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8巻
8-3
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「なら、亮くんにとっても、ユキ姉にとってもこの方が良かったってことか……」
「そういうことだな、まさに結果オーライじゃねえか」
亮がそう言って笑いかけると、恵梨花もつられるように微笑む。
「ふふっ、そうだね」
「あー、でも、何で俺にまで内緒にしたんだ? お姉さんのこと。ああ、別に問い詰めるつもりじゃねえから」
「ああ、うん。ごめんね、本当に。理由はお母さんやユキ姉に事前に教えなかったのと同じ、かな」
「……つまり?」
「うん。事前に亮くんにユキ姉のこと話してたら、亮くんにとって今日初めて会うユキ姉は私の『姉』というより、あの日亮くんが助けた『あの子』になっちゃうかな? って思って」
「……ああ、なるほどな」
「それに、知らない方が亮くんも気負わなくて済むし会いやすいんじゃないかと思って」
「それは……そうだな。ああ、確かにそうだ」
非常に納得した。前に助けたことのある自分に非常に感謝している女の子に会いに行くより、恵梨花の姉に会う方が亮にとっては気が楽だ。
「まあ、でも亮くんからしたら驚かされる訳だしね……ごめんね?」
「もういいって……ああ、もうこの件で謝るのもお礼言ってくるのもなし、な?」
散々聞き飽きてげんなりした亮がそう言うと、恵梨花は目を丸くしてから微笑ましいような、慈愛溢れるような笑みを亮に向けた。
「ふふっ、うん。じゃあ――今日は本当にお疲れ様、亮くん」
恵梨花の、恐らく恵梨花の本質そのものだと思わされるその笑みに、亮は息を呑んで目が離せなくなった。それでいて、亮はこの家に来てから抜けきれなかった最低限の緊張が体から抜けていくのを自覚し、代わりに何か別の満足感が体を満たすのを心地好く感じた。だが、それは同時に、今日起きたことに対する疲労感を覚えさせるものでもあった。つまり、ここに来て亮は、考えないようにしていた緊張からの疲れが、ドッと押し寄せてきたのを覚えたのである。
「……亮くん?」
少し呆けて恵梨花の顔を眺めていた亮に恵梨花が小首を傾げる。そこで亮は何となくそうしたくなって、体から力を抜きながら、恵梨花の顔に近づくように体を前に傾け――
「え、亮くん?」
戸惑う恵梨花の声を耳にしながら亮はもたれるように、恵梨花の肩に顎を乗せた。
「――ああ、疲れた」
そう言いながら亮は鼻にかかる恵梨花の髪から伝わる匂いを胸に吸い、恵梨花が立っていられる程度に、自分を支えられる程度までさらに体から力を抜いた。
恵梨花はそんな風に自分に体重を預けた亮に目をパチパチとさせてから、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして慈愛のこもった笑みを浮かべ、亮の背中へ手を回し、抱き込むように亮の頭へ手を伸ばした。
「うん――本当にお疲れ様だったよね、今日の亮くんは――よしよし」
そう言って恵梨花は優しく慈しむように亮の後頭部を撫でた。
(……頭撫でられるのって、気持ちいいんだな)
目を閉じながら亮は、己を撫でる恵梨花の柔らかい手の心地好さに、体が弛緩してくるのを感じた。
そうやって疲労感が少しずつ抜けていくと同時に、亮は物足りなさを感じて、恵梨花の背に手を回して力一杯――は不味いので、ほどほどの強さで恵梨花を抱きしめた。
「⁉ ――んんっ……」
突然の動きで一瞬驚いてビクッとした恵梨花だったが、すぐに体から力を抜いて亮に身を任せた。
その際にどこか気持ち良さそうな満足そうな声が聞こえて、亮はドキリとする。だが、それよりもさらに香ってくる恵梨花の匂いと、抱きしめて伝わってくる心地好い柔らかさに、亮は夢中になった。
無意識の内に徐々に手に力が入っていくが、恵梨花は文句を言わず受け入れ、どころかまだ亮の頭を撫で続けている。そして手の動きが止むと恵梨花は少し顔を傾けて、亮の頬にチュッと音を立てた。
驚いて亮が恵梨花の肩から顔を上げると、恵梨花が得意気に、でも少し恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
「お礼も謝るのもダメなんだよね?」
その言葉の意味することを理解するのに、亮は少しの時間をかけた。
(……つまり、今のはお礼代わりのキスってことか)
亮の顔に理解の色が浮かぶと、恵梨花はクスリと微笑んだ。
「今日は本当に――」
そこまで言って今度は先ほどとは反対の頬にキスをして――
「ユキ姉を助けてくれて――、お父さんの腰治してくれて――、色々驚かせて――」
言いながら『ありがとう』や『ごめんなさい』が来ると思われるところの度に頬に口づけされる。
亮の頭がクラクラしてきたところで、恵梨花が頬から離れた。
「――ふふっ、こんなお礼されるのは嫌じゃない?」
その時の恵梨花の、慈愛いっぱいでありながら、妖艶さも含んだ矛盾したような笑みに、亮は目を見開いて息を呑んだ。
「――いや、まったく嫌にならねえな。けど――」
なんとか口を開いて出た言葉は本音だが、亮が無意識に感じていた物足りなさも出たのだろう。
それを察した様子の恵梨花が、さらに妖艶さを増した笑みを浮かべると、目を閉じて背伸びし、今度は頬でなく唇へキスをした。数秒してから呆気に取られた亮から恵梨花が唇を離す。
「――けど、物足りなかった?」
悪戯っぽく問いかける恵梨花の魅力に、亮は吸い込まれるような感覚を覚えた。
「あ、ああ……」
「じゃあ、今のは?」
「そ、そりゃあ……ま、満足しました」
亮が口ごもりつつ何故か丁寧に答えると、恵梨花はクスリと微笑んで、亮の後頭部に回していた手を亮の両頬に添えて、また背伸びして亮の唇にそっと口づけした。それからまた数秒して離れた恵梨花は、顔を赤らめて瞳は熱っぽく潤ませた状態で、亮の好きな満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ、だーい好きっ、亮くんっ」
こ の 至 近 距 離 で、 そ れ は 反 則 だ。
亮の脳裏に浮かんだのはそんな文字で、そして亮はなんとか口を開いて「俺も――」と返そうとした。したのだが、亮はフラフラと目の前にある恵梨花の唇に吸い寄せられるようになって、気づけば自分の唇を恵梨花のそれに強く押し当てていた。
「んん――! っふ……」
そんな亮の逆襲に恵梨花は少し驚いたが、すぐに落ち着いたように亮の唇を受け入れた。
体を抱きしめる手にさらに力が入っていきそうになったが、無意識のうちにセーブをかけるように止まる。代わりに、唇に当てる強さが強くなった。
「んん――っ、ん――」
恵梨花の口から声にならない声が漏れる。決して嫌がっていないそれが耳に入って、亮の意識がわずかに浮上する。そして名残惜しく、ゆっくり離れる。
「はあっ……」
恵梨花も名残惜しそうに、息継ぎも含んだ声を出す。その時に出された甘い、いや甘過ぎる吐息はモロに亮の鼻にかかって、浮上しかけていた亮の意識を底まで沈み込ませ――
「んん⁉ ――んんっ……」
気づけば亮は再び恵梨花の唇に自分の唇を強く押し当てていた。
恵梨花は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに閉じて、再び亮に身を委ねる。
そして亮は一分は経ってないと思われるタイミングでまた離れるが、恵梨花の潤んだ瞳が見えたから、鼻にまた甘い吐息がかかったから、真っ赤になった恵梨花が可愛かったから、漏れ出た声が耳に痺れたから、至近距離で見た恵梨花が可愛過ぎたから――とそのような様々な理由のため、離れてもすぐにキスを再開してしまうというループを何度もしてしまった。恵梨花の唇の柔らかさと、そこからダイレクトに伝う甘い吐息にはまるで中毒性があるように感じて、止められず、やめることが出来なかった。
互いの口から漏れ出る吐息に混じって、身じろぎした際の衣擦れの音が、時計の時を刻む音と共に部屋に静かに響く。その間、恵梨花はまったく抵抗せず受け入れていたが、次第に自分で立っていられる自信がなくなってきたからなのか、亮の頬に当てていた手を首に回してしがみつくように抱きついてきた。そのため――
――ムギュッ。
と、亮の厚い胸板に触れたその質量に、柔らかさに、亮は『理性』と書かれたゼッケンをつけた天使が飛び去っていくのを幻視した。ちなみに天使は何故か咲――恵梨花の親友の一人――だった。
(あ、ヤバい)
そう思った瞬間である。
――コンコン。
「――っ⁉」
扉からノックの音が聞こえて、二人は目を見開いて飛び上がらんばかりに驚きながら、お互いの体からバッと離れた。
「ハナー? お茶持ってきたわ。入るわよー」
そんな雪奈の声が扉越しに聞こえてきて、数秒の時間が経ってから扉が開かれる。
「それとお母さんが、亮さんが物足りなさそうだったからって、追加のサンドイッチも――」
そして入ってきた雪奈が見たのは、未だ座ることもなく立ったままで顔を赤くして、微妙に距離をとって焦ったような様子の二人だった。
「……もしかして、お邪魔だった……? ごめんね」
「そ、そんなことないから! ねえ、亮くん⁉」
「あ、ああ、そうだな」
どう見ても何かあった二人に、雪奈は少し気まずそうにしている。
「う、うん、そっか……えーっと、と、とりあえず、入るね?」
「ど、どうぞ、入って……あ! 亮くんはこっちに座って?」
「あ、ああ。ここに座るんだな?」
一々言わなくてもいいことを確認するように口にして、亮は恵梨花が指し示したクッションの上に座った。恵梨花と雪奈もローテーブルを囲むように腰を落とす。
「えーっと、亮さんはまたアイスコーヒーでよかったですか? アイスティーか麦茶がいいなら、持ってきますけど」
「いや、いい。ありがとう」
亮は差し出されたコップを受け取ると、頭を冷やすために早速とばかりにストローを口に含んだ。その際に、先ほどまで自分の唇にあった感触を思い出しそうになって、慌てて頭を振ってそれを追い出した。
「……どうしたんですか、亮さん」
「いや、何でもない……」
「? そうですか……」
雪奈に答えた亮が恵梨花を見てみれば、彼女もアイスティーのストローを口に含んで顔を赤くしている。亮と同じようなことを想起したのではないだろうか。
「それとさっきも言いましたけど、まだお腹に入るならこのサンドイッチとお菓子もどうぞ……さっきの量じゃやっぱり足りてなかったんですか?」
「ははっ、バレてたのか。美味かったから、もっと食べたいと思っていたんだ」
「んー、なるほど。あの量が瞬く間に消えたことが、信じられなかったから、わかりませんでした」
うんうんと頷く雪奈の前にも、恵梨花のとは別のアイスティーがあり、恵梨花は今それに気づいたようだ。
「ん? ユキ姉の分もあるの?」
「あはは、せっかくだし、お邪魔させてもらいたいなーって思って。ダメ?」
両手を合わせ片目を瞑って可愛らしくお願いしてくる姉に、恵梨花は複雑そうな顔をしているが、亮は理性のストッパー的な役割を期待して賛成した。今はちょっと頭を冷やしたかったのである。
「俺は構わねえよ。いてもらおうぜ、恵梨花」
「ん、亮くんがそう言うなら」
恵梨花も亮の言葉から意味することを察したようだ。
「やったあ。ありがとう、ハナ、亮さん」
そうやって心から嬉しそうにする雪奈に、恵梨花は仕方なさそうに苦笑する。
亮も苦笑してから、目の前にある美味しそうなハムサンドに手を伸ばして齧る。
(さっきも思ったけど、本当やたらと口に合うんだよな……恵梨花の弁当を食べ慣れたせいか?)
内心で首を傾げながら、亮は夕飯までの繋ぎとして、たっぷりあるサンドイッチを次々と頬張るのであった。
「あれ、もうこんな時間か。これ以上は二人の邪魔しちゃ悪いし、この辺で私は失礼するね」
三人で談笑し少し時間が経ったところで、雪奈が名残惜しそうにしながらそう言って、恵梨花の部屋から退室した。
姉を含んだ三人での会話は、主に亮のことを聞きたがった雪奈の希望によって、亮が話題になった。
恵梨花も、亮が学校では素を出さず、亮について色々と話せる友人は少ないため、姉の調子に乗せられて次々と、亮本人を前にしながらも、亮のことを話題に大いに盛り上がった。話している内に、雪奈が徐々に亮との距離を詰めていき、終いにはピッタリと肩がくっついていた。恵梨花も負けじと亮にくっつき、そうやって姉妹に挟まれた亮は非常に居心地が悪そうであったが、話自体は盛り上がったのである。
亮と話している時の雪奈は非常に嬉しそうで幸せそうで、ボディタッチも多かったが、妹である恵梨花にはわかる。わかってしまう。あれは無自覚天然でやっていることを。
(だから――だから――! 文句が言えない‼)
恵梨花は思わず頭を抱えそうになった。牽制しても多分無意味であろう。何でそういうことを言ってくるのだろうと雪奈が不思議がるだけで終わる未来が見えて仕方ない。
思わずため息を吐くと、どこかホッとしたような亮がアイスコーヒーをすすっていた。
そんな亮を思わずジト目で見てしまい、気づいた亮が動揺したように肩を揺らした。
「ど、どうした、恵梨花?」
「……亮くん、ユキ姉にくっつかれて、鼻の下伸ばしてたよね」
「ぶほっ」
亮が口に咥えていたストローが逆噴射した。
「ユキ姉、美人だもんね。仕方ないよね」
姉に言っても仕方ない、言えない不満がつい亮に対して向かってしまった。亮は悪くないとわかっているのにだ。
自己嫌悪に陥っていると、口元を拭った亮が困ったように眉をひそめた。
「いや、そう言われてもな……仕方ねえだろ」
「何が仕方ないの――⁉」
嫉妬から思わず声が荒くなった恵梨花に、亮は頭をガシガシと掻きながら言ったのである。
「いや、だって、あんなに恵梨花そっくりじゃ仕方ねえだろ。恵梨花じゃないとわかっててもな……笑ってる時だって、恵梨花に似てて可愛いって思っちまうし……」
「あ……」
亮の言葉の意味することがわかって恵梨花は顔を赤くして、俯いた。
自分にそっくりだから無下になんて出来ないし、自分にそっくりだから鼻の下が伸びる。自分の笑顔と似ているから思わず見てしまうと、亮はそう言っているのである。
つまり、つい、ではあるが責めたつもりだった恵梨花は盛大に自爆したのだ。
「やっぱり同じ家に住んでて姉妹だからか? いい匂いなのも同じだし、恵梨花と一緒に横に並ばれたら恵梨花が二人並んだように錯覚してしまう時だってあるし、二年後の恵梨花はこうなるのかなんて――」
「も、もういいから! ごめんさない! 私が悪かったから!」
パタパタと両手を振って亮の追撃を止めると、亮は首を傾げながら口を動かすのをやめる。
「ご、ごめんね、本当に。亮くんは悪くないってわかってたんだけど――」
「いや、まあ、わかってくれたなら」
ホッとした亮が気を取り直すようにアイスコーヒーを飲み干すと、「くあ」っと欠伸をした。それを見て、ふと思いついた恵梨花は時計に目をやって、夕飯までまだ時間があるのを確認した。
「眠くなった? ご飯までまだ時間あるし、ちょっとお昼寝する?」
そう提案すると、亮は少し悩むように眉根を寄せる。
「んー、でも、そうすると恵梨花はどうするんだ? あ、恵梨花の家だし、別にすることなんていくらでもあるか」
亮の自分を気遣うそんな言葉に恵梨花はクスリとして、立ち上がる。
「ふふっ、私はね――」
言いながら、恵梨花はベッドに横向きに腰をかけ足を伸ばした。そして、自分の太腿をポンポンと叩いて亮を膝枕に誘う。
「――どうぞ? 亮くん」
「……いいのか?」
ポカンとしてからすぐに立ち上がった亮は恵梨花の太腿に釘付けになって、フラフラと吸い寄せられるようにやって来る。
「――おいで?」
恵梨花がニコッと再度誘いをかけると、亮はベッドに足を乗せてマットを揺らし、少し躊躇いながら恵梨花の太腿に頭を乗せて寝転んだ。
「――はああああー……」
すると亮が目を閉じて風呂に入った時のような声を出したので、恵梨花は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ、何なの、その声」
「いや、これはヤバい。人を堕落させるのに十分なやつだ」
「それは大変。亮くんを堕落させちゃったら、私がしっかり面倒見ないと」
「そこは堕落させないじゃねえのかよ」
「だって、亮くん、面倒くさがりだけど、ここぞという時はしっかりしてるし、たまには私がお世話いっぱいしたいな」
言いながら恵梨花は亮の髪を梳くように撫でる。
「……そうやって男は、女にダメにされていくんだな……」
気持ち良さそうにしている亮を見て、恵梨花は嬉しくなって微笑んだ。
「亮くんがダメになったら、私がちゃんとお世話してあげるから安心して?」
「くっはははっ、そうか」
愉快そうに亮が笑う。その勇ましく勝ち気で男気を感じさせる笑みを見て、亮が自らダメになるようなことは絶対にしないだろうと、不意に確信させられた。それがどこか残念でもあり、嬉しくもあった。
「ふふっ――本当に、大好きだよ、亮くん」
そこで亮は閉じていた目を開いて、恵梨花と目を合わせた。
「――知ってる」
それを言った時の亮は、一瞬不敵な笑みを浮かべていたが、言ってから恥ずかしくなったようで、顔を赤くさせた。
「あははは!」
思わず声を上げて笑ってしまった恵梨花に、亮は身の置き所がないような顔になったが、やがて噴き出して恵梨花と一緒に声を立てて笑ったのである。
「ふふっ、もう――本当に大好きっ、亮くんっ」
「ははっ――ああ、俺も」
そしてお互いに笑い合う。
恵梨花はそんな亮が愛おしくて仕方なかった。付き合い始めた時も、昨日も、これ以上その気持ちが強くなるなんて思えなかったのに、日が経つ毎に裏切られ続けている。それがまた嬉しくて仕方ない。
亮もそうなんだろうか、いや、きっと同じだと思える自分が何て幸せなんだろうと思う時がある。こんなに幸せでいいんだろうか、とも思う。
「ずっと一緒にいようね――亮くん」
気持ちが募るままに動いた口から出た言葉に、亮は眉をひそめた。
「何当たり前のこと言ってんだ、逃がしゃしねえから覚悟してろ」
「ふふっ――うん……亮くんの方こそ逃がさないから覚悟してね?」
そう恵梨花が言い返すと、亮はまた愉快そうに笑い、恵梨花も一緒になって声を上げて笑う。
それからは二人は無理に口を開かず、緩やかに心地の好い時間が流れるのを楽しんだ。そして亮の目が眠そうにトロンとした時、ベッドの枕脇に置いていた恵梨花のスマホが着信音を鳴らした。
「あっ、電話だ。亮くん、ちょっとごめん――」
言いながら恵梨花は亮の頭の向こうにある携帯へと、腰を折って手を伸ばした。
「――っ‼」
すると亮の肩がビクッと揺れたが、恵梨花は手に取ったスマホの液晶に表示された発信者の名前に気をとられて、小首を傾げていた。
「香……なんだろ。ごめん、亮くん。ちょっと電話取るね? ――もしもし、香?」
電話相手は中学の時に仲の良かった友達だった。最近はたまにしかメッセージのやり取りをしておらず、いきなり電話がかかってきたのが意外だったのだ。
『もしもし、恵梨花ー? 今、大丈夫ー?』
「うん……大丈夫だよ」
言いながらチラッと亮に目をやると、亮は何故か赤くなった顔を両手で押さえていたが、それでも恵梨花の視線に気づいたのだろう、無言でコクコクと頷いていた。
『お邪魔だったら、ごめんねー? 今、彼氏と一緒なんでしょ?』
「え、何で知って――」
『あははっ、実は今日の昼頃、駅前で見かけてさあ』
「あ、そうなんだ。えーと、一緒だけど、どうしたの?」
『うん、恵梨花がついに付き合いを決めた彼氏が気になってさー、今度一緒に遊ばない?』
「うーんと、それって私と亮く――私の彼と香とでって言ってるの?」
『あははっ、それじゃ私完全にお邪魔虫じゃーん。だから私の彼と、四人で! つまりダブルデートしない? ってこと! どう?』
「だ、ダブルデート……?」
『うんうん、いいじゃん、やろうよ! ねえ、恵梨花の彼そこにいるんでしょ? 聞いてみてよ』
「うーん、わかった。聞いてみるけど、彼が嫌がったら諦めてね?」
『えー、私久しぶりに恵梨花とも遊びたいし、恵梨花の彼にも会ってみたいしー何とか説得してよー』
「無理。彼忙しい人だから、無理って言われたら諦めて」
香と遊びに行くのは構わないのだが、亮も一緒となると話は違う。それに恵梨花の勘だと、亮はこういうことは嫌がるというか、面倒くさがるに違いない。
『んーじゃあ、とりあえず聞いてみてよ、恵梨花の彼に』
「はあ、はいはい、わかったから、ちょっと待ってて――」
そう言って恵梨花はスマホの下部のマイクに当たる部分に手を当てて、駄目元というか、無理なのを確認するために聞いてみた。
「ねえ、亮くん、私の中学の時の友達がダブルデートしたいって言ってるんだけど――?」
すると亮は目に手を当てたまま、どこか上の空で答えた。
「え? あ、ああ、いいんじゃ、ねえか?」
「うん、やっぱり嫌だよね……――え? いいの⁉ ダブルデートだよ⁉」
余りにも意外だったことに驚いて恵梨花は聞き直した。
「お、おう、任せろ。どんと来いだ」
「そ、そうなの? えーと、じゃあ、いいって返事するよ……?」
「オールオッケーだ。何も問題ない」
「う、うん? じゃあ――もしもし、香?」
何か亮の様子がおかしい気がしたが、二度聞き返しても返事はOKだったのだ。なら、構わないのだろう。それならそれで恵梨花の心は弾んだ。素の亮を知っている友人は学校では限られている。中学の友達なら素の亮を紹介して自慢できる。こちらも自慢されるだろうが、それはおあいこだ。
『はいはーい、あなたの香ちゃんですよー』
「はいはい。あのね、彼が構わないって」
『おおー‼ やった。じゃあ、またメッセ送るから、それで日程決めよ!』
「うん、わかった。それじゃあね」
『はーい、バイバーイ』
明るい声が聞こえなくなってから恵梨花は耳からスマホを下ろしてその画面を消した。
「ごめんね、亮くん。寝そうになってた時に――」
そこまで言ってから恵梨花は口を閉じた。何故なら、亮が寝息を立てているのに気づいたからだ。
「――ふふっ。初めてのデートの時思い出すな」
亮のあどけない寝顔を目にして、恵梨花の口から思わず微笑が零れた。
こうしていると普通の、いや、普通に格好いい男の子である。
(さっきは何か様子がおかしかったような気がしたけど、何だったんだろう……?)
恵梨花は自分の胸部にある重量兵器が亮の顔にクリティカルヒットしたことに気づいていない。
「まあ、いいか……今日は本当にお疲れ様、亮くん」
そっと呟いて、亮の頭を優しく撫でる。
そう、亮は本当に疲れていたのだろう。何せ、母と姉という、事前に聞いていた限りでは自分に友好的な人とだけ会うつもりが、会ってはいけないと言われていた父と兄にまで遭遇したのだから。
その後に起こったことはもう余り考えたくない。それを亮は緊張しながらも、正面から向き合って対応してくれたのだ。それも相手に気を使う形でだ。いくら亮が超人的な体力を持っていても、これはまた種類が違う。疲れるのは当たり前だ。だからだろう――
「そういうことだな、まさに結果オーライじゃねえか」
亮がそう言って笑いかけると、恵梨花もつられるように微笑む。
「ふふっ、そうだね」
「あー、でも、何で俺にまで内緒にしたんだ? お姉さんのこと。ああ、別に問い詰めるつもりじゃねえから」
「ああ、うん。ごめんね、本当に。理由はお母さんやユキ姉に事前に教えなかったのと同じ、かな」
「……つまり?」
「うん。事前に亮くんにユキ姉のこと話してたら、亮くんにとって今日初めて会うユキ姉は私の『姉』というより、あの日亮くんが助けた『あの子』になっちゃうかな? って思って」
「……ああ、なるほどな」
「それに、知らない方が亮くんも気負わなくて済むし会いやすいんじゃないかと思って」
「それは……そうだな。ああ、確かにそうだ」
非常に納得した。前に助けたことのある自分に非常に感謝している女の子に会いに行くより、恵梨花の姉に会う方が亮にとっては気が楽だ。
「まあ、でも亮くんからしたら驚かされる訳だしね……ごめんね?」
「もういいって……ああ、もうこの件で謝るのもお礼言ってくるのもなし、な?」
散々聞き飽きてげんなりした亮がそう言うと、恵梨花は目を丸くしてから微笑ましいような、慈愛溢れるような笑みを亮に向けた。
「ふふっ、うん。じゃあ――今日は本当にお疲れ様、亮くん」
恵梨花の、恐らく恵梨花の本質そのものだと思わされるその笑みに、亮は息を呑んで目が離せなくなった。それでいて、亮はこの家に来てから抜けきれなかった最低限の緊張が体から抜けていくのを自覚し、代わりに何か別の満足感が体を満たすのを心地好く感じた。だが、それは同時に、今日起きたことに対する疲労感を覚えさせるものでもあった。つまり、ここに来て亮は、考えないようにしていた緊張からの疲れが、ドッと押し寄せてきたのを覚えたのである。
「……亮くん?」
少し呆けて恵梨花の顔を眺めていた亮に恵梨花が小首を傾げる。そこで亮は何となくそうしたくなって、体から力を抜きながら、恵梨花の顔に近づくように体を前に傾け――
「え、亮くん?」
戸惑う恵梨花の声を耳にしながら亮はもたれるように、恵梨花の肩に顎を乗せた。
「――ああ、疲れた」
そう言いながら亮は鼻にかかる恵梨花の髪から伝わる匂いを胸に吸い、恵梨花が立っていられる程度に、自分を支えられる程度までさらに体から力を抜いた。
恵梨花はそんな風に自分に体重を預けた亮に目をパチパチとさせてから、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして慈愛のこもった笑みを浮かべ、亮の背中へ手を回し、抱き込むように亮の頭へ手を伸ばした。
「うん――本当にお疲れ様だったよね、今日の亮くんは――よしよし」
そう言って恵梨花は優しく慈しむように亮の後頭部を撫でた。
(……頭撫でられるのって、気持ちいいんだな)
目を閉じながら亮は、己を撫でる恵梨花の柔らかい手の心地好さに、体が弛緩してくるのを感じた。
そうやって疲労感が少しずつ抜けていくと同時に、亮は物足りなさを感じて、恵梨花の背に手を回して力一杯――は不味いので、ほどほどの強さで恵梨花を抱きしめた。
「⁉ ――んんっ……」
突然の動きで一瞬驚いてビクッとした恵梨花だったが、すぐに体から力を抜いて亮に身を任せた。
その際にどこか気持ち良さそうな満足そうな声が聞こえて、亮はドキリとする。だが、それよりもさらに香ってくる恵梨花の匂いと、抱きしめて伝わってくる心地好い柔らかさに、亮は夢中になった。
無意識の内に徐々に手に力が入っていくが、恵梨花は文句を言わず受け入れ、どころかまだ亮の頭を撫で続けている。そして手の動きが止むと恵梨花は少し顔を傾けて、亮の頬にチュッと音を立てた。
驚いて亮が恵梨花の肩から顔を上げると、恵梨花が得意気に、でも少し恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
「お礼も謝るのもダメなんだよね?」
その言葉の意味することを理解するのに、亮は少しの時間をかけた。
(……つまり、今のはお礼代わりのキスってことか)
亮の顔に理解の色が浮かぶと、恵梨花はクスリと微笑んだ。
「今日は本当に――」
そこまで言って今度は先ほどとは反対の頬にキスをして――
「ユキ姉を助けてくれて――、お父さんの腰治してくれて――、色々驚かせて――」
言いながら『ありがとう』や『ごめんなさい』が来ると思われるところの度に頬に口づけされる。
亮の頭がクラクラしてきたところで、恵梨花が頬から離れた。
「――ふふっ、こんなお礼されるのは嫌じゃない?」
その時の恵梨花の、慈愛いっぱいでありながら、妖艶さも含んだ矛盾したような笑みに、亮は目を見開いて息を呑んだ。
「――いや、まったく嫌にならねえな。けど――」
なんとか口を開いて出た言葉は本音だが、亮が無意識に感じていた物足りなさも出たのだろう。
それを察した様子の恵梨花が、さらに妖艶さを増した笑みを浮かべると、目を閉じて背伸びし、今度は頬でなく唇へキスをした。数秒してから呆気に取られた亮から恵梨花が唇を離す。
「――けど、物足りなかった?」
悪戯っぽく問いかける恵梨花の魅力に、亮は吸い込まれるような感覚を覚えた。
「あ、ああ……」
「じゃあ、今のは?」
「そ、そりゃあ……ま、満足しました」
亮が口ごもりつつ何故か丁寧に答えると、恵梨花はクスリと微笑んで、亮の後頭部に回していた手を亮の両頬に添えて、また背伸びして亮の唇にそっと口づけした。それからまた数秒して離れた恵梨花は、顔を赤らめて瞳は熱っぽく潤ませた状態で、亮の好きな満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ、だーい好きっ、亮くんっ」
こ の 至 近 距 離 で、 そ れ は 反 則 だ。
亮の脳裏に浮かんだのはそんな文字で、そして亮はなんとか口を開いて「俺も――」と返そうとした。したのだが、亮はフラフラと目の前にある恵梨花の唇に吸い寄せられるようになって、気づけば自分の唇を恵梨花のそれに強く押し当てていた。
「んん――! っふ……」
そんな亮の逆襲に恵梨花は少し驚いたが、すぐに落ち着いたように亮の唇を受け入れた。
体を抱きしめる手にさらに力が入っていきそうになったが、無意識のうちにセーブをかけるように止まる。代わりに、唇に当てる強さが強くなった。
「んん――っ、ん――」
恵梨花の口から声にならない声が漏れる。決して嫌がっていないそれが耳に入って、亮の意識がわずかに浮上する。そして名残惜しく、ゆっくり離れる。
「はあっ……」
恵梨花も名残惜しそうに、息継ぎも含んだ声を出す。その時に出された甘い、いや甘過ぎる吐息はモロに亮の鼻にかかって、浮上しかけていた亮の意識を底まで沈み込ませ――
「んん⁉ ――んんっ……」
気づけば亮は再び恵梨花の唇に自分の唇を強く押し当てていた。
恵梨花は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに閉じて、再び亮に身を委ねる。
そして亮は一分は経ってないと思われるタイミングでまた離れるが、恵梨花の潤んだ瞳が見えたから、鼻にまた甘い吐息がかかったから、真っ赤になった恵梨花が可愛かったから、漏れ出た声が耳に痺れたから、至近距離で見た恵梨花が可愛過ぎたから――とそのような様々な理由のため、離れてもすぐにキスを再開してしまうというループを何度もしてしまった。恵梨花の唇の柔らかさと、そこからダイレクトに伝う甘い吐息にはまるで中毒性があるように感じて、止められず、やめることが出来なかった。
互いの口から漏れ出る吐息に混じって、身じろぎした際の衣擦れの音が、時計の時を刻む音と共に部屋に静かに響く。その間、恵梨花はまったく抵抗せず受け入れていたが、次第に自分で立っていられる自信がなくなってきたからなのか、亮の頬に当てていた手を首に回してしがみつくように抱きついてきた。そのため――
――ムギュッ。
と、亮の厚い胸板に触れたその質量に、柔らかさに、亮は『理性』と書かれたゼッケンをつけた天使が飛び去っていくのを幻視した。ちなみに天使は何故か咲――恵梨花の親友の一人――だった。
(あ、ヤバい)
そう思った瞬間である。
――コンコン。
「――っ⁉」
扉からノックの音が聞こえて、二人は目を見開いて飛び上がらんばかりに驚きながら、お互いの体からバッと離れた。
「ハナー? お茶持ってきたわ。入るわよー」
そんな雪奈の声が扉越しに聞こえてきて、数秒の時間が経ってから扉が開かれる。
「それとお母さんが、亮さんが物足りなさそうだったからって、追加のサンドイッチも――」
そして入ってきた雪奈が見たのは、未だ座ることもなく立ったままで顔を赤くして、微妙に距離をとって焦ったような様子の二人だった。
「……もしかして、お邪魔だった……? ごめんね」
「そ、そんなことないから! ねえ、亮くん⁉」
「あ、ああ、そうだな」
どう見ても何かあった二人に、雪奈は少し気まずそうにしている。
「う、うん、そっか……えーっと、と、とりあえず、入るね?」
「ど、どうぞ、入って……あ! 亮くんはこっちに座って?」
「あ、ああ。ここに座るんだな?」
一々言わなくてもいいことを確認するように口にして、亮は恵梨花が指し示したクッションの上に座った。恵梨花と雪奈もローテーブルを囲むように腰を落とす。
「えーっと、亮さんはまたアイスコーヒーでよかったですか? アイスティーか麦茶がいいなら、持ってきますけど」
「いや、いい。ありがとう」
亮は差し出されたコップを受け取ると、頭を冷やすために早速とばかりにストローを口に含んだ。その際に、先ほどまで自分の唇にあった感触を思い出しそうになって、慌てて頭を振ってそれを追い出した。
「……どうしたんですか、亮さん」
「いや、何でもない……」
「? そうですか……」
雪奈に答えた亮が恵梨花を見てみれば、彼女もアイスティーのストローを口に含んで顔を赤くしている。亮と同じようなことを想起したのではないだろうか。
「それとさっきも言いましたけど、まだお腹に入るならこのサンドイッチとお菓子もどうぞ……さっきの量じゃやっぱり足りてなかったんですか?」
「ははっ、バレてたのか。美味かったから、もっと食べたいと思っていたんだ」
「んー、なるほど。あの量が瞬く間に消えたことが、信じられなかったから、わかりませんでした」
うんうんと頷く雪奈の前にも、恵梨花のとは別のアイスティーがあり、恵梨花は今それに気づいたようだ。
「ん? ユキ姉の分もあるの?」
「あはは、せっかくだし、お邪魔させてもらいたいなーって思って。ダメ?」
両手を合わせ片目を瞑って可愛らしくお願いしてくる姉に、恵梨花は複雑そうな顔をしているが、亮は理性のストッパー的な役割を期待して賛成した。今はちょっと頭を冷やしたかったのである。
「俺は構わねえよ。いてもらおうぜ、恵梨花」
「ん、亮くんがそう言うなら」
恵梨花も亮の言葉から意味することを察したようだ。
「やったあ。ありがとう、ハナ、亮さん」
そうやって心から嬉しそうにする雪奈に、恵梨花は仕方なさそうに苦笑する。
亮も苦笑してから、目の前にある美味しそうなハムサンドに手を伸ばして齧る。
(さっきも思ったけど、本当やたらと口に合うんだよな……恵梨花の弁当を食べ慣れたせいか?)
内心で首を傾げながら、亮は夕飯までの繋ぎとして、たっぷりあるサンドイッチを次々と頬張るのであった。
「あれ、もうこんな時間か。これ以上は二人の邪魔しちゃ悪いし、この辺で私は失礼するね」
三人で談笑し少し時間が経ったところで、雪奈が名残惜しそうにしながらそう言って、恵梨花の部屋から退室した。
姉を含んだ三人での会話は、主に亮のことを聞きたがった雪奈の希望によって、亮が話題になった。
恵梨花も、亮が学校では素を出さず、亮について色々と話せる友人は少ないため、姉の調子に乗せられて次々と、亮本人を前にしながらも、亮のことを話題に大いに盛り上がった。話している内に、雪奈が徐々に亮との距離を詰めていき、終いにはピッタリと肩がくっついていた。恵梨花も負けじと亮にくっつき、そうやって姉妹に挟まれた亮は非常に居心地が悪そうであったが、話自体は盛り上がったのである。
亮と話している時の雪奈は非常に嬉しそうで幸せそうで、ボディタッチも多かったが、妹である恵梨花にはわかる。わかってしまう。あれは無自覚天然でやっていることを。
(だから――だから――! 文句が言えない‼)
恵梨花は思わず頭を抱えそうになった。牽制しても多分無意味であろう。何でそういうことを言ってくるのだろうと雪奈が不思議がるだけで終わる未来が見えて仕方ない。
思わずため息を吐くと、どこかホッとしたような亮がアイスコーヒーをすすっていた。
そんな亮を思わずジト目で見てしまい、気づいた亮が動揺したように肩を揺らした。
「ど、どうした、恵梨花?」
「……亮くん、ユキ姉にくっつかれて、鼻の下伸ばしてたよね」
「ぶほっ」
亮が口に咥えていたストローが逆噴射した。
「ユキ姉、美人だもんね。仕方ないよね」
姉に言っても仕方ない、言えない不満がつい亮に対して向かってしまった。亮は悪くないとわかっているのにだ。
自己嫌悪に陥っていると、口元を拭った亮が困ったように眉をひそめた。
「いや、そう言われてもな……仕方ねえだろ」
「何が仕方ないの――⁉」
嫉妬から思わず声が荒くなった恵梨花に、亮は頭をガシガシと掻きながら言ったのである。
「いや、だって、あんなに恵梨花そっくりじゃ仕方ねえだろ。恵梨花じゃないとわかっててもな……笑ってる時だって、恵梨花に似てて可愛いって思っちまうし……」
「あ……」
亮の言葉の意味することがわかって恵梨花は顔を赤くして、俯いた。
自分にそっくりだから無下になんて出来ないし、自分にそっくりだから鼻の下が伸びる。自分の笑顔と似ているから思わず見てしまうと、亮はそう言っているのである。
つまり、つい、ではあるが責めたつもりだった恵梨花は盛大に自爆したのだ。
「やっぱり同じ家に住んでて姉妹だからか? いい匂いなのも同じだし、恵梨花と一緒に横に並ばれたら恵梨花が二人並んだように錯覚してしまう時だってあるし、二年後の恵梨花はこうなるのかなんて――」
「も、もういいから! ごめんさない! 私が悪かったから!」
パタパタと両手を振って亮の追撃を止めると、亮は首を傾げながら口を動かすのをやめる。
「ご、ごめんね、本当に。亮くんは悪くないってわかってたんだけど――」
「いや、まあ、わかってくれたなら」
ホッとした亮が気を取り直すようにアイスコーヒーを飲み干すと、「くあ」っと欠伸をした。それを見て、ふと思いついた恵梨花は時計に目をやって、夕飯までまだ時間があるのを確認した。
「眠くなった? ご飯までまだ時間あるし、ちょっとお昼寝する?」
そう提案すると、亮は少し悩むように眉根を寄せる。
「んー、でも、そうすると恵梨花はどうするんだ? あ、恵梨花の家だし、別にすることなんていくらでもあるか」
亮の自分を気遣うそんな言葉に恵梨花はクスリとして、立ち上がる。
「ふふっ、私はね――」
言いながら、恵梨花はベッドに横向きに腰をかけ足を伸ばした。そして、自分の太腿をポンポンと叩いて亮を膝枕に誘う。
「――どうぞ? 亮くん」
「……いいのか?」
ポカンとしてからすぐに立ち上がった亮は恵梨花の太腿に釘付けになって、フラフラと吸い寄せられるようにやって来る。
「――おいで?」
恵梨花がニコッと再度誘いをかけると、亮はベッドに足を乗せてマットを揺らし、少し躊躇いながら恵梨花の太腿に頭を乗せて寝転んだ。
「――はああああー……」
すると亮が目を閉じて風呂に入った時のような声を出したので、恵梨花は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ、何なの、その声」
「いや、これはヤバい。人を堕落させるのに十分なやつだ」
「それは大変。亮くんを堕落させちゃったら、私がしっかり面倒見ないと」
「そこは堕落させないじゃねえのかよ」
「だって、亮くん、面倒くさがりだけど、ここぞという時はしっかりしてるし、たまには私がお世話いっぱいしたいな」
言いながら恵梨花は亮の髪を梳くように撫でる。
「……そうやって男は、女にダメにされていくんだな……」
気持ち良さそうにしている亮を見て、恵梨花は嬉しくなって微笑んだ。
「亮くんがダメになったら、私がちゃんとお世話してあげるから安心して?」
「くっはははっ、そうか」
愉快そうに亮が笑う。その勇ましく勝ち気で男気を感じさせる笑みを見て、亮が自らダメになるようなことは絶対にしないだろうと、不意に確信させられた。それがどこか残念でもあり、嬉しくもあった。
「ふふっ――本当に、大好きだよ、亮くん」
そこで亮は閉じていた目を開いて、恵梨花と目を合わせた。
「――知ってる」
それを言った時の亮は、一瞬不敵な笑みを浮かべていたが、言ってから恥ずかしくなったようで、顔を赤くさせた。
「あははは!」
思わず声を上げて笑ってしまった恵梨花に、亮は身の置き所がないような顔になったが、やがて噴き出して恵梨花と一緒に声を立てて笑ったのである。
「ふふっ、もう――本当に大好きっ、亮くんっ」
「ははっ――ああ、俺も」
そしてお互いに笑い合う。
恵梨花はそんな亮が愛おしくて仕方なかった。付き合い始めた時も、昨日も、これ以上その気持ちが強くなるなんて思えなかったのに、日が経つ毎に裏切られ続けている。それがまた嬉しくて仕方ない。
亮もそうなんだろうか、いや、きっと同じだと思える自分が何て幸せなんだろうと思う時がある。こんなに幸せでいいんだろうか、とも思う。
「ずっと一緒にいようね――亮くん」
気持ちが募るままに動いた口から出た言葉に、亮は眉をひそめた。
「何当たり前のこと言ってんだ、逃がしゃしねえから覚悟してろ」
「ふふっ――うん……亮くんの方こそ逃がさないから覚悟してね?」
そう恵梨花が言い返すと、亮はまた愉快そうに笑い、恵梨花も一緒になって声を上げて笑う。
それからは二人は無理に口を開かず、緩やかに心地の好い時間が流れるのを楽しんだ。そして亮の目が眠そうにトロンとした時、ベッドの枕脇に置いていた恵梨花のスマホが着信音を鳴らした。
「あっ、電話だ。亮くん、ちょっとごめん――」
言いながら恵梨花は亮の頭の向こうにある携帯へと、腰を折って手を伸ばした。
「――っ‼」
すると亮の肩がビクッと揺れたが、恵梨花は手に取ったスマホの液晶に表示された発信者の名前に気をとられて、小首を傾げていた。
「香……なんだろ。ごめん、亮くん。ちょっと電話取るね? ――もしもし、香?」
電話相手は中学の時に仲の良かった友達だった。最近はたまにしかメッセージのやり取りをしておらず、いきなり電話がかかってきたのが意外だったのだ。
『もしもし、恵梨花ー? 今、大丈夫ー?』
「うん……大丈夫だよ」
言いながらチラッと亮に目をやると、亮は何故か赤くなった顔を両手で押さえていたが、それでも恵梨花の視線に気づいたのだろう、無言でコクコクと頷いていた。
『お邪魔だったら、ごめんねー? 今、彼氏と一緒なんでしょ?』
「え、何で知って――」
『あははっ、実は今日の昼頃、駅前で見かけてさあ』
「あ、そうなんだ。えーと、一緒だけど、どうしたの?」
『うん、恵梨花がついに付き合いを決めた彼氏が気になってさー、今度一緒に遊ばない?』
「うーんと、それって私と亮く――私の彼と香とでって言ってるの?」
『あははっ、それじゃ私完全にお邪魔虫じゃーん。だから私の彼と、四人で! つまりダブルデートしない? ってこと! どう?』
「だ、ダブルデート……?」
『うんうん、いいじゃん、やろうよ! ねえ、恵梨花の彼そこにいるんでしょ? 聞いてみてよ』
「うーん、わかった。聞いてみるけど、彼が嫌がったら諦めてね?」
『えー、私久しぶりに恵梨花とも遊びたいし、恵梨花の彼にも会ってみたいしー何とか説得してよー』
「無理。彼忙しい人だから、無理って言われたら諦めて」
香と遊びに行くのは構わないのだが、亮も一緒となると話は違う。それに恵梨花の勘だと、亮はこういうことは嫌がるというか、面倒くさがるに違いない。
『んーじゃあ、とりあえず聞いてみてよ、恵梨花の彼に』
「はあ、はいはい、わかったから、ちょっと待ってて――」
そう言って恵梨花はスマホの下部のマイクに当たる部分に手を当てて、駄目元というか、無理なのを確認するために聞いてみた。
「ねえ、亮くん、私の中学の時の友達がダブルデートしたいって言ってるんだけど――?」
すると亮は目に手を当てたまま、どこか上の空で答えた。
「え? あ、ああ、いいんじゃ、ねえか?」
「うん、やっぱり嫌だよね……――え? いいの⁉ ダブルデートだよ⁉」
余りにも意外だったことに驚いて恵梨花は聞き直した。
「お、おう、任せろ。どんと来いだ」
「そ、そうなの? えーと、じゃあ、いいって返事するよ……?」
「オールオッケーだ。何も問題ない」
「う、うん? じゃあ――もしもし、香?」
何か亮の様子がおかしい気がしたが、二度聞き返しても返事はOKだったのだ。なら、構わないのだろう。それならそれで恵梨花の心は弾んだ。素の亮を知っている友人は学校では限られている。中学の友達なら素の亮を紹介して自慢できる。こちらも自慢されるだろうが、それはおあいこだ。
『はいはーい、あなたの香ちゃんですよー』
「はいはい。あのね、彼が構わないって」
『おおー‼ やった。じゃあ、またメッセ送るから、それで日程決めよ!』
「うん、わかった。それじゃあね」
『はーい、バイバーイ』
明るい声が聞こえなくなってから恵梨花は耳からスマホを下ろしてその画面を消した。
「ごめんね、亮くん。寝そうになってた時に――」
そこまで言ってから恵梨花は口を閉じた。何故なら、亮が寝息を立てているのに気づいたからだ。
「――ふふっ。初めてのデートの時思い出すな」
亮のあどけない寝顔を目にして、恵梨花の口から思わず微笑が零れた。
こうしていると普通の、いや、普通に格好いい男の子である。
(さっきは何か様子がおかしかったような気がしたけど、何だったんだろう……?)
恵梨花は自分の胸部にある重量兵器が亮の顔にクリティカルヒットしたことに気づいていない。
「まあ、いいか……今日は本当にお疲れ様、亮くん」
そっと呟いて、亮の頭を優しく撫でる。
そう、亮は本当に疲れていたのだろう。何せ、母と姉という、事前に聞いていた限りでは自分に友好的な人とだけ会うつもりが、会ってはいけないと言われていた父と兄にまで遭遇したのだから。
その後に起こったことはもう余り考えたくない。それを亮は緊張しながらも、正面から向き合って対応してくれたのだ。それも相手に気を使う形でだ。いくら亮が超人的な体力を持っていても、これはまた種類が違う。疲れるのは当たり前だ。だからだろう――
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