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蒸し蒸しする夏の夜

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 ベランダから眺める月は、真っ赤なりんごのように光っておる。
 バーミリオン・ヘデス・ドラゴニアこと、次代のドラゴニア帝国皇帝であるわらわにとって、今夜は特別な日じゃ。
 なんと! よわい十二にして初めて、彼Pと夜を過ごすのじゃからな。

「ぐふっふ」

 いかん、ついヨダレが垂れてしもうた。
 この天上が遣わした可憐なる至高の乙女に、彼Pなるものがいるとは、もちろん誰も信じたくはなかろう。
 全世界が涙することはわかっておる。
 じゃが、妾ももう良い年頃じゃ。
 心通わせた相手とさらなる高みを目指しても良いはずじゃ。
 何より、妾の相手がそれを望んでおる。

「月がきれいですね」

 ほらな! 今の聞いたじゃろ!

「そ、そうじゃな。つ、月が美味しそうじゃな」
「美味しそう、ですか?」
「はっ!」

 間違えてしもうた。
 りんごみたいじゃ、と思っていたので、ついな。

「喉は渇いていませんか?」
「そ、そうじゃな。冷たい水でも入れてしんぜよう」

 妾がベランダに置かれたテーブルに行こうとすると、淡い金色に輝く髪の彼Pが、突然、妾の手を取った。

「ダメですよ、バーミリオン様。それは私の役目です」

 ふんのぉぉぉぉぉぉ!!
 思わず鼻の穴が全開になりそうになったが、なんとか抑えたぞ。
 妾は、恥ずかしそうに麗しい彼Pを見上げる。

「お、お離しになって」

 彼Pの手のぬくもりと、優しい眼差しに胸がギュンギュンしておる。

「ああ、すみません。痛くはなかったですか?」

 妾は微笑みながら頷く。

「よかった。バーミリオン様に怪我などさせたら、私は生きてはいられません」

 ぬほぉぉぉぉ!
 これほど愛されておる姫は、この世に妾だけじゃ!
 妾は上機嫌で、彼Pの手に自分の手を重ねる。
 じゃが、妾はとんでもないことに気づいてしもうた。

 ーー妾の手! 汗まみれじゃ~~~!

 だって、めちゃくちゃ今夜は蒸すんじゃ。
 じっとしておっても、身体中に汗がじんわり出てきて、妾の小さくて可愛らしい手も、沼地のカエルみたいにベタベタなのじゃ!

 ぺっ!

 思わず手を払い退けてしもうた。
 すまぬ、彼P。
 でも妾、こんな手で彼Pに嫌われたくないのじゃ。
 恨むなら、このとんでもなく蒸し蒸しする熱帯夜を恨んで欲しい。

「バーミリオン様・・・」

 しょげてしまった彼Pに申し訳ないと思うと同時に、その子犬のような情けない顔に、妾はまたギュン! としてしもうた。
 もしや妾、世に言う嗜虐しぎゃく趣味も備えておるのかもしれん。
 一番目の兄が、そういう大人の店を貴族街に出していて、もうけておると聞いたが、一度行ってみるのもいいかもの。

 とりあえず妾は、しょんぼりした彼Pを慰めた。

「水ならそこのヤンヤンが入れてくれるから大丈夫じゃ。其方そなたの手をわずらわせる必要などない」

 ヤンヤンがすかさずやって来て、二人分の水をグラスに注いでくれた。
 侍女も護衛騎士も、いつも壁と一体化しておるが、これというときには動いてくれる。

「こ、これはかたじけない。私のような者にまで」

 彼Pは本当に謙虚なのじゃ。
 妾が椅子を勧めると、座ってカバンを膝に置き、中から指輪を二つ取り出す。

「ではバーミリオン様。今宵は今までにない経験となるでしょうが、ご準備はできていますか?」

 つ、ついに始まったのじゃ。

「うむ。初めての夜じゃからの。心の準備はできておる」
「わかりました」

 彼Pが指輪を取り、妾の手を掴むと、左手の薬指にすっと嵌めてくれた。
 続いて自分の指にも、まったく同じ指輪を嵌める。
 透明な魔石のついた銀の指輪じゃ。
 妾は手汗が気になって拭きたかったが、間を置かずに彼Pが手を掴んできた。
 強引なのも悪くない。
 しかも、互いの指を絡め合う繋ぎ方じゃ。
 彼Pの骨張った硬い手が、蒸し蒸しする夜のせいか熱く感じる。

「では、いきますよ」

 妾がこくりと頷くやいなや、手のひらから、燃えるように熱い魔力の流れが押し寄せてきた。

「はううぅん!!」

 思わず変な声が漏れてしもうた。
 彼Pの魔力が手のひらから体内に流れ込み、全身に広がっていく。

「少し我慢です、バーミリオン様。力を抜いて、私に身を任せて」
「は、はひぃ」

 彼Pと妾の魔力は近いと聞いておったが、こうして身体に入ってくると、他人のものはまったく異質なのがよくわかる。

 全身が撫でられているようで、ゾワゾワするんじゃあああ!

 妾はひきつり笑いで我慢しながら、彼Pの眉間のシワを見つめた。
 相手に魔力を流し込むため、目を閉じて、懸命に手のひらに集中しているのがわかる。
 繋いだ手が痛いくらいに、力が入っておる。
 しかも妾は魔力量の器が大きいので、たくさんの魔力を流し込まなければならないらしい。
 妾も受け入れる間、ゾワゾワを我慢しなければならぬが、彼Pはさらに苦しそうじゃ。

「だ、大丈夫かの?」

 訊ねると、彼Pが目を開き、涙ぐんだキラキラした瞳で妾に微笑みかけた。

「私は平気です。それより、バーミリオン様は大丈夫ですか?」

 額にうっすら汗を浮かべた彼Pは、苦しそうなのに、どことなく熱を帯びた顔をしている。

「妾、なんだか変な気分じゃ」

 ほっぺが熱いし、心臓がドコドコ言うておる。
 こ、こ、これが、ちまたでいやらしいとされておる魔力発現の儀式かぁぁぁぁ!!
 本当にいやらしいではないかぁぁぁ!!
 お互いが見つめ合って、手を握るだけでも、こっ恥ずかしいのに、相手の魔力を受け入れると、身体中の毛が逆立つようじゃ。
 た、確かにこれは大人しかやっちゃいかん儀式じゃ。
 竜族は十二になった夏に、この魔力感知の儀式をすることになっておる。
 それで今日、妾はついに大人になったというわけじゃ。

 す、すごい経験をしてしもうた。
 もう前のお子ちゃまな妾には戻れんな。

「バーミリオン様、本当に大丈夫ですか?」

 彼Pの前髪が汗で額に張り付いておる。
 妾は余裕のある大人の女として、そっとあいている手で撫でて払ってあげた。
 しかし、彼Pの憂いのある瞳は、まだ心配そうじゃ。

「バーミリオン様、今日はこれぐらいにしておきましょう。鼻血が・・・」

 ん?

「私が無理をさせてしまったようです。すみません」

 そこで繋いでいた手が離され、彼Pが身体を後ろに戻すと、ヤンヤンがさっとやって来て、後ろから妾の顔に冷たいおしぼりを当ててきた。

「魔力の流れが感じられましたか? 私の魔力を呼び水にして、自分の魔力を感じ、発現できるようになったら成功です」

 妾は額に張り付いた前髪をかきあげている彼Pの冷静な物言いに、ちょっとムッとした。
 そんなすぐに離れなくてもいいではないか。

「どうですか、バーミリオン様?」

 妾は口を尖らせながらも頷いた。

「うむ。妾の燃えるような魔力が胸の辺りから感じられる」

 彼Pがホッとしたように微笑んだ。

「それはよかったです。では、成功です。私も魔術講師としてお役に立てて光栄です」

 嬉しそうな彼Pには悪いが、妾は不満じゃ。

「其方、魔術講師である前に、妾の婚約者じゃろ」

 そう、この彼Pは、父上が決めた妾の婚約者なのじゃ。
 彼Pが少し困ったように笑う。

「そうですが、私はバーミリオン様の百人いる婚約者候補の内の一人にすぎませんから。身分も低いですし、おそらく選ばれることはないかとーー」

 妾が謙虚な彼Pを睨みつけると、慌てて付け加える。

「もちろん、バーミリオン様が私などでよければ、いつでも正式にお受け致します」
「本当かの? 其方、妾が好きではないのではないか?」
「まさか、そんな! 私はバーミリオン様が大好きですよ。いつもお優しく、勉強熱心で、たくさんのご兄姉の中でも一番可愛らしいと思っております」

 可愛いかぁ。
 美しいの方がよかったが、妾はまだまだ淑女には遠いからの。

「うむ。それなら良いのじゃ」

 妾が納得したと見ると、彼Pは早々に帰って行った。
 少し拍子抜けなところもあったが、大人になるって、こういうことかもしれぬな。
 ひとまず、妾も人並みに成長しておるということじゃ。
 今日の日記はここまでじゃ。
 くれぐれも他の者にはみせてはならぬぞ。
 秘密の日記じゃからな。
 今後は大人になった妾の活躍を期待するがよい。
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