ヴェルセット公爵家令嬢クラリッサはどこへ消えた?

ルーシャオ

文字の大きさ
上 下
2 / 22

第二話 婚約破棄、そして行方知れず

しおりを挟む
 王城の大広間で、クラリッサは玉座に座る国王の隣に立っていた。

 すでに王妃は亡く、第一王子名代であるクラリッサがもしものときの摂政にと定められていたため、妥当な位置にいると言えるだろう。最近ではまるで国王の後継者のようにすっかり王城の面々に受け入れられつつも、クラリッサは頑として固辞し、ここにいるのは王子の代役としてだとの立場を崩さなかった。

 そんなことよりも、やっとデルバート王子の帰国だ。クラリッサは常に彼の身を心配していたし、便りがないのは元気な証拠として自分に言い聞かせてきた。

 だが、大広間に入ってきたデルバート王子を見るなり、国王もクラリッサも驚きの表情で出迎えざるをえなかった。

 未だ豪奢な礼服に着られているようなデルバート王子の隣に、一人の女性が侍っていた。すみれ色のドレスに薔薇の刺繍入りのショールを纏い、まるで配偶者のように寄り添っている、真紅の髪の女性——いや、少女と言ったほうが近いかもしれない。しかし、その風格はデルバート王子とは比べ物にならず、ただそこにいるだけで自身が身分の高い生まれであることを存分に知らしめていた。

 ざわめく大広間の人々の前を横切り、玉座の前にやってきたデルバート王子は、胸を張って凱旋を宣言する。

「デルバート・オヴ・ソルウィングダム、帰国いたしました。ご無沙汰しております、父上」
「うむ……壮健そうで何よりだ、だが」
「私を支えてくれた女性がおりましたので。それに、父上の隣に平然と立つ恥知らずな女の正体を知った今、居ても立っても居られず」

 そう言いながら、デルバート王子はクラリッサを険しい顔で睨む。

 いきなりの罵倒に、クラリッサをはじめとした大広間にいる人々はどう反応していいのか分からない。一応は王子であるデルバートの言い分を鼻で笑うこともできず、さりとてクラリッサが恥知らずなどと罵られる謂れはないだろう。

 困惑の空気を変えようと、国王はデルバート王子を諌めた。

「口を慎め、お前は一体何を言い出すのだ。クラリッサはお前がいない間、大変な働きをしてくれたのだぞ」

 しかし、デルバート王子は確信があるとばかりに一歩も引かない。

「それは王国を乗っ取るためでしょう。その女は、ヴェルセット公爵が送り込んだ簒奪のための道具です。第一、その女はヴェルセット公爵の実子ではない! 公爵の知己であり、かつて隣国で王家に弓引いた反逆者の娘なのですから!」

 しん、と静まり返った大広間の人々の中には、二つの思惑があった。

 古参の廷臣を中心とした、妄言を吐くデルバート王子を咎め、黙らせねばならないと息巻く者たち。

 貴族を中心とした、好奇心からデルバート王子の道化を期待して、その発言に耳を澄ませる者たち。

 どちらにせよ、デルバート王子の評価はさして変わらない。クラリッサに比べて大した才覚もない王子が何を言おうと、その身分に比べ低劣な立場が好転することはない、と見られていた。

 ところが、デルバート王子の隣にいるすみれ色のドレスを着た少女が、その名と身分を明らかにした途端、状況は些か奇妙な方向へと転がっていく。

「こちらが隣国ジルヴェイグ大皇国の皇女であるキルステンです。その女の父である反逆者ポーラウェーズ伯爵のことを知っており、隣国で反乱を起こそうとしたポーラウェーズ伯爵が失敗の末に自害したことを教えてくれました」

 おそらく、デルバート王子はここで皆の驚きの声が上がることを期待していたのだろう。実際には誰一人ため息すら漏らさず、それぞれの思惑を胸に秘めたままだ。

 何より、ここイアムス王国と違って隣国であり大国のジルヴェイグ大皇国には腐るほど貴族がいる。この場にいる人間がそのすべてを把握するなど不可能で、さらにはポーラウェーズ伯爵やその反乱など聞いたこともない。であれば、どうにも誰も反応できないのだ。

 しかし、キルステン皇女の刺激的なほど耳朶を打つ言葉が、大広間に響き渡る。

「我が名はジルヴェイグ大皇国第二皇女キルステン、貴国の諸侯は顔を見知った者もおろう。今更真贋の問いは不要である。余の来訪の目的はただ一つ、反逆者ポーラヴェーズ家の野望を阻止することにあるゆえ、決して貴国と干戈かんかを交えようというわけではない。デルバート王子にはその旨了承を得てある、我が国の恥をここで食い止めるため、どうかお力をお貸し願いたい!」

 大広間に、貴族たちの口から短い感嘆の声が発せられた。

 デルバート王子の言葉よりも、キルステン皇女の言葉ははるかに人心を動かしていた。何せ、大義名分があるのだ。それが正しいか間違っているかではなく、彼女の身分や態度、主張はとてもではないが国王でさえ一蹴できないものだからだ。

 もし、クラリッサの本当の出自がキルステン皇女の主張どおりであれば、何もかもが引っくり返る。醜聞どころの騒ぎではない、隣国の反逆者の娘を匿って、第一王子の婚約者に上手く仕組んだヴェルセット公爵の意図はどこにあるのか明々白々となるまでたださなくてはならない。この王城にいる誰もが、それに反対できないのだ。

 さらには、クラリッサにとって自身の実の父母を知らないことが裏目に出た。デルバート王子とキルステン皇女の主張を、彼女自身が否定できないのだ。ヴェルセット公爵夫妻が義理の父母であることは周知の事実、クラリッサは今まで自分が『大切な知人の娘クラリッサ・ジョセフィン・マーガリー・ヘイメルソン』である、としか聞いていない。

 この場にいる人々と同じく、クラリッサもまた隣国のポーラヴェーズ伯爵家など聞いたこともなく、隣国の反逆者についていちいち首謀者から末端の名前まで把握できるはずもない。たびたび皇帝位が入れ替わるジルヴェイグ大皇国特有の事情も重なり、のだ。

 反論の言葉もないクラリッサが観念したと思ったのか、デルバート王子は鼻高々に得意げだ。

「どうだ、言い返すこともできないだろう! お前は反逆者の娘だ、おまけにヴェルセット公爵はお前を利用して王国を操ろうとした! そんな女を王城にのさばらせておけるか! 衛兵、すぐにこの女を捕らえて、監禁しろ! この王城にどれだけの謀略を仕込んだか分からないからな!」

 とりあえず、大広間においてデルバート王子の立場はわずかも変動はしなかったが、キルステン皇女に関しては話が別だ。たとえ異国の地にあろうとも、ジルヴェイグ大皇国の第二皇女という立場を国王以下全員が無視するわけにはいかない以上、彼女の主張を精査しなければならず、第一王子名代クラリッサへの疑惑が生まれる。

 そう——それが、クラリッサにとっては、最後の一線を越えた行為だったのだ。

 クラリッサの中で、何かが蠢いた。

 堪忍袋の緒が切れた、程度の話ならまだよかった。怒りや悲しみに任せてこの場をやり過ごせたかもしれない。だが、クラリッサは冷静だった。いつもよりもはるかに頭は冴え、この場にいる誰よりも自身の未来を見通していた。

 さらには、間の悪いことにクラリッサは、デルバート王子への愛想がきっかり尽きてしまった。

 それはじわじわと失われたわけではなく、つい先ほど、デルバート王子の発言と態度がクラリッサの許容の閾値を超えてしまったからだ。百年の恋が冷めた瞬間、という表現が近いだろう。

 クラリッサは、自分の身体の真ん中にあった芯が、砂となって消え去ってしまった感覚を覚えた。責任感、使命、義務、役割、責務、あらゆる『ヴェルセット公爵家令嬢クラリッサ』を構成していた基盤となるものが、風の前のちりのごとく、さらさらと吹き飛んでいった。

 すると、その上に積み上げてきていた『完璧さ』も崩落していき、もうクラリッサは『ただのクラリッサ』となっていく。

 クラリッサがずっとその重さに耐えてきた肩の荷が、降りたのだ。

「国王陛下」

 クラリッサのささやきを、国王はしかと聞いて、恐る恐るクラリッサのほうを向く。緩やかに、クラリッサの顔を見上げて目を合わせるまでに、クラリッサは言いたいことを言ってのけた。

「今、一つだけはっきりしました。デルバート様は、私のことがお嫌いなのでしょう。きっと初めて会ったそのときから、ずっと。であれば、私はもう何も言うことはありません。どうぞ、この婚約は解消してくださいませ」

 ただでさえ衝撃を受けたとばかりの表情を隠せていない国王は、クラリッサを見上げて、その両目を見開いた。

 クラリッサの美貌に、一筋の涙が伝っていたのだ。

 クラリッサは裾を払い、大広間の控え室への扉へすみやかに退出していく。

 後ろで聞こえる有象無象の騒々しさは、もうクラリッサの耳に届いていない。何もかもを振り払うように、クラリッサは大広間を出ていく。

 誰かがクラリッサの名を呼んだ。止まれと必死に叫んでいた。次第にそれらは怒号を孕む。しかし、そんなものはクラリッサにはもう関係ない。

 クラリッサの心は、育ててくれたヴェルセット公爵夫妻への申し訳なさでいっぱいだった。

「……完璧であろうとしたのに、できなかった不出来な私をお許しください」

 その日、クラリッサは姿を消した。

 ヴェルセット公爵家の屋敷にもクラリッサは戻らず、王国中が『行方知れずのクラリッサ嬢』をしらみつぶしに探したが、とうとう見つかることはなかった。





 『行方知れずのクラリッサ嬢』事件から十二年後。

 増改築工事の最中、王城裏手の枯れ井戸の底で、白骨死体が発見された。

 死体の着用していたような——生地が大きく裂けているが——仕立てのしっかりした翠緑色の詰襟ドレスと油紙に包まれた短い遺書から、身元はすぐに判明した。

 その一週間後のことだ。

 『クラリッサはあの日、井戸に身を投げていた』——王城はそう公表した。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

婚約破棄に乗り換え、上等です。私は名前を変えて隣国へ行きますね

ルーシャオ
恋愛
アンカーソン伯爵家令嬢メリッサはテイト公爵家後継のヒューバートから婚約破棄を言い渡される。幼い頃妹ライラをかばってできたあざを指して「失せろ、その顔が治ってから出直してこい」と言い放たれ、挙句にはヒューバートはライラと婚約することに。 失意のメリッサは王立寄宿学校の教師マギニスの言葉に支えられ、一人で生きていくことを決断。エミーと名前を変え、隣国アスタニア帝国に渡って書籍商になる。するとあるとき、ジーベルン子爵アレクシスと出会う。ひょんなことでアレクシスに顔のあざを見られ——。

本日より他人として生きさせていただきます

ネコ
恋愛
伯爵令嬢のアルマは、愛のない婚約者レオナードに尽くし続けてきた。しかし、彼の隣にはいつも「運命の相手」を自称する美女の姿が。家族も周囲もレオナードの一方的なわがままを容認するばかり。ある夜会で二人の逢瀬を目撃したアルマは、今さら怒る気力も失せてしまう。「それなら私は他人として過ごしましょう」そう告げて婚約破棄に踏み切る。だが、彼女が去った瞬間からレオナードの人生には不穏なほつれが生じ始めるのだった。

【完】隣国に売られるように渡った王女

まるねこ
恋愛
幼いころから王妃の命令で勉強ばかりしていたリヴィア。乳母に支えられながら成長し、ある日、父である国王陛下から呼び出しがあった。 「リヴィア、お前は長年王女として過ごしているが未だ婚約者がいなかったな。良い嫁ぎ先を選んでおいた」と。 リヴィアの不遇はいつまで続くのか。 Copyright©︎2024-まるねこ

ご自慢の聖女がいるのだから、私は失礼しますわ

ネコ
恋愛
伯爵令嬢ユリアは、幼い頃から第二王子アレクサンドルの婚約者。だが、留学から戻ってきたアレクサンドルは「聖女が僕の真実の花嫁だ」と堂々宣言。周囲は“奇跡の力を持つ聖女”と王子の恋を応援し、ユリアを貶める噂まで広まった。婚約者の座を奪われるより先に、ユリアは自分から破棄を申し出る。「お好きにどうぞ。もう私には関係ありません」そう言った途端、王宮では聖女の力が何かとおかしな騒ぎを起こし始めるのだった。

【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。

なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。 本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!

【完結】亡くなった人を愛する貴方を、愛し続ける事はできませんでした

凛蓮月
恋愛
【おかげさまで完全完結致しました。閲覧頂きありがとうございます】 いつか見た、貴方と婚約者の仲睦まじい姿。 婚約者を失い悲しみにくれている貴方と新たに婚約をした私。 貴方は私を愛する事は無いと言ったけれど、私は貴方をお慕いしておりました。 例え貴方が今でも、亡くなった婚約者の女性を愛していても。 私は貴方が生きてさえいれば それで良いと思っていたのです──。 【早速のホトラン入りありがとうございます!】 ※作者の脳内異世界のお話です。 ※小説家になろうにも同時掲載しています。 ※諸事情により感想欄は閉じています。詳しくは近況ボードをご覧下さい。(追記12/31〜1/2迄受付る事に致しました)

どーでもいいからさっさと勘当して

恋愛
とある侯爵貴族、三兄妹の真ん中長女のヒルディア。優秀な兄、可憐な妹に囲まれた彼女の人生はある日をきっかけに転機を迎える。 妹に婚約者?あたしの婚約者だった人? 姉だから妹の幸せを祈って身を引け?普通逆じゃないっけ。 うん、まあどーでもいいし、それならこっちも好き勝手にするわ。 ※ザマアに期待しないでください

婚約者の態度が悪いので婚約破棄を申し出たら、えらいことになりました

神村 月子
恋愛
 貴族令嬢アリスの婚約者は、毒舌家のラウル。  彼と会うたびに、冷たい言葉を投げつけられるし、自分よりも妹のソフィといるほうが楽しそうな様子を見て、アリスはとうとう心が折れてしまう。  「それならば、自分と妹が婚約者を変わればいいのよ」と思い付いたところから、えらいことになってしまうお話です。  登場人物たちの不可解な言動の裏に何があるのか、謎解き感覚でお付き合いください。   ※当作品は、「小説家になろう」、「カクヨム」にも掲載しています

処理中です...