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最終話 私は魔導匠エルミーヌ(下)
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「へ?」
「街の魔法薬品を取り扱う薬局で買ったのだろう。いくら支払った?」
「えっと、ドラゴニア金貨一千枚でした」
どうも、この言葉がイオニス様にとってはハートを射止めるほどの効果があった模様です。
イオニス様は、実に愉快そうに笑い出したのです。
「はあっはっは! この屋敷を建て替えて余りあるほどの大金だな。そうか、それを一日で稼いだのか。職人として大した腕だ!」
今の言葉にそこまで効果があると思っていなかった引きこもりの私は、あとで知るのです。
金貨一千枚という額は、低い爵位さえ買い取ってしまえるほどの大金であり、そんなお金を誰かのために、ましてや夫のためにと即決して費やす人間はいないのだ、と。
竜生人には自分よりも力の強い者を認めて敬う文化があり、イオニス様は私に一目置いて、なおかつその私がイオニス様のためにと高価な薬を持ってきたことは——もはやイオニス様側から即座に求愛すべき案件なのだと。
イオニス様はそれらを確かめ終えて、納得したようでした。
「誇れ、エルミーヌ。お前は望まずしてやってきておきながら、異郷の地で目も眩むほどの大金を稼ぎ、夫の傷を治すためにとすべてを費やした。お前が今まで編んだレースを売ったことも知っている、あの古着商に聞いたからな」
ラッセルが師匠の工房に来たほどですもの、そこまで筒抜けでもおかしくはありません。何だかんだとイオニス様は私を心配し、そして敬意を表して——その言い方が正しいかどうかは分かりませんが——三ヶ月もの間、何もせず黙っていてくれたのです。とはいえ私の行き先の情報くらいは仕入れていた、そんな感じでしょう。
もはや最高に機嫌のいいイオニス様は、やっとのことでこの機会を得たとばかりに、私の意思確認へと押し進みます。私の手を取り、顔の高さまで上げて、一言。
「それとも、それは私への愛ゆえの行動ではなかったのか?」
どう答えるべきか、迷った末に私は——イオニス様の左の角に手を添えます。
冷たくもなく、骨のようで、それでいて分厚い革のような、後頭部の後ろまで伸びる金色の角です。竜生人にとって大事な体の一部であり、権威の象徴にもなるそれは、すっかり何の傷もなく、熟練の職人によって金箔を焼き付けられた陶磁器のようです。
「治ったならよかった、本当に」
私は、素直ではありません。馬鹿で、引きこもりで、迷惑ばかりかける娘です。
でも、愛してもいないものが治って、嬉しく思ったりはしません。
その気持ちが伝わったのかどうか、イオニス様が私へ覆い被さるように抱きついてきたことで色々考えは吹き飛びました。
「エルミーヌ、少し我慢してほしい」
「ひゃっ!? ま、また舐め」
「いや、これは竜生人として、生涯をともにする伴侶への契約を結ぶマーキング行為だ。本来ならキスでいいのだが、嫌だろうからと思ってだな、首筋に」
「キスのほうがいいです!」
そう叫んでから、私は赤面します。
「はしたない……恥ずかしい……!」
まるでキスをしてくれと言ったようではありませんか、私。いえそうではなくてですね、首筋を舐められるくらいならキスのほうがいいという意思表示なのです本当に。私はそう生娘ですから、キスもしたことがないのですよ、イオニス様。どうか伝わってほしいこの気持ち。
そんな葛藤は、機嫌のいいイオニス様にはどうでもよかったのかもしれません。
「遠慮するな。お前が示した愛に、私は全力で応える」
そんな決め台詞を耳元で囁かれた日には、卒倒します。
でも、卒倒しかねない衝撃の出来事があっても、私の魔力は暴走しませんでした。部屋に仕組まれた魔法防壁のおかげなのか、あるいは……。
よく考えなくても、夫婦なのだからキスは当たり前では。抱きついたイオニス様が私の頭にスリスリ猫のようにじゃれている最中、冷静になった私は堂々巡りな気持ちになるのです。
最初からイオニス様がキスをすると宣言してくれれば問題なかったのでは。それは言わないでおきましょう。はい。
□□□□□□
それから何日か経って、私はアラデルの店を訪れました。今までの事情を話し、私の身分も明らかにします。
アラデルは大きな大きなため息を吐いて、煙管を吸い込み、愚痴を漏らしました。
「はあー、竜爵閣下の部下が乗り込んできたときは、肝を冷やしたよ」
「申し訳ございません。黙っていたほうがいいかと思って」
「今度から言うように! まったくもう!」
それは今度があれば、ということで。
今後とも私はアラデルとアフディージャ師匠の下で魔導匠として働きます。イオニス様は許してくださいましたし、何より私には新しくやらなければならないことができました。
「それで、魔導匠として働くことは許してもらったのかい?」
「ええ。腕が上達したら、イオニス様からの注文をこなすことを約束して」
「へえ、どんな注文を?」
「これです」
私は自分の左手薬指にはまった銀色の指輪を、アラデルへ見せました。そこには、小さな深紅のガーネットが一つだけ輝いています。
「結婚指輪、これが永劫残るように魔力を込めて加工を、って」
やがて魔導匠エルミーヌ、竜爵夫人の工房はひっそりと開店を迎え、正式に職人ギルドへの加盟も果たします。
その先は、また別の話。エルミーヌが織姫蜘蛛の糸のレースを作るそのとき、またお話ししましょう。
おしまい。
「街の魔法薬品を取り扱う薬局で買ったのだろう。いくら支払った?」
「えっと、ドラゴニア金貨一千枚でした」
どうも、この言葉がイオニス様にとってはハートを射止めるほどの効果があった模様です。
イオニス様は、実に愉快そうに笑い出したのです。
「はあっはっは! この屋敷を建て替えて余りあるほどの大金だな。そうか、それを一日で稼いだのか。職人として大した腕だ!」
今の言葉にそこまで効果があると思っていなかった引きこもりの私は、あとで知るのです。
金貨一千枚という額は、低い爵位さえ買い取ってしまえるほどの大金であり、そんなお金を誰かのために、ましてや夫のためにと即決して費やす人間はいないのだ、と。
竜生人には自分よりも力の強い者を認めて敬う文化があり、イオニス様は私に一目置いて、なおかつその私がイオニス様のためにと高価な薬を持ってきたことは——もはやイオニス様側から即座に求愛すべき案件なのだと。
イオニス様はそれらを確かめ終えて、納得したようでした。
「誇れ、エルミーヌ。お前は望まずしてやってきておきながら、異郷の地で目も眩むほどの大金を稼ぎ、夫の傷を治すためにとすべてを費やした。お前が今まで編んだレースを売ったことも知っている、あの古着商に聞いたからな」
ラッセルが師匠の工房に来たほどですもの、そこまで筒抜けでもおかしくはありません。何だかんだとイオニス様は私を心配し、そして敬意を表して——その言い方が正しいかどうかは分かりませんが——三ヶ月もの間、何もせず黙っていてくれたのです。とはいえ私の行き先の情報くらいは仕入れていた、そんな感じでしょう。
もはや最高に機嫌のいいイオニス様は、やっとのことでこの機会を得たとばかりに、私の意思確認へと押し進みます。私の手を取り、顔の高さまで上げて、一言。
「それとも、それは私への愛ゆえの行動ではなかったのか?」
どう答えるべきか、迷った末に私は——イオニス様の左の角に手を添えます。
冷たくもなく、骨のようで、それでいて分厚い革のような、後頭部の後ろまで伸びる金色の角です。竜生人にとって大事な体の一部であり、権威の象徴にもなるそれは、すっかり何の傷もなく、熟練の職人によって金箔を焼き付けられた陶磁器のようです。
「治ったならよかった、本当に」
私は、素直ではありません。馬鹿で、引きこもりで、迷惑ばかりかける娘です。
でも、愛してもいないものが治って、嬉しく思ったりはしません。
その気持ちが伝わったのかどうか、イオニス様が私へ覆い被さるように抱きついてきたことで色々考えは吹き飛びました。
「エルミーヌ、少し我慢してほしい」
「ひゃっ!? ま、また舐め」
「いや、これは竜生人として、生涯をともにする伴侶への契約を結ぶマーキング行為だ。本来ならキスでいいのだが、嫌だろうからと思ってだな、首筋に」
「キスのほうがいいです!」
そう叫んでから、私は赤面します。
「はしたない……恥ずかしい……!」
まるでキスをしてくれと言ったようではありませんか、私。いえそうではなくてですね、首筋を舐められるくらいならキスのほうがいいという意思表示なのです本当に。私はそう生娘ですから、キスもしたことがないのですよ、イオニス様。どうか伝わってほしいこの気持ち。
そんな葛藤は、機嫌のいいイオニス様にはどうでもよかったのかもしれません。
「遠慮するな。お前が示した愛に、私は全力で応える」
そんな決め台詞を耳元で囁かれた日には、卒倒します。
でも、卒倒しかねない衝撃の出来事があっても、私の魔力は暴走しませんでした。部屋に仕組まれた魔法防壁のおかげなのか、あるいは……。
よく考えなくても、夫婦なのだからキスは当たり前では。抱きついたイオニス様が私の頭にスリスリ猫のようにじゃれている最中、冷静になった私は堂々巡りな気持ちになるのです。
最初からイオニス様がキスをすると宣言してくれれば問題なかったのでは。それは言わないでおきましょう。はい。
□□□□□□
それから何日か経って、私はアラデルの店を訪れました。今までの事情を話し、私の身分も明らかにします。
アラデルは大きな大きなため息を吐いて、煙管を吸い込み、愚痴を漏らしました。
「はあー、竜爵閣下の部下が乗り込んできたときは、肝を冷やしたよ」
「申し訳ございません。黙っていたほうがいいかと思って」
「今度から言うように! まったくもう!」
それは今度があれば、ということで。
今後とも私はアラデルとアフディージャ師匠の下で魔導匠として働きます。イオニス様は許してくださいましたし、何より私には新しくやらなければならないことができました。
「それで、魔導匠として働くことは許してもらったのかい?」
「ええ。腕が上達したら、イオニス様からの注文をこなすことを約束して」
「へえ、どんな注文を?」
「これです」
私は自分の左手薬指にはまった銀色の指輪を、アラデルへ見せました。そこには、小さな深紅のガーネットが一つだけ輝いています。
「結婚指輪、これが永劫残るように魔力を込めて加工を、って」
やがて魔導匠エルミーヌ、竜爵夫人の工房はひっそりと開店を迎え、正式に職人ギルドへの加盟も果たします。
その先は、また別の話。エルミーヌが織姫蜘蛛の糸のレースを作るそのとき、またお話ししましょう。
おしまい。
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