思い出を探して

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雨の日

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 怜は逃げていた。

土砂降りの中、傘も持たずに、脚が千切れそうな程、肺が張り裂けそうな程痛くても、アイツから離れなければ。

クリスマスイブ、街のあちこちはイルミネーションで彩られ煌めき華やか。一本の傘に身を寄せ会う者にぶつからないよう、間を縫うようにして駆ける。

地下鉄の構内は、スーツを身に纏い、ケーキの箱を持つ人や、手を繋ぎながら歩くカップルなんかで溢れかえっていた。
「ッチ」
「すみません」
12月とは思えない薄着に、雨に打たれてびしょ濡れになった女子高生。肩が誰かと触れる度、舌打ちを受ける。

いい。どうでもいい。ただ、アイツから離れることができれば何でもいい。所持金が足りるかどうかなんて、気にする暇もない。

品川からの新幹線の自由席。運良く、一つ空いていた。新大阪へ一人だけの片道切符。

隣の席の知らないおじいさんにすら恐怖を感じる。おじいさんは、その隣のおばあさんとなにやら話しているが、それでも十分すぎるほど怖い存在なのだ。
「お嬢さんはどちらまで?こんな夜に一人で新幹線?」
「…新大阪まで、お父さんに会いに」
「そうか。きっと、お父さんは喜ぶじゃろな」
喜ぶわけないだろう。きっと、心配した顔で「何で、こんなことをしたの?」と聞くだろう。

名古屋、京都を過ぎればすぐだ。
「新大阪、新大阪」
スマホもない。財布もあったところでお金はない。ただ、一枚の切符を握りしめてホームに降り立った。ブラウス一枚では耐え難い寒さ。お父さんの家は、新大阪からは離れていて、歩いてはいけない。と、なればSuicaの残高に頼るより他はない。上の方を見ながら、乗る路線の方向を確認する。
「これで、行けるかな」
東京とは違ったにおいのする電車に戸惑いながらも、車窓を見て、いくつもの高層ビルをすり抜けた。

改札を出たとき、残高は52円。現金も、12円ときた。ダメだ。連絡手段もない。タクシーも使えない。外は、土砂降りで、まだ最寄り駅ではない。

「怜?」
途方にくれていると、不意に後ろから名前を呼ばれて振り返る。
「お父さん!」
「ど、どうした?何でここに?それにそんな薄着では風邪を引いてしまう。傘も持ってないし」
動揺するお父さん。仕事鞄から、マフラーを取り出して怜の首に巻く。
「荒山さんから逃げてきた」
荒山というのは母の再婚相手であり、アイツである。つまり、荒山とは法律上親子でも、血縁関係はない。
「どうして…」
父は何か察したようで、幅の広い傘に怜を招き入れる。
「お父さんの家に泊まっていい?」
「良いよ。ゆっくりするといい。部屋なら、余っている」
お父さんは敏腕弁護士。一人で大阪に住んでいる。お母さんと離婚して以来一度もあっていない。もちろん、住んでいるところが東京と大阪で遠いということはあるのだが、荒山さんとのトラブルが絶えなかったことも原因の一つだ。



お父さんの家に着くと、お父さんの家はうちとは対照的に食器は食器棚の中、床を歩いても足はきれいなままで照明は明るく、寝室には綺麗にベッドメイキングされたベット。
「怜、先にお風呂に入っておいで、お湯ならもうたまっているよ。怜がお風呂にいってる間にお父さんは晩御飯でもつくってるから」
「服とかどうしたらいい?」
「客人用のパジャマならあるんだけどそれでいい?下着はない、近くのスーパーならまだ開いてるし買いにいく?」
「いいの?」
お父さんは、少し笑いながら「あぁ」と答えた。私に安心感を与えてくれるような柔らかい笑顔だった。

怜は荷物を置いて、お父さんの学生時代のトレーナーを引っ張り出して、お父さんとスーパーへ向かった。
 独り暮らしで一軒家を構えるお父さんの頭には白髪が混じって、シミも少し増えているような気がした。

外に出ると、雨はビシャビシャの雪に変わっていた。
「お父さんは再婚しないの?」
「もう結婚はこりごりだな」
「そっか」
「あぁ、でもお父さんの人生のなかに結婚があって、怜が生まれて良かったとは思ったりもするよ」
「ふーん」
「怜にも分かるさ。そのうち、好きな人と結婚するときがきたら。まぁ、結婚しないという選択肢もあるけどな」
スーパーは煌々と光を放っていかにも年末に向けて構えているようだ。クリスマスの製品なんかは軒並み値下げ。
お父さんは、小さなケーキを二つ買ってお祝いをしようと言った。



「お風呂上がったよ」
お湯を心置きなく使えるのは一年ぶりくらいかもしれない。荒山は常にギャンブルと酒に溺れ、金欠と嘆き、お湯を使うのは贅沢の極みだといって認めてくれなかった。
「ご飯もちょうど出来た。朝から仕込んでたからきっと美味しいはず」
真新しい下着とパジャマに身を包み、ダイニングに行った怜は思わず小さい子みたいに喜んだ。
 テーブルにはローストビーフが出ているではないか。ジャガイモのスープに紫キャベツのサラダ。それに生ハムが乗ったカプレーゼ。ワイングラスにはグレープジュース。
ここ何年も目にしなかった豪華な料理。
「さぁ、食べようか」
「一緒に食べていいの?」
いつもなら、別の机で一人寂しく食べている。
「当たり前だろう。一緒に食べよう」
お父さんの優しい表情にほっとした。
お父さんこだわりの料理は、涙が出るほど美味しい。お父さんは、敢えて荒山の話題を避けるように当たり障りのない話をする。
食後のケーキも食べ終わり、リビングでこたつに入る。


お父さんはちょっと考えて口を開いた。
「お母さんとうまくいっているか?お母さんの再婚相手とも」
そのおどおどした怜の態度、少なすぎる笑顔、だいたいこんな雨の中あんな薄着で大阪まで来たこと。想像はついても聞かざるを得なかったのだろう。
怜は肩をすぼめ、視線を下げた。
「うまくいってない」
「ちゃんと高校生らしい生活はできてる?」
「分からない」
「暴力はある?」
怜はコクッと頷いた。
「本当にごめんなさい。お父さんが、守るはずの立場なのに」
机に額をぶつけそうな勢いでお父さんは謝った。
「顔をあげて」
怜はお父さんを責めるつもりはない。責める気力もすっかり失せていた。
「ごめん」
お父さんはゆっくりと顔をあげた。
「私、荒山さんとは生活できない。お母さんとも」
声を震わせた怜に、お父さんは優しく話しかけた。
「…そうか。警察にも通報して、お父さんが親権をとるよ」
「うん」
それでいい。あんなのとは他人でいたい。



お父さんは本当に、親権をとり、最高額の慰謝料をぶん取り、二人に接近禁止令と逮捕状を突きつけた。
高校にも掛け合い、三学期から大阪の名門私立で学べることになった。もともと抜群に頭がよく東京では1位か2位の私立大学の付属高校に高校から入っていた怜。ずっと憧れていた高校だったらしく、お父さんは頭を悩ませていたが、怜自身が大阪の高校で納得できると言った。
正直、高校を変えることは辛かったが、東京で遭遇してしまう恐怖の方がはるかに大きかったというのはある。


そして、怜は男性恐怖症を抱えたまま大人になった。あの日の決断を後悔したことはない。
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