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第四話 巨大生物と伯爵令嬢と遺構
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今日、ドロシーは初めてヘイゼルフォートに降り立ったが、中は活気がないというよりも、静かな街だった。古には対クレナード王国の最前線だったが、今となっては槍を置いて久しい老兵のように穏やかな余生を送っているようだ。
ひとけのない、ひび割れた石畳の街を見て、ドロシーはやるべきことを見定める。
そう、まずは食糧調達だ。お弁当として持ってきたパンはもう全部食べてしまったから、とりあえずベーカリーを探そう、と決めた。
(旅人向けの宿屋や料理屋があればいいけど、なさそうだし……酒場は騒がしいしお酒臭いからあんまり好きじゃないのよね。とにかく、急いで行けば聖ヘレナ修道院まで一日二日で辿り着けるはずだから、日持ちする食料だけあれば十分なはず)
ドロシー、もとい宇佐美唯は、見知らぬ街を彷徨いて、たまにすれ違う人間に目的の場所を尋ねつつ、世間話で情報収集を行うことには慣れていた。地元でなくては聞けない話なんていくらでもある、歴史に残らない話、時の権力者の笑い話、どこももう伝える人が少なくなった話、そんな話を聞いて回るのも旅の醍醐味だ。
ただ、ドロシーがヘイゼルフォートで最初に会った三十すぎくらいのおっとりとした地元民と思しき男性は、聖ヘレナ修道院の名前を聞いて首を傾げていた。
「修道院? この先にそんなものがあるんですか?」
その言葉を聞き、ドロシーは嫌な予感がした。
「ち、地図ではあるらしいのですけれど」
「でも、聞いたことありませんよ。修道女の姿も見かけたことはありませんし、そもそも国境沿いは辛気臭いんでこの街からは誰も近寄りませんし」
「えっと、クレナード王国との国境の砦はないのですか?」
「さあ……? 商人なり旅人なりが向こうの国からこっちに来るってことも、ほとんどありません。国境あたりにいるのは野生の猪や鹿くらいですよ」
何度か言葉を交わし、ベーカリーの手前まで案内してもらったあと、ドロシーの胸には疑念が渦巻く。
(待って、修道院って実在するの? 本当に? 名前だけ一人歩きしているってことはない?)
何だか、聖ヘレナ修道院の実在性が不確かとなってきた。ドロシーの前途に暗雲立ち込める。
確かに、帝都の大教会にはアルン伯爵領聖ヘレナ修道院の登録があった。しかし、それは今も継続して修道院が経営されている証拠にはならない。監督管轄は権威にすぎない大教会ではなく、アルン伯爵のはずだからだ。
そのドロシーの父であるアルン伯爵はといえば、領地に戻ることもほとんどないわけだから、聖ヘレナ修道院に付く「今はなき」という枕詞を知らなかったのかもしれない。名前だけ聞いたことのある辺境の修道院に娘を捨てる、ということしか考えてなかったのであれば、特に違和感はない。違和感はないが、ドロシーにとっては大変な徒労になる。
名義上は存在していても、実務があやふやだととっても面倒だ。それは前世だろうと今世だろうと関係ない、歴史上の事柄にも同じことが言える。名前だけあってその経歴がさっぱり不明な人物、経歴はあっても職務が何をしていたかさっぱり分からない人物、実在はしていたらしいがさっぱり失われた資料や建物——そんな例には枚挙にいとまがない。
とりあえず、今も焼きたてパンを窯から出しているベーカリーは実在している。ドロシーは熱気のこもったベーカリーの木製扉を開けて、その場から窯の前にいる汗だくのベーカリーの主人へ急ぎパン・ド・カンパーニュを三つ、と叫ぶ。
「三つね、はいよ」
「おいくら?」
「銅貨ならいくらでもいいよ。適当に置いていって」
ベーカリーの主人はパンを並べた鉄板ごと持ってきて、三つ取っていけとばかりにドロシーへ差し出してくる。それはともかく、値段の付け方が何ともおおらかで、逆にドロシーは困る。パンの小麦にかかる税金を厳しく計る租税調査人だって、こんな田舎にもいるだろう。
「そういうわけにはいかないわ。帝都と値段が同じならそれでいいから、はい、銅貨二枚」
「そりゃどうも。律儀なお嬢さんだね」
ベーカリーの主人は不思議そうに、丸い大きなパンを三つ、手持ちの麻袋へ放り込むドロシーを眺めていた。分厚い手に銅貨を二枚渡して、ドロシーは慌ててベーカリーの扉から離れた。暑くてすっかり顔中汗だらけだ。涼しい風が道路へ吹き込んで、生き返るような心地になった。
あとは井戸と管理人である近所のおばさんを見つけて水筒に水をもらい、ついでにドロシーはヘイゼルフォート外のあの黒巨羊について聞いてみることにした。
「あの黒い大きな羊って何なんですか? すごく睨まれて、敵視されましたけど」
「ああ、シープドッグのことだね」
「牧羊犬? あれが?」
「あはは、それがあいつの名前だよ。昔ここいらにいた賢い牧羊犬に育てられた、放牧している羊や牛たちの今のボスさ。もう随分、ヘイゼルフォートの番犬ならぬ番羊になって長いね。余計なことしなければ人間を襲うことはないから、安心しなさい」
「そ、そうですか……すごく怖かった」
「旅人が珍しかったんだろうね。シープドッグはヘイゼルフォートからは離れないし、追いかけていくこともないよ、多分」
多分、というおばさんの言葉をドロシーは聞き逃さなかった。黒巨羊シープドッグ、やはり近づかないほうがよさそうだ。もしやつの虫の居所が悪く、理不尽にも突進されれば避けるなんて無理だろう、吹っ飛ぶくらいでは済まない。
仕方なく、ドロシーはヘイゼルフォートの通用門から瓦礫の影を伝ってこっそり進んでいくことにした。こんなときに限って門には誰もおらず、ドロシー以外の通行人の影も形もない。腰を落とし、なるべく姿を見せないよう小走りを心がけ——とても腰が痛い——少しずつヘイゼルフォートから遠ざかる。
だが、ダメだった。
ヘイゼルフォートからやっと数百メートル離れたところで、ドロシーが瓦礫から瓦礫へと駆けるその瞬間、黒巨羊シープドッグに見つかってしまったのだ。
巨体の黒羊は瓦礫の合間を縫ってトコトコとゆっくり、しかし確実にドロシーめがけて歩いてくる。
その威容たるや、父のアルン伯爵や元婚約者らには物怖じしなくても、巨大生物との邂逅という直接的な生命の危機にはさすがのドロシーも恐怖を覚える。
「ひぇえ!? ちょっ、私、怪しくない! すぐお暇しますからー!」
もう隠れるどころか、一刻も早くこの場を去らねばならない。
ドロシーは貴族令嬢であることなど頭からすっかり抜け落ちるほどの全速力で、ヘイゼルフォートから走って逃げる。とにかく手足を振って、運動不足の軟弱な体に鞭打つ。
「いやああああ! 食べられるぅう!」
羊は草食である、人間を食べることはない。そう頭で分かっていても、あの黒巨羊シープドッグを見たあとでは通用しない。黒巨羊シープドッグが人喰い羊ではない、という証拠はないではないか。
無我夢中でドロシーは走り、ヘイゼルフォートが森の木々に隠れて見えなくなったころ、道端にスカート越しに膝を突いて、へたり込んだ。
そこにはかつて伯爵家令嬢であった少女の面影はなく、髪を振り乱してボーラーハットのつばを握り締め、何とか持ってきた荷物をそこいらの野原に放り出して散々な思いをした少女の姿があるだけだ。荒れに荒れた息が整い、水筒の水を落ち着いて飲めるようになるまで随分と時間がかかった。
「ひ、ひどい目に遭った……! これからは運動、運動しなきゃ……!」
前世の死因を考えれば、足腰を鍛えておいて損はない。ドロシーはこれからの日課に体の鍛錬を取り入れることを固く誓う。
とはいえ、喉元過ぎれば何とやら。
灰色の髪を整え、ボーラーハットを被り直し、トランクと麻袋をしっかり手元に握って、ドロシーは周囲を見回し、状況を確認する。
どうやら森は深くなく、木々の葉が遮る空も道の先も明るい。しかも、かなり削れてはいるが無数の表面を削られた一メートルほどの石が、道に敷き詰められている跡があった。
やっと人工物の痕跡を見つけて、ドロシーは嬉しくなった。
「舗装されていた道だわ。ということは!」
ここまでの道のりはどうやらその削れた石の上に土が覆い被さってしまっていたらしく、だんだんと土が薄くなっていくにつれて本来の石が現れてきたようだ。
かろうじて平面の残る大きな石が、細かい石と土で隙間を埋められて整然と並ぶ。よくよく見れば、道の端と端にある石には馬車の轍と思しき不自然な欠けも見受けられた。人が通らないだけあって雑草は生えているのだが、どれも石畳を隠せるほどの背丈はない。冷涼で雨がそれほど降らない場所では雑草はさほど生えないのだ、そのあたり高温多湿な日本とは事情が違うおかげで、舗装を一度すればこうして綺麗に道のままだ。
この先には何度も戦争した大昔の敵国があって、その時代にそこへ繋がる道がきちんと舗装されて造られていたその痕跡を辿りながら、ドロシーは先ほどまでの不幸を忘れてワクワクする。
そして、森を抜け出て——眼前に広がる緩やかな丘陵を持つ平地に、青空の下でその道が続いていることに、感動を禁じえない。短い草花が咲き誇る草原が見渡すかぎりに広がり、かつて街路樹として等間隔に植えられていたであろう西洋菩提樹の大樹が今も立派に道幅を示している。
(すごい。もし街路樹が糸杉だったら、まるでイタリアのアッピア街道みたいだったかも……人間が来なくなったって、こうして遺っていくんだわ)
うんうん、と頷いてドロシーは悠久の歴史の余韻を味わう。家で歴史書を読んでいるだけでは味わえない、地図と見聞きした情報と自分の足で探し出した『発見』なのだ。
おまけに、道の端をよくよく見れば、乾いた溝がある。それも、モルタルで形作られたコンクリートを使ってしっかりとU字に作られている溝だ。
それを見たドロシーは目を輝かせ、溝のそばにしゃがみ込んではしゃいだ。
「わ、水路跡だ! すごい、このあたりまで水道を引いてたの? 近くに川はないのに、もしかして水道橋があったとか? 探さなくちゃ!」
今もひび割れのない高品質なコンクリートを水道建築に使う技術が我がヴァンデル帝国にあったとは、まるでかつて地中海を制覇したローマ帝国のようだ。
となると、他にもロストテクノロジーに相当する技術が、この国には残っているかもしれない。学術、建築、兵器、金属加工技術、蒸気機関や魚醤だってそうだ。前世の世界では失われた技術が、この世界ではまだあってもおかしくはないだろう。
そう考えると、ドロシーはワクワクが止まらない。
ワクワク、ワクワク……顔を上げれば、どでかい灰色熊がいることにも気付かなかったほどに。
「わー……熊、だ」
灰色の名に反して黄色みがかった茶色の強靭な毛皮、まんまるお耳に太い四肢に大きな口。太陽がドロシーの背にあるせいで、その巨体の影がかかることはない。
三メートル近い熊が、両足で立ってきょとんと目の前のドロシーを見下ろしていた。
急転直下、顔の青ざめたドロシーは「うげっ……」と無意識に唸る。
——一日に二回も命の危機って、どういうこと?
ひとけのない、ひび割れた石畳の街を見て、ドロシーはやるべきことを見定める。
そう、まずは食糧調達だ。お弁当として持ってきたパンはもう全部食べてしまったから、とりあえずベーカリーを探そう、と決めた。
(旅人向けの宿屋や料理屋があればいいけど、なさそうだし……酒場は騒がしいしお酒臭いからあんまり好きじゃないのよね。とにかく、急いで行けば聖ヘレナ修道院まで一日二日で辿り着けるはずだから、日持ちする食料だけあれば十分なはず)
ドロシー、もとい宇佐美唯は、見知らぬ街を彷徨いて、たまにすれ違う人間に目的の場所を尋ねつつ、世間話で情報収集を行うことには慣れていた。地元でなくては聞けない話なんていくらでもある、歴史に残らない話、時の権力者の笑い話、どこももう伝える人が少なくなった話、そんな話を聞いて回るのも旅の醍醐味だ。
ただ、ドロシーがヘイゼルフォートで最初に会った三十すぎくらいのおっとりとした地元民と思しき男性は、聖ヘレナ修道院の名前を聞いて首を傾げていた。
「修道院? この先にそんなものがあるんですか?」
その言葉を聞き、ドロシーは嫌な予感がした。
「ち、地図ではあるらしいのですけれど」
「でも、聞いたことありませんよ。修道女の姿も見かけたことはありませんし、そもそも国境沿いは辛気臭いんでこの街からは誰も近寄りませんし」
「えっと、クレナード王国との国境の砦はないのですか?」
「さあ……? 商人なり旅人なりが向こうの国からこっちに来るってことも、ほとんどありません。国境あたりにいるのは野生の猪や鹿くらいですよ」
何度か言葉を交わし、ベーカリーの手前まで案内してもらったあと、ドロシーの胸には疑念が渦巻く。
(待って、修道院って実在するの? 本当に? 名前だけ一人歩きしているってことはない?)
何だか、聖ヘレナ修道院の実在性が不確かとなってきた。ドロシーの前途に暗雲立ち込める。
確かに、帝都の大教会にはアルン伯爵領聖ヘレナ修道院の登録があった。しかし、それは今も継続して修道院が経営されている証拠にはならない。監督管轄は権威にすぎない大教会ではなく、アルン伯爵のはずだからだ。
そのドロシーの父であるアルン伯爵はといえば、領地に戻ることもほとんどないわけだから、聖ヘレナ修道院に付く「今はなき」という枕詞を知らなかったのかもしれない。名前だけ聞いたことのある辺境の修道院に娘を捨てる、ということしか考えてなかったのであれば、特に違和感はない。違和感はないが、ドロシーにとっては大変な徒労になる。
名義上は存在していても、実務があやふやだととっても面倒だ。それは前世だろうと今世だろうと関係ない、歴史上の事柄にも同じことが言える。名前だけあってその経歴がさっぱり不明な人物、経歴はあっても職務が何をしていたかさっぱり分からない人物、実在はしていたらしいがさっぱり失われた資料や建物——そんな例には枚挙にいとまがない。
とりあえず、今も焼きたてパンを窯から出しているベーカリーは実在している。ドロシーは熱気のこもったベーカリーの木製扉を開けて、その場から窯の前にいる汗だくのベーカリーの主人へ急ぎパン・ド・カンパーニュを三つ、と叫ぶ。
「三つね、はいよ」
「おいくら?」
「銅貨ならいくらでもいいよ。適当に置いていって」
ベーカリーの主人はパンを並べた鉄板ごと持ってきて、三つ取っていけとばかりにドロシーへ差し出してくる。それはともかく、値段の付け方が何ともおおらかで、逆にドロシーは困る。パンの小麦にかかる税金を厳しく計る租税調査人だって、こんな田舎にもいるだろう。
「そういうわけにはいかないわ。帝都と値段が同じならそれでいいから、はい、銅貨二枚」
「そりゃどうも。律儀なお嬢さんだね」
ベーカリーの主人は不思議そうに、丸い大きなパンを三つ、手持ちの麻袋へ放り込むドロシーを眺めていた。分厚い手に銅貨を二枚渡して、ドロシーは慌ててベーカリーの扉から離れた。暑くてすっかり顔中汗だらけだ。涼しい風が道路へ吹き込んで、生き返るような心地になった。
あとは井戸と管理人である近所のおばさんを見つけて水筒に水をもらい、ついでにドロシーはヘイゼルフォート外のあの黒巨羊について聞いてみることにした。
「あの黒い大きな羊って何なんですか? すごく睨まれて、敵視されましたけど」
「ああ、シープドッグのことだね」
「牧羊犬? あれが?」
「あはは、それがあいつの名前だよ。昔ここいらにいた賢い牧羊犬に育てられた、放牧している羊や牛たちの今のボスさ。もう随分、ヘイゼルフォートの番犬ならぬ番羊になって長いね。余計なことしなければ人間を襲うことはないから、安心しなさい」
「そ、そうですか……すごく怖かった」
「旅人が珍しかったんだろうね。シープドッグはヘイゼルフォートからは離れないし、追いかけていくこともないよ、多分」
多分、というおばさんの言葉をドロシーは聞き逃さなかった。黒巨羊シープドッグ、やはり近づかないほうがよさそうだ。もしやつの虫の居所が悪く、理不尽にも突進されれば避けるなんて無理だろう、吹っ飛ぶくらいでは済まない。
仕方なく、ドロシーはヘイゼルフォートの通用門から瓦礫の影を伝ってこっそり進んでいくことにした。こんなときに限って門には誰もおらず、ドロシー以外の通行人の影も形もない。腰を落とし、なるべく姿を見せないよう小走りを心がけ——とても腰が痛い——少しずつヘイゼルフォートから遠ざかる。
だが、ダメだった。
ヘイゼルフォートからやっと数百メートル離れたところで、ドロシーが瓦礫から瓦礫へと駆けるその瞬間、黒巨羊シープドッグに見つかってしまったのだ。
巨体の黒羊は瓦礫の合間を縫ってトコトコとゆっくり、しかし確実にドロシーめがけて歩いてくる。
その威容たるや、父のアルン伯爵や元婚約者らには物怖じしなくても、巨大生物との邂逅という直接的な生命の危機にはさすがのドロシーも恐怖を覚える。
「ひぇえ!? ちょっ、私、怪しくない! すぐお暇しますからー!」
もう隠れるどころか、一刻も早くこの場を去らねばならない。
ドロシーは貴族令嬢であることなど頭からすっかり抜け落ちるほどの全速力で、ヘイゼルフォートから走って逃げる。とにかく手足を振って、運動不足の軟弱な体に鞭打つ。
「いやああああ! 食べられるぅう!」
羊は草食である、人間を食べることはない。そう頭で分かっていても、あの黒巨羊シープドッグを見たあとでは通用しない。黒巨羊シープドッグが人喰い羊ではない、という証拠はないではないか。
無我夢中でドロシーは走り、ヘイゼルフォートが森の木々に隠れて見えなくなったころ、道端にスカート越しに膝を突いて、へたり込んだ。
そこにはかつて伯爵家令嬢であった少女の面影はなく、髪を振り乱してボーラーハットのつばを握り締め、何とか持ってきた荷物をそこいらの野原に放り出して散々な思いをした少女の姿があるだけだ。荒れに荒れた息が整い、水筒の水を落ち着いて飲めるようになるまで随分と時間がかかった。
「ひ、ひどい目に遭った……! これからは運動、運動しなきゃ……!」
前世の死因を考えれば、足腰を鍛えておいて損はない。ドロシーはこれからの日課に体の鍛錬を取り入れることを固く誓う。
とはいえ、喉元過ぎれば何とやら。
灰色の髪を整え、ボーラーハットを被り直し、トランクと麻袋をしっかり手元に握って、ドロシーは周囲を見回し、状況を確認する。
どうやら森は深くなく、木々の葉が遮る空も道の先も明るい。しかも、かなり削れてはいるが無数の表面を削られた一メートルほどの石が、道に敷き詰められている跡があった。
やっと人工物の痕跡を見つけて、ドロシーは嬉しくなった。
「舗装されていた道だわ。ということは!」
ここまでの道のりはどうやらその削れた石の上に土が覆い被さってしまっていたらしく、だんだんと土が薄くなっていくにつれて本来の石が現れてきたようだ。
かろうじて平面の残る大きな石が、細かい石と土で隙間を埋められて整然と並ぶ。よくよく見れば、道の端と端にある石には馬車の轍と思しき不自然な欠けも見受けられた。人が通らないだけあって雑草は生えているのだが、どれも石畳を隠せるほどの背丈はない。冷涼で雨がそれほど降らない場所では雑草はさほど生えないのだ、そのあたり高温多湿な日本とは事情が違うおかげで、舗装を一度すればこうして綺麗に道のままだ。
この先には何度も戦争した大昔の敵国があって、その時代にそこへ繋がる道がきちんと舗装されて造られていたその痕跡を辿りながら、ドロシーは先ほどまでの不幸を忘れてワクワクする。
そして、森を抜け出て——眼前に広がる緩やかな丘陵を持つ平地に、青空の下でその道が続いていることに、感動を禁じえない。短い草花が咲き誇る草原が見渡すかぎりに広がり、かつて街路樹として等間隔に植えられていたであろう西洋菩提樹の大樹が今も立派に道幅を示している。
(すごい。もし街路樹が糸杉だったら、まるでイタリアのアッピア街道みたいだったかも……人間が来なくなったって、こうして遺っていくんだわ)
うんうん、と頷いてドロシーは悠久の歴史の余韻を味わう。家で歴史書を読んでいるだけでは味わえない、地図と見聞きした情報と自分の足で探し出した『発見』なのだ。
おまけに、道の端をよくよく見れば、乾いた溝がある。それも、モルタルで形作られたコンクリートを使ってしっかりとU字に作られている溝だ。
それを見たドロシーは目を輝かせ、溝のそばにしゃがみ込んではしゃいだ。
「わ、水路跡だ! すごい、このあたりまで水道を引いてたの? 近くに川はないのに、もしかして水道橋があったとか? 探さなくちゃ!」
今もひび割れのない高品質なコンクリートを水道建築に使う技術が我がヴァンデル帝国にあったとは、まるでかつて地中海を制覇したローマ帝国のようだ。
となると、他にもロストテクノロジーに相当する技術が、この国には残っているかもしれない。学術、建築、兵器、金属加工技術、蒸気機関や魚醤だってそうだ。前世の世界では失われた技術が、この世界ではまだあってもおかしくはないだろう。
そう考えると、ドロシーはワクワクが止まらない。
ワクワク、ワクワク……顔を上げれば、どでかい灰色熊がいることにも気付かなかったほどに。
「わー……熊、だ」
灰色の名に反して黄色みがかった茶色の強靭な毛皮、まんまるお耳に太い四肢に大きな口。太陽がドロシーの背にあるせいで、その巨体の影がかかることはない。
三メートル近い熊が、両足で立ってきょとんと目の前のドロシーを見下ろしていた。
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