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第一章 フランチェスカ
第五話
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それから一週間ほど経った、あるサロンでの一幕。
淑女たちは扇子を広げ、ティーカップを温め、おしゃべりに興じる。
「ねえ、聞いた? フランチェスカ様が、王太子殿下にプロポーズされたって!」
「あの婚約破棄事件のとき、王太子殿下が見ていらしたそうよ。それでフランチェスカ様が飛び出していったあと、マクシミリアンとフェリシアを烈火のごとくお怒りになって叱責なさって、自らフランチェスカ様を探しに出向かれたの」
「あの二人、でっちあげで婚約破棄しようとしたのでしょう? 従兄弟同士で恋仲になって、フランチェスカ様が邪魔になったからって……なんて見苦しいこと! ああ、恥ずかしい!」
「マレフツカ伯爵家には謝罪と違約金が入ったそうだし、王太子殿下の妃になるのならもう元婚約者なんてどうでもよくなっているでしょうね。しかも、マクシミリアンは兵役逃れの詐称をしていたそうだし、軍に連行されたみたいよ」
「あーあ、ご愁傷様ね。貴族の子弟が士官学校も通わずに軍に入ったって、ろくな目に遭わないでしょうに」
すでに婚約破棄の一件は、マクシミリアンの失態として広く語り継がれていた。フェリシアはウラノー子爵に謹慎を言いつけられ、サロンで言い訳さえできない。
一方で、フランチェスカは新たな婚約者と揃って、各地のサロンに招待されていた。
今日もその一つのサロンにやってきて、人々の祝福を受けながら、王太子とともに満面の笑顔を振り撒く。
「あら、フランチェスカ様よ。王太子殿下とあんなに仲睦まじく」
「本当、お似合いね。あの袋は何かしら? 可愛らしいわ」
フランチェスカの手元のバッグには、ラベンダー色の小さなシルクサシェが結ばれていた。
やがてそれは『王太子妃愛用の小さなポプリ』として上流階級の間で流行するのだが、それはまだ先の話だ。
銀杏の黄色い葉が落ちた公園のベンチに、一人の令嬢が俯いて座っていた。
厚手のケープに仕立てのいいドレスブラウス、踝丈のサテンスカートと身なりはよく、どこか資産家の令嬢が習い事の帰りなのだろう、とばかりの風貌だが、どうにも落ち込んでいる様子だ。
そんなとき、チリンチリン、と自転車の甲高い鈴の音が俯いた令嬢の耳に届き、彼女は顔を上げた。
令嬢の目の前に現れたのは、移動式の屋台を乗せた自転車と、降りてくる乗り手の男性だ。金縁の丸眼鏡のサングラスにリゾート帰りのようなカンカン帽、刈り上げた短髪は黒だ。ライトブラウンのチェック柄フランネルシャツを腕まくりして、アスコットタイのようなふくらんだ水色のチーフを首に巻いている。ジーンズパンツと、同じ生地で作ったエプロンを着け、靴は飴色の牛革のサンダルだ。
男性は令嬢に気付くと、声をかけた。
「どうした、お嬢さん。しかめっ面して、何かあったのかい?」
すると、令嬢はプイッと子どもっぽく顔を背けた。しかし、その視線の先には、屋台の下部外側にある看板があった。
令嬢は不思議な響きのそれを読む。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
令嬢が首を傾げている間にも、男性はさっさと屋台の折りたたみ式カウンターを広げ、水の入ったポットを金網の上に置いた。
「紅茶はどうだい? それとも、カフェラテ?」
「……ラテがいいわ。ラテアートはできる? 可愛いやつがいいわ」
「はいよ。ちょっと待ってな」
令嬢は驚く。無茶振りをしたつもりなのに、男性はすでにミルクパンを取り出し、ラテのクリームを作りはじめている。
まもなく、街角のカフェで出されても遜色ないカフェラテがやってきた。令嬢はそれを両手で受け取り、ハートが連なるラテアートに顔が思わず喜び、気色ばむ。
「何があったか知らないが、まずは温かいものを飲んで落ち着かないとな。美味しかったらなおよしだ、どうぞ」
令嬢は少し怪しんでいたが、温かい飲み物の誘惑に勝てず、カフェラテを一口飲む。
甘い甘いラテの、それでいてしっかりとコーヒーのコクとアクセントの苦味が口一杯に広がり、令嬢は男性へこう言った。
「美味しい!」
「そうか、そりゃよかった」
男性は胡散臭いものの、美味しいものに釣られた令嬢は、俯いていた理由をポツポツと、ときに憤慨しながら語りはじめる。
男性はエスプレッソ片手に、令嬢の話へと耳を傾けていた。
おしまい。
淑女たちは扇子を広げ、ティーカップを温め、おしゃべりに興じる。
「ねえ、聞いた? フランチェスカ様が、王太子殿下にプロポーズされたって!」
「あの婚約破棄事件のとき、王太子殿下が見ていらしたそうよ。それでフランチェスカ様が飛び出していったあと、マクシミリアンとフェリシアを烈火のごとくお怒りになって叱責なさって、自らフランチェスカ様を探しに出向かれたの」
「あの二人、でっちあげで婚約破棄しようとしたのでしょう? 従兄弟同士で恋仲になって、フランチェスカ様が邪魔になったからって……なんて見苦しいこと! ああ、恥ずかしい!」
「マレフツカ伯爵家には謝罪と違約金が入ったそうだし、王太子殿下の妃になるのならもう元婚約者なんてどうでもよくなっているでしょうね。しかも、マクシミリアンは兵役逃れの詐称をしていたそうだし、軍に連行されたみたいよ」
「あーあ、ご愁傷様ね。貴族の子弟が士官学校も通わずに軍に入ったって、ろくな目に遭わないでしょうに」
すでに婚約破棄の一件は、マクシミリアンの失態として広く語り継がれていた。フェリシアはウラノー子爵に謹慎を言いつけられ、サロンで言い訳さえできない。
一方で、フランチェスカは新たな婚約者と揃って、各地のサロンに招待されていた。
今日もその一つのサロンにやってきて、人々の祝福を受けながら、王太子とともに満面の笑顔を振り撒く。
「あら、フランチェスカ様よ。王太子殿下とあんなに仲睦まじく」
「本当、お似合いね。あの袋は何かしら? 可愛らしいわ」
フランチェスカの手元のバッグには、ラベンダー色の小さなシルクサシェが結ばれていた。
やがてそれは『王太子妃愛用の小さなポプリ』として上流階級の間で流行するのだが、それはまだ先の話だ。
銀杏の黄色い葉が落ちた公園のベンチに、一人の令嬢が俯いて座っていた。
厚手のケープに仕立てのいいドレスブラウス、踝丈のサテンスカートと身なりはよく、どこか資産家の令嬢が習い事の帰りなのだろう、とばかりの風貌だが、どうにも落ち込んでいる様子だ。
そんなとき、チリンチリン、と自転車の甲高い鈴の音が俯いた令嬢の耳に届き、彼女は顔を上げた。
令嬢の目の前に現れたのは、移動式の屋台を乗せた自転車と、降りてくる乗り手の男性だ。金縁の丸眼鏡のサングラスにリゾート帰りのようなカンカン帽、刈り上げた短髪は黒だ。ライトブラウンのチェック柄フランネルシャツを腕まくりして、アスコットタイのようなふくらんだ水色のチーフを首に巻いている。ジーンズパンツと、同じ生地で作ったエプロンを着け、靴は飴色の牛革のサンダルだ。
男性は令嬢に気付くと、声をかけた。
「どうした、お嬢さん。しかめっ面して、何かあったのかい?」
すると、令嬢はプイッと子どもっぽく顔を背けた。しかし、その視線の先には、屋台の下部外側にある看板があった。
令嬢は不思議な響きのそれを読む。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
令嬢が首を傾げている間にも、男性はさっさと屋台の折りたたみ式カウンターを広げ、水の入ったポットを金網の上に置いた。
「紅茶はどうだい? それとも、カフェラテ?」
「……ラテがいいわ。ラテアートはできる? 可愛いやつがいいわ」
「はいよ。ちょっと待ってな」
令嬢は驚く。無茶振りをしたつもりなのに、男性はすでにミルクパンを取り出し、ラテのクリームを作りはじめている。
まもなく、街角のカフェで出されても遜色ないカフェラテがやってきた。令嬢はそれを両手で受け取り、ハートが連なるラテアートに顔が思わず喜び、気色ばむ。
「何があったか知らないが、まずは温かいものを飲んで落ち着かないとな。美味しかったらなおよしだ、どうぞ」
令嬢は少し怪しんでいたが、温かい飲み物の誘惑に勝てず、カフェラテを一口飲む。
甘い甘いラテの、それでいてしっかりとコーヒーのコクとアクセントの苦味が口一杯に広がり、令嬢は男性へこう言った。
「美味しい!」
「そうか、そりゃよかった」
男性は胡散臭いものの、美味しいものに釣られた令嬢は、俯いていた理由をポツポツと、ときに憤慨しながら語りはじめる。
男性はエスプレッソ片手に、令嬢の話へと耳を傾けていた。
おしまい。
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