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第六章
266:一通の書類
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一瞬拗ねた表情を見せたメイであったが、すぐに真顔に戻って話を再開する。
「でも……その方に今後も許してもらえるかわからないのです。今日もそういうお話がありましたし……」
メイの言い方にオイゲンは首を傾げた。そのことで相談に来たのだろうか、とも考えた。
「僕はどうすればいいかな?」
「私にはわかりません。それを決められるのは……社長、だけですから」
「俺?! ですか……?」
そう言ってオイゲンは、普段絶対に使わない一人称を使ってしまったことに気付いた。
オイゲンがこの一人称を使うのは、非公式な場で友人と会話するときくらいである。そのときですら時々、なのだが。
「そうです、許してくださっているのは社長、なのですよ……」
そう言ってメイはここへ来てから初めてオイゲンと目を合わせた。
目を合わせるとなると、彼女は極端である。
自らの額がオイゲンのそれとぶつからんばかりに顔を近づけてきたのだ。
オイゲンは一瞬身体を引こうとしたが、その場に留まる。身体を引くと、メイを避けたと勘違いされかねないからだ。そうすれば彼女は自身の存在を否定したと解釈するかもしれない。
「しかし……僕はそんな昔にカワナさんのことを知っていた訳ではないですよ」
オイゲンは困惑したように答えた。
メイが一六歳のとき、ということは今から約八年前のことだ。
彼女がECN社に入社してからまだ五年弱だから、オイゲンが一六歳の時の彼女を知らないというのも無理はない。
「……これです」
メイは鞄から札入れを取り出し、一枚の書類を抜き出してオイゲンに手渡した。
この書類は水に濡れないようにするためか、ビニールの袋にたたんだ状態で丁寧に入れられている。
オイゲンは慎重に書類を取り出すと丁重にそれを開いた。
「これは……」
書類はECN社からの奨学金支給を認める承認書だった。
「書かれているサインは社長のものですよね?」
メイの指摘にオイゲンは承認書の左下にあるサイン欄を確認する。確かにサインはオイゲンのものであった。
それにしても……とオイゲンは思う。
たかが、というつもりはないが、奨学金の書類のサインくらいで「存在を許す」とは大袈裟というか、意識が過剰すぎる。
オイゲンは経営企画室にいた時代から奨学金支給申請を一部承認していた。
この手の書類には年間百数十枚程度サインをしていたから、個々の申請がどのようなものであったかいちいち覚えていない。
勿論、申請が適切なものであるか、記載内容に問題がないか、といった基本的なチェックは行っていた。だが、それは個々の申請内容を記憶していることを意味しない。
「確かにサインは僕のものです。しかし……」
「全て、お話しますね……」
そうしてメイは彼女が生まれ育った街からハモネスに移り住み、ECN社に入社した経緯を話し始めた。
メイの母親は学校の教師だった。
生徒同士のいさかいから彼女は生徒の親、学校、地域住民から責められることとなった。
彼女がもっとも痛手を受けたのは、本来彼女の話を聞いてもよい立場の学校が、一方的に彼女を責め立てたことだった。
逃げ場を失った彼女は絶望し、最終的に死を選んだ。死に自らの活路を見出したのかも知れない。
しかし、それで終わりではなかった。
行き場を失った怒りは命を絶った教師の一人娘に向いた。その娘とはもちろんメイのことである。
周りの怒りに居たたまれなくなったメイは、自分でも知らぬうちに住み慣れた街を飛び出した。
唯一の心のよりどころだった母親は既にこの世にない。
そして周りの人々は皆、自分の存在を拒否している。
(私が……存在を許されている場所は……ないんだ……)
街を飛び出したメイはあても無くあちこちを彷徨った。
うら若き女性が、あても無くふらふらと歩いていれば身の危険も訪れようものなのに、そのような危険な出来事には一つも遭遇しなかった。
彼女の瞳の色を見た人々が彼女を避けたからだ。
ある種の伝染病を疑ったからなのだが、彼女はそう考えられなかった。
(やっぱり……異質な、受け入れられない存在なんだ、私……)
彼女は自身のことを「存在を受け入れられない異質な存在」と考えたのだ。
いつしか彼女はハモネスのはずれにある海へ面した場所へとたどり着いた。
海岸線は岩場となっており、海面からは数十メートルの高さがあるようだった。
(このまま、人知れず果ててしまえばいい……)
彼女は、のろのろと岩場の方に向かって歩を進めようとした。
そのときに不意に後ろから肩を捕まれて呼び止められた。
ふり返ると、背後には何人かの職業学校の職員の姿があった。メイの知った顔もある。
メイがその場に立ちすくんでいると、一人の職員から彼女に一通の書類が手渡された。
これが先ほどメイがオイゲンに見せたECN社による奨学金の支給承認書であった。
(この世界に……私の存在を許してくれる場所があるの……?)
メイは書類の末尾にある「承認者」のサインを見た。
(これが……この方が、私の存在を認めてくれる……?)
オイゲンのサインは比較的読みやすい字であり、メイにも「オイゲン・イナ」という名前を読むことができた。
メイによれば彼女がECN社にいるのも、社長秘書を務めているのもオイゲンに存在を許されているからだということらしい。
現にオイゲンのことを「私が世界で唯一存在を許してもらっている場所」という言い方もしている。「場所」と言われて気分を害さないのはオイゲンの人柄だろう。
「でも……その方に今後も許してもらえるかわからないのです。今日もそういうお話がありましたし……」
メイの言い方にオイゲンは首を傾げた。そのことで相談に来たのだろうか、とも考えた。
「僕はどうすればいいかな?」
「私にはわかりません。それを決められるのは……社長、だけですから」
「俺?! ですか……?」
そう言ってオイゲンは、普段絶対に使わない一人称を使ってしまったことに気付いた。
オイゲンがこの一人称を使うのは、非公式な場で友人と会話するときくらいである。そのときですら時々、なのだが。
「そうです、許してくださっているのは社長、なのですよ……」
そう言ってメイはここへ来てから初めてオイゲンと目を合わせた。
目を合わせるとなると、彼女は極端である。
自らの額がオイゲンのそれとぶつからんばかりに顔を近づけてきたのだ。
オイゲンは一瞬身体を引こうとしたが、その場に留まる。身体を引くと、メイを避けたと勘違いされかねないからだ。そうすれば彼女は自身の存在を否定したと解釈するかもしれない。
「しかし……僕はそんな昔にカワナさんのことを知っていた訳ではないですよ」
オイゲンは困惑したように答えた。
メイが一六歳のとき、ということは今から約八年前のことだ。
彼女がECN社に入社してからまだ五年弱だから、オイゲンが一六歳の時の彼女を知らないというのも無理はない。
「……これです」
メイは鞄から札入れを取り出し、一枚の書類を抜き出してオイゲンに手渡した。
この書類は水に濡れないようにするためか、ビニールの袋にたたんだ状態で丁寧に入れられている。
オイゲンは慎重に書類を取り出すと丁重にそれを開いた。
「これは……」
書類はECN社からの奨学金支給を認める承認書だった。
「書かれているサインは社長のものですよね?」
メイの指摘にオイゲンは承認書の左下にあるサイン欄を確認する。確かにサインはオイゲンのものであった。
それにしても……とオイゲンは思う。
たかが、というつもりはないが、奨学金の書類のサインくらいで「存在を許す」とは大袈裟というか、意識が過剰すぎる。
オイゲンは経営企画室にいた時代から奨学金支給申請を一部承認していた。
この手の書類には年間百数十枚程度サインをしていたから、個々の申請がどのようなものであったかいちいち覚えていない。
勿論、申請が適切なものであるか、記載内容に問題がないか、といった基本的なチェックは行っていた。だが、それは個々の申請内容を記憶していることを意味しない。
「確かにサインは僕のものです。しかし……」
「全て、お話しますね……」
そうしてメイは彼女が生まれ育った街からハモネスに移り住み、ECN社に入社した経緯を話し始めた。
メイの母親は学校の教師だった。
生徒同士のいさかいから彼女は生徒の親、学校、地域住民から責められることとなった。
彼女がもっとも痛手を受けたのは、本来彼女の話を聞いてもよい立場の学校が、一方的に彼女を責め立てたことだった。
逃げ場を失った彼女は絶望し、最終的に死を選んだ。死に自らの活路を見出したのかも知れない。
しかし、それで終わりではなかった。
行き場を失った怒りは命を絶った教師の一人娘に向いた。その娘とはもちろんメイのことである。
周りの怒りに居たたまれなくなったメイは、自分でも知らぬうちに住み慣れた街を飛び出した。
唯一の心のよりどころだった母親は既にこの世にない。
そして周りの人々は皆、自分の存在を拒否している。
(私が……存在を許されている場所は……ないんだ……)
街を飛び出したメイはあても無くあちこちを彷徨った。
うら若き女性が、あても無くふらふらと歩いていれば身の危険も訪れようものなのに、そのような危険な出来事には一つも遭遇しなかった。
彼女の瞳の色を見た人々が彼女を避けたからだ。
ある種の伝染病を疑ったからなのだが、彼女はそう考えられなかった。
(やっぱり……異質な、受け入れられない存在なんだ、私……)
彼女は自身のことを「存在を受け入れられない異質な存在」と考えたのだ。
いつしか彼女はハモネスのはずれにある海へ面した場所へとたどり着いた。
海岸線は岩場となっており、海面からは数十メートルの高さがあるようだった。
(このまま、人知れず果ててしまえばいい……)
彼女は、のろのろと岩場の方に向かって歩を進めようとした。
そのときに不意に後ろから肩を捕まれて呼び止められた。
ふり返ると、背後には何人かの職業学校の職員の姿があった。メイの知った顔もある。
メイがその場に立ちすくんでいると、一人の職員から彼女に一通の書類が手渡された。
これが先ほどメイがオイゲンに見せたECN社による奨学金の支給承認書であった。
(この世界に……私の存在を許してくれる場所があるの……?)
メイは書類の末尾にある「承認者」のサインを見た。
(これが……この方が、私の存在を認めてくれる……?)
オイゲンのサインは比較的読みやすい字であり、メイにも「オイゲン・イナ」という名前を読むことができた。
メイによれば彼女がECN社にいるのも、社長秘書を務めているのもオイゲンに存在を許されているからだということらしい。
現にオイゲンのことを「私が世界で唯一存在を許してもらっている場所」という言い方もしている。「場所」と言われて気分を害さないのはオイゲンの人柄だろう。
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