家出貴族と堅物淫魔の旅日誌

ヘレントスのワイルドステーキ

4話(三人称視点)

「あの運び屋の青年は、あのまま泳がせていて構わないのですか？」

ヘレントス城、上階。
ジン・レント・ミンシェンの執務室に、控えめな声色の問いが投げかけられた。
それを受けたジンは苦笑し、肩をすくめてみせる。

「構わないさ。今回は私の負けだ。彼を甘くみていたよ。魔人の相棒くんのことをちらつかせれば、勢いで押し切れると思ったんだけど、流石にそこまで馬鹿じゃなかったね。さすがはエドガーの息子だ」

「……もう、引き込むことは難しいでしょうか……」

ジンは三編みの先っぽを指で弄びながら、夕飯の献立でも考えているかのように軽く言い返す。

「いや、きっと彼はまた私に接触してくるさ。真実を知るためにね」

「……もし、彼が父親に真実を教えてくれと頼んだ場合、まずいことになるのでは？」

「いや、それはないよ。彼は父親のことを憎んではいないが、頼りたくもない。フルネームを呼ばれて我に返ったのが良い証拠だ」

「では……」

「つまり、真実を知りたきゃ私を頼るしかない。もし彼が私に会いたがっていたらすぐに知らせてくれ。それとカリムにも手紙で彼のことを知らせておいて。土壇場では彼が切り札になる可能性がある。早めに囲っておかないとね」

「承知しました」

「ああ、まって」

一礼して部屋から出ていこうとする護衛の男を、ジンは呼び止めた。

「キミ、屋内ではフードを外しなさい。ここにはキミに魅了される人間は居ないからね」

「ハッ、失礼しました」

慌てる男にジンはゆったりと歩み寄り、手づから護衛の男の顔を白日のもとに晒す。
男の耳には、三本線の入れ墨があった。
ジンはフードを下げるときに逆だってしまった髪を、子供の寝癖を直すように撫で付けた。
髪を主君の手で整えられた淫魔の男は、やや頬を赤らめて一歩後ろに下がる。

「じ、自分でやりますから！」

「ははは、別に慌てなくてもいいだろう。それともキミのほうが魅了に抗えなくなったかな」

「やめてください。ご存知でしょう、神話時代の術といえども、魔人は操れない」

「そうだね。そうだ……私の友人は、とうとうキミ一人になってしまった」

ジンの声はかすれ、表情にも陰りが見える。
普段は実年齢より若く見えるジンも、このときは疲れ切った老人に見えた。
淫魔の男は思わず歩み寄り、その肩を掴んでいた。
かつて共に戦っていた頃と同じように、力強く。

「ジーニー、必ず、亜人は解放できる。もし、他の貴族を懐柔できなかったとしても、おれ一人でもやり遂げてみせる。そしたらまた前みたいに酒を飲もう。みんな集めて、昔と同じように」

「フフ、馬鹿なことを言うんじゃない。そんなことしたら今までの根回しもなにもかも水の泡になる。今は、地道に進むしかないよ」

ジンはようやくいつもの飄々とした笑みを取り戻し、淫魔の男は安心したように手を肩から離す。

「では、ハッダード侯爵宛の手紙を用意します。こちらの執務室にお持ちしても？」

「ああ、そうしてくれ」

そうして男が去ると、執務室には痛いほどの静寂と、ジン一人が残される。
窓際に歩み寄ったジンは、赤く染まり始めた空を見上げ、呟いた。

「早く戻ってきたまえよ、切り札くん。最後の友人を失う前に」