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第八話 思わぬ展開

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「ここ数日旦那様を観察して思ったことがあるんだけど」
「はい」
 ジョゼフが真剣な顔で頷く。最近のお茶会は旦那様報告会となっていた。

「旦那様っていつ寝てるの? 夜に挨拶しようと思って執務室に行ったけどずっとドアが開かなくてさ。すごい怖かった」
「それは僕も謎です。もしかして旦那様は睡眠をとられていないのでしょうか」
「さすがにそれはないと信じたい……」

 否定できないところが心配だ。旦那様は鍛練の時間以外、朝早くから夜遅くまで執務室にこもりっきりだ。昼食もそこで済ませているようで、部屋から出るところを見たことがない。

「今日こそ旦那様に就寝の挨拶をしようと思って」
「ああ、それで昼寝をされたのですね」
「そうそう。三時間くらい粘れば旦那様とお話できるかもしれないし」
「僕もお手伝いさせていただきます」

 その後、ジョゼフと一緒に厨房へ行き、料理長に夜食を作ってほしいとお願いした。理由を話したらにこやかに引き受けてもらえてホッとした。


 夜になり、二階の廊下は静まり返っていた。押し殺した足音を気にしながら執務室に向かう。
「なんか、緊張するね」
「わかります。でも秘密の任務みたいで楽しいです」
「たしかに面白いかも」
 静かに笑い声をもらしつつ、やがて執務室の前までたどり着いた。

「ちょっと様子を確認してきます」
「よろしくね。僕は三階に上がる階段に隠れてるから」
「承知しました」
 ジョゼフは僕が移動したことを確認すると、ぎこちないながら正式な所作でドアをノックして執務室に入っていった。

 程なくしてジョゼフが執務室から出てきた。
「どうだった?」
「もうしばらくお仕事をされた後、お休みになるとおっしゃっていました」
「本当に三時間コースかも」
「僕が最後までお付き合いしますので」
「ありがとう」

 しばらくとりとめのない話をしながら執務室のドアを見守る。
「暇だね」
「全然動きがありませんね」
「もう夜食食べちゃおうか。ジョゼフも一緒に」
「ありがとうございます!」
 ジョゼフが持ってきた袋を開けると、かすかに香ばしい香りがした。

「ナッツのクッキーみたいです」
「美味しそう」
 一つつまんで口に入れると、甘さ控えめで噛みごたえのあるクッキーだった。いつも食べているものと比べたら夜食向きの味で、料理長の心遣いが嬉しかった。

「奥様? こちらで何をなさっていらっしゃるのでしょうか?」
 持っていたクッキーを落としそうになった。恐る恐る顔を上げると、厳しい顔をした家令のレジスが立っていた。
「あ、レジス。お疲れ様。僕のことは奥様じゃなくて名前で呼んでほしいかなー、なんて」
「その話はまたの機会にさせていただきます。ジョゼフ、勝手に奥様を連れ出すとはどういう了見だ?」
「え、えっと……これは、ですね」

 薄暗い場所なのにジョゼフの顔が青ざめているのがわかる。
「僕がジョゼフにお願いして付き合ってもらったんだ。どうしても旦那様に就寝の挨拶がしたくて」
「おっしゃっていただければ旦那様にお伝えしましたのに」
「お仕事の邪魔をしたくないから終わるまで待つつもり」
「お話の内容は理解いたしました。旦那様も喜ばれると思われますが、無理はなさらないでください」
「ありがとう」

 レジスは少しだけ口元を緩めると、険しい表情をジョゼフに向けた。
「ジョゼフ、話があるから来なさい」
「はい……すみませんでした」
「レジス。あの、僕が悪いからあんまり怒らないであげて。あと仕事増やしたみたいでごめんね」
「お気遣いいただきありがとうございます。申し訳ありませんが、私たちはこの場を離れさせていただきます。後のことはアルチュールにお任せいただければと存じます」
 涙目のジョゼフがレジスに引きずられて一階へ降りていくのを見届けた。明日のお茶会は終始ジョゼフを慰めることになりそうだ。

 ジョゼフとレジスが去ってから少しして、アルチュールがやってきた。
「ノア様。ずっとそちらにいると風邪を引いてしまいますよ」
 立つように言われ素直に従うと、ガウンを肩にかけられる。
「ありがとう。温かいね」
「お役に立てて光栄です」
 表情をやわらげるアルチュールから思わず目を逸らした。旦那様の鍛練を一緒に見学して以来、妙に距離が近いと感じる。
 短い付き合いだけど彼が主人の配偶者に横恋慕するとは思えない。もしかするとアルチュールは身内との距離感が近いタイプなのかもしれない。

「レジスから話は聞いた?」
「はい。一通り説明を受けました。旦那様をお呼びしましょうか?」
「出るまで待ってる。お仕事の邪魔をしたくないから」
「かしこまりました。最後までお付き合いいたします」
 親しみのこもった視線に耐えながら執務室のドアをひたすら見つめる。緊張のせいかクッキーは完食できなかった。


 気まずい時間を過ごしていると、ようやく執務室のドアが開いた。正確な時間はわからないが、二時間くらい経っていると思う。
「旦那様!」
 急いで駆け寄ると、旦那様は驚いた様子で僕に視線を向けた。
「何の用だ?」
「遅くまでお疲れ様です! あの、旦那様はいつもこのような時間までお仕事をされているのでしょうか?」
「君には関係ないことだ。早く部屋に戻りなさい」
「お忙しいところ失礼いたしました。ただ旦那様のお体が心配で……差し出がましいこととは存じますが、たまにはゆっくりお休みになってください」

 笑顔を作れる自信がなくて俯いてしまった。せっかく旦那様とお話できる機会なのに全然うまくいかない。
「旦那様。それはさすがに」
 アルチュールが見かねて口を挟む。その時、旦那様が独り言のように呟いた。
「私が恐ろしくないのか」

「えっ?」
 反射的に顔を上げると、眉を寄せ苦しげな表情をしている旦那様と目が合った。僕にはなぜかその瞳が戸惑っているように見えた。
「すまない、言い過ぎてしまった。君も早く休むといい。ありがとう」
 すれ違いざまにそっと頭を撫でられた。僕が呆然としている間に、旦那様は寝室に入っていった。

「申し訳ございません、ノア様。旦那様も悪意を持っておっしゃったわけではないと……」
「うん。わかってる」
 触れられたところが燃えるように熱い。ふわふわした気持ちが身体を駆け巡って、思っていることがそのまま口から飛び出す。

「旦那様から初めてありがとうって言われた」
「さようでございますか」
「手が大きかった。頭全部包まれるかと思った」
「それはようございました」
「すごく温かかった」
「さようでございましたか」

 思考がまとめられないまま、自分の寝室にたどり着くまでアルチュールにずっと話しかけていた。アルチュールは嫌な顔をせず最後まで付き合ってくれた。

 ベッドに倒れ込んでもまだ胸が高鳴っている。ガウンを脱いだのに顔のほてりが止まらない。
 旦那様と初めてちゃんとした対話ができた。これは伴侶として一歩前進したと考えていいだろう。
 これが達成感から来る高揚なのか、それとも別の感情なのかよくわからなくて、しばらくベッドの中で寝返りを打っていた。


 翌日、予想通り僕はお茶会でひたすらジョゼフを慰めていた。
「本当に、ベレスさん本っ当に怖かったです」
「庇いきれなくてごめんね」
「ノア様に非はございません。全ては私の不徳の致すところでございます」
 普段より堅い言葉遣いに、ベレスにも同じような感じで謝罪したのだろうなと察する。

 それでも夜食の残りのクッキーを食べ終えた頃には、いつものジョゼフに戻っていた。
「ノア様のおかげで元気を取り戻せました!」
「そんな大げさな」
「いえ、僕は本気です。ノア様がお優しい方で本当によかったです」
 真正面から褒められるとこそばゆい気持ちになる。小さく咳払いをして話題を切り替えた。

「そういえば昨日旦那様とお話できたよ」
「申し訳ありません! 僕の話ばかりでしたね。その話詳しく伺いたいです」
 旦那様との会話を詳細に話すと、ジョゼフは自分のことのように喜んでくれた。

「あっ! アルチュールさんからの伝言を忘れてました。旦那様が執務室に来てほしいそうです」
「旦那様が?」
 伝言の内容は、今から三時間後に一人で執務室に来るようにというものだった。


 緊張しながら執務室に入室すると、そこには誰もいなかった。旦那様の机にメモがあったので手に取って読むと、三階の一番奥の部屋に来るように書かれている。
「三階に? なんで?」
 三階はたしか使用人のフロアだったはずだ。

 疑問はたくさんあったけど、とにかく急いで旦那様のところに向かった。
「失礼します。ノアです」
 返事がないのでドアを開けるとアルチュールが立っていた。
「旦那様は?」
「もう少しでお越しになると思われます。どうぞお掛けになってお待ちください」

 促されて大きなソファに腰掛ける。手持ち無沙汰で、つい部屋の中をキョロキョロと見回してしまう。
「ノア様」
 アルチュールに名前を呼ばれてドキッとする。
「な、何?」
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「そう、かな?」
 アルチュールは優しく微笑んでいる。でも、その笑顔はなんだか作り物めいていて、落ち着かない気分になった。

「ノア様は旦那様のことをどう思っていらっしゃいますか?」
「うーん。もう少しお話をしないと答えられないかも。とりあえず口数は少なそう、かな?」
 アルチュールの質問の意図が分からず、戸惑いながらも答える。すると彼は「なるほど」と言って頷いた。

「では私にも付け入る隙はありそうですね」
「ん?」
 気がついたらアルチュールに押し倒されていた。
「ノア様、ずっとお慕いしていました」
「え? どういうこと?」
 突然の告白に頭が混乱する。振り解こうにも体格差があって身動きが取れない。

 アルチュールの手が伸びてきて僕の頰に触れる。その手はひんやりとしていて、変な声が出そうになった。
 嫌味なほど整った顔がゆっくり近づいてくる。僕はバクバクと心臓を鳴らしながら、ただひたすらに打開策を考えていた。
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