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第一章 フランチェスカ
第二話
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普段なら、フランチェスカはこんな男に話しかけられても無視しただろう。自分は歴史あるマレフツカ伯爵家の娘、平民の胡散臭い男となんて口を聞きたくないわ、と。
しかし、傷心のフランチェスカは、そんな見栄体裁よりも、慰めてほしかった。
「……舞踏会のホールから飛び出してきてしまいましたの」
「寒くない?」
「寒いですわ。羽織るものだってないし、でも」
「取りに戻りたくもないし、誰にも会いたくない、と」
「……ええ」
男性は屋台のカウンターを開け、しまってあった厚紙製のメニューをフランチェスカのもとへ持ってきた。五つほどのドリンクメニューを見せて、指差す。
「まずは温まらないとな。何を飲む?」
「私、お金など持っていませんわ」
「当たり前だよ、貴族のお嬢さんが自分で持つわけがない。いいから、一つサービスだ。何が好きだい? 紅茶? それともコーヒー? ホットチョコレートなんかは?」
軽い口調で勧められると、何だかそれに従ってもいいような気がする。
フランチェスカは、さすがにもう態度を固くする意味はないと悟り、男性のサービス精神に甘えることにした。
「では、ホットチョコレートを」
「はいよ。少し待っててくれ」
男性は足取り軽く屋台に戻った、と思ったら、すぐに取って返してきた。ふわり、と綿の房付きテーブルクロスを半分に折って、フランチェスカの肩にかける。
「テーブルクロスで申し訳ないが、それ以上外で肌を晒すのはレディの沽券に関わるだろ? 今だけ羽織っておきな」
「……ええ、ありがとう」
「どういたしまして」
何事もなかったかのように男性は身を翻し、屋台の下部に設えた棚を開けて注文の品を作りはじめた。
「砂糖は?」
「たくさん」
「いいねぇ。やっぱチョコレートは甘くないとな。疲れも何も吹っ飛ぶってもんだよ」
パタン、カチャン、ここが外であることを忘れるかのような、カフェの音が聞こえる。
たっぷりのココアの粉に香辛料、それから砂糖。屋台の上部にある金網の上に載った金属製のポットがシュー、とお湯の沸騰を知らせる。その横に小さなホーローのミルクパンが並び、棚から出てきた生クリームが端っこで温められていた。
男性は慣れた手つきで、分厚い陶器のカップに粉を混ぜ、少量のお湯を注ぎ、スプーンでよく練ってから生クリームで少しずつ溶いていく。ようやくチョコレートの香りがフランチェスカのもとまで届いてきた。
出来上がりを待つフランチェスカは、ふと、屋台の下部外側にある看板の文字を読んだ。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
聞いたことのない単語だ。フランチェスカの知識の中に『カグラザカ』なんてものはない。地名、人名、どこの国の言葉だろうか。男性の名前や故郷の言葉かもしれない。ということは、男性はこの国の出身ではないのだろうか。
そんなことを考えていると、すっかり涙も鼻水も引っ込んだことにフランチェスカは気付いた。同時に、寒空に飛び出してきた後悔も顔を覗かせてくる。
フランチェスカには、貴族令嬢としてあるまじき行いをした自覚はある。どうやっても明日からサロンの笑い物だろうし、今頃従者たちは大慌てで自分を探し回っていると思うと少し申し訳ない気分にもなる。まさか仕える家の娘を放ったらかして帰るわけにもいかず、見つからなかったら、犯罪に巻き込まれていたら、なんて考えると本気で心配しているだろう。
はあ、とフランチェスカは夜空へとため息を吐いた。うっすらと雲が棚引き、夜にもかかわらずろくに星は見えない。時折吹く風は肌寒いし、テーブルクロスの暖かさが本当にありがたい。子どものころのように、家に帰って暖炉の前でナイトローブに包まって、はちみつたっぷりのホットミルクを飲んでゆっくりしたい——でも、もう自分は子どもではないのだ、とフランチェスカは現実に立ち返った。
ちょうど、フランチェスカの前に注文のホットチョコレートが差し出される。
男性は笑顔で、フランチェスカの手にカップを握らせた。
「熱いから気をつけて」
「え、ああ、ありがとう。いただくわ」
少し冷まされているホットチョコレート、カップを両手で持つとちょうどいい温度だ。冷えてきていた手指がじんわりと温まる。
フランチェスカは、香り立つホットチョコレートへ顔を近づける。シナモンとわずかにジンジャーの匂いも混ざって、とろみづいた赤茶色の液体は舌に乗ると甘味と濃厚な生クリームの踊るような調和で楽しませてくる。一口、また一口とフランチェスカはゆっくり、小さく飲む。
フランチェスカの細い喉が、胃が温かな飲み物を受け入れて、体の中からポカポカとしてくる。思わず、フランチェスカは笑みをこぼしていた。美味しいと、嬉しくなっていた。
フランチェスカが見上げれば、男性は自分用の飲み物を用意していた。いつの間にかエスプレッソマシンが火にかけられ、湯気を吹き出している。手のひらに収まるようなエスプレッソカップに角砂糖が二つも入れられ、ついに吹き出したエスプレッソマシンから黒い液体が注がれる。
風向きが変わり、濃ゆいコーヒー豆の焙煎の香りがフランチェスカのほうへと流れてきた。男性はティースプーンでエスプレッソをかき混ぜ、溶けていない砂糖がガリガリと音を立てている。
コーヒーに浸った砂糖をティースプーンで味わっている男性を見ていると、行儀が悪い、と思わなくもなかった。ただ、世間ではそう飲むものだし、自分も飲んでみたいと思った。フランチェスカはそう自分の心がほぐれてきたことを実感して、ついにはこう漏らした。
「婚約者に、婚約破棄を突きつけられたの」
しかし、傷心のフランチェスカは、そんな見栄体裁よりも、慰めてほしかった。
「……舞踏会のホールから飛び出してきてしまいましたの」
「寒くない?」
「寒いですわ。羽織るものだってないし、でも」
「取りに戻りたくもないし、誰にも会いたくない、と」
「……ええ」
男性は屋台のカウンターを開け、しまってあった厚紙製のメニューをフランチェスカのもとへ持ってきた。五つほどのドリンクメニューを見せて、指差す。
「まずは温まらないとな。何を飲む?」
「私、お金など持っていませんわ」
「当たり前だよ、貴族のお嬢さんが自分で持つわけがない。いいから、一つサービスだ。何が好きだい? 紅茶? それともコーヒー? ホットチョコレートなんかは?」
軽い口調で勧められると、何だかそれに従ってもいいような気がする。
フランチェスカは、さすがにもう態度を固くする意味はないと悟り、男性のサービス精神に甘えることにした。
「では、ホットチョコレートを」
「はいよ。少し待っててくれ」
男性は足取り軽く屋台に戻った、と思ったら、すぐに取って返してきた。ふわり、と綿の房付きテーブルクロスを半分に折って、フランチェスカの肩にかける。
「テーブルクロスで申し訳ないが、それ以上外で肌を晒すのはレディの沽券に関わるだろ? 今だけ羽織っておきな」
「……ええ、ありがとう」
「どういたしまして」
何事もなかったかのように男性は身を翻し、屋台の下部に設えた棚を開けて注文の品を作りはじめた。
「砂糖は?」
「たくさん」
「いいねぇ。やっぱチョコレートは甘くないとな。疲れも何も吹っ飛ぶってもんだよ」
パタン、カチャン、ここが外であることを忘れるかのような、カフェの音が聞こえる。
たっぷりのココアの粉に香辛料、それから砂糖。屋台の上部にある金網の上に載った金属製のポットがシュー、とお湯の沸騰を知らせる。その横に小さなホーローのミルクパンが並び、棚から出てきた生クリームが端っこで温められていた。
男性は慣れた手つきで、分厚い陶器のカップに粉を混ぜ、少量のお湯を注ぎ、スプーンでよく練ってから生クリームで少しずつ溶いていく。ようやくチョコレートの香りがフランチェスカのもとまで届いてきた。
出来上がりを待つフランチェスカは、ふと、屋台の下部外側にある看板の文字を読んだ。
「カフェ・ド・カグラザカ?」
聞いたことのない単語だ。フランチェスカの知識の中に『カグラザカ』なんてものはない。地名、人名、どこの国の言葉だろうか。男性の名前や故郷の言葉かもしれない。ということは、男性はこの国の出身ではないのだろうか。
そんなことを考えていると、すっかり涙も鼻水も引っ込んだことにフランチェスカは気付いた。同時に、寒空に飛び出してきた後悔も顔を覗かせてくる。
フランチェスカには、貴族令嬢としてあるまじき行いをした自覚はある。どうやっても明日からサロンの笑い物だろうし、今頃従者たちは大慌てで自分を探し回っていると思うと少し申し訳ない気分にもなる。まさか仕える家の娘を放ったらかして帰るわけにもいかず、見つからなかったら、犯罪に巻き込まれていたら、なんて考えると本気で心配しているだろう。
はあ、とフランチェスカは夜空へとため息を吐いた。うっすらと雲が棚引き、夜にもかかわらずろくに星は見えない。時折吹く風は肌寒いし、テーブルクロスの暖かさが本当にありがたい。子どものころのように、家に帰って暖炉の前でナイトローブに包まって、はちみつたっぷりのホットミルクを飲んでゆっくりしたい——でも、もう自分は子どもではないのだ、とフランチェスカは現実に立ち返った。
ちょうど、フランチェスカの前に注文のホットチョコレートが差し出される。
男性は笑顔で、フランチェスカの手にカップを握らせた。
「熱いから気をつけて」
「え、ああ、ありがとう。いただくわ」
少し冷まされているホットチョコレート、カップを両手で持つとちょうどいい温度だ。冷えてきていた手指がじんわりと温まる。
フランチェスカは、香り立つホットチョコレートへ顔を近づける。シナモンとわずかにジンジャーの匂いも混ざって、とろみづいた赤茶色の液体は舌に乗ると甘味と濃厚な生クリームの踊るような調和で楽しませてくる。一口、また一口とフランチェスカはゆっくり、小さく飲む。
フランチェスカの細い喉が、胃が温かな飲み物を受け入れて、体の中からポカポカとしてくる。思わず、フランチェスカは笑みをこぼしていた。美味しいと、嬉しくなっていた。
フランチェスカが見上げれば、男性は自分用の飲み物を用意していた。いつの間にかエスプレッソマシンが火にかけられ、湯気を吹き出している。手のひらに収まるようなエスプレッソカップに角砂糖が二つも入れられ、ついに吹き出したエスプレッソマシンから黒い液体が注がれる。
風向きが変わり、濃ゆいコーヒー豆の焙煎の香りがフランチェスカのほうへと流れてきた。男性はティースプーンでエスプレッソをかき混ぜ、溶けていない砂糖がガリガリと音を立てている。
コーヒーに浸った砂糖をティースプーンで味わっている男性を見ていると、行儀が悪い、と思わなくもなかった。ただ、世間ではそう飲むものだし、自分も飲んでみたいと思った。フランチェスカはそう自分の心がほぐれてきたことを実感して、ついにはこう漏らした。
「婚約者に、婚約破棄を突きつけられたの」
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