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番外編
ヒポディアの街②
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※残酷な描写あり
鼻にかかった甘ったるい声を背景に、何の感動もない食事を進める。
家主好みの贅をこらした一皿は、見た目の感動と裏腹に、強い個性が喧嘩しているだけの味気のないものだった。
会話の内容も食事と同じく個性が強いため、とにかく胃が重くなる。
「どう?美味しいかい?」
トラヴィスが自信満々に感想を聞いてくる。ここで正直に不味いと言ったら料理人がクビになるかもしれない。
味が全部強いだけで彼らの技術は年月を感じる確かなものだ。
「ええ、とても。思わず素材を思い浮かべるくらいには」
だって素材の味、台無しだからね。せっかくいい食材なのにさー。浮かばれない魂を幻視してしまうくらいには思いまくってる。
「それはよかった。私としては秘蔵のワインも飲んでほしいのだけど」
「味が得意でないもので」
「ちょうど甘くて飲みやすいワインを仕入れたところだ。今度飲ませてあげるね」
とりあえず曖昧に笑っておく。ない未来の話をされても困ってしまう。
これでワインを勧められたのは三回目だ。愛人の話を持ちかけられたその日にアルコールを飲むのは、愛人志願者だけなので諦めてほしい。
兄さんはさっきからトラヴィスを睨みつけている。視線だけで相手を殺せそうな熱量だ。
それを無視して僕に微笑みかけるトラヴィスも、兄さんに話しかけ続ける伯母も、どちらも理解できなくて怖い。
恐怖の食事会が終わり、僕はある部屋の前に立っていた。使用人に場所を聞いたらすぐ案内されたので、親族という話が通達されているのかもしれない。
ノックをすると少しして返事が聞こえた。ドアを開けると目に優しくない空間が現れる。ギラギラしててどこを見ていいのか、全くわからない。
「あんただけ?アイザックは?」
「いないよ。用事があるって」
僕を見守るという用事がね。兄さんは今ごろ伯母の部屋の前で仁王立ちしているに違いない。
「つまんなーい。あんたの陰気くさい感じ気持ち悪いのよ。話も面白くなさそうだし、帰ってくんない?」
この世界に来て初めて陰気くさいと言われた。それなりに傷付く。まあ、今からする話は面白くないので当たっているけど。
伯母が渋々といった様子で椅子を勧めたので遠慮なく腰掛けた。
「おばさんがココレ村にいた時の話を聞きたくてさ」
「あの田舎村?別に話すことなんてないけど」
「母がおばさんを憎むようになったきっかけとかね。僕は十一歳の時に、ある人から詳細を教えてもらったけど壮絶だよね」
「あー、あれのこと?てか、おばさんって言うのやめてくれない?」
伯母が不愉快そうに髪の毛をいじる。毛先まできちんと手入れされた綺麗な髪だ。
伯母の髪を見ていると、母がぼさぼさの髪を振り乱してヒステリックに叫んでいる光景が浮かんだ。
「あんたが妹の婚約者寝取った時の話が聞きたいってことだよ」
「なんでそんな意地の悪いこと言うのよ!お互い同意の上だった!私だけが悪いわけじゃない!」
「大量にお酒を飲ませて、判断能力奪って、母と誤認させたまま寝て同意?すごい理論だ」
「悪くない!私悪くない!」
伯母の叫び声が防音の魔法に吸収される。それに気づくことがないまま彼女は自己弁護を繰り返している。
落ちつくまで待っておこう。どうせ誰も来ないのだから。
伯母と母は年子の姉妹だ。ココレ村に生まれた仲良し姉妹。それが村民の共通認識だったらしい。実際は伯母が母をいいようにこき使っていただけだったと、母の幼馴染で親友の女性が言っていた。
母は引っ込み思案な性格だったが、一人だけ完全に心を許している人物がいた。三歳上の男性で、ウォーレンという村人だ。村長の家の次男で、笑顔の似合う気のいい青年だった。
ウォーレンは十六歳で成人した日、村の広場で母にプロポーズした。前世の感覚が残る僕からしたらありえないことだが、田舎の村では歓迎される出来事だったようだ。
最終的に母が成人したら正式に婚姻を結ぶという約束を交わし、二人は婚約者になった。
その翌年、母が十四歳になってもウォーレンとの仲は順調だった。両家公認とあって、お互いの家を行き来するほどの関係になっていた。
あの日は隣村にいる親戚の農作業を手伝うため、伯母を家に残して一家全員出掛けていた。
伯母が農作業をする姿が一切想像できないので、留守番になったのはそういうことだろう。
その時、事情を知らないウォーレンが友人から譲ってもらったワインを持って母を訪ねてきた。北国ということもあって、成人前の飲酒に寛容な土地柄だったことが、悲劇を生んだ。
きっかけは、ワインの味が気になるという伯母の一言だった。そこからどうなったのか詳細はわからない。
わかるのは、婚約者にまたがり腰をくねらせる姉を目撃したのが、十四歳の少女だったという残酷な事実だ。
当時の母はその状況をどう思ったのだろう。きっと、おぞましくて、気持ち悪くて、悲しかったに違いない。
母の叫び声を聞いて駆けつけた村人が目撃したのは、額から血を流しながら柱に頭を打ちつけ号泣するウォーレンの姿だった。
数日後、両家同意の下、結婚の話は白紙になった。
叫び疲れたらしい伯母が、冷めた紅茶を勢いよく飲み干す。ぼさぼさの頭が、母の姿に重なった。
「そもそも!なんであんたがその話詳しく知ってるのよ」
「ウォーレンの遺書を見たからだよ」
伯母が言葉に詰まり静寂が訪れた。僕が彼の遺書を見たのは、十二歳の時だ。教会に忍び込み、保管されていた遺書を手に取った。その瞬間、めまいがしたのを覚えている。字の大きさがバラバラで、ところどころ激しく乱れていたからだ。
あれは叫びだった。自らの手で全ての幸せを壊した男の慟哭だった。
「あれはあいつが弱かっただけでしょ!私のせいじゃない。アナも私のこと人殺し!ってひどいこと言ってさ」
「たしかに自殺したのは彼の意思かもしれないね。でもさ、そうなった原因にあんたが一切関わってないって、断言できる?」
「それは……でも私は何もしてない!」
「じゃあ、あんたがウォーレンの葬式で母に言った言葉はどう言い訳するんだよ」
「あれはそんなつもりで言ったんじゃない!あの子の親友がチクったんでしょ。あんなの嘘よ!嘘!」
「目撃者は複数人いる。僕はほぼ全員から話を聞いた。どちらを信じるかは僕の勝手だ」
「このっ!」
頬を打つ乾いた音も防音魔法が吸収した。ヒリヒリと痛むのは、伯母の長い爪が頬をかすめたからだろう。呆然と自分の手のひらを見つめる伯母に声をかける。
「あの日も母にこんな感じで叩かれたの?」
「もうちょっと痛そうにしなさいよ」
「あいにく、冒険者してると怪我なんて日常茶飯事なんで」
「本っ当に、可愛くないわね」
「そうだね。その理論で言うと母は可愛いよね」
僕が軽く笑うと、伯母が首を傾げた。感情がわかりやすい人だ。
「なにそれ。意味が」
「僕が母の立場だったら、あんたが泣きながら謝っても殴ってるよ。自分の手の皮膚が裂けても、骨が折れても殴り続けるだろうね」
「ひっ!」
伯母が壁際まで後ずさった。いや、そんな怖がられても。殴るどころか触りたくもないよ。
「で?なんであんなこと言ったの?」
「それは……ちがう……だって、わたしは」
伯母が頭を抱えて独り言を呟く。もうこちらの声は耳に入っていないようだ。
ウォーレンの遺体を発見したのは村の猟師だ。太い枝に縄をくくり、首を吊っていたそうだ。遺体のそばには例の遺書があった。
猟師は字が読めなかったので、初めは遺書だと思わなかった。ウォーレンの兄で次期村長だった男が気づき、それを読んで泣き叫んだ。呼吸がままならず、喉をかきむり、それでも涙を流していたらしい。
彼は今も元気にココレ村の村長をしているだろう。娘のマリアに字を習わせた時、彼は何を思ったのだろうか。
ウォーレンの訃報が母に届いた瞬間、彼女は失神した。数十秒ほどで目覚めたが、それからは魂が抜けてしまったかのようだったと聞く。
母は涙も流さず、ただ座り込んで、粛々と進められる別れの儀式を眺めていた。
そこにやってきたのが葬儀に参列していた伯母だった。周囲には母を見守る数人の女性陣がいた。
その中に母の幼馴染で親友の女性もいた。彼女はいまだに、あの時母と伯母を一緒にしたことを悔やんでいる。
「あんたさぁ、辛気臭い顔するのやめてくれない?」
「……」
「私だけ悪者みたいで気分悪い。あいつだって悪いくせに勝手に死んじゃってさ」
「……」
「あの、さすがにその言い方はよくないかと」
「関係ないやつは黙ってなさい!私は、アナと、話してるの!」
伯母の気迫に押されて母の親友は何も言えなくなった。伯母はその様子をチラリと見て、話を続けた。
「だいたいね、あんた男の趣味悪すぎなのよ!あっちも全然だし、ずっとあんたの名前呼んでるしさぁ。面白いから勘違いさせたままにしたけど。あ、今度ウォーレンなんかよりもっといい男紹介してあげる。私のほうが男の趣味いいし、絶対元気になれるって!」
「……ろし」
「なに?」
「人殺し!!!」
鋭く乾いた音が周囲の空気を貫いた。伯母はその時、左頬を押さえながら地面に膝をついていたそうだ。
「私が代わりに殺してやる!」
「アナ!」
母の親友は、必死で母を抑えた。母の様子が尋常じゃなかったからだ。
「離してよ!なんで止めるのよ!私たち親友じゃなかったの!?」
「やめて、アナ。お願いだからやめて」
この時の伯母は放心したように、母を眺めていたらしい。
「こいつ殺したらウォーレンが生き返るかもしれないじゃない!返しなさいよ!返して!返してよ……ウォーレンに会いたいよぉ……」
母はうずくまって涙をこぼした。幼子のように、しゃくりあげながら、愛しい人の名前を呼び続けた。まるですぐそこに彼がいるかのように、声が枯れるまで、ずっと。
伯母は防音魔法の必要がないくらい小さな声で、言い訳を続けている。ウォーレンの葬儀の三日後に村から逃げ出した人間だ。現実逃避はお手のものだろう。
冷めきった紅茶を飲み干すと、ただ苦いだけの液体になっていた。もったいないからと飲むんじゃなかった。
なんとなく苦味が和らぐ気がして、舌を出して乾かしてみる。
これで苦味がなくなったら新発見だなと、くだらないことを思いながら扉を開けた。
「終わったのか」
「うん。行こうか」
「ルカ!怪我を!」
「とりあえず部屋に戻ろう」
心配と怒りが混じったような表情を浮かべる兄さんを見ていたら、苦味を忘れていた。個人的には大発見だけど世間に公表できそうにない。
部屋に着いても兄さんは何も聞いてこなかった。ただひたすらに、僕の怪我を心配していた。
「兄さん」
「ルカ」
「不思議だね。怪我には慣れてるはずなのに、傷が染みて痛いや」
兄さんの手が僕の耳を覆って、親指は防波堤になった。
「兄さんの手、好きだなぁ」
「俺の手ならいつでも貸すから」
「うん、嬉しい」
胸が苦しいのは、伯母に会ったからでも、母の過去を追ったからでもない。
母の過去を知ってなお、彼女を許せないでいる自分に嫌気がさしてるだけだ。
あの日を境に母は壊れてしまったのだろう。少しでも伯母に近い特徴を持った人物がいたら、執拗な嫌がらせをしてしまうくらいに。
世界で一番憎い人物にそっくりな子どもが産まれてしまうなんて、母の運が悪すぎて笑ってしまう。まるでホラー映画のラストみたいだ。
別に親の愛が欲しいわけではない。前世からずっと諦めていたし必要ない。
でも、十一歳の冬の出来事が脳裏にこびりついて離れない。母の精神に限界がきて、僕の顔面をぐちゃぐちゃにしようとナイフを振り下ろした日。
あの後、母の親友が悲愴な顔をしながら、母の過去を語ってくれたっけ。
母は親友にだけ心情を吐露したのかもしれない。それで危機感を覚えて、僕に真実を教えてくれたのかも。
普通こんな話、十一歳の子どもに教えないと思うが、彼女もそれだけ必死だったのだろう。「逃げて」という言葉が妙に印象に残っている。
「謝ってほしかったなぁ」
謝って、口先だけでもいいから認めてほしかった。僕と、伯母の顔は違うんだって。他人と重ねたのは間違ってたって言ってほしかった。
勝手に同一視されて毎日憎悪がこもった目で見られたら、好きでこんな顔に生まれたわけじゃないって思ってしまうではないか。
母のことがなかったら、僕はもっと人の容姿に興味が持てたかもしれない。自分の顔に価値を感じることができたかもしれない。
僕にとって人の顔は記号だ。眉毛があって、目があって、鼻があって、口がある。組み合わせに個性があるから見分けはつく。その程度の認識だ。
兄さんは違う。兄さんだけは特別だ。
だって兄さんは、僕が十一歳の冬を迎えるまでの間に唯一出会った、本当にかっこいい人だから。
「兄さん」
「ん?」
「僕の顔どう思う?」
「えっ」
兄さんが目を泳がせた。そんなに難しいことを言っただろうか。
「だめだ。語彙が足りない。時間をくれ」
「そんな考え込まないでも。思ったことズバッと言ってくれたら満足するから」
兄さんはしばらく目を閉じて唸っていたが、やがて真っ直ぐ僕の瞳を見つめた。
「世界で」
「うん」
「世界で一番美しい」
速攻で顔の傷を治した。兄さんが世界一美しいと言ったから、大切にしようと思った。
兄さんの頬は真っ赤に染まっていて、それがすごく嬉しかった。
「どう?綺麗?」
「ああ、綺麗だ」
「もう一声!」
「世界一可愛い」
「やったー!じゃあさ」
「今度はなんだ?」
僕は兄さんに抱きついて、その耳元で囁いた。
「愛してる?」
すぐに言葉なんていらないくらいの激しい口づけが返ってきた。この幸せから離れるのが怖くて、呼吸が限界近くになるまで、僕は兄さんと唇を合わせ続けた。
鼻にかかった甘ったるい声を背景に、何の感動もない食事を進める。
家主好みの贅をこらした一皿は、見た目の感動と裏腹に、強い個性が喧嘩しているだけの味気のないものだった。
会話の内容も食事と同じく個性が強いため、とにかく胃が重くなる。
「どう?美味しいかい?」
トラヴィスが自信満々に感想を聞いてくる。ここで正直に不味いと言ったら料理人がクビになるかもしれない。
味が全部強いだけで彼らの技術は年月を感じる確かなものだ。
「ええ、とても。思わず素材を思い浮かべるくらいには」
だって素材の味、台無しだからね。せっかくいい食材なのにさー。浮かばれない魂を幻視してしまうくらいには思いまくってる。
「それはよかった。私としては秘蔵のワインも飲んでほしいのだけど」
「味が得意でないもので」
「ちょうど甘くて飲みやすいワインを仕入れたところだ。今度飲ませてあげるね」
とりあえず曖昧に笑っておく。ない未来の話をされても困ってしまう。
これでワインを勧められたのは三回目だ。愛人の話を持ちかけられたその日にアルコールを飲むのは、愛人志願者だけなので諦めてほしい。
兄さんはさっきからトラヴィスを睨みつけている。視線だけで相手を殺せそうな熱量だ。
それを無視して僕に微笑みかけるトラヴィスも、兄さんに話しかけ続ける伯母も、どちらも理解できなくて怖い。
恐怖の食事会が終わり、僕はある部屋の前に立っていた。使用人に場所を聞いたらすぐ案内されたので、親族という話が通達されているのかもしれない。
ノックをすると少しして返事が聞こえた。ドアを開けると目に優しくない空間が現れる。ギラギラしててどこを見ていいのか、全くわからない。
「あんただけ?アイザックは?」
「いないよ。用事があるって」
僕を見守るという用事がね。兄さんは今ごろ伯母の部屋の前で仁王立ちしているに違いない。
「つまんなーい。あんたの陰気くさい感じ気持ち悪いのよ。話も面白くなさそうだし、帰ってくんない?」
この世界に来て初めて陰気くさいと言われた。それなりに傷付く。まあ、今からする話は面白くないので当たっているけど。
伯母が渋々といった様子で椅子を勧めたので遠慮なく腰掛けた。
「おばさんがココレ村にいた時の話を聞きたくてさ」
「あの田舎村?別に話すことなんてないけど」
「母がおばさんを憎むようになったきっかけとかね。僕は十一歳の時に、ある人から詳細を教えてもらったけど壮絶だよね」
「あー、あれのこと?てか、おばさんって言うのやめてくれない?」
伯母が不愉快そうに髪の毛をいじる。毛先まできちんと手入れされた綺麗な髪だ。
伯母の髪を見ていると、母がぼさぼさの髪を振り乱してヒステリックに叫んでいる光景が浮かんだ。
「あんたが妹の婚約者寝取った時の話が聞きたいってことだよ」
「なんでそんな意地の悪いこと言うのよ!お互い同意の上だった!私だけが悪いわけじゃない!」
「大量にお酒を飲ませて、判断能力奪って、母と誤認させたまま寝て同意?すごい理論だ」
「悪くない!私悪くない!」
伯母の叫び声が防音の魔法に吸収される。それに気づくことがないまま彼女は自己弁護を繰り返している。
落ちつくまで待っておこう。どうせ誰も来ないのだから。
伯母と母は年子の姉妹だ。ココレ村に生まれた仲良し姉妹。それが村民の共通認識だったらしい。実際は伯母が母をいいようにこき使っていただけだったと、母の幼馴染で親友の女性が言っていた。
母は引っ込み思案な性格だったが、一人だけ完全に心を許している人物がいた。三歳上の男性で、ウォーレンという村人だ。村長の家の次男で、笑顔の似合う気のいい青年だった。
ウォーレンは十六歳で成人した日、村の広場で母にプロポーズした。前世の感覚が残る僕からしたらありえないことだが、田舎の村では歓迎される出来事だったようだ。
最終的に母が成人したら正式に婚姻を結ぶという約束を交わし、二人は婚約者になった。
その翌年、母が十四歳になってもウォーレンとの仲は順調だった。両家公認とあって、お互いの家を行き来するほどの関係になっていた。
あの日は隣村にいる親戚の農作業を手伝うため、伯母を家に残して一家全員出掛けていた。
伯母が農作業をする姿が一切想像できないので、留守番になったのはそういうことだろう。
その時、事情を知らないウォーレンが友人から譲ってもらったワインを持って母を訪ねてきた。北国ということもあって、成人前の飲酒に寛容な土地柄だったことが、悲劇を生んだ。
きっかけは、ワインの味が気になるという伯母の一言だった。そこからどうなったのか詳細はわからない。
わかるのは、婚約者にまたがり腰をくねらせる姉を目撃したのが、十四歳の少女だったという残酷な事実だ。
当時の母はその状況をどう思ったのだろう。きっと、おぞましくて、気持ち悪くて、悲しかったに違いない。
母の叫び声を聞いて駆けつけた村人が目撃したのは、額から血を流しながら柱に頭を打ちつけ号泣するウォーレンの姿だった。
数日後、両家同意の下、結婚の話は白紙になった。
叫び疲れたらしい伯母が、冷めた紅茶を勢いよく飲み干す。ぼさぼさの頭が、母の姿に重なった。
「そもそも!なんであんたがその話詳しく知ってるのよ」
「ウォーレンの遺書を見たからだよ」
伯母が言葉に詰まり静寂が訪れた。僕が彼の遺書を見たのは、十二歳の時だ。教会に忍び込み、保管されていた遺書を手に取った。その瞬間、めまいがしたのを覚えている。字の大きさがバラバラで、ところどころ激しく乱れていたからだ。
あれは叫びだった。自らの手で全ての幸せを壊した男の慟哭だった。
「あれはあいつが弱かっただけでしょ!私のせいじゃない。アナも私のこと人殺し!ってひどいこと言ってさ」
「たしかに自殺したのは彼の意思かもしれないね。でもさ、そうなった原因にあんたが一切関わってないって、断言できる?」
「それは……でも私は何もしてない!」
「じゃあ、あんたがウォーレンの葬式で母に言った言葉はどう言い訳するんだよ」
「あれはそんなつもりで言ったんじゃない!あの子の親友がチクったんでしょ。あんなの嘘よ!嘘!」
「目撃者は複数人いる。僕はほぼ全員から話を聞いた。どちらを信じるかは僕の勝手だ」
「このっ!」
頬を打つ乾いた音も防音魔法が吸収した。ヒリヒリと痛むのは、伯母の長い爪が頬をかすめたからだろう。呆然と自分の手のひらを見つめる伯母に声をかける。
「あの日も母にこんな感じで叩かれたの?」
「もうちょっと痛そうにしなさいよ」
「あいにく、冒険者してると怪我なんて日常茶飯事なんで」
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「なにそれ。意味が」
「僕が母の立場だったら、あんたが泣きながら謝っても殴ってるよ。自分の手の皮膚が裂けても、骨が折れても殴り続けるだろうね」
「ひっ!」
伯母が壁際まで後ずさった。いや、そんな怖がられても。殴るどころか触りたくもないよ。
「で?なんであんなこと言ったの?」
「それは……ちがう……だって、わたしは」
伯母が頭を抱えて独り言を呟く。もうこちらの声は耳に入っていないようだ。
ウォーレンの遺体を発見したのは村の猟師だ。太い枝に縄をくくり、首を吊っていたそうだ。遺体のそばには例の遺書があった。
猟師は字が読めなかったので、初めは遺書だと思わなかった。ウォーレンの兄で次期村長だった男が気づき、それを読んで泣き叫んだ。呼吸がままならず、喉をかきむり、それでも涙を流していたらしい。
彼は今も元気にココレ村の村長をしているだろう。娘のマリアに字を習わせた時、彼は何を思ったのだろうか。
ウォーレンの訃報が母に届いた瞬間、彼女は失神した。数十秒ほどで目覚めたが、それからは魂が抜けてしまったかのようだったと聞く。
母は涙も流さず、ただ座り込んで、粛々と進められる別れの儀式を眺めていた。
そこにやってきたのが葬儀に参列していた伯母だった。周囲には母を見守る数人の女性陣がいた。
その中に母の幼馴染で親友の女性もいた。彼女はいまだに、あの時母と伯母を一緒にしたことを悔やんでいる。
「あんたさぁ、辛気臭い顔するのやめてくれない?」
「……」
「私だけ悪者みたいで気分悪い。あいつだって悪いくせに勝手に死んじゃってさ」
「……」
「あの、さすがにその言い方はよくないかと」
「関係ないやつは黙ってなさい!私は、アナと、話してるの!」
伯母の気迫に押されて母の親友は何も言えなくなった。伯母はその様子をチラリと見て、話を続けた。
「だいたいね、あんた男の趣味悪すぎなのよ!あっちも全然だし、ずっとあんたの名前呼んでるしさぁ。面白いから勘違いさせたままにしたけど。あ、今度ウォーレンなんかよりもっといい男紹介してあげる。私のほうが男の趣味いいし、絶対元気になれるって!」
「……ろし」
「なに?」
「人殺し!!!」
鋭く乾いた音が周囲の空気を貫いた。伯母はその時、左頬を押さえながら地面に膝をついていたそうだ。
「私が代わりに殺してやる!」
「アナ!」
母の親友は、必死で母を抑えた。母の様子が尋常じゃなかったからだ。
「離してよ!なんで止めるのよ!私たち親友じゃなかったの!?」
「やめて、アナ。お願いだからやめて」
この時の伯母は放心したように、母を眺めていたらしい。
「こいつ殺したらウォーレンが生き返るかもしれないじゃない!返しなさいよ!返して!返してよ……ウォーレンに会いたいよぉ……」
母はうずくまって涙をこぼした。幼子のように、しゃくりあげながら、愛しい人の名前を呼び続けた。まるですぐそこに彼がいるかのように、声が枯れるまで、ずっと。
伯母は防音魔法の必要がないくらい小さな声で、言い訳を続けている。ウォーレンの葬儀の三日後に村から逃げ出した人間だ。現実逃避はお手のものだろう。
冷めきった紅茶を飲み干すと、ただ苦いだけの液体になっていた。もったいないからと飲むんじゃなかった。
なんとなく苦味が和らぐ気がして、舌を出して乾かしてみる。
これで苦味がなくなったら新発見だなと、くだらないことを思いながら扉を開けた。
「終わったのか」
「うん。行こうか」
「ルカ!怪我を!」
「とりあえず部屋に戻ろう」
心配と怒りが混じったような表情を浮かべる兄さんを見ていたら、苦味を忘れていた。個人的には大発見だけど世間に公表できそうにない。
部屋に着いても兄さんは何も聞いてこなかった。ただひたすらに、僕の怪我を心配していた。
「兄さん」
「ルカ」
「不思議だね。怪我には慣れてるはずなのに、傷が染みて痛いや」
兄さんの手が僕の耳を覆って、親指は防波堤になった。
「兄さんの手、好きだなぁ」
「俺の手ならいつでも貸すから」
「うん、嬉しい」
胸が苦しいのは、伯母に会ったからでも、母の過去を追ったからでもない。
母の過去を知ってなお、彼女を許せないでいる自分に嫌気がさしてるだけだ。
あの日を境に母は壊れてしまったのだろう。少しでも伯母に近い特徴を持った人物がいたら、執拗な嫌がらせをしてしまうくらいに。
世界で一番憎い人物にそっくりな子どもが産まれてしまうなんて、母の運が悪すぎて笑ってしまう。まるでホラー映画のラストみたいだ。
別に親の愛が欲しいわけではない。前世からずっと諦めていたし必要ない。
でも、十一歳の冬の出来事が脳裏にこびりついて離れない。母の精神に限界がきて、僕の顔面をぐちゃぐちゃにしようとナイフを振り下ろした日。
あの後、母の親友が悲愴な顔をしながら、母の過去を語ってくれたっけ。
母は親友にだけ心情を吐露したのかもしれない。それで危機感を覚えて、僕に真実を教えてくれたのかも。
普通こんな話、十一歳の子どもに教えないと思うが、彼女もそれだけ必死だったのだろう。「逃げて」という言葉が妙に印象に残っている。
「謝ってほしかったなぁ」
謝って、口先だけでもいいから認めてほしかった。僕と、伯母の顔は違うんだって。他人と重ねたのは間違ってたって言ってほしかった。
勝手に同一視されて毎日憎悪がこもった目で見られたら、好きでこんな顔に生まれたわけじゃないって思ってしまうではないか。
母のことがなかったら、僕はもっと人の容姿に興味が持てたかもしれない。自分の顔に価値を感じることができたかもしれない。
僕にとって人の顔は記号だ。眉毛があって、目があって、鼻があって、口がある。組み合わせに個性があるから見分けはつく。その程度の認識だ。
兄さんは違う。兄さんだけは特別だ。
だって兄さんは、僕が十一歳の冬を迎えるまでの間に唯一出会った、本当にかっこいい人だから。
「兄さん」
「ん?」
「僕の顔どう思う?」
「えっ」
兄さんが目を泳がせた。そんなに難しいことを言っただろうか。
「だめだ。語彙が足りない。時間をくれ」
「そんな考え込まないでも。思ったことズバッと言ってくれたら満足するから」
兄さんはしばらく目を閉じて唸っていたが、やがて真っ直ぐ僕の瞳を見つめた。
「世界で」
「うん」
「世界で一番美しい」
速攻で顔の傷を治した。兄さんが世界一美しいと言ったから、大切にしようと思った。
兄さんの頬は真っ赤に染まっていて、それがすごく嬉しかった。
「どう?綺麗?」
「ああ、綺麗だ」
「もう一声!」
「世界一可愛い」
「やったー!じゃあさ」
「今度はなんだ?」
僕は兄さんに抱きついて、その耳元で囁いた。
「愛してる?」
すぐに言葉なんていらないくらいの激しい口づけが返ってきた。この幸せから離れるのが怖くて、呼吸が限界近くになるまで、僕は兄さんと唇を合わせ続けた。
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平凡に生きたい(のに無理だった)19歳大学生と、24歳人気若手俳優、21歳文武両道大学生の、更に溺愛生活が始まる――。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
推しの完璧超人お兄様になっちゃった
紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。
そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。
ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。
そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。
すべてを奪われた英雄は、
さいはて旅行社
BL
アスア王国の英雄ザット・ノーレンは仲間たちにすべてを奪われた。
隣国の神聖国グルシアの魔物大量発生でダンジョンに潜りラスボスの魔物も討伐できたが、そこで仲間に裏切られ黒い短剣で刺されてしまう。
それでも生き延びてダンジョンから生還したザット・ノーレンは神聖国グルシアで、王子と呼ばれる少年とその世話役のヴィンセントに出会う。
すべてを奪われた英雄が、自分や仲間だった者、これから出会う人々に向き合っていく物語。
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