囁きは蜘蛛の糸

深緋莉楓

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第61話 夫婦喧嘩は知らぬが仏

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 昼の一時過ぎまで裏庭で過ごした俺達は敢えて昼食を摂るのはやめた。軽くクッキーでお腹をごまかして、早目の夕食の鍋に持てる食欲の全てをかける事にした。

「お肉いっぱいあるんじゃろ?」
「もっちろん! 朱殷しゅあん紫苑しおんもだけど、優希ゆうきにもたーんと食って欲しいからな」

 捲り上げた服の袖を戻しながら一仕事終えた白群びゃくぐんが楽しかったか? と笑う。
 朱殷と優希が同時に頷いて、あの場に居なかった白群にも伝わるように一生懸命に翳狼かげろうのジェットコースターがすごかった事や飛び回る絢風あやかぜが美しかった事、柚葉ゆずはの森が予想以上に広かった事などを身振り手振りを織り交ぜて説明している。

 白群は朱殷の座っているソファに優希を挟んで腰を下ろすと

「楽しそうな声は聞こえたんだぜ? そん時俺はネギを切ってた」

 と優希の頭を力強く撫でた。

「じゃあ、次はびゃ、びゃく……びゃく兄ちゃんも一緒ね!」
「びゃく兄……って、おい、朱殷、聞いたか! めちゃくちゃ可愛いな、こいつ!」
「そうなん。優希も可愛いん」

 何故か朱殷が得意気に答え、優希は可愛いっていう言葉の響きに少し抵抗があるのか、唇を少し尖らせて俺の淹れたレディグレイの入ったカップに顔を埋めた。

 そろそろ可愛いよりは、カッコ良いと言われたい年頃になってきたのかも知れない。
 それを朱殷に伝えても、なんで? と首を傾げられるのがオチだろう。だって俺だって未だに可愛いって言われるんだから。
 何百年、何千年の年月を生きてきた柚葉や朱殷達からしたら、俺達はいつまで経っても可愛いままなのかも知れない。

「優希は酒は飲めんのか?」
「そりゃダメだよ! 未成年!」

 俺の全力否定に、心底残念そうに眉を下げたはなだは小さく

「残念」

 とだけ呟いて、ゆったりとした仕草でカップを傾けた。

「縹さんはお酒が好きなの?」
「ああ、はなちゃんはお酒をイチからぜーんぶ自分で作っとるん。そのくらいに好きなん」
「作るのも飲むのも良いぞ。こうなるだろうと予想して作った酒が、飲んでみると全く違う味に仕上がっていたりしてな。季節や湿度によっても変わってくるしな、なかなか予想というか理想の味にするのには骨が折れるのよ。それがまたおもしろくての」
「へぇ、すごい、手作りなんだ」
「あぁ、毎朝麹に声をかけるところから始まって……って、こんな話はおもしろくはないな。申し訳ない」
「そんな事! 知らない事を知れるのはすごく楽しい!」

 麹って何? から始まった優希の質問に、縹はゆっくりと解りやすいように説明してくれて、優希が首を傾げれば言葉を変えて苛立つ事もなく何度も納得するまで話してくれる。
 優希は頷いたり、目を丸くしたりと大忙しだ……実は内心、俺も。

「勉強になるね!」
「ね! お兄ちゃんも知らなかった?」
「知らないよ。学校じゃ習わないもん」

 春になったら縹の酒蔵を見せてもらうんだ、なんて言ったら優希は羨ましがるだろうな。連れて行ってあげたいけど、それは無理だから黙っておく。

「教科書眺めていつ使うか解んない方程式頭に叩き込むより、よっぽど役に立つと思うんだけどなぁ」

 ぷくっと頬を膨らませた優希は数学が苦手だ。

「まあ、アレだ。その方程式とやらも今の時代、知っておいて損はないという事だろう。がんばれよ?」
「神様に言われたら、はいって言うしかないじゃん!」
「ほーてーしきって、なん?」
「俺、知らね」
「儂も解らん。紫苑か弟御おとうとごに教えてもらうのが良かろう」

 俺パス! と優希が早々に宣言したおかげで、みんなが俺を見る。俺は柚葉にもたれかかりながら、わざと難しい表情カオを作って、うーん、と唸った。

「せっかくみんなが揃ってるのに勉強会するの? もったいなくない? そんなに方程式知りたいの?」
「そうだ! もったいないのだ! 優希が加われるのは三年に一度。その貴重な時間を使いもしないほーてーしき? に浪費するなどもったいないのだ!」

 ジタジタと足踏みをし、早く遊ぼう! と全身で誘ってくる飛影ひかげが可愛らしくて、思わず吹き出した。
 絢風も俺の足元からすぅっと首を伸ばして、遊びたいです、と目で訴えかけてくる。

「ね! 俺も遊びたい。まぁ、優希からしたら子供っぽくてつまんないかもしれないけど、やってみるとけっこうおもしろいんだよ?」

 テレビゲームなんてないし。
 あるとすれば優希が持ってるスマホのゲームアプリ……この人数でできるのなんてないだろうし。勝手な願いだけど、ここにいる間はそういう現代社会の産物からは離れて欲しいとも思う。

「ご飯前にだるまさんがころんだ? んで、食後にトランプ?」
「俺達はどっちが先でも良いけど、優希、門限は?」
「んー、と。九時までには帰って来なさいって言われた」
「安心しろ。ちゃんと間に合うように送ってやる。じゃあ、せっかくだし、何か新しいトランプ遊びでも教えてもらおうか?」

 柚葉の言葉にパアッと顔を明るくしたのは優希だけじゃなかった。
 朱殷も白群も縹も……そして柚葉さえもワクワクしているのが部屋に溢れる気で解る。

「紫苑様、とらんぷってなんですか?」
「西洋の絵札? みたいなものかな? 数字と絵が描いてあってね。見た方が早いかな。トランプ取ってくるよ」
「紫苑! 早う!」
「じゃあ、夕食まではトランプで決まりね!」

 子供みたいにはしゃぐ朱殷の声に背中を押されて、俺はみんなで寛いでいる部屋の斜め向かいのドアに慌てて飛び込んだ。
 この部屋には俺達が普段はあまり使わない日用雑貨が置いてあり、朱殷が持ち込んだバドミントンの道具一式やカルタなんかも一緒に片付けてある。
 持って帰れと言う柚葉は、いずれ使うんだからと言い張る朱殷の顔に浮かんだ必死さに柚葉が押し負けたのは言うまでもない。

 最初に俺のお腹の虫が鳴いて、それに誘われるように飛影のが鳴る頃には、優希が俺達に教えてくれたスピードと七並べを完璧にマスターした朱殷が、得意満面で白群をやり込めていた。

「ちょ! 朱殷、早すぎ!」
「んっふふふ……私の気迫勝ちなん!」

 女の子の方が得意なゲームだしね、とがっくりと項垂れた白群の肩を叩きながら慰める優希に俺は感心してしまう。

 カードゲームを覚えるような年頃に、俺は超がつく程の引っ込み思案で教えてくれる友達もいなかったから。いつも友達に囲まれて笑っている優希が、俺は自慢なんだ。

 人懐っこくて、無邪気で、俺の弟最高に可愛いでしょ? って。

「あー、勝てねぇ! 腹が減ってるから勝てねぇんだな! よし、もう鍋も充分煮えたろ」
「ではおさ、紫苑。三階したへ。儂は先に行って酒の準備をしておこうかの」

 縹は立ち上がる所作まで水のように滑らかだ。
 すぅと伸ばした手が次々と空いたカップを集めていく。そんな縹の肩にぴょんと飛び乗った飛影はぐぅぐうお腹を鳴らしながらピリリと尾を立てた。

「私も一足お先に縹殿と共に参ろう……どのようなお鍋ができあがったのか、この目でしかと確かめねばならんと思うのだ。紫苑の好物のお肉とシラタキは充分に入っているのだろうか。私はタラが入っていたら良いなぁなどと思うのだ。いや、決して催促ではないのだが……」
「飛影、よだれ」
「ぐふっ! 良い匂いがここまで漂ってきているのだ! たまらぬ! もう、たまらぬ!」

 低く穏やかな声で安心せい、と言って縹は肩の飛影の頭を人差し指でくすぐるように撫でた。

「鍋は三つ作ったからの。海鮮物あり、寄せ鍋あり。お前さんご希望の鱈も海老も入っとるわいな」

 飛影を乗せたまま遠去かる縹の声に

「紫苑様、海老さんです!」

 と今度は絢風が嬉しそうに尾羽を揺らし、早く行きたいのかキラキラの目で俺を見上げた。

 片付けるのはあとで良いかな。
 朱殷達はもう行ってしまったみたいだし、優希は柚葉に神様はいつも鍋を三つも食べ比べたりするゴージャスディナーなのかと真剣に聞いている真っ最中だし。

 柚葉は優希の額をピンと人差し指で弾くと

「そんな事あるか。今日はお前も朱殷もいるからな……いいか? 優希も紫苑に負けるなよ? 戦いだぞ」

 とこれから起こるであろう争奪戦を予想して、ニヤリと笑いながら言い聞かせているし。
 優希も昔の俺と同じで、きちんと取り分けられて食べる鍋しか知らない。きっと面食らっちゃうんじゃないかなと思うと、それもまた楽しみだ。

「そうだよ、優希。すっごいからね。戦いだよ!」
「戦い……?」

 訝しげに細められた目が真ん丸に見開かれるのは数分後の話。

「え? う、あ、すげ……」
「優希! ぽーっとしとったら、んぐっ……なくなるん!」
「お前、少しはゆっくり食べろ。紫苑と優希の肉を取るな! 遠慮というものを覚えろ!」
「んな事言って……戦いは常に非情なん!」
「はいっ、柚葉、優希、お椀貸して!」

 いただきますの合掌の直後に始まったおたま争奪戦にすっかり萎縮してしまって動けない優希の代わりに、朱殷の手から離れた瞬間を狙って奪い返したおたまで山盛りによそってあげる。
 大胆かつ繊細に……一掬いで白菜に、お豆腐にお肉。シイタケもネギもちゃんと入ったはずだ。

「とりあえず足りる?」
「ん、ありがと!」

 俺も自分の分を確保して、それから別の皿に縹が取り分けておいてくれた海老に手を伸ばす。ちゃんと殻を剥いてあげないと飛影や絢風が食べられないし、そこまで縹に頼るのは申し訳ない。

 ぴょこぴょこと絢風の冠が揺れて、早く早くと急かされている気分。

「完了! 出遅れちゃったけど俺達も食べよ!」

 盃を傾けていた柚葉の袖をちょいと引いて、もう一度俺達だけでいただきますをする。
 肉の塊を摘んで大きな口を開いていた優希は慌てて箸を置いて、一際大きな音を立てて掌を合わせた。

「鍋パーティーって、こんなに楽しいんだね! うちのお鍋は楽しくないね。全然楽しくない」
「そうなん? じゃったら、また次もお鍋にしたら良いん。すき焼きでもしゃぶしゃぶでも、優希の好きなんおねだりしたら良いんよ。ね?」
「そっか! お姉ちゃん達も一緒? 一緒だよね? ねぇ、神様? みんな一緒が良いなぁ……ダメかな?」

 んんん! と唸る朱殷の箸を持つ手が止まった瞬間を狙って鍋に手を伸ばした優希の手をぺしっと縹が叩いて止めた。小さな子供を叱るような仕草に優希は何故叩かれたのか解らないようで頬を強張らせた。
 決して痛かったわけではないのだろう。優希はぽけっと口を開けて、相変わらず穏やかな目をした縹を見つめている。

「ん? 優希、はなちゃんに怒られたん?」
「えと、うん……そうみたい」
「直箸はダメだ」

 その言葉に納得したのか、朱殷は身を乗り出して優希の頭を撫でた。

「んー、それはあまりよろしくないん。下衆の極みって言うて、よろしくない行為の一つなんよ。でも時も流れたし、今は違うんじゃろな」
「ごめんなさい。知らなかった……テレビでもね、みんな楽しそうに直箸で良いよなってワイワイしてるから、そんなに悪い事だなんて思ってなくて……ごめんなさい」
「そうか、今は違うのか。儂の方こそすまなんだ。せっかくの楽しい宴というのに水を差してしまった。優希よ、悪かったな。どうか許してくれ。長にも紫苑にも申し訳なかった。誠に不粋であった」

 戒めに叩いた手を取り、真っ直ぐに優希の目を覗き込み謝る縹に優希は一瞬うろたえ、すぐに首を左右に振った。

「教えてもらえて嬉しい。もし、もし誰かん家に呼ばれた時、俺だけは直箸しない。ちゃんと教えてもらった事守るよ、神様」

 不貞腐れもせず、周りを見回して小さく頭を下げた優希を抱きしめたくなったのは決して兄バカなだけじゃないと思いたい。

「どうしよう、長」
「なんだ」
「優希があまりに可愛くてな……今初めてお肉を食べ過ぎたんじゃなかろうかと後悔しとるん。さっきのお肉も柔らかくて美味しかったん。あれを優希に食べさせてやりたかったなと思って……なんで私は食べてしもうたんじゃろ?」
「お姉ちゃん? 大丈夫、お肉、すぐ煮えるよ?」

 お前の食い意地がと言いかけていた柚葉は慌てて口をつぐみ、食べさせてやりたかった当の本人の優希から食べ頃のお肉をお椀に入れてもらった朱殷は落ちるんじゃないかと心配になる程に目を見開いた。

「あ、あんな? 優希、これはあんたが食べたらええと思うんじゃ?」
「んー……でも、お鍋いっぱいあるし、お肉すぐ煮えるし、お姉ちゃん、お肉好きなんでしょ? 一緒に食べよ? あ、このお肉ももう良いかな? びゃく兄のお椀、と縹さんの。神様のはお兄ちゃんがいっぱい入れちゃったから、これはお兄ちゃんに」

 楽しそうにお肉を振り分け、取り箸を置くとおたまを手に野菜を掬う優希に、ずいっとお椀を差し出したのは縹。お豆腐も欲しいとリクエストして、優希はそのお願いをお豆腐を崩す事なくお椀に移し見事叶えた。

「うわぁ、緊張したぁ! 神様達によそって渡すなんて、心臓バクバクだよ!」

 頬をピンクに染め照れ臭そうに小首を傾げて笑う優希は満足気で、心からこの食卓を楽しんでいるように見える。
 俺もこんな表情をしていんだろうか。みんなのおかげでちゃんと──。

「紫苑も笑ってくれたよ」

 そう言って微笑みかける柚葉からはガキんちょの俺がみたらし団子のタレを頬につけて、にぱっと笑う映像が流れて来た。

「古い!」
「俺にとっては最近だ!」
「やめて! 恥ずかしい!」
「いいや、愛くるしい!」

 突如始まった子供じみた言い争いに箸を止めたのは優希ただ一人。そんな優しい優希も

「大丈夫です。お二人の周りは色鮮やかな幸気が渦を巻いておりますので……」
「いつもの事なのだ。それよりも私は違うお鍋のお魚が食べたいぞ! お椀に入れて欲しいのだ。お願い! お願い!」
「あの、私、お肉……」

 と懐かれ、おねだりされた瞬間に俺と柚葉の事はあっさりと頭の片隅に追いやったようだった。

「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うけどさ、こんなん犬じゃなくても食べたくなんかないよねー!」

 ご機嫌の優希から繰り出された痛烈な一言に、一瞬にして場が無音に包まれた。
 その数秒後には縹が手を叩いて爆笑しながら優希の頭を撫で、翳狼は狼だって食べませんよ! とひどく真面目な声音で宣言したが、俺としては

「こんな可愛いの夫婦喧嘩じゃねぇよ……本物の夫婦喧嘩ってぇのはな、確実に俺専用の物置が二つは壊されて、ついでに地面が何ヶ所か抉られるんだぜ……」

 とぼそりと呟いた白群の言葉が大いに引っかかった──のだけど。

 人間、いや鬼神も知らない方が幸せな事ってきっとある。

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