神がこちらを向いた時

宗治 芳征

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第十章

10-7

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 そりゃいきなり言われても、わからんよな。と賢吾はフッと笑ったが、直ぐに表情を戻す。
「俺はコウのために生きている。コウが亡くなってから、俺は自分の幸せを全く考えなくなった。彼女作ったり結婚したり、とかな。けれど、コウの形見である君が現れた。君は俺にとって、コウのために生きる同士であり、生きるための糧なんだよ。だから、君に許可をもらわないと幸せにはなれない。俺もそういう宿命なんだ」
 賢吾の顔と言葉は真剣そのものだった。
「私なんかでいいんですか?」
 楓はまた泣きそうになっていた。
「なんか……じゃない」
 賢吾はにっこりとしながら首を振り、
「君じゃないと……守屋楓じゃないとダメなんだ」
 楓と目を合わせてしっかりと口にした。
 楓は片手で両目を拭いつつも、ほんのり笑顔を浮かべ、そっと頷いた。
 許可をもらえ安堵した賢吾は、ふと、真利亜がよくやっていた仕草を思い出した。
 ……やるか。と思い、賢吾は一度大きく咳払いをした。
「それでは、コウのために生きる二人の幸せを願ってー。えい、えい、おー!」
 賢吾は大声と共に右手を上げ下げした。しかし、楓は何事かと硬直している。
「えい、えい、おー! ほら、やって!」
 賢吾は構わず楓に強制させた。
「えい……えい……お……」
 楓は林檎のように顔を真っ赤にしながら、小刻みに右手を動かした。その姿に、賢吾は満足そうに何度も頷いた。
「守屋さん。申し訳ないんだが、そろそろ海から離れてもらってもいいかな?」
「あ、はい。そうですよね、すみません。携帯電話が落ちたらまずいですもんね」
「いや違う、携帯が理由じゃない。俺、泳げないんだよね。正直、この位置にいるのが怖いんだよ」
 賢吾はカナヅチだった。
 賢吾の返答に楓は一瞬固まっていたが、少しずつ口角を上げた。意外な一面に失笑。そんな顔を見せてくれたと、賢吾は嬉しく思った。
「初めて見たよ、君のそういう顔。もっと教えて欲しいし、もっと知りたい」
「……恥ずかしいです」
 楓は頬を染め俯いた。
「それに、俺のことも知ってくれ」
 そう言う賢吾に、楓は顔を上げた。
「慰労会で作ってくれた料理は、コウに習った物だろう?」
「はい、そうです」
 と答えた楓は、驚きを隠せない表情であった。
「あのハンバーグ、コウの好物で真利亜がよく作っていたんだよ。また食べたいな。作ってくれないか?」
 賢吾の願いに、楓は一度大きく目を開いたが、
「喜んで」
 そう、微笑んだ。
 賢吾は首をぐるりと回し軽く息を吐く、それから楓と視線を交え、
「帰りましょう」
 と、笑みを浮かべた。
 楓は賢吾の言葉を受け、一度空を見上げ大きく深呼吸をしていた。その後楓は顔を正面に戻すと頷き、飛びっきりの笑顔を賢吾に見せた。つられて賢吾も破顔し、二人は歩き始める。
「……あ。ハンバーグで思い出した。すこやかに行かないと」
「え?」
 振り返った賢吾の目には、靴を持ちながら動きを止めている楓の姿が映った。
「橘さんに美味いから食ってこいって言われていてね。守屋さんは食べたことある?」
「はい、祖母とあります。美味しいですよ」
「じゃあ、付き合ってくれ。あ……そうだ。今回は奢らせてもらえるのかな?」
 賢吾は眉をピクッと動かし、楓に聞いた。
「……では……ごちそうになります」
 楓は目を斜め上に向け少し間を置いた後、ニッと笑いそう言った。
 賢吾も軽く笑ったが、ここで異変に気付く。近付いてきた楓の顔をよく見ると、もう既に目が真っ赤であった。
「泣きまくったから、明日にはもっと目が腫れてるかもよ。明日も休みにしとこうか?」
 片倉や竜次に文句を言われそうだからな。と賢吾は危惧をした。だが、賢吾の気遣いに楓は顔を振り、
「いえ、行きます。目は社長のせいって言います」
 含み笑いをしながら言った。
「おいおいおい」
 言うようになったなと賢吾は返し、はにかむ楓であった。
「食事の後、波多野さんのお墓に行ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。一緒に行こう。今日はコウの命日だし、守屋さんが来てくれたら喜ぶよ」
 賢吾はそう返して薄く笑ったが、楓が切なそうな顔に変わる。
「ようやく……約束が果たせる……会いに行けます」
 そっと、楓が言った。そこには、喜びだけじゃなく悲しみも見える。賢吾は複雑な心境を感じ、視線が交わった楓に対してただ小さく頷いた。
「先に、会いに来てもらっちゃいましたけどね」
 楓は作り笑いをしてそう言い、賢吾が手に持っている猫の面を指さした。
「だけど……もう……直接お会いすることはできないんですよね……」
 下唇を噛み、楓は顔を歪ませた。
「俺も会えない。悲しいよな」
 賢吾は深刻な表情で言った。楓が目を向けてきたので、賢吾はまた頷いた。
「さっきも言ったが、俺にとってコウは全てなんだ。亡くなってから四年間、幸せを感じたことは一度もなかった。けど、ようやくその悲しみに共感してもらえる同士が現れてくれた」
 そう言って賢吾が微笑むと、
「私も……波多野さんが全てでしたからね」
 楓の表情が若干和らいだ。
「まぁ、コウの代わりが俺になったのは申し訳ないけどね」
「そんなことないですよ」
「いやいや、俺なんかコウの百分の一くらいだろ?」
「いえ……一万分の一くらいじゃないですか?」
「おい」
 咄嗟に賢吾がツッコミを入れると、楓はクスッと笑った。
「ですが、波多野さんの一万分の一がいてくれることが、今の私にとって何よりも嬉しいことなんです」
 今度は無理に作ったものではなく、楓は自然と笑顔になっているようであった。
「それなら、いいんですけどね」
 賢吾が若干拗ねた表情で言うと、楓は口角を上げた。
 賢吾は、前へと向き直ってから空を見上げた。
 静岡県浜松市でも今日は雲一つない快晴だ。
 十月五日。
 輝成が亡くなってから、毎年、毎年、同じように雲一つない快晴だった。傷口に塩を塗り込まれるようで、賢吾は心底嫌だった。
 だけど、ようやくこの天気が好きになれそうだ。
 賢吾は振り返り、笑みをこぼす楓を目視する。
 その存在、生き甲斐をしっかりと受け入れたのであった。
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