ストランディング・ワールド(Stranding World) ~不時着した宇宙ステーションが拓いた地にて兄を探す~

空乃参三

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第二章

75:闇の底からの第一歩

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 ハモネス某所にあるこぎれいなアパートの一室……
 黒い長い髪を持つ若い女性が部屋の隅で膝を抱えるようにしてうずくまっている。
 それはあたかも胎児が母体の中に漂うような様子を連想させる。

 部屋は薄暗く、明かりはかろうじて小さいのが一つだけ点灯している。
 部屋の中はがらんとしていた。唯一、彼女のとなりにあるテーブルの上には栄養補助ビスケットの空箱が散乱しており、部屋の他のスペースとは対照的だ。
 彼女は栄養補助ビスケットと水だけでこの二ヶ月半、肉体の生を維持していた。

 部屋にいるのはECN社社長秘書のメイ・カワナであった。
 彼女はこの二ヶ月半のほとんどをこうして部屋の中でうずくまって過ごしていた。
 昼も夜もわからない。それどころか自分自身が今、世界に存在しているのかしていないのかすらもわからない、そんな状態だった。
 今日の日付はLH四九年二月五日なのだが、メイはそのことすらも把握できていなかった。

(この世界に私は存在を許されていないのだろうか……)
 この二ヶ月半、彼女はほとんどそのことだけを考えていた。
 自分の存在を消してしまいたいと思ったこともある。
 しかし、そのために身体を動かす気力も湧かなかった。
 彼女は今、かろうじて部屋の中に存在しているだけであった。
 既にその存在すら危うい。

 存在を許されるために彼女自身ができることなど何もない。彼女は常にそう考えていた。
 それどころか、自分の存在が害悪そのものではないか、とまで感じていたのである。

 社長秘書として、私は何をしてきたのだろうか……?
 通信は取れない……
 社長への面会者の取次ぎもできない……
 スケジュールだって管理できない……
 応対もできない……
 意見を求められても、的確な回答など何ひとつできない……

 メイは社長としてのオイゲンの苦悩を彼自身以上によく理解していた。
 彼女にその自覚は無かったのだが、切羽詰ったときに思考停止ができるオイゲンと異なり、彼女自身はどこまでも思考を続けることができたのだ。
 否、思考を停止することができなかったのだ。そのことが彼女自身を更に追い詰めていく。

 十万人を超えるECN社従業員の命運は社長であるオイゲン一人にかかっている。
 そうなるように仕向けられた結果ではあるのだが……
 オイゲン自身、どこか達観していて「なるようになるしかない」という気分なのだが、メイにその心情は理解できなかった。
 自分でもよく理由を理解していないのだが、とにかくオイゲンには現状から逃れて欲しいとメイは思っている。
 だが、そのための手段や能力を自身が持ち合わせていないことも痛感していた。

 私の存在は私の意見を取り入れてくれた人を苦しめているだけなのだ……
 私の居場所を認めてくれた人を傷つけてしまった。
 私は自分自身の手で居場所を壊してしまったのだ。
 その私が存在を許される場所なんて無いんだ……
 私なんて消されてしまえばいいんだ……

 メイは絶望的な気分で、ただうずくまっているだけだった。
 部屋に閉じこもった当初は、ただ涙を流すだけだった。
 しかし、いつの間にか涙も枯れ、自分自身がカラカラに干からびてしまった。
 それからは、ただ、部屋でうずくまっているだけ……

 突然テーブルの上の携帯端末が光った。
 しかし、彼女は身動き一つしない。
 会社から支給されている携帯端末は光った直後に震え、じりじりとテーブルの端の方に移動した後に下へと落ちた。
 そして、メイの足に当たって止まった。
 それでもメイは身動き一つしなかった。いや、できなかった。

 端末だって私を傷つけにきたんだ。
 これが端末でなくて、何か刃物だったら良かったかもしれない。

 時はゆっくりと流れ続けている。その歩みを止めることは決してない。
 しかし、この部屋の中は時間が止まっているかのようだった。
 それでも朝は来る。

 サッシの隙間から光が差し込み、朝が来たことを告げていた。
 メイは無意識のうちに視線を光の方に少しだけ動かした。視線を動かしたのは何時間ぶりだろうか?

 彼女の目の焦点は未だ定まっていない
 その視線の先では、光の中に携帯端末が浮かびあがっている……
 果たして彼女の目に、その様子はどの程度明らかに写っているのだろうか?

 彼女は何かにすがるように恐る恐る端末を手にした。自分の意思で身体を動かしたのは何時間ぶりだろうか?

 彼女は手にした端末をゆっくりと開いていく……
 弱弱しい動きではあるが、端末が開かれ、間違いなく彼女はその画面に視線を落とした。

 数分後、彼女は自分自身と携帯端末を抱きしめるように両腕を交差させた。
 そして、携帯端末をテーブルの上に大事そうに置き、ゆっくりと立ち上がった。

 バスルームに向かい、シャワーを浴びる。
 彼女の動きに力はまだ戻っていない。しかし、彼女は自分の意思で動き始めた。
 スーツに着替え、上にコートを羽織り、野球帽を深めにかぶってサングラスをかける。これは寒い時期のメイの標準的な出勤スタイルである。

 メイはテーブルの上の携帯端末を手に取った。そして、それを大切そうに左胸のポケットにしまい込んだ。
 こうして彼女は二ヶ月半引きこもっていた部屋を後にした。
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