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かえせ
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その日、県立舵津高校では臨時の全校集会が開かれた。
朝のホームルームが終わるや否や一斉に体育館に集められ、クラスごとにざわつく生徒たちの表情はどこか困惑と興味関心に溢れ、まだ何も知らないためか呑気だ。
一方で、事情を知る教職員たちがだんまりを貫き、校長の話を待っている。
それを横目で見ていた二年生の阿知亨は、近くに友人がいないせいもあって、喋らずに済んでいた。いや、それは幸運だったと言えるのだが、ある意味では己の不運を自覚してしまっている以上、時間が早く過ぎ去ることを祈るほかなくなっている。
(……みんな、あれが見えてないんだな)
亨の視線の先には、体育館のステージがある。まだ壇上には誰もおらず、マイクがポツンと突っ立っているだけだ。ただでさえ興味のない人物の登場イベントの前に、ステージの様子をつぶさに観察するような暇人はそう多くないため、誰も気付いていなくてもおかしくはない。
亨だって別段暇というわけではなく、ただ、見てしまっただけなのだ。ごく普通の理系の男子高校生、可もなく不可もなく生きていく平凡で健全な十七歳でしかない。
それなのに、亨の視線は今もステージの上、厳密に言えばライトがいくつかぶら下がる天井近くの照明レールへ向いている。朝であるため体育館の窓からの光で十分であり、ライトの明かりはついていない。
(だったら、あれはいつ取り付けたんだ? ぶら下がっているのか? それとも……そう見えるだけの何かが、あそこにあるのか?)
亨は、こんな思考はやめるべきだと分かっていても、頭を走らせてしまう。
亨の目に映るのは、ステージの天井にある照明レールと細いもので繋がった『物体』だ。
それは動いている。
それは首を吊っているように見える。
それは丸く、大きく、三つの手か足を下ろしている。
それはよく見えない。
それは黒いようだ。
それは——とかげか女、のように思える。
亨は、それが何であるかまでは分からない。分からないからこそ、恐怖を払拭しようと頭は勝手に動き、観察し、分析しようとする。
それがもっともしてはいけないことなのだと本能的に分かっていて、まもなくぼんやりとした認識が固まりつつあったころ。
「えー、みなさん、おはようございます。突然のことで戸惑っていると思いますが、少々お話があります。まずは」
一般常識的な中年女性そのものがスーツを着た校長の声で、亨の思考は強制的にシャットダウンされた。校長は壇上に上がらず、マイクを片手に教員の間で何か連絡を受けている。段取りが悪いのか、それとも突然のことで教員も慌てているのか。どちらにせよ、何らかの情報を与えてもらえると信じた生徒たちは口を閉ざし、スピーカーを介して聞こえてくる音声に耳を傾ける。
「校舎三階を閉鎖していることは、まだこちらも落ち着いていないため具体的なことは申し上げられません。ただ、えー……専門家が来た? 早いわね」
その言葉とほぼ同時に、ステージへと上がる人影が亨の目に映った。
深緑のオーバーコート、ジーンズ、長髪の女性がツカツカと迷いなく歩いていく姿を見て、亨だけでなく体育館中の目が釘付けとなる。学校内では見たことのない人物だという共通認識はともかく、その女性がステージの真ん中に立ちどまって、天井を見上げていたおかしな行動もまた目を引く。
すると、女性は突然ステージ上のマイクを握り、低い声でこう唸った。
「今から言うこと復唱しぃ。ええか?
カヤシニオコナウ、
カヤシニオコナイ、
オロセバムコウハ、
チバナニサカスゾ」
しん、と沈黙が体育館を包む。
だが、それはほんの一瞬のことだった。
「か、カヤシニ、オコナウ」
誰かがつぶやいた。
「カヤシニオコナイ」
震える声が無数に続く。
「オロセバ、ムコウハ」
疑問系になりながらも、忠実にその言葉を復唱する。
「チバナニサカスゾ……?」
亨もその言葉を繰り返した。
その言葉を口にしていないと、ステージの上で起きていることから身を守れないと思ったからだ。
天井の照明レールからぶら下がった黒いものが、爆発的に膨らみ、頭のようなものがステージの床すれすれまで落ちてきていた。
それは口を開いていて、何か言葉を紡いでいるようだが、誰もがその言葉を認識できていない。音声として耳に入ってこないし、入ってこないよう長髪の女性が何かをしているのだと思った。
ただただ、復唱を続ける亨は思う
(あれが、膨らんで、落ちてきて、触れればどうなるんだ……? 死ぬ? まさか、いや、でも)
現状、あのステージの上にあるものについては、何も分からない。しかし、今は他の生徒たちもおそらくあれが見えている。だから、必死になって復唱を続けている。
——カヤシニオコナウ、
——カヤシニオコナイ、
——オロセバムコウハ、
——チバナニサカスゾ。
そんな言葉を、延々と繰り返している。教員も生徒も、疑う素振りさえ見せずにだ。
あれが動けば自分たちに害を与える、と無意識に知っているかのように、そうなってくれるなと祈り、教わった呪文を無心にささやく。
(非現実だと? ああそうだろうさ。でも、怖いんだよ! あれが何かすれば死ぬんじゃないかって、怖くてしょうがない! 死にたくない、だから早く!)
何度繰り返し、繰り返しその呪文が口にされたか分からない。だが、時間はさほど経っていないはずで、やがて長髪の女性がまたマイクを使う。
「おう、十分じゃ。
ソクザミジンニマラベヤ、
オンアビラウンケンソワカ。
モエユケ、タエユケ、カレユケ」
長髪の女性が、オーバーコートから何かを取り出した。亨の目にははっきりとは見えないが、軽いもの、大きな紙のようなものとだけは分かる。
それを思いっきり、長髪の女性は黒いそれへ叩きつけた。
「お前に居り場所はない。消え」
長髪の女性がマイクを放り、両の手を打てば、甲高い破裂音が端まで届く。
ぱぁん。
その直後、ステージ上に、天井の照明レールが丸ごと落ちてきた。
埃の塵は高く舞い上がり、床材は重さに耐えきれず破壊され、ブチブチと激しい勢いで切れたコードが暴れる。
それはまるで、儀式のようだった。照明レールにいたそれを壊滅させるために、必要な儀式。
それの声は何も聞こえない。だが、盛大な破壊の儀式の下に、それの一切は消えていった。
長髪の女性はいつの間にかいなくなり、体育館から教員と生徒は避難させられ、結局何事だったのかは——そのうち、明らかとなった。
三人の女子生徒のいたずらが、校舎の三階に恐ろしい何かを呼び、専門家が対処した、と。
それだけではない。
いたずらは、呪いだった。稚拙極まりなく、未熟なものが唱えてはいけない類のものだ。
呪いはあっという間に広まり、あの時点で学校内にいるすべての人間が呪われていた。
だから、学校内にいる人間すべてを体育館に集め、全員にあの言葉を唱えさせたのだ。
——カヤシニオコナウ、
——カヤシニオコナイ、
——オロセバムコウハ、
——チバナニサカスゾ。
あれ以来、専門家の姿はない。
少なくとも、亨が卒業するまでの間に、同じ人物が学校へやってきたことはなかった。
体育館はすぐに修理され、三人の女子生徒は退学に至り、あの言葉を口にした人間は例外なく、その顛末を無関係な者へ口外することはなかった。
口にしてはいけない。
あの恐怖をまた味わうくらいなら、喋らない。
その不文律は長く人々の心を縛ったが、いずれは破られる。
そのたびに、恐怖が思い出され、口外した咎を受けた者のなきがらが示される。
今日のこのニュースの犠牲者はそうだろう、と社会人となった亨は思う。
何の根拠がなくとも、ただあのときの恐怖が思い起こされただけで十分だ。
呪いは消えた。だが、打ち勝ったわけではない。それどころか——恐怖は死ぬまで付きまとう。
どうにかしたい、どうにかしなければと思うほどに、死は近づくのだろう。
その束縛から逃れるために、亨はあの専門家を探そうと決めた。
あの恐怖から逃れるために。
(どうか)、と願う。
朝のホームルームが終わるや否や一斉に体育館に集められ、クラスごとにざわつく生徒たちの表情はどこか困惑と興味関心に溢れ、まだ何も知らないためか呑気だ。
一方で、事情を知る教職員たちがだんまりを貫き、校長の話を待っている。
それを横目で見ていた二年生の阿知亨は、近くに友人がいないせいもあって、喋らずに済んでいた。いや、それは幸運だったと言えるのだが、ある意味では己の不運を自覚してしまっている以上、時間が早く過ぎ去ることを祈るほかなくなっている。
(……みんな、あれが見えてないんだな)
亨の視線の先には、体育館のステージがある。まだ壇上には誰もおらず、マイクがポツンと突っ立っているだけだ。ただでさえ興味のない人物の登場イベントの前に、ステージの様子をつぶさに観察するような暇人はそう多くないため、誰も気付いていなくてもおかしくはない。
亨だって別段暇というわけではなく、ただ、見てしまっただけなのだ。ごく普通の理系の男子高校生、可もなく不可もなく生きていく平凡で健全な十七歳でしかない。
それなのに、亨の視線は今もステージの上、厳密に言えばライトがいくつかぶら下がる天井近くの照明レールへ向いている。朝であるため体育館の窓からの光で十分であり、ライトの明かりはついていない。
(だったら、あれはいつ取り付けたんだ? ぶら下がっているのか? それとも……そう見えるだけの何かが、あそこにあるのか?)
亨は、こんな思考はやめるべきだと分かっていても、頭を走らせてしまう。
亨の目に映るのは、ステージの天井にある照明レールと細いもので繋がった『物体』だ。
それは動いている。
それは首を吊っているように見える。
それは丸く、大きく、三つの手か足を下ろしている。
それはよく見えない。
それは黒いようだ。
それは——とかげか女、のように思える。
亨は、それが何であるかまでは分からない。分からないからこそ、恐怖を払拭しようと頭は勝手に動き、観察し、分析しようとする。
それがもっともしてはいけないことなのだと本能的に分かっていて、まもなくぼんやりとした認識が固まりつつあったころ。
「えー、みなさん、おはようございます。突然のことで戸惑っていると思いますが、少々お話があります。まずは」
一般常識的な中年女性そのものがスーツを着た校長の声で、亨の思考は強制的にシャットダウンされた。校長は壇上に上がらず、マイクを片手に教員の間で何か連絡を受けている。段取りが悪いのか、それとも突然のことで教員も慌てているのか。どちらにせよ、何らかの情報を与えてもらえると信じた生徒たちは口を閉ざし、スピーカーを介して聞こえてくる音声に耳を傾ける。
「校舎三階を閉鎖していることは、まだこちらも落ち着いていないため具体的なことは申し上げられません。ただ、えー……専門家が来た? 早いわね」
その言葉とほぼ同時に、ステージへと上がる人影が亨の目に映った。
深緑のオーバーコート、ジーンズ、長髪の女性がツカツカと迷いなく歩いていく姿を見て、亨だけでなく体育館中の目が釘付けとなる。学校内では見たことのない人物だという共通認識はともかく、その女性がステージの真ん中に立ちどまって、天井を見上げていたおかしな行動もまた目を引く。
すると、女性は突然ステージ上のマイクを握り、低い声でこう唸った。
「今から言うこと復唱しぃ。ええか?
カヤシニオコナウ、
カヤシニオコナイ、
オロセバムコウハ、
チバナニサカスゾ」
しん、と沈黙が体育館を包む。
だが、それはほんの一瞬のことだった。
「か、カヤシニ、オコナウ」
誰かがつぶやいた。
「カヤシニオコナイ」
震える声が無数に続く。
「オロセバ、ムコウハ」
疑問系になりながらも、忠実にその言葉を復唱する。
「チバナニサカスゾ……?」
亨もその言葉を繰り返した。
その言葉を口にしていないと、ステージの上で起きていることから身を守れないと思ったからだ。
天井の照明レールからぶら下がった黒いものが、爆発的に膨らみ、頭のようなものがステージの床すれすれまで落ちてきていた。
それは口を開いていて、何か言葉を紡いでいるようだが、誰もがその言葉を認識できていない。音声として耳に入ってこないし、入ってこないよう長髪の女性が何かをしているのだと思った。
ただただ、復唱を続ける亨は思う
(あれが、膨らんで、落ちてきて、触れればどうなるんだ……? 死ぬ? まさか、いや、でも)
現状、あのステージの上にあるものについては、何も分からない。しかし、今は他の生徒たちもおそらくあれが見えている。だから、必死になって復唱を続けている。
——カヤシニオコナウ、
——カヤシニオコナイ、
——オロセバムコウハ、
——チバナニサカスゾ。
そんな言葉を、延々と繰り返している。教員も生徒も、疑う素振りさえ見せずにだ。
あれが動けば自分たちに害を与える、と無意識に知っているかのように、そうなってくれるなと祈り、教わった呪文を無心にささやく。
(非現実だと? ああそうだろうさ。でも、怖いんだよ! あれが何かすれば死ぬんじゃないかって、怖くてしょうがない! 死にたくない、だから早く!)
何度繰り返し、繰り返しその呪文が口にされたか分からない。だが、時間はさほど経っていないはずで、やがて長髪の女性がまたマイクを使う。
「おう、十分じゃ。
ソクザミジンニマラベヤ、
オンアビラウンケンソワカ。
モエユケ、タエユケ、カレユケ」
長髪の女性が、オーバーコートから何かを取り出した。亨の目にははっきりとは見えないが、軽いもの、大きな紙のようなものとだけは分かる。
それを思いっきり、長髪の女性は黒いそれへ叩きつけた。
「お前に居り場所はない。消え」
長髪の女性がマイクを放り、両の手を打てば、甲高い破裂音が端まで届く。
ぱぁん。
その直後、ステージ上に、天井の照明レールが丸ごと落ちてきた。
埃の塵は高く舞い上がり、床材は重さに耐えきれず破壊され、ブチブチと激しい勢いで切れたコードが暴れる。
それはまるで、儀式のようだった。照明レールにいたそれを壊滅させるために、必要な儀式。
それの声は何も聞こえない。だが、盛大な破壊の儀式の下に、それの一切は消えていった。
長髪の女性はいつの間にかいなくなり、体育館から教員と生徒は避難させられ、結局何事だったのかは——そのうち、明らかとなった。
三人の女子生徒のいたずらが、校舎の三階に恐ろしい何かを呼び、専門家が対処した、と。
それだけではない。
いたずらは、呪いだった。稚拙極まりなく、未熟なものが唱えてはいけない類のものだ。
呪いはあっという間に広まり、あの時点で学校内にいるすべての人間が呪われていた。
だから、学校内にいる人間すべてを体育館に集め、全員にあの言葉を唱えさせたのだ。
——カヤシニオコナウ、
——カヤシニオコナイ、
——オロセバムコウハ、
——チバナニサカスゾ。
あれ以来、専門家の姿はない。
少なくとも、亨が卒業するまでの間に、同じ人物が学校へやってきたことはなかった。
体育館はすぐに修理され、三人の女子生徒は退学に至り、あの言葉を口にした人間は例外なく、その顛末を無関係な者へ口外することはなかった。
口にしてはいけない。
あの恐怖をまた味わうくらいなら、喋らない。
その不文律は長く人々の心を縛ったが、いずれは破られる。
そのたびに、恐怖が思い出され、口外した咎を受けた者のなきがらが示される。
今日のこのニュースの犠牲者はそうだろう、と社会人となった亨は思う。
何の根拠がなくとも、ただあのときの恐怖が思い起こされただけで十分だ。
呪いは消えた。だが、打ち勝ったわけではない。それどころか——恐怖は死ぬまで付きまとう。
どうにかしたい、どうにかしなければと思うほどに、死は近づくのだろう。
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