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第三話 無闇に野生動物に近づいてはいけない
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草原の草花は春の訪れを待って目覚めていない、まだ肌寒い季節だった。
ドロシーは春を待たずにアルン伯爵領に入り、さらに辺境にある聖ヘレナ修道院まで辿り着かなくてはならない。最寄りの都市まで一両日中にも到着するだろうが、そこからは徒歩で向かうため、準備が必要だった。
老若男女が座る静かな二列ベンチ式の乗合馬車の窓で、ドロシーは振り返って自分の姿を今一度確認する。
セミロングの灰色の髪に、青灰色の瞳、飾り気のない作業用のエプロンドレス、くたびれたボーラーハットにツィードのコート。顔立ちは中の上といったところだろうか、美人と言われてもおかしくはないが、褒められるほどではない。必要最低限の容姿は持っている程度の話だ。
もしドロシーが飛び抜けた美人なら、傾いた実家を立て直すことだって容易だっただろう。実際には貴族学校でも無難な立ち位置に居続け、『遊ぶならお買い得な貴族令嬢』と貴族の子息たちに認識されていたわけで、別段人気があったわけではない。美人でも性格がアレなアイナよりはマシだっただけだ。
それはさておき、ドロシーは実家から持ってきた、いくつかの分厚い歴史書に想いを馳せる。
(ドロシーが学んだところだと、アルン伯爵家は五百年前からこの国の皇帝家に仕えている古参中の古参。だからこそ辺境でありながら、当時の交通の要衝だったアルンを任されたけど、時代の流れで街道も敵国も変わり、今となっては誰も訪れない土地に。それに途中から歴代当主は帝都にいたせいで、領地経営はほとんど現地の有力者任せ、当然栄えさせる気のない現地からの税収もさして増えず、それどころか……まあ、今のアルン伯爵だけのせいじゃないけど、貴族としての責務を果たせない程度の人間だってことは間違いないわね)
今のドロシーには、貴族令嬢として学んだ知識、アルン伯爵家令嬢として耳に入れた実家の情報、そして前世の記憶と知恵がある。その複合的視点を得た今、それらが相乗効果をもたらし、現状把握と先を見る目は前と比べ物にならないほど広範で鋭利なものに進化していた。
例えば、アルン伯爵家の立て直しだって今のドロシーならば可能だ。
(アルン伯爵領の辺境地の先には、かつての敵国の大領地がある。今となっては広大な農地で、有力な貴族がいるわけじゃないけど、そこからもし穀物の大量輸入ができれば中継地となるアルン伯爵領は潤うかもしれない。以前の街道は整備し直せば使えるんだから、大きなアドバンテージだわ。第一、もう敵国じゃないんだし、少し商談をまとめればあっという間に……ああ、今まで『かつて敵国だった』っていう意識が邪魔をして、歴代アルン伯爵は何もしてこなかったのね)
貴族にとって、歴史は大変重要なものだ。自分たちの由緒を保証し、積み重ねてきた努力の証明であり、貴族を貴族たらしめる理由の語り部だからだ。
それゆえに、かつての敵国という敵対意識を数百年経っても捨て去れなかった。それはもうどうしようもない、古今東西共通する貴族の習性のようなものだからだ。
アルン伯爵領の所属するヴァンデル帝国は、西端のアルン伯爵領と隣接するクレナード王国とはもう国力を争う立場にはない。クレナード王国はかつての栄光を失い、アルン伯爵領とともに没落して今も何とか存在するだけだ。世界の中心はヴァンデル帝国とその北方にあるトリグラフ三公同盟へと移って久しい。
しかし、今のドロシーにアルン伯爵領を立て直す義理はない。興味があるのは、アルン伯爵領に埋もれている歴史的建造物の遺跡訪問や資料の発掘作業だ。
(間違いなく、ここには埋もれている歴史的建造物が多数ある。私の磨いてきた物欲センサーがそう言っているわ。いや物欲じゃなくて単純に学術的興味だけど。もしかするとお宝があるかもしれないし、あんまり気が進まないけど観光地にもなるかもしれない。まあ、とりあえず見てから判断ね)
歴女として生涯を閉じた前世の記憶は、ドロシーにとって秘められていた趣味がやっと花開いたようなものだった。
大学で歴史学を学び、それに飽き足らずアマチュア歴史家として各地を訪ね歩き、フィールドワーク好きが高じてアウトドア技術まで習得してしまった趣味人だった前世。短い人生だったが、日本全国はおろか世界中を一人旅するほどのめり込んでいたものの最中で死んだのだから、本望というべきかもしれなかった。
人間は常にロマンを求める。ただ、ロマンを求めたら女のくせに、と言われる。それが嫌で、前世では群れることはなかった。出会いだってなかった。
(今世ではその点、注意しないと。孤独死再び、なんて嫌だし)
ドロシーは独りで深く深く頷いた。もうちょっと人間関係を見直そう、という目標は昨日さっそく頓挫したばかりだが、聖ヘレナ修道院では上手くやることを誓う。
そうやって世間の喧騒を忘れ、二日ほどかけてのんびりとアルン伯爵領に馬車が差し掛かると、明らかに土地の様相が変わってくる。
まず、未開拓の原野が多くなってきたのだ。畑は限られた場所にだけ、遠くに牛や馬、羊、ヤギらしき影がまばらに草を食んでいる。街道から見えるところどころに林もあるが、進んでいくにつれて森と言っていい規模になっていく。道も馬車同士がすれ違えないほど狭くなり、道の端っこを歩く農民たちは疲れ切っている。荷物を運ぶロバまで元気がない。
(これは……貧しいから、よね。アルン伯爵家の怠慢だわ。でも、この惨状を本当にお父様は知っているのかしら。何かとお金のかかる帝都なんか引き上げて、こっちに戻って領地経営に専念すればいいのに)
それもまた、帝都にしがみつく貴族には決断が難しいことだった。アルン伯爵にとっては、皇帝家に仕えてきたという誇りが、帝都を去らなくてはやっていけない現実から目を逸らさせている。
辛気臭いアルン伯爵領の中程まで来ると、乗合馬車の客もだいぶ減ってきた。終点である聖ヘレナ修道院最寄りの都市ヘイゼルフォートの屋根もない馬車駅に辿り着くころには、馬車から降りてくる客はドロシーただ一人になっており、ヘイゼルフォートから乗り込む客は一人もいないようだった。
ヘイゼルフォート、直訳すれば『榛城砦』という名のとおり、ハシバミの低木が囲む、城壁のある都市だ。とはいえ城壁が作られたのは大昔で、欠けて朽ちた石が壁から落ち、そこいらに散乱している。唯一の高塔は町中に時刻を知らせる時計塔で、他はみんな同じ朱色の屋根をした二階建ての建物ばかりが円周状に三重ほど並んでいるのみ、そこから幅二、三百メートルほどの外周はかつての城壁跡である平地に瓦礫が広がり、その隙間にベルを付けた牛や羊が放牧されている有様だった。
しかし、トランク一つ持ってドロシーが草を食む牛たちをじっと見ていると、違和感を覚えた。
(なんて牧歌的な……いやいや、近くでよく見ると牛の種類、あれ何かしら。ホルスタインでもジャージーでもない色合いだし、何だかゴツいわ。荷役用ってわけでもないだろうし)
瓦礫の間に点在する牛たちは、よく見る白黒で乳房の大きな牛や茶色の乳牛ではなく、何となく精悍な顔つきをしていて野良牛かと見紛うほどだ。さすがのドロシーも牛の種類までは詳しくない、在来種だろうということにして、今度は羊に目を向ける。
肌は真っ黒で毛は白い、まるでぬいぐるみのような羊たちがのんびりとしていた。角は見当たらない——と思いきや、一頭の大柄な羊を見つけ、ドロシーは戦慄する。
(何あれ、明らかに羊の群れのボスじゃない? っていうか怖っ! こっち見てる!)
普通の羊の倍はあろうかという大きさの、ぐるぐると捻じ曲がっているくせにまっすぐ後ろに傾いて生えた二本の巨大な角を持つ黒毛の羊がドロシーを睨みつけていた。
異様だ、今にも突進してきそうであまりにも怖い。いや、すでにドロシーのほうへと歩を進めんとしている。
ドロシーは慌てて黒巨羊から目を逸らし、そそくさと街中へ逃げる。とんだ化け物との遭遇である。日本の中国地方の山城跡探索では野生の猿や猪に遭遇したが、幸いにも襲われたことはなかったし、あの黒巨羊の異様な威圧感などこれまで経験したことがない。
(ひえぇ、おっかない……! 羊、怖い! 何でここはあんなのを放牧しているのよぅ!)
ボーラーハットを押さえながら、ドロシーは半泣きでヘイゼルフォートへ走り込んだ。
ドロシーは春を待たずにアルン伯爵領に入り、さらに辺境にある聖ヘレナ修道院まで辿り着かなくてはならない。最寄りの都市まで一両日中にも到着するだろうが、そこからは徒歩で向かうため、準備が必要だった。
老若男女が座る静かな二列ベンチ式の乗合馬車の窓で、ドロシーは振り返って自分の姿を今一度確認する。
セミロングの灰色の髪に、青灰色の瞳、飾り気のない作業用のエプロンドレス、くたびれたボーラーハットにツィードのコート。顔立ちは中の上といったところだろうか、美人と言われてもおかしくはないが、褒められるほどではない。必要最低限の容姿は持っている程度の話だ。
もしドロシーが飛び抜けた美人なら、傾いた実家を立て直すことだって容易だっただろう。実際には貴族学校でも無難な立ち位置に居続け、『遊ぶならお買い得な貴族令嬢』と貴族の子息たちに認識されていたわけで、別段人気があったわけではない。美人でも性格がアレなアイナよりはマシだっただけだ。
それはさておき、ドロシーは実家から持ってきた、いくつかの分厚い歴史書に想いを馳せる。
(ドロシーが学んだところだと、アルン伯爵家は五百年前からこの国の皇帝家に仕えている古参中の古参。だからこそ辺境でありながら、当時の交通の要衝だったアルンを任されたけど、時代の流れで街道も敵国も変わり、今となっては誰も訪れない土地に。それに途中から歴代当主は帝都にいたせいで、領地経営はほとんど現地の有力者任せ、当然栄えさせる気のない現地からの税収もさして増えず、それどころか……まあ、今のアルン伯爵だけのせいじゃないけど、貴族としての責務を果たせない程度の人間だってことは間違いないわね)
今のドロシーには、貴族令嬢として学んだ知識、アルン伯爵家令嬢として耳に入れた実家の情報、そして前世の記憶と知恵がある。その複合的視点を得た今、それらが相乗効果をもたらし、現状把握と先を見る目は前と比べ物にならないほど広範で鋭利なものに進化していた。
例えば、アルン伯爵家の立て直しだって今のドロシーならば可能だ。
(アルン伯爵領の辺境地の先には、かつての敵国の大領地がある。今となっては広大な農地で、有力な貴族がいるわけじゃないけど、そこからもし穀物の大量輸入ができれば中継地となるアルン伯爵領は潤うかもしれない。以前の街道は整備し直せば使えるんだから、大きなアドバンテージだわ。第一、もう敵国じゃないんだし、少し商談をまとめればあっという間に……ああ、今まで『かつて敵国だった』っていう意識が邪魔をして、歴代アルン伯爵は何もしてこなかったのね)
貴族にとって、歴史は大変重要なものだ。自分たちの由緒を保証し、積み重ねてきた努力の証明であり、貴族を貴族たらしめる理由の語り部だからだ。
それゆえに、かつての敵国という敵対意識を数百年経っても捨て去れなかった。それはもうどうしようもない、古今東西共通する貴族の習性のようなものだからだ。
アルン伯爵領の所属するヴァンデル帝国は、西端のアルン伯爵領と隣接するクレナード王国とはもう国力を争う立場にはない。クレナード王国はかつての栄光を失い、アルン伯爵領とともに没落して今も何とか存在するだけだ。世界の中心はヴァンデル帝国とその北方にあるトリグラフ三公同盟へと移って久しい。
しかし、今のドロシーにアルン伯爵領を立て直す義理はない。興味があるのは、アルン伯爵領に埋もれている歴史的建造物の遺跡訪問や資料の発掘作業だ。
(間違いなく、ここには埋もれている歴史的建造物が多数ある。私の磨いてきた物欲センサーがそう言っているわ。いや物欲じゃなくて単純に学術的興味だけど。もしかするとお宝があるかもしれないし、あんまり気が進まないけど観光地にもなるかもしれない。まあ、とりあえず見てから判断ね)
歴女として生涯を閉じた前世の記憶は、ドロシーにとって秘められていた趣味がやっと花開いたようなものだった。
大学で歴史学を学び、それに飽き足らずアマチュア歴史家として各地を訪ね歩き、フィールドワーク好きが高じてアウトドア技術まで習得してしまった趣味人だった前世。短い人生だったが、日本全国はおろか世界中を一人旅するほどのめり込んでいたものの最中で死んだのだから、本望というべきかもしれなかった。
人間は常にロマンを求める。ただ、ロマンを求めたら女のくせに、と言われる。それが嫌で、前世では群れることはなかった。出会いだってなかった。
(今世ではその点、注意しないと。孤独死再び、なんて嫌だし)
ドロシーは独りで深く深く頷いた。もうちょっと人間関係を見直そう、という目標は昨日さっそく頓挫したばかりだが、聖ヘレナ修道院では上手くやることを誓う。
そうやって世間の喧騒を忘れ、二日ほどかけてのんびりとアルン伯爵領に馬車が差し掛かると、明らかに土地の様相が変わってくる。
まず、未開拓の原野が多くなってきたのだ。畑は限られた場所にだけ、遠くに牛や馬、羊、ヤギらしき影がまばらに草を食んでいる。街道から見えるところどころに林もあるが、進んでいくにつれて森と言っていい規模になっていく。道も馬車同士がすれ違えないほど狭くなり、道の端っこを歩く農民たちは疲れ切っている。荷物を運ぶロバまで元気がない。
(これは……貧しいから、よね。アルン伯爵家の怠慢だわ。でも、この惨状を本当にお父様は知っているのかしら。何かとお金のかかる帝都なんか引き上げて、こっちに戻って領地経営に専念すればいいのに)
それもまた、帝都にしがみつく貴族には決断が難しいことだった。アルン伯爵にとっては、皇帝家に仕えてきたという誇りが、帝都を去らなくてはやっていけない現実から目を逸らさせている。
辛気臭いアルン伯爵領の中程まで来ると、乗合馬車の客もだいぶ減ってきた。終点である聖ヘレナ修道院最寄りの都市ヘイゼルフォートの屋根もない馬車駅に辿り着くころには、馬車から降りてくる客はドロシーただ一人になっており、ヘイゼルフォートから乗り込む客は一人もいないようだった。
ヘイゼルフォート、直訳すれば『榛城砦』という名のとおり、ハシバミの低木が囲む、城壁のある都市だ。とはいえ城壁が作られたのは大昔で、欠けて朽ちた石が壁から落ち、そこいらに散乱している。唯一の高塔は町中に時刻を知らせる時計塔で、他はみんな同じ朱色の屋根をした二階建ての建物ばかりが円周状に三重ほど並んでいるのみ、そこから幅二、三百メートルほどの外周はかつての城壁跡である平地に瓦礫が広がり、その隙間にベルを付けた牛や羊が放牧されている有様だった。
しかし、トランク一つ持ってドロシーが草を食む牛たちをじっと見ていると、違和感を覚えた。
(なんて牧歌的な……いやいや、近くでよく見ると牛の種類、あれ何かしら。ホルスタインでもジャージーでもない色合いだし、何だかゴツいわ。荷役用ってわけでもないだろうし)
瓦礫の間に点在する牛たちは、よく見る白黒で乳房の大きな牛や茶色の乳牛ではなく、何となく精悍な顔つきをしていて野良牛かと見紛うほどだ。さすがのドロシーも牛の種類までは詳しくない、在来種だろうということにして、今度は羊に目を向ける。
肌は真っ黒で毛は白い、まるでぬいぐるみのような羊たちがのんびりとしていた。角は見当たらない——と思いきや、一頭の大柄な羊を見つけ、ドロシーは戦慄する。
(何あれ、明らかに羊の群れのボスじゃない? っていうか怖っ! こっち見てる!)
普通の羊の倍はあろうかという大きさの、ぐるぐると捻じ曲がっているくせにまっすぐ後ろに傾いて生えた二本の巨大な角を持つ黒毛の羊がドロシーを睨みつけていた。
異様だ、今にも突進してきそうであまりにも怖い。いや、すでにドロシーのほうへと歩を進めんとしている。
ドロシーは慌てて黒巨羊から目を逸らし、そそくさと街中へ逃げる。とんだ化け物との遭遇である。日本の中国地方の山城跡探索では野生の猿や猪に遭遇したが、幸いにも襲われたことはなかったし、あの黒巨羊の異様な威圧感などこれまで経験したことがない。
(ひえぇ、おっかない……! 羊、怖い! 何でここはあんなのを放牧しているのよぅ!)
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