多くを語ろうとはしなかった。どうやら庄屋かどこかの息子らしく、修行に打ち込まなくてはならなくなったのだそうだ。
『ねえ与一、ずっと一緒にいてよ。おれは与一が好きだよ』
『――――ありがとう。しかし、昔から決まっていたことなんだ』
着物の裾に縋りついて泣いたが、彼は頭を撫でて背中をさすってくれるばかりだった。それで幼いながらに理解した。もうこの優しい人に会うことは一生かなわないのだろうと。
それを母の死という衝撃で忘れてしまっていたのだ。
しかし竜巳は諦めなかった。与一は来てくれると信じてならなかった。三日間山に居続け、それからも足しげく山に通った。
しかし、与一がやって来ることは無かった。
それからさらに二年経って、父が亡くなった。今度は泣かなかった。父が亡くなっても村人の竜巳に対する態度は変わらず、いないものとして扱われ続けた。
ここにはもう何もない。自分を支えるものも、自分が支えなくてはならないものもない。もう一度ぐらい与一に会いたかった。ありがとうと伝えたかった。しかしもうきっと、無理なのだろう。胸にぽっかりと空いた穴はそう簡単には埋まらない。
もう水田も田畑も管理する者がいない。この地で生きる意味を見いだせなかった。楽しいことなど一つもないこの世など知ったことか。もうどうにでもなってしまえばいい。どこか遠いところで一人暮らそう。自ら命を落とすような真似はしない。泥水をすすってでも生きてやろうという気概があった。生きていれば、再び与一や、与一のような人に出会えるかもしれない。ただ、一人で生きていくのならば、これまでの幸せだった記憶のすべてが枷になってしまう。
――そうして竜巳は、全ての思いを断ち切って、村を飛び出したのだった。
五歳になったばかりの竜巳は、弾んだ声で友の名を呼んだ。
「よく来たな、竜巳」
「うん! だって与一、今日は遊んでくれるって約束したもの」
与一は決して嘘をつかない。
竜巳の中ではそれが常識だった。
美しい髪に端正な顔立ちをした少年は声も鈴のようでで、天女のような美しさだった。実際、竜巳は出会った当初、彼を女子だと勘違いしていたのである。
与一は村の外からやってくる、五つから七つぐらい年かさの上の少年だった。竜巳の友であり兄のような存在である。彼と村を少し離れた山の中で遊ぶのが唯一の楽しみだった。
村の中に竜巳の居場所はない。その昔、祖父母が水田の水路を独り占めしようとして他の村人たちの反感を買い、村八分にされてしまったのだ。下手をすればその連鎖は末代まで続く。両親はもちろんのこと、竜巳も多聞にもれず村の子供たちから避けられ、寂しい思いをしていた。
それを無くしても、竜巳には忌避される理由があった。瞳の色である。父母の子に間違いはないというのに、竜巳は琥珀のような色の瞳を持っていた。村の子どもは竜巳を鬼の子、化け物などと呼び、誰一人として竜巳に近づこうとしなかった。
彼らが楽しそうに遊ぶ様子を寂し気に眺めていた日々が変化したのは、一人、山で遊んでいたときのことだった。
川辺で、一人の少女に出会った。足にひどい怪我を負った少女、いや少年は血にまみれ、肉の見えかけた足をどうすることもできず、横たわって呻いていた。鳶色の髪を束ねた、左目の目じりに黒子のある子どもだった。人と深くかかわったことのない竜巳にとって、見知らぬ者に声をかけるのは勇気が必要だったが、女子を一人にしておくわけにはいかないと思った。
何より気にかかったのは、その蜜のような甘い色をした瞳だった。
己と同じだ。竜巳は直感的に悟った。
「だいじょうぶ?」
着物を割いて、母の真似をして血止めを施してやったのを覚えている。傷口は獣に襲われたものらしく深かった。しかしそのころには何かの薬草が既に塗りたくられていた。少女は手当をする竜巳に驚いていた様子だったが、形ばかりの処置が終わったところで、竜巳を見て笑いかけた。
「すまない」
その柔らかな笑顔の美しかったこと。与一の顔と、声と己を撫でる優しい手つきは、今でも鮮明に思い出すことが出来た。否、もう一生、忘れることなど出来ないだろう。
少年は「与一」と名乗った。そこでやっと女と間違えたことを告げると、「よくあることだ」と彼は困ったように言ったのだった。
二人の他愛のない逢瀬が始まったのはそれからである。与一はよく山にやってきては遊ぶようになった。
「今度は竜巳が鬼だぞ」
川で魚を取ったり、食べられる葉を教えてもらったり、ただただ走り回ったりした。
最も印象に残っていることと言えば、桜の木の周りで遊びまわった時のことだろうか。花吹雪の中佇む彼は、本当に美しかった。瞬いた次の瞬間、花びらの向こうに消えてしまうのではないかと思ったほど儚く、まるで桜の精のようだったのを覚えている。
一緒に昼寝をするときには腕を貸してくれた。これまで一人でやって来た淡々とした遊びの数々だったが、与一といるだけで味気ない景色にさえ鮮やかに色がついたような錯覚を覚えた。
与一も竜巳をひどく気に入ってくれていたようだった。
突然の別れがやって来たのは、それから二年経った頃のことだった。
母が流行り病で急死し、沈んでいた竜巳は山に向かった。与一との約束があったからだ。大丈夫、彼に逢えばきっとまた元気になれる。そう信じて、家を飛び出して山へと向かった。
しかし待てど暮らせど、与一は来ない。そこでやっと、去り際の彼の言葉を思い出したのだ。
『お前と会うのも、これからは難しくなるだろう』
どうして、と聞いても与一は多くを語ろうとはしなかった。どうやら庄屋かどこかの息子らしく、修行に打ち込まなくてはならなくなったのだそうだ。
『ねえ与一、ずっと一緒にいてよ。おれは与一が好きだよ』
『――――ありがとう。しかし、昔から決まっていたことなんだ』
着物の裾に縋りついて泣いたが、彼は頭を撫でて背中をさすってくれるばかりだった。それで幼いながらに理解した。もうこの優しい人に会うことは一生かなわないのだろうと。
それを母の死という衝撃で忘れてしまっていたのだ。
しかし竜巳は諦めなかった。与一は来てくれると信じてならなかった。三日間山に居続け、それからも足しげく山に通った。
しかし、与一がやって来ることは無かった。
それからさらに二年経って、父が亡くなった。今度は泣かなかった。父が亡くなっても村人の竜巳に対する態度は変わらず、いないものとして扱われ続けた。
ここにはもう何もない。自分を支えるものも、自分が支えなくてはならないものもない。もう一度ぐらい与一に会いたかった。ありがとうと伝えたかった。しかしもうきっと、無理なのだろう。胸にぽっかりと空いた穴はそう簡単には埋まらない。
もう水田も田畑も管理する者がいない。この地で生きる意味を見いだせなかった。楽しいことなど一つもないこの世など知ったことか。もうどうにでもなってしまえばいい。どこか遠いところで一人暮らそう。自ら命を落とすような真似はしない。泥水をすすってでも生きてやろうという気概があった。生きていれば、再び与一や、与一のような人に出会えるかもしれない。ただ、一人で生きていくのならば、これまでの幸せだった記憶のすべてが枷になってしまう。
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