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第二十一話 お忍び
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花々が一斉に咲き乱れ、春を知らせてくれた。しかし、春の訪れに和む暇もなく、ジェラルド様は魔物討伐のための遠征に行ってしまった。
辺境伯の伴侶として、討伐隊の士気が下がらないよう自分なりにしっかりとお見送りをした。そのおかげでレジスや他の使用人から毅然とした態度だったと褒め言葉をもらえた。
でも内心は複雑な気持ちでいっぱいだ。毎年のこととはいえ、魔物討伐は命懸けのもので、心配しないわけはない。
毎日、一日でも早くジェラルド様が無事に戻ってきてくれることを祈っている。
不安な日々は続くけど、仕事を放棄するわけにはいかない。
今日もフロンドル領のために頑張らないと。
そう自分を奮い立たせて、僕の部屋で指示を待っているジョゼフに声をかけた。
「今日はお忍びで村を視察するから、ジョゼフも準備してね」
「えっと……初耳です」
「今、言ったからね」
にっこりと笑いかけると、ジョゼフは引きつった顔を向けてくる。
「さすがにまずいのでは? 護衛はどうなさるおつもりですか?」
「レジスと護衛の責任者には話を通してるよ。今回のお忍びはジョゼフの存在が不可欠だから、事前に知らせて緊張させたくなくて。いきなりでごめんね」
最初複雑な表情を浮かべていたジョゼフは、すぐにやる気あふれる顔を見せた。
「いいえ、お気遣いありがとうございます。僕はノア様のために一肌脱ぎます!」
「こちらこそ、ありがとう」
その後、気合の入ったジョゼフのおかげで準備は順調に進み、平服と簡素な馬車で屋敷を出発した。
開けた窓から風が入ってきた。春とはいえ、この時期はまだ肌寒さがある。山の方は雪が残っているだろう。
ジェラルド様が風邪を引かなければいいな。
馬車に揺られながら考えるのはジェラルド様のことばかりだ。お忍びとはいえ立派な視察なのにこれではいけない。
外の景色から目を背けて、緊張している様子のジョゼフに声をかける。
「どうしたの、硬い顔して」
「そういえばどの村に行くのか伺っていなかったなと思いまして」
「ロコの村だよ」
「えっ? もしかして僕の地元ですか?」
「うん。詳しい人に案内してもらいたいから」
「僕が不可欠ってそういう……」
ジョゼフはがっくりと肩を落とす。
「もちろんそれも理由の一つだけど、お忍びで視察するのが初めてだから、気心の知れた人と一緒に行きたかったんだ」
「そういうことですか。なら、わかりました。僕でよければ喜んで案内させていただきます」
明るい空気になった車内で、改めてお忍びの設定を確認する。
「僕は隣国の商家の三男、行儀見習いでお屋敷に勤めることになったということで。名前はルイでいこうかな」
「その設定いりますか?」
「新しく嫁いだ辺境伯の妻が王都出身の男性だと噂になってるらしいから、念のためにね」
その後もいろいろ話し合っていたらあっという間にロコの村に到着した。
村で一番人が集まる場所だとジョゼフに案内された食堂では、すでに多くの客が食事を楽しんでいた。
「というわけで、今日は職場の同僚と後輩を連れてきたからよろしくお願いします」
ジョゼフに同僚と紹介された護衛の責任者は「よろしく」とだけ言った。僕も流れで挨拶する。
「ジョゼフさんの後輩で、ルイっていいます! 今日はよろしくお願いします!」
「おう、よろしくな!」
「元気がいいねー」
食堂のお客さんに温かく受け入れてもらえた。まだ始まったばかりだけど、視察はうまくいきそうだ。
僕の挨拶を聞いたジョゼフは引きつった笑顔を浮かべている。
お忍びの設定を話し合った時も最後まで乗り気じゃなかったからなぁ。
ジョゼフからしたら上司にいきなり無茶振りされたようなものだから、そこは申し訳ない。
「ジョーイが先輩かぁ」
「同僚さん、ジョーイはちゃんと仕事できてるの? 毎日怒られてそう」
「ジョーイがここで働いてた時なんてひどかったぜ? 俺、頭の上に料理ひっくり返されたからな」
「あれは傑作だった!」
「あの時のことは謝るから、今日は本当にやめて!」
ジョゼフが慌てて止めると、食堂は笑いに包まれた。
食堂にいたお客さんのほとんどがジョゼフの知り合いみたいだ。皆口々にジョゼフをからかって楽しんでいる。
当の本人は必死で止めているけど、今日が単なる里帰りなら思い出話で盛り上がっていたことだろう。ジョーイと愛称で呼ばれていることからも仲の良さが窺える。
「後輩くんもさぁ、どう? ジョーイはちゃんと先輩してる?」
「僕のことはルイって呼んでください。もちろん、いつも助けられてばかりですよ!」
「それならルイも敬語とか使うなよ」
「そうそう、丁寧な言葉なんて使ってたら疲れるだろ?」
「わかった。じゃあ、こんな感じでよろしく。ジョゼフ先輩の話もっと聞かせて!」
僕がそう言うと、食堂のお客さんたちは楽しそうに笑った。視界の端ではジョゼフが疲れた顔で胃の辺りを押さえていた。
ジョゼフがひたすら気まずいだけの話題は想像以上に盛り上がり、僕らがいるテーブルを中心に人が集まっている。
護衛の責任者も気が休まる時間はなさそうだ。常に警戒が解けないせいで険しい顔になり、周囲のお客さんから無口で会話が苦手な人と扱われている。
「おまたせ! おまけしといたからたくさん食べてね」
「わぁ! ありがとう!」
食堂のおかみさんが料理を持ってきてくれたので受け取る。彼女の厚意により、テーブルの上は料理でいっぱいになった。
「ここのスープは絶品だから飲んでみろ! この村の名物だからな」
「違いない」
「あんたたち! こんなに見てたらルイが食べにくいでしょ! ちょっとは考えな!」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
おかみさんにお礼を言ってスプーンを手に取る。
なぜお客さんが興味津々なのかと言うと、お忍び用に設定した僕の来歴にある。隣国の商家の三男で、行儀見習いのためお屋敷に勤めたことになっているからだ。
彼らからしたら僕は外国人で、自分の村の名物を食べた反応が気になるのは自然なことだ。
この村の名物だというスープは、サーモンと野菜をミルクで煮た、この地方では一般的な料理だ。大勢の視線を受けながらスープをすする。
「……美味しい!!」
野菜の甘みとサーモンの旨みが濃厚なスープに溶け込んでいる。一緒に煮込まれた香草のほろ苦さと爽やかな香りが、濃厚なだけではない複雑な風味となって、口の中を満たす。
「だろ!」
「いい食べっぷりだな! ほら、パンと一緒に食べてみろ」
「めちゃくちゃ合うぞ」
「ありがとう!」
勧められるままに食べ続けていたら、お腹がはち切れそうになった。
休憩しつつ今後の予定を頭の中で組み立てる。すると、店主の息子が話しかけてきた。
「兄ちゃんはさ、これからどうするの?」
「とりあえずこの村を回ろうと思ってるよ」
「ふーん」
興味がなさそうに返事をした少年は、エタンという名前で、先日九歳になったばかりと聞いた。
そろそろ会計をと思って立ちあがる。すると、エタン君が手を伸ばしてきた。
「もーらいっ」
「あっ!」
エタン君は僕のポケットに手を突っ込み、ハンカチを盗って食堂を飛び出した。
「エタン!」
おかみさんが怒ってくれたけど、それどころじゃない。
「僕、ちょっと行ってくる!」
「ノアさ、ルイ!」
ジョゼフに呼び止められたが、僕は食堂を飛び出してエタン君を追った。
まずいまずい、非常にまずい。ハンカチにまで気が回っていなかった。普段使っているやつを何も考えずに持ってきてしまった。
知らなかったとはいえ、貴族の私物を盗んだとなれば処罰は免れない。最悪の場合、親指に刻印を入れられるかもしれない。
エタン君の態度から本気で盗んだわけではないと考えられるが、万が一ハンカチを汚したり破いてしまうと証拠が残ってしまう。
回収するなら今しかない。ハンカチが無事なら、ギリギリお遊びでしたで済ませることができる。
食堂から出てすぐ、エタン君の姿が見えた。本気で走ってもすぐには追いつけない距離感でエタン君が呼びかける。
「こっちだよ!」
「待って!」
エタン君を見失わないよう懸命に走る。通行人は微笑ましいものを見る目でくすくす笑っている。
僕も何も知らなければ同じような反応をしただろう。だがこれは一人の少年の将来がかかった重大な局面なのだ。
必死の形相で走る僕を見ても、通行人は和かな顔をしている。きっと僕の癒しスキルが影響しているのだろう。普段なら人々の心を和ませるこの力が、今は歯がゆい。緊迫感が伝わったら誰か止めてくれるかもしれないのに。
建物が並ぶ道を抜け、畑の広がる場所に出る。
この追いかけっこ、けっこうきつい。何がきついって、エタン君を見失わないように走りつつ、護衛の位置も確認しないといけないことだ。
僕はすでに息切れをしていて、走るスピードが落ちている。
エタン君は後ろを見て僕の姿を確認すると、高台に向けてスピードを上げた。子供の体力が恐ろしすぎる。
体力が限界を迎える前になんとかエタン君が足を止めてくれた。彼がいるのは小高い見晴らしのよさそうな高台だ。
「こっち、こっち!」
「ちょ、休ませて」
息を切らしながらやっとのことでエタン君に追いついた。
息を整えて顔を上げると、そこは村を一望できる場所だった。
「すごい……」
「でしょ。ここ、俺のお気に入りの場所なんだ」
エタン君が自慢げに言った。
「こんな素敵なところ、僕に教えてよかったの?」
「もちろん! 兄ちゃんはいいやつだから特別!」
「悪い大人かもしれないよ?」
僕の返しに、エタン君が大声で笑う。
「父ちゃんの飯を美味そうに食べるやつは悪いやつじゃないよ」
「そっか。ありがとう」
僕が笑いかけると、エタン君は落ち着かない様子で頭をかいた。
「どうしたの?」
「俺さ、父ちゃんの跡を継いで料理人になりたいんだ」
「素敵な夢だね。きっと叶うよ」
「ありがとな。それで、俺が料理人になったらルイに食べに来てほしいんだ」
「それは嬉しいけど、どうして僕に? 今日初めて会ったばかりなのに」
「あんなに美味しいですって顔されたらさ……自信がつきそうだなって」
「えっ? そんなにわかりやすかった?」
「なんかこう、へらへらしてた」
「へらへらかぁ……」
恥ずかしくなってきた。自分でも気がつかないうちにはしゃいでいたようだ。
「あ、そうだ。ハンカチ返してよ」
「ごめん、ごめん。それにしてもいい布だよな。俺初めてこんなの触った」
やっぱり屋敷の使用人が使うには不自然すぎるよなぁ。
「これね、奥様から譲ってもらったやつ」
「奥様って辺境伯様の? 本当に存在するんだ。常連のやつらがもういないかもとか言ってたからさ。どんな人?」
自分のことを答えるのは難易度が高い。
「うーん。良くも悪くも普通の人、かな? あまり気を張らなくていいというか」
「なんだかルイみたいだな!」
子供の直感怖いよー。もうこの話は終わらせよう。
「じゃあ、ハンカチ返して」
「はい。付き合ってくれてありがとな」
よかった、これでエタン君は救われた。
今後お忍びをする時は小物にまで気を配ろうと心の中で固く誓った。
エタン君と別れた後、護衛とジョゼフが合流し、再び視察を再開した。
教会に併設された孤児院を訪問したり、村人から話を聞いていたらあっという間に帰る時間になった。
最後に食堂へ挨拶に行こうと向かっていると、ご老人から声をかけられた。
「先ほどは災難でしたなぁ」
「見られていましたか。なかなかエタン君に追いつけなくて」
「走っていて何か気づかれませんでしたかな?」
「うーん……いえ、特には」
「実は、辺境伯様に道を整備していただいたのです。先代辺境伯様の意志を継いで取り組んでくださって……おかげで、我々は楽に移動することができましてな」
言われてみれば確かに走りづらいと感じたことがなかった。ジェラルド様はお兄様の意志を継いでやり遂げたんだ。
「なぜ僕にこの話を?」
「あなたが辺境伯様のお屋敷に勤めていると耳にしましたので伝えてもらえたら、と。我々は恐れ多くて近づけないものですから。この前ジョゼフに頼んだら直接話せる機会がないと言われましてな」
「僕が伝えます。必ず」
ご老人は僕に何度もお礼を言って離れていった。
胸に熱いものが込み上げて動けない。ジェラルド様は威圧スキルの影響で人々から恐れられていたが、それでも領民のためにと日々努力し続けてきた。
ちゃんと見てくれる人がいるんだ。
もしかしたら過去に人伝だったり書状で感謝の気持ちを伝えられたことはあったのかもしれない。
それでも僕は、ジェラルド様に伝えたいと思った。きっと先ほどのご老人だけではなく、大勢の人がジェラルド様に感謝しているはずだ。
今後も視察を続けて、領民の言葉を伝えていこうと心に決めた。
燃えるような夕焼けが足元を照らす。僕は顔を上げて、魔物討伐に勤しんでおられるジェラルド様に思いを馳せた。
辺境伯の伴侶として、討伐隊の士気が下がらないよう自分なりにしっかりとお見送りをした。そのおかげでレジスや他の使用人から毅然とした態度だったと褒め言葉をもらえた。
でも内心は複雑な気持ちでいっぱいだ。毎年のこととはいえ、魔物討伐は命懸けのもので、心配しないわけはない。
毎日、一日でも早くジェラルド様が無事に戻ってきてくれることを祈っている。
不安な日々は続くけど、仕事を放棄するわけにはいかない。
今日もフロンドル領のために頑張らないと。
そう自分を奮い立たせて、僕の部屋で指示を待っているジョゼフに声をかけた。
「今日はお忍びで村を視察するから、ジョゼフも準備してね」
「えっと……初耳です」
「今、言ったからね」
にっこりと笑いかけると、ジョゼフは引きつった顔を向けてくる。
「さすがにまずいのでは? 護衛はどうなさるおつもりですか?」
「レジスと護衛の責任者には話を通してるよ。今回のお忍びはジョゼフの存在が不可欠だから、事前に知らせて緊張させたくなくて。いきなりでごめんね」
最初複雑な表情を浮かべていたジョゼフは、すぐにやる気あふれる顔を見せた。
「いいえ、お気遣いありがとうございます。僕はノア様のために一肌脱ぎます!」
「こちらこそ、ありがとう」
その後、気合の入ったジョゼフのおかげで準備は順調に進み、平服と簡素な馬車で屋敷を出発した。
開けた窓から風が入ってきた。春とはいえ、この時期はまだ肌寒さがある。山の方は雪が残っているだろう。
ジェラルド様が風邪を引かなければいいな。
馬車に揺られながら考えるのはジェラルド様のことばかりだ。お忍びとはいえ立派な視察なのにこれではいけない。
外の景色から目を背けて、緊張している様子のジョゼフに声をかける。
「どうしたの、硬い顔して」
「そういえばどの村に行くのか伺っていなかったなと思いまして」
「ロコの村だよ」
「えっ? もしかして僕の地元ですか?」
「うん。詳しい人に案内してもらいたいから」
「僕が不可欠ってそういう……」
ジョゼフはがっくりと肩を落とす。
「もちろんそれも理由の一つだけど、お忍びで視察するのが初めてだから、気心の知れた人と一緒に行きたかったんだ」
「そういうことですか。なら、わかりました。僕でよければ喜んで案内させていただきます」
明るい空気になった車内で、改めてお忍びの設定を確認する。
「僕は隣国の商家の三男、行儀見習いでお屋敷に勤めることになったということで。名前はルイでいこうかな」
「その設定いりますか?」
「新しく嫁いだ辺境伯の妻が王都出身の男性だと噂になってるらしいから、念のためにね」
その後もいろいろ話し合っていたらあっという間にロコの村に到着した。
村で一番人が集まる場所だとジョゼフに案内された食堂では、すでに多くの客が食事を楽しんでいた。
「というわけで、今日は職場の同僚と後輩を連れてきたからよろしくお願いします」
ジョゼフに同僚と紹介された護衛の責任者は「よろしく」とだけ言った。僕も流れで挨拶する。
「ジョゼフさんの後輩で、ルイっていいます! 今日はよろしくお願いします!」
「おう、よろしくな!」
「元気がいいねー」
食堂のお客さんに温かく受け入れてもらえた。まだ始まったばかりだけど、視察はうまくいきそうだ。
僕の挨拶を聞いたジョゼフは引きつった笑顔を浮かべている。
お忍びの設定を話し合った時も最後まで乗り気じゃなかったからなぁ。
ジョゼフからしたら上司にいきなり無茶振りされたようなものだから、そこは申し訳ない。
「ジョーイが先輩かぁ」
「同僚さん、ジョーイはちゃんと仕事できてるの? 毎日怒られてそう」
「ジョーイがここで働いてた時なんてひどかったぜ? 俺、頭の上に料理ひっくり返されたからな」
「あれは傑作だった!」
「あの時のことは謝るから、今日は本当にやめて!」
ジョゼフが慌てて止めると、食堂は笑いに包まれた。
食堂にいたお客さんのほとんどがジョゼフの知り合いみたいだ。皆口々にジョゼフをからかって楽しんでいる。
当の本人は必死で止めているけど、今日が単なる里帰りなら思い出話で盛り上がっていたことだろう。ジョーイと愛称で呼ばれていることからも仲の良さが窺える。
「後輩くんもさぁ、どう? ジョーイはちゃんと先輩してる?」
「僕のことはルイって呼んでください。もちろん、いつも助けられてばかりですよ!」
「それならルイも敬語とか使うなよ」
「そうそう、丁寧な言葉なんて使ってたら疲れるだろ?」
「わかった。じゃあ、こんな感じでよろしく。ジョゼフ先輩の話もっと聞かせて!」
僕がそう言うと、食堂のお客さんたちは楽しそうに笑った。視界の端ではジョゼフが疲れた顔で胃の辺りを押さえていた。
ジョゼフがひたすら気まずいだけの話題は想像以上に盛り上がり、僕らがいるテーブルを中心に人が集まっている。
護衛の責任者も気が休まる時間はなさそうだ。常に警戒が解けないせいで険しい顔になり、周囲のお客さんから無口で会話が苦手な人と扱われている。
「おまたせ! おまけしといたからたくさん食べてね」
「わぁ! ありがとう!」
食堂のおかみさんが料理を持ってきてくれたので受け取る。彼女の厚意により、テーブルの上は料理でいっぱいになった。
「ここのスープは絶品だから飲んでみろ! この村の名物だからな」
「違いない」
「あんたたち! こんなに見てたらルイが食べにくいでしょ! ちょっとは考えな!」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
おかみさんにお礼を言ってスプーンを手に取る。
なぜお客さんが興味津々なのかと言うと、お忍び用に設定した僕の来歴にある。隣国の商家の三男で、行儀見習いのためお屋敷に勤めたことになっているからだ。
彼らからしたら僕は外国人で、自分の村の名物を食べた反応が気になるのは自然なことだ。
この村の名物だというスープは、サーモンと野菜をミルクで煮た、この地方では一般的な料理だ。大勢の視線を受けながらスープをすする。
「……美味しい!!」
野菜の甘みとサーモンの旨みが濃厚なスープに溶け込んでいる。一緒に煮込まれた香草のほろ苦さと爽やかな香りが、濃厚なだけではない複雑な風味となって、口の中を満たす。
「だろ!」
「いい食べっぷりだな! ほら、パンと一緒に食べてみろ」
「めちゃくちゃ合うぞ」
「ありがとう!」
勧められるままに食べ続けていたら、お腹がはち切れそうになった。
休憩しつつ今後の予定を頭の中で組み立てる。すると、店主の息子が話しかけてきた。
「兄ちゃんはさ、これからどうするの?」
「とりあえずこの村を回ろうと思ってるよ」
「ふーん」
興味がなさそうに返事をした少年は、エタンという名前で、先日九歳になったばかりと聞いた。
そろそろ会計をと思って立ちあがる。すると、エタン君が手を伸ばしてきた。
「もーらいっ」
「あっ!」
エタン君は僕のポケットに手を突っ込み、ハンカチを盗って食堂を飛び出した。
「エタン!」
おかみさんが怒ってくれたけど、それどころじゃない。
「僕、ちょっと行ってくる!」
「ノアさ、ルイ!」
ジョゼフに呼び止められたが、僕は食堂を飛び出してエタン君を追った。
まずいまずい、非常にまずい。ハンカチにまで気が回っていなかった。普段使っているやつを何も考えずに持ってきてしまった。
知らなかったとはいえ、貴族の私物を盗んだとなれば処罰は免れない。最悪の場合、親指に刻印を入れられるかもしれない。
エタン君の態度から本気で盗んだわけではないと考えられるが、万が一ハンカチを汚したり破いてしまうと証拠が残ってしまう。
回収するなら今しかない。ハンカチが無事なら、ギリギリお遊びでしたで済ませることができる。
食堂から出てすぐ、エタン君の姿が見えた。本気で走ってもすぐには追いつけない距離感でエタン君が呼びかける。
「こっちだよ!」
「待って!」
エタン君を見失わないよう懸命に走る。通行人は微笑ましいものを見る目でくすくす笑っている。
僕も何も知らなければ同じような反応をしただろう。だがこれは一人の少年の将来がかかった重大な局面なのだ。
必死の形相で走る僕を見ても、通行人は和かな顔をしている。きっと僕の癒しスキルが影響しているのだろう。普段なら人々の心を和ませるこの力が、今は歯がゆい。緊迫感が伝わったら誰か止めてくれるかもしれないのに。
建物が並ぶ道を抜け、畑の広がる場所に出る。
この追いかけっこ、けっこうきつい。何がきついって、エタン君を見失わないように走りつつ、護衛の位置も確認しないといけないことだ。
僕はすでに息切れをしていて、走るスピードが落ちている。
エタン君は後ろを見て僕の姿を確認すると、高台に向けてスピードを上げた。子供の体力が恐ろしすぎる。
体力が限界を迎える前になんとかエタン君が足を止めてくれた。彼がいるのは小高い見晴らしのよさそうな高台だ。
「こっち、こっち!」
「ちょ、休ませて」
息を切らしながらやっとのことでエタン君に追いついた。
息を整えて顔を上げると、そこは村を一望できる場所だった。
「すごい……」
「でしょ。ここ、俺のお気に入りの場所なんだ」
エタン君が自慢げに言った。
「こんな素敵なところ、僕に教えてよかったの?」
「もちろん! 兄ちゃんはいいやつだから特別!」
「悪い大人かもしれないよ?」
僕の返しに、エタン君が大声で笑う。
「父ちゃんの飯を美味そうに食べるやつは悪いやつじゃないよ」
「そっか。ありがとう」
僕が笑いかけると、エタン君は落ち着かない様子で頭をかいた。
「どうしたの?」
「俺さ、父ちゃんの跡を継いで料理人になりたいんだ」
「素敵な夢だね。きっと叶うよ」
「ありがとな。それで、俺が料理人になったらルイに食べに来てほしいんだ」
「それは嬉しいけど、どうして僕に? 今日初めて会ったばかりなのに」
「あんなに美味しいですって顔されたらさ……自信がつきそうだなって」
「えっ? そんなにわかりやすかった?」
「なんかこう、へらへらしてた」
「へらへらかぁ……」
恥ずかしくなってきた。自分でも気がつかないうちにはしゃいでいたようだ。
「あ、そうだ。ハンカチ返してよ」
「ごめん、ごめん。それにしてもいい布だよな。俺初めてこんなの触った」
やっぱり屋敷の使用人が使うには不自然すぎるよなぁ。
「これね、奥様から譲ってもらったやつ」
「奥様って辺境伯様の? 本当に存在するんだ。常連のやつらがもういないかもとか言ってたからさ。どんな人?」
自分のことを答えるのは難易度が高い。
「うーん。良くも悪くも普通の人、かな? あまり気を張らなくていいというか」
「なんだかルイみたいだな!」
子供の直感怖いよー。もうこの話は終わらせよう。
「じゃあ、ハンカチ返して」
「はい。付き合ってくれてありがとな」
よかった、これでエタン君は救われた。
今後お忍びをする時は小物にまで気を配ろうと心の中で固く誓った。
エタン君と別れた後、護衛とジョゼフが合流し、再び視察を再開した。
教会に併設された孤児院を訪問したり、村人から話を聞いていたらあっという間に帰る時間になった。
最後に食堂へ挨拶に行こうと向かっていると、ご老人から声をかけられた。
「先ほどは災難でしたなぁ」
「見られていましたか。なかなかエタン君に追いつけなくて」
「走っていて何か気づかれませんでしたかな?」
「うーん……いえ、特には」
「実は、辺境伯様に道を整備していただいたのです。先代辺境伯様の意志を継いで取り組んでくださって……おかげで、我々は楽に移動することができましてな」
言われてみれば確かに走りづらいと感じたことがなかった。ジェラルド様はお兄様の意志を継いでやり遂げたんだ。
「なぜ僕にこの話を?」
「あなたが辺境伯様のお屋敷に勤めていると耳にしましたので伝えてもらえたら、と。我々は恐れ多くて近づけないものですから。この前ジョゼフに頼んだら直接話せる機会がないと言われましてな」
「僕が伝えます。必ず」
ご老人は僕に何度もお礼を言って離れていった。
胸に熱いものが込み上げて動けない。ジェラルド様は威圧スキルの影響で人々から恐れられていたが、それでも領民のためにと日々努力し続けてきた。
ちゃんと見てくれる人がいるんだ。
もしかしたら過去に人伝だったり書状で感謝の気持ちを伝えられたことはあったのかもしれない。
それでも僕は、ジェラルド様に伝えたいと思った。きっと先ほどのご老人だけではなく、大勢の人がジェラルド様に感謝しているはずだ。
今後も視察を続けて、領民の言葉を伝えていこうと心に決めた。
燃えるような夕焼けが足元を照らす。僕は顔を上げて、魔物討伐に勤しんでおられるジェラルド様に思いを馳せた。
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我が家にはおまけがいる。それは俺の兄、しかし兄はすべてに置いて俺に勝っており、俺は凡人以下。兄を差し置いて俺が跡取りになったら俺は詰む。何とかこの状況から逃げ出したい。
【完結】僕はキミ専属の魔力付与能力者
みやこ嬢
BL
【2025/01/24 完結、ファンタジーBL】
リアンはウラガヌス伯爵家の養い子。魔力がないという理由で貴族教育を受けさせてもらえないまま18の成人を迎えた。伯爵家の兄妹に良いように使われてきたリアンにとって唯一安らげる場所は月に数度訪れる孤児院だけ。その孤児院でたまに会う友人『サイ』と一緒に子どもたちと遊んでいる間は嫌なことを全て忘れられた。
ある日、リアンに魔力付与能力があることが判明する。能力を見抜いた魔法省職員ドロテアがウラガヌス伯爵家にリアンの今後について話に行くが、何故か軟禁されてしまう。ウラガヌス伯爵はリアンの能力を利用して高位貴族に娘を嫁がせようと画策していた。
そして見合いの日、リアンは初めて孤児院以外の場所で友人『サイ』に出会う。彼はレイディエーレ侯爵家の跡取り息子サイラスだったのだ。明らかな身分の違いや彼を騙す片棒を担いだ負い目からサイラスを拒絶してしまうリアン。
「君とは対等な友人だと思っていた」
素直になれない魔力付与能力者リアンと、無自覚なままリアンをそばに置こうとするサイラス。両片想い状態の二人が様々な障害を乗り越えて幸せを掴むまでの物語です。
【独占欲強め侯爵家跡取り×ワケあり魔力付与能力者】
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2024/11/15 一瞬ホトラン入ってました。感謝!
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