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第五十七話

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 葡萄の蔦が彫刻された真っ白な磨りガラスのドアの片扉を、そっと開く。

 サナシスはすでに寝入っている部屋の主を起こさないよう、部屋の中央にある天蓋付きベッドへと近づいた。これでもかとふくらんだ羽毛布団に包まれて、長い金色の髪にナイトキャップを被せることを覚えたエレーニが、大きな枕に顔を半分埋めて寝息を立てていた。

 サナシスが何度かエレーニの寝姿を見ていて気付いたのは、熟睡時にエレーニは体を丸め、寒さから身を守るようにとても縮こまって眠ることだ。ウラノス公国は山がちで、人里離れた修道院はなおのこと寒いところにあったのだろう。満足な防寒具や布団があったとは思えない。もはや、そういう癖となっているに違いない。どれほど暖かな寝床を用意してやっても、エレーニが安心して眠るようになるまで時間はかかりそうだ。

 ベッド横の小さな丸椅子に腰を下ろし、サナシスは布団を少しどけて、エレーニの顔を覗き見た。

 その表情は——固く、何かに耐えているようだった。

 サナシスは驚く。これほど恵まれた環境で、まだ何を耐えるようなことがある。眠っていてもなお何を苛まれているというのか。一瞬、エレーニを起こそうかとさえ思ったが、サナシスは思い止まる。

 どうしてやればいいのか、サナシスにはそれが分からない。ただ甘やかすだけ甘やかしても、エレーニの心は安堵どころかより不安を生むのではないか。そもそも、このステュクス王国に突如連れてこられて、サナシスを夫とするように、などと神託を受けて、それのどこに安堵する要素がある。いくらサナシスが尽くしても、エレーニはこう思うだろう。

「神の気まぐれで嫁いだのならば、王子の気まぐれで見捨てられることもあるだろう。自分を見捨てた父のように」

 自分と母を見捨てた父への復讐を心から唯一望む少女が、本当にサナシスを信じられるだろうか。

 エレーニのことを、本当にサナシスは理解できるのだろうか。

 サナシスはじっとエレーニの固い表情を眺めながら、考えた。何も、サナシスは自分の立場や地位を傘に威張るつもりはないが、傍から見ればそんなこともあるかもしれない。王子として重要な役職を任されている現状、他人よりも優れていることは皆目疑いなく、間違いなく強者として君臨している。

 そんな立場にいる自分が、十年の苦痛に耐えた少女の気持ちを理解するなど、烏滸がましくはないか。その心を溶かして我が意のままにしようと思うなど、それこそ主神ステュクスの神意にそぐわない。

 サナシスは真剣に悩んでいた。ここ最近でこれほど悩むことなどなかった、ニキータが持ってきた懸案や国政の諸課題でさえ、決断まで困ることなどなかったというのに。

 ——どうすれば、エレーニは幸せになるのだろうか。妻としてではなく、一人の人間として、幸福を手に入れられればいいのだが。

 サナシスの悩みに、答えは出ないと分かりきっている。それでも、サナシスは考えを止めない。

 ただ一人の少女のために、ステュクス王国の聡明なる王子は悩み、そして願う。

 ——あなたが幸せでありますように。

 サナシスはただそれだけを、心から願っていた。

 主神ステュクスに愛された善性の王子は、自身のその素質を知らないからこそ、答えに辿り着いていることに気付かない。

 主神ステュクスはつぶやく。

「心から誰かの幸せを願えるあなたは、きっとエレーニを幸せにできる。心配しないで、あなたは善き道を辿っている」

 その声は届かずとも、サナシスは道を違えることはない。

 やがて、サナシスはエレーニを起こさないように、足音に気を付けて部屋から抜け出した。逢瀬とも呼べない短い時間、たったそれだけで何もかもが解決するわけではなくとも、サナシスにとっては十分すぎる猶予だった。
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