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ルーナとクレア

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 王宮へと入ったルーナは侍女たちに引き渡され、全身を磨かれ、飾りたてられた。初めてドレスを着るルーナに配慮してか、それは羽のように軽いものだった。
 そうして今は、王宮の一室に通されレナートを待っている。
 やがてドアをノックする音ののち、レナートが部屋へ入ってきた。

「レナートさま」

 ルーナは腰かけていた椅子からゆっくりと立ち上がろうとした。肘掛けに手を置き、力を込める。それをレナートが見守っていてくれる。
 やがてルーナは立ち上がり、一歩踏み出した。

「クレア」

 レナートもまた一歩踏み出す。そして、そのまま両手を広げてルーナのもとへ向かおうとした――だが。

「待って、レナートさま」
「クレア?」
「自分の足で歩きたいの」

 ルーナにはかかとのない柔らかな羊皮の靴が与えられていた。絨毯をしっかりと踏みしめて、ルーナは一歩、また一歩とレナートに近づく。
 ルーナがレナートの眼前までくると、彼はルーナの右手をとって、その甲にくちづけた。

「待っていたよ、クレア。サイナールへようこそ、僕の人魚姫」

 ルーナは少し赤くなってうつむいた。逢うのは二度目だというのに、どうやら王子――レナートは自分を歓迎してくれているようだ。来てくれるか不安に思っていたことは、まるで杞憂だったらしい。

(だけどそれはクレア……レナートが求めているのは、クレアなのよ)

 六年前にレナートを助けたあの日以来、ルーナは海上へ顔を出すたびにおかにレナートの姿を捜した。
 当時は名前も知らず、彼が王子だということも知らなかった。ただただ、美しいアクアマリンの瞳の少年にもう一度会いたかったのだ。
 だが彼は現れなかった。さらに、年頃になったルーナが頻繁に海上へ行くことに、ルーナの両親はいい顔をしなかった。
 きっと彼も忘れてしまったのだろうし――そう思って、諦めた。

 進展があったのは二年前のことだ。レナートからの手紙の入った小瓶を、ウミガメのルティがルーナの元へ届けてくれたのだ。

『僕を救ってくれた人魚の姫へ』

 そう書きだされた手紙には、六年前のあの日の礼と、その後すぐに他国へ留学しなくてはならず何年も礼を言いに来ることができなかった、という詫びが綴られていた。
 そして、自分を助け介抱してくれた人魚にまた会いたい、とも。
 最後に記されたサインは、海辺の国サイナールの王子・レナートの名だった。

(王子さまだったのね。レナートっていうんだわ……)

 まだ再会できたわけではないが、彼が誰であるのか知ることができて、胸が温かくなった。
 ルーナはすぐさま返事を書こうとして、気が付いた。自分は確かに彼を助けはしたが、介抱したのはクレアなのだ。
 ルーナとクレアは瓜ふたつ、双子の姉妹だ。きっと彼はふたりを同一人物だと思っているに違いない。
 それならばきっと、陸上で彼を介抱し言葉を交わしたという、クレアのほうが彼の印象に残っているに違いない。
 そう思うと少し胸が痛んだが、それが何かはわからなかった。

 ともあれ、レナートを助けたのはルーナとクレア、ふたりによるものだ。だから、クレアとふたりで彼に会いに行きたかった。だが状況はそうはいかなくなっていた。
 クレアが体調を崩し、とこに臥せがちになっていたのだ。

「ねぇクレア。王子さまが、レナートさまがあなたに会いたがっているわ」
「そう……」

 クレアを元気づけるためにその話をした。だが、クレアの反応はいまいちだった。

(クレアだって彼に会いたいに違いないわ。けれど、今は気落ちしてるのね)

 ルーナは自分が王子にとても惹かれていたので、自然とクレアもそうなのだと考えがちだった。双子の自分たちはいつも一緒、気持ちだって一緒だと思い込んでいたのだ。

(私だけ会いに行くなんて、できないわ)

 どうレナートへ返事を書こうかと考えあぐねていた頃、クレアが発作を起こした。単なる体調不良ではなさそうだと、海のおばばの診察を受けた。
 おばばが言うにはクレアは、あと三年は生きられないだろう――とのことだった。
 三年。人間にとってはさほど短い時間ではないのかもしれないが、三百年を生きる人魚にとって、それはあまりにも短すぎる余命だ。

(だったら私がクレアになって――クレアにこの体をあげる)

 紆余曲折ののちではあったが、ルーナはそう決意して――……

「……クレア?」

 思考の海に沈んでいたルーナを、レナートの声が現実に引き戻す。

「は、はい。レナートさま」
「レナートでいいよ。……きみも、人魚の国の王女なんだろう? 人魚族といえども魚や海の生きものを自由に遣いにできるのは、王族だけだと聞いているよ」

 手紙の遣いをしたリティのことを言っているのだろう。

「ええ、そうです。レナートさま」
「レナート」

 レナートは頬を膨らませた。そんな子供っぽいしぐさをしても、彼の品格を損ねることはない。
 素直さと鷹揚さが、その明るい表情から滲みでているのだ。

「わかったわ。レナート」

 レナートは満足そうに微笑んだ。だがふと真剣な顔になって、こう言った。

「その……さっきは、嫌じゃなかったかな?」
「?」

 首をかしげるルーナにレナートはそっと手を伸ばして、その親指でルーナのくちびるに触れた。

「……!」

 先ほどくちづけされたことが蘇り、ルーナは真っ赤になった。思えば、気づいたばかりでぼうっとしていたとはいえ、ずいぶんと情熱的なくちづけを交わしてしまった。
 はしたないと思われていないだろうか。あんなことをするのは、はじめてだったのに。

「嫌じゃ、なかった?」
「え、ええ……」

 ルーナは消え入りそうな声で答えた。

「きみも僕を求めてくれているんだね。……とても嬉しいよ。何しろ二年も待って、手紙を出し続けてやっと返事が来たんだからね」
「ごめんなさい……」
「いや、僕も四年も留学していたからね。これでお互い言いっこなし、でいいかな」
「ええ」
「きみから返事が来て、やっときみの名前を知ることができて、本当に嬉しかったんだ」
「私も、あなたから手紙が来たとき、とても嬉しかった」

 そう答えると、レナートは目を細めて微笑んだ。

「ねぇ……クレア」

 レナートが声のトーンを落として言う。レナートは男性にしては澄んだ少年のような声の持ち主だが、そうやってトーンを落とすと非常に甘い響きがその声音に滲む。

「はい?」
「今夜、きみの寝所を訪ねてもいい?」
「……!」

 ルーナは固まった。それはルーナの目的・・でもあったが、ここまで簡単にことが運ぶとは思っていなかったので、どう答えていいかわからない。

「返事がないってことは、肯定でいいんだね? 嬉しいなぁ、クレアと両想いだ!」

 レナートは満面の笑みを浮かべて喜んだ。手紙には彼はルーナよりふたつ上の二十歳だと書いてあったが、喜色を浮かべるともっと若く見えた。

「それじゃあ、楽しみにしてるよ。……悪いけど、このまま夜まではともに居られない。きみを迎えに行くために、方々ほうぼうに無理を言ったんだ。その埋め合わせをしてくるから」

 レナートはルーナの頬に軽くくちづけたのち、部屋を出ていったのだった。



 レナートと入れ替わりに侍女がやってきて、ルーナは宮殿内で出歩いても良い範囲などを教えられた。その後は、室内で歩く練習をして過ごした。
 誰も見ていないので靴を脱いで絨毯を歩いてみた。はじめて足裏で感じる感触がこそばゆい。

(クレア、待っていてね。必ずレナートに愛されて、人間になるから)

 ルーナは決意を新たに、両手を握りしめた。
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