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第五話 考えるべきことが多い
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「え?」
クロードはスケッチの一枚をマダム・マーガリーと横にいる少年執事へ見えるよう掲げ、うずくまる白骨死体の鉛筆画を指でなぞる。
「開いた骨盤から女性の骨ではありますが、背骨を含め歪みが大きい。出産を経験した女性の骨でしょうし、おそらく歪みの程度からして出産後も長く生きている。クラリッサ嬢は結婚していなかったはずです、人の多い王城暮らしでこっそり出産することもありえない。であればまず違いますね」
うずくまる姿勢の白骨死体の絵は、職務に忠実な画家の手によって描かれていた。
落ちた衝撃を勘案しても、小さめの両骨盤は大きく離れている。男性ではありえないし、女性でもその間隔は広すぎる。それ以上に、背骨の歪みは顕著だ。枯れ井戸の底に固い石でもあったのかとばかりに背筋に沿わない骨がいくつか、発見者たちがいじった末に順番を間違えているわけでなければそれは生前に生じていた歪みと解釈できる。
そのくらいの判別は医学を修めた者であれば誰でもできる。だが、それを言うだけの勇気ある者は、イアムス王国王城にはいなかったようだ。
目を大きく見開くマダム・マーガリーがハンカチごと拳を握り締め、声を震わせて身を乗り出す。
「ほ、本当? 違うのね? 死体はクラリッサではない、神に誓って!?」
「神はともかく、医学的見地からすればそう判断できます」
「ああ、そうなのね! よかった、よかった……!」
うつむきそうになるマダム・マーガリーへ、まだクロードは言うべきことがある。集中力のない生徒へ精一杯講義する教師のように、クロードはマダム・マーガリーにとって興味関心のある事実を聞かせる。
「切れ端とはいえ、ドレスに体液の汚れが一切ないことは気になりますね。まあ、すでに別の場所で死んだ女性の遺体を井戸に放り込んで、その上にドレスを落としたのでしょうが、明らかに偽装工作です。クラリッサ嬢が死んだのだと、衆目を欺くためだとすれば……その目的はどこにあるのかをこれから考えるべきなのかもしれませんね」
そこまで言って、クロードはふう、と一息ついた。
今のスケッチとドレス、調書で分かることなど大したことではない。結局、『クラリッサ以外の女性の遺体』が『裸で枯れ井戸』にあり、そこにいくつか疑義がある、ということしか分からないのだ。『行方不明のクラリッサ嬢』事件と本当に関係があるかさえ定かではない——それはさすがに、今のクロードの口からは言い出せなかった。
なぜならマダム・マーガリーの感涙が、彼女の頬を伝っていたからだ。可愛い姪クラリッサの死は確定したものではなくなり、マダム・マーガリーの中ではクラリッサが生きているかもしれないと希望が湧いてきたのだろう。
「アンドーチェ、聞いた? あなたの言ったとおりだわ!」
アンドーチェと呼ばれた少年執事は、興奮した主人を手慣れた様子でなだめる。
「はい、奥様。ですが、それだけでは証拠になりません」
「分かっているわ、もう」
「失踪後、当人がどこへ行ったのかを証明しなくては」
アンドーチェの言い分はもっともすぎた。少女のように頬を膨らませるマダム・マーガリー、冷静な少年執事アンドーチェ。涙を拭き終えた彼女らの視線は、すぐにクロードへと期待を込めて注がれた。
やがて、憑き物が落ちたかのようにすっきりした表情のマダム・マーガリーは立ち上がり、慌ててスケッチをサイドテーブルに置いたクロードの右手を握って、こう懇願した。
「アーニー、しばらくゾフィアに滞在してちょうだい。この件で知恵を貸してほしいとき、またお呼びするわ。もちろん、滞在費の一切は私が負担します」
クロードはふと想像してみる。もしここでマダム・マーガリーの手を振り払い、「いえ帰ります」と言った場合、どうなるか——追っ手が差し向けられても文句が言えない状況になりかねない。無事、故郷の土を踏めるかも怪しく、『ロロベスキ侯爵夫人がクラリッサの死に疑問を抱いている』という情報が広まればイアムス王国・ジルヴェイグ大皇国の両国に何を引き起こすかが分かるだけに、クロードにマダム・マーガリーの申し出を断る選択肢はないに等しい。
『行方不明のクラリッサ嬢』事件の真相究明を望むマダム・マーガリーは——おそらくクラリッサの生存の希望を捨てていない——納得のいく筋道立てた物語が欲しいのだろう。それは必ずしも真実とは限らず、彼女は今持っている疑問をすべて解決したいだけなのだ。であれば、対価があるならそのわがままに付き合ったってバチは当たらない。
クロードは引きつった笑顔で、滞在の要求を承諾するしかなかった。
「え、ええ、分かりました。何かあればまたご連絡を、マネクス通りの宿にいますので」
その返答でマダム・マーガリーは一層上機嫌になり、また少年執事アンドーチェがなだめにかかる。
結局、マダム・マーガリーの次の予定があるとかで、密談はあっさりと終了し、クロードは解放された。滞在費用を負担してもらえるなら、長い休暇を取ったと思えばいい、とクロードは自分を納得させる。大学にはいつ帰るか分からないと伝えているため、問題ないだろう。
別れ際、少年執事アンドーチェから、クロードへ分厚い封筒が一つ渡された。
「クロード様、こちらをお持ちください。本日の謝礼です。また後日、滞在費等をお持ちいたします」
「ああ、ありがとう。それでは、今日は失礼します」
クロードは謝礼の入った封筒を遠慮なく受け取り、会釈をしてさっさと東屋を後にした。
最敬礼をする少年執事、手を振る痩せた貴婦人、それに雨降りしきる森林庭園。
東屋を出て、広げた蝙蝠傘を大粒の雨が打ちつけてきた。クロードはとりあえず、宿に帰って寝ることにした。
(考えごとは、明日以降にしよう。どうせ逃げられはしないからな)
そんな意図に反して、クロードの頭は冴えて、あらゆる疑問が渦巻きつつあった。
クロードはスケッチの一枚をマダム・マーガリーと横にいる少年執事へ見えるよう掲げ、うずくまる白骨死体の鉛筆画を指でなぞる。
「開いた骨盤から女性の骨ではありますが、背骨を含め歪みが大きい。出産を経験した女性の骨でしょうし、おそらく歪みの程度からして出産後も長く生きている。クラリッサ嬢は結婚していなかったはずです、人の多い王城暮らしでこっそり出産することもありえない。であればまず違いますね」
うずくまる姿勢の白骨死体の絵は、職務に忠実な画家の手によって描かれていた。
落ちた衝撃を勘案しても、小さめの両骨盤は大きく離れている。男性ではありえないし、女性でもその間隔は広すぎる。それ以上に、背骨の歪みは顕著だ。枯れ井戸の底に固い石でもあったのかとばかりに背筋に沿わない骨がいくつか、発見者たちがいじった末に順番を間違えているわけでなければそれは生前に生じていた歪みと解釈できる。
そのくらいの判別は医学を修めた者であれば誰でもできる。だが、それを言うだけの勇気ある者は、イアムス王国王城にはいなかったようだ。
目を大きく見開くマダム・マーガリーがハンカチごと拳を握り締め、声を震わせて身を乗り出す。
「ほ、本当? 違うのね? 死体はクラリッサではない、神に誓って!?」
「神はともかく、医学的見地からすればそう判断できます」
「ああ、そうなのね! よかった、よかった……!」
うつむきそうになるマダム・マーガリーへ、まだクロードは言うべきことがある。集中力のない生徒へ精一杯講義する教師のように、クロードはマダム・マーガリーにとって興味関心のある事実を聞かせる。
「切れ端とはいえ、ドレスに体液の汚れが一切ないことは気になりますね。まあ、すでに別の場所で死んだ女性の遺体を井戸に放り込んで、その上にドレスを落としたのでしょうが、明らかに偽装工作です。クラリッサ嬢が死んだのだと、衆目を欺くためだとすれば……その目的はどこにあるのかをこれから考えるべきなのかもしれませんね」
そこまで言って、クロードはふう、と一息ついた。
今のスケッチとドレス、調書で分かることなど大したことではない。結局、『クラリッサ以外の女性の遺体』が『裸で枯れ井戸』にあり、そこにいくつか疑義がある、ということしか分からないのだ。『行方不明のクラリッサ嬢』事件と本当に関係があるかさえ定かではない——それはさすがに、今のクロードの口からは言い出せなかった。
なぜならマダム・マーガリーの感涙が、彼女の頬を伝っていたからだ。可愛い姪クラリッサの死は確定したものではなくなり、マダム・マーガリーの中ではクラリッサが生きているかもしれないと希望が湧いてきたのだろう。
「アンドーチェ、聞いた? あなたの言ったとおりだわ!」
アンドーチェと呼ばれた少年執事は、興奮した主人を手慣れた様子でなだめる。
「はい、奥様。ですが、それだけでは証拠になりません」
「分かっているわ、もう」
「失踪後、当人がどこへ行ったのかを証明しなくては」
アンドーチェの言い分はもっともすぎた。少女のように頬を膨らませるマダム・マーガリー、冷静な少年執事アンドーチェ。涙を拭き終えた彼女らの視線は、すぐにクロードへと期待を込めて注がれた。
やがて、憑き物が落ちたかのようにすっきりした表情のマダム・マーガリーは立ち上がり、慌ててスケッチをサイドテーブルに置いたクロードの右手を握って、こう懇願した。
「アーニー、しばらくゾフィアに滞在してちょうだい。この件で知恵を貸してほしいとき、またお呼びするわ。もちろん、滞在費の一切は私が負担します」
クロードはふと想像してみる。もしここでマダム・マーガリーの手を振り払い、「いえ帰ります」と言った場合、どうなるか——追っ手が差し向けられても文句が言えない状況になりかねない。無事、故郷の土を踏めるかも怪しく、『ロロベスキ侯爵夫人がクラリッサの死に疑問を抱いている』という情報が広まればイアムス王国・ジルヴェイグ大皇国の両国に何を引き起こすかが分かるだけに、クロードにマダム・マーガリーの申し出を断る選択肢はないに等しい。
『行方不明のクラリッサ嬢』事件の真相究明を望むマダム・マーガリーは——おそらくクラリッサの生存の希望を捨てていない——納得のいく筋道立てた物語が欲しいのだろう。それは必ずしも真実とは限らず、彼女は今持っている疑問をすべて解決したいだけなのだ。であれば、対価があるならそのわがままに付き合ったってバチは当たらない。
クロードは引きつった笑顔で、滞在の要求を承諾するしかなかった。
「え、ええ、分かりました。何かあればまたご連絡を、マネクス通りの宿にいますので」
その返答でマダム・マーガリーは一層上機嫌になり、また少年執事アンドーチェがなだめにかかる。
結局、マダム・マーガリーの次の予定があるとかで、密談はあっさりと終了し、クロードは解放された。滞在費用を負担してもらえるなら、長い休暇を取ったと思えばいい、とクロードは自分を納得させる。大学にはいつ帰るか分からないと伝えているため、問題ないだろう。
別れ際、少年執事アンドーチェから、クロードへ分厚い封筒が一つ渡された。
「クロード様、こちらをお持ちください。本日の謝礼です。また後日、滞在費等をお持ちいたします」
「ああ、ありがとう。それでは、今日は失礼します」
クロードは謝礼の入った封筒を遠慮なく受け取り、会釈をしてさっさと東屋を後にした。
最敬礼をする少年執事、手を振る痩せた貴婦人、それに雨降りしきる森林庭園。
東屋を出て、広げた蝙蝠傘を大粒の雨が打ちつけてきた。クロードはとりあえず、宿に帰って寝ることにした。
(考えごとは、明日以降にしよう。どうせ逃げられはしないからな)
そんな意図に反して、クロードの頭は冴えて、あらゆる疑問が渦巻きつつあった。
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