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第五十八話

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 朝早く、サナシスから話があると言われた。

「ここでは話しづらいから、外に行く」

 そう言われて、私はサナシスに連れられて王城を抜け出し、城下町へ向かった。

 サナシスに手を引かれ、路地裏を歩く。ゴミ一つ落ちていない小道には、建物の隙間から強めの朝日が差し込んでいた。もうじき夏になる。サナシスはそう言って、私を連れて——街角の小さな食堂タベルナにやってきた。

 まだ看板も出ていないほど時間が早く、どうするのか、と私が見ていると、サナシスは堂々と食堂タベルナの扉を開けた。扉の上部についているベルがからんからんと鳴る。そして、中へと足を踏み入れた。私はその後ろをおっかなびっくりついていく。

 いくつもの天窓から光が差し込む、ちょっと古びた食堂タベルナの中には、三つのテーブルとそれぞれに四脚ずつの揃いの椅子、カウンターに大小ばらばらの椅子が五つあった。カウンターの中にいた店主と思しきまだ若いシェフが、何事かと吊るしたフライパンの間から覗き見てきている。

 サナシスがにこり、と微笑む。

「久しぶりだな。最近は忙しくて来られなかった」

 すると、店主も表情が柔らかくなる。

「何だ、王子じゃないか。相変わらず抜け出してまあ」
「いいだろう。ああ、こちらがエレーニ。俺の妻だ、まだ式は挙げていないが」

 いきなりの紹介に、私はびっくりして固まる。しかし、すぐに店主へ目を向け、何とか会釈をした。

 店主も驚いている。

「いやはや……あのわんぱく坊主も歳を取ったな。ああ、飯だろう? すぐ用意するから座っててくれ」
「待て、今日は違うものを注文する。エレーニが食べられるものを」

 サナシスはカウンターに置かれているメニューを取って、素早く店主へいくつか注文していた。店主はメモを取り、サナシスは代金だと言ってドラクマ硬貨を一枚渡していた。確か、ドラクマ硬貨一枚がオボルス硬貨六枚分だ。二人で食事をするにはそれで十分なのだろう。

 サナシスが振り返って、私をテーブルまで連れていく。椅子を引き、ちょっと大仰に芝居がかって、私へ座るよう手で差し示した。そういうことをされると畏れ多い。でも、私は椅子に座る。アンティークと言って差し支えないほど黒ずんで古くなった椅子は、今まで何百人何千人が座ったのだろう、すっかり座りやすく木材が凹んでいた。

 サナシスはそっと私へ耳打ちする。

「ここは俺が昔から通っている食堂タベルナだ。抜け出してはここで食べて、それからニキータのいる賭場へ行っていた。店主とはまあ、幼馴染のようなもので、先代の父親にもよくしてもらった」

 なるほど。お忍びでの行きつけのお店、というやつだ。聡明なサナシスはどうも王城を簡単に抜け出せるようだから、探す人々の苦労が偲ばれる。

 カウンターの向こうから、ぱちぱちぱち、と盛大に弾ける音がする。小麦のお菓子を焼いたときのような、甘くふんわりとした匂いも漂ってきた。

「サナシス様、あの音は何でしょう?」
「揚げ物を作っているのだろう。油が跳ねる音だ、聞いたことは?」
「ございません。油は……貴重品でしたから」
「そうか、あれはオリーブオイルで揚げている。ステュクス王国の南部ではオリーブの実から搾る油の生産が盛んで、安価に流通しているんだ」

 サナシスは丁寧に説明をしてくれた。修道院の食事は油なんて使わなかったから——油の匂いが充満すると、私はちょっとむせた。その様子を見ていたサナシスが、進んで窓を開けに行く。その気遣いが有り難い、慣れるまで時間がかかりそうだ。

 オーブンが開く音、包丁がまな板を叩く音、戸棚から皿を取り出す音。たくさんの匂いに私が目を回しそうになったころ、店主が大きな皿を三つ、取り皿を数枚、器用に一気に持ってきた。

 テーブルに並べられたのは、湯気と熱気立つ出来立ての料理だ。

「お待ちどう。スパナコピタとゲミスタ、ルクマデスだ。ごゆっくり」

 そう言って、持ち物のなくなった店主はカウンターの向こうに帰っていく。

 聞いたことのない料理、パイのようなものや野菜をくり抜いて詰め物をしたもの、それから丸い小さな狐色のもの。何だろう、お腹が空いてきた。胃袋が鳴りそうになる。

 サナシスは手慣れた様子で、取り皿に盛っていく。私の分まで少し少なめに盛ってくれた。その上、テーブル上に置かれていたフォークを、私に握らせる。

「ほら、食べるといい」
「は、はい。聞いたことのない料理ばかりです」
「どれも肉は使っていないから、いや、油は胃がもたれるかもしれないな。ヨーグルトがいいか?」
「大丈夫、です。食べてみます」
「うん」

 サナシスの気遣いに感謝しつつ、フォークを持って、私は——そういえば、と本題を思い出した。

「あの……サナシス様」
「どうした?」
「何か、お話があるとか」
「ああ、ちゃんと話す。俺はお前に」
「嘘は吐かない、ですよね」
「そうだ。ただ、話す順序に迷っていてな。色々と……世界はややこしいから」

 世界はややこしい。確かに。それは事実で、サナシスはそのややこしいことに携わらなければならない人物だ。となれば、私にも分かるよう話そうと、考えてくれているのだろう。

 私は、サナシスが本題を話してくれるまで、別のことへ気を逸らす。とりあえず、目の前のオーブンで焼かれた野菜の詰め物の正体を確かめたい。

「これは、何ですか? ゲミスタ?」
「ピーマンに米や野菜を詰めて焼いたものだ」
「米?」
「知らないか? まあ、食べてみるといい」

 そう言われて、私はフォークで中身をすくってみる。ぎゅっと詰められた、ぱらぱらとしたもの。クスクスのような極小の麺類とも違うようで、刻んだトマトやハーブも見え隠れする。

 口に放り込んでみる。ほんわか、野菜の旨味が広がる。噛んでみると、ぱらぱらしたものは簡単に潰れた。

 何だろう、食べたことのあるものの中で一番近いのは——大麦?

「煮た大麦とも違う何かです」
「穀物には違いないな」

 うーん、初めての食感。もちもち。噛めば噛むほど味が出る。

 一口飲み込んで、私は次の獲物をフォークで狙う。

 目の前にあるのは、三角形のパイのようなものだ。これも緑の野菜が詰まっている。その隣のころころ丸い狐色のものは、どうやら何かシロップのようなものがかかっている。

「これはパイ? ほうれん草が……いっぱい」
「チーズとほうれん草のパイだ。スパナコピタには他にも色々な具材を詰める」
「ルクマデスは」
「蜂蜜かけ揚げパンだな。ステュクス王国では庶民の朝食によく出る」

 スパナコピタ、フォークで切り分けるとチーズがぱらっと落ちる。パイ、と聞いて濃いめの味付けを予想したけど、どうもこれは、さっぱりとぱくぱく食べられる。チーズは塩気があって、コクがある。うん、これなら食べられそうだ。

 最後の一つ、ルクマデス。丸っこい小さな揚げ物。ぷすっとフォークで刺して、齧ってみる。まず、甘い。シロップが甘い。舌に直接甘みがやってきた。外はかりかり、中はほくほくもちもちの生地を包むシロップの存在が大きい。思わずほわー、と口が幸せになる。

「美味いか?」

 サナシスの問いに、私はこくこくと力一杯頷く。

 サナシスはまだ、料理に口をつけていない。フォークを持ってもいない。

 ただ、サナシスはようやく、話すことを決めたようだった。

「まず、今から話すことは、まだ一般的には知られていない情報だ。そのうち広まるだろうが、ニキータがある程度情報にバイアスをかけて流すことになっている。あまりにも衝撃が大きすぎるからな」

 もぐもぐ、ごっくん。今食べているルクマデスを飲み込み、私は黙ってサナシスの話に耳を傾ける。

 ところが、その話は——サナシスの言ったとおり、あまりにも衝撃が大きかった。

「二週間前。カイルス宮殿で年に一度開かれる舞踏会、そこに集まった各国の王侯貴族たちが、反乱を起こした民衆に皆殺しにされた。老若男女問わず、王侯貴族たちの死体の損壊はことごとく激しく、服装でしか判別できないほどだったという。その中にはお前の異母姉も含まれている。また、その知らせを受けてウラノス公は狂死した。旧カイルス王国の民衆の反乱を受けて、その流れは周辺国にも飛び火し、ハイペリオン帝国、ミナーヴァ王国、そしてウラノス公国が消滅した。国を支配していた王侯貴族たちが死んで、新たな体制の国が生まれることになる」

 サナシスは、そこまで滑らかに話した。

 しっかりと、その内容は私の頭にも届く。聞き慣れない単語、聞いたことのない単語、何よりも、死という言葉が溢れていた。

 それだけがすでに、私の心を重く、沈ませる。

「そう、ですか」

 そうとしか言えない。何を言えばいいのか、分からない。

 世界が、崩れていくような話。私が嫌った醜い世界は、醜い人々は、死の混じる凄まじい奔流に飲み込まれていった。それを聞くことが、どれほどつらいか。サナシスはいつもこんな話を聞いているのだろうか。そんなにもひどい世界で、サナシスは戦っている。その話の一端を、聞かされた気がした。

 私が鈍い思考を何とか呆けながらも回していると、サナシスの声で現実に引き戻された。

「エレーニ。一つだけ聞かせてほしい。これで……お前の復讐は終わったのか?」

 復讐?

 一瞬、私は何を言われたのだろう、ときょとんとした。

 ああ、そうか。ウラノス公と公女ポリーナの死のことか。母を死に追いやった男と、その娘で私を蔑んだ女。

 私が主神ステュクスに願った復讐は、これで——終わるのか?

 いや、終わっていない。

 私の心に灯る復讐の炎は、まだ鎮まっていない。母の無念は、まだ晴れていない。私の恨みは、まだ晴れていない。

 私は正直に、サナシスへその意思を打ち明けた。

「まだ、だと思います」

 言ってしまった。

 より重い罰を求めるのは、浅ましいだろうか。私はサナシスを見上げる。

 しかし、サナシスは顔色一つ変えていない。それどころか、私を見る目も変わっていなかった。

「なるほど。いや、責めるつもりはまったくない、安心するといい。だが、この先は一体誰に復讐をすべきなのだろうな? 主神ステュクスの神罰がどこまで及ぶのか、いくつか考えはしてみたが」

 まるで、自分のことのように、サナシスは私の復讐について考えていた。意外だった、サナシスのような尊い身分の人間が、復讐などという俗な事柄にそこまで真剣に向き合うなんて。

 それとも、それは私のことだから? いや違う、きっと、主神ステュクスが関わっているからだ。

 私の復讐は、主神ステュクスの後ろ盾があってこそのものだから——。

「俺は……お前の復讐が燎原の火のようになりはしないか、と心配している」

 サナシスは私へまっすぐに視線を向ける。

 普段なら、その美貌に目を奪われる。だけど、今はそんな気分にはなれない。だって、サナシスは、ひどく私を気遣っていた。私はサナシスに気遣わせてしまったことに、後悔と羞恥の念が噴き出してきていた。その感情を上書きするように、サナシスは穏やかに、諭すように話す。

「何かを憎めば、関係するものすべてが憎くなるものだ。だが、それではいつまで経っても憎しみは終わらない。復讐相手は尽きず、お前の人生すべてを懸けなければならなくなりはしないか。それは、この世界のすべてを憎むことにならないか」

 私は無意識に、その言葉を復唱していた。

 この世界のすべてを憎むことにならないか。

 私の復讐は、そういうものなのだろうか?

 母を見捨てた男だけではなく、その男が権力を握り、支配する国、それを許す世界さえも憎いのか。

 何もかもが、見境なく憎く、罰を望んでいるのか。

 私には、分からない。私はそんなことも分からずに、復讐を望んでいた。

 私はそのことを、言わなくてはならない。サナシスに誤解をされたくなかった。

「サナシス様、無責任な話ですが、私も、よく分からないのです。どこまでが復讐なのか、主神ステュクスの神意は如何様に、私が復讐すべき相手を見定めてくださっているのか」

 もし主神ステュクスが私の復讐を望む心を正確に把握して、神罰を受けるべき人間たちにその償いをさせてくださっているのならいい。だけど、それは誰を、どこまでの人間を含んでいるのだろう。いつまで復讐は続くのだろう。

 私の望んだ復讐を主神ステュクスが神罰として成し遂げてくれる、そのことを知っているのは、私とサナシスだけだ。

 サナシスは、きっと不安だろう。私は、どうにかその不安を取り除きたかった。

「そうか……詳しく知りたいところだが、主神ステュクスの意図など人間は知るべくもない。致し方ないな」

 うーむ、とサナシスは考え込む。

 ようやく、サナシスはスパナコピタへフォークを運んだ。考える時間が必要だ、私は黙って甘い甘いルクマデスで気を紛らわせようとする。

 しかしだ。甘いもののおかげでか、私はあることを思いついた。

「あの、サナシス様。ご飯を食べたら、ステュクス神殿へ行きませんか」
「何?」
「祈れば、願えば、主神ステュクスの神託が得られるかもしれません。もしかすると、ですけど」

 そうだ、簡単なことだった。主神ステュクスの行いなのであれば、直接尋ねることが一番だ。もっとも、答えてくださるとは限らないけど、それでも何もしないよりはマシだ。

 巫女である私なら、神託を降してもらえるのかもしれない。

 サナシスは得心が行ったようで、承諾した。

「分かった、そうしよう。それはそうと、ルクマデスが美味い」
「もちもちして甘いです」
「デザートはどうだ? バクラヴァを頼もう」
「はい、楽しみです」

 こののち、注文してやってきたバクラヴァが甘すぎて、私は背筋が凍った。

 それはともかく、やるべきことは決まった。私はゲミスタの米をつぶつぶ食べていた。
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