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第四十一話

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 ベルが本来のベルに戻ってから、二日が経った。

 あれから忠次は一度も表に出てきていない。もういなくなってしまったのだろうか、と私がベルに尋ねたら、ベルは「ううん、いると思うわ。何となく……気配? みたいなものがあるから」と言っていた。

 それに、気になることもある。忠次がベルのフリをしてしたころの記憶が、体の本来の持ち主であるベルにもあるのなら——もしかすると、忠次の元の記憶もベルが把握できるのではないだろうか。つまり、一人の体に二人分の人生の記憶があることになる。

 果たして、それが害のないことならばいいのだが、私が懸念しているのは記憶が共有されることがそのままベルと忠次の意識が混ざることに繋がってしまわないか、ということだ。

 自分が自分である、と証明することは難しい。古今東西の哲学者の思考実験でも、まだ正解が見つかっていない命題テーマだ。

 だというのに、今ベルの体を動かしているのは本当にベルなのか、それとも忠次なのか、その境目は頑強なものなのか、それとも脆いものなのか。

 早く手を打たなければならない、ベルと忠次の意識が混ざってしまうようなことになれば、混乱は必至だ。魂とは混ざるものではないと思うが、人を人たらしめる基盤である記憶が曖昧になってしまうと自我の意識まで影響を強く受けてしまうだろう。もし違うとしても、どのみちベルと忠次が早く元通り分離したほうがいいに決まっている。

 でも、問題は山積だ。それらをいちいち考えて、本を読んで、希望が見えては潰れていく毎日に、私は少し行き詰まっていた。

 ——いやいや、このまま図書室に籠りきりではどうにもならない。

 私はのそりと図書室から出た。昼食はまだだが、ベルの様子を見に行こうと思った。

 朝のこの時間、ベルはのんびりとヴェルグラ侯爵家の敷地内を散歩していた。すでに傷が塞がっている不死身の大兄様は次の休みまで帰ってこないため乗馬はできないし、今のベルは乗馬などお転婆なことはしたがっていない。

 さて、ベルは今どこに——と私が顔を上げたときだった。

 廊下の向こうから、見知らぬ青年が手に大事そうに小箱を抱えて、キョロキョロしながらやってきていた。ヴェルグラ侯爵家の使用人ではない、もしくは新入りだ。身なりは清潔だし、服も決して安物ではない。顔立ちも貴族ではなさそうだが、それなりに見栄えする男前だ。

 一応、私は誰何する。

「あら? ねえ、そこのあなた。新人かしら?」

 見知らぬ青年は私に気付き、会釈をした。

「これはお嬢様、失礼を。私、さる商家よりシメオン様にこちらの品物を届けにまいりました。何分、急ぎの品だと聞きましたので、不慣れながらやってきた次第です。途中でぼうっとしていたら、案内の方とはぐれてしまいまして……面目次第もございません」
「そうだったのね。もう、小兄様ったらいつもそんな感じなんだから。私が持っていくわ、任せて」
「そのようなことは畏れ多い」
「いいのよ。さ、あとは任せて。エントランスはこの廊下をまっすぐ行って、螺旋階段を右手に行けばいいわ。分からなくなっても途中で誰かに会うでしょうから」
「承知いたしました。ありがとうございます、お嬢様」

 見知らぬ青年はしっかりと頭を下げ、私へうやうやしく小箱を手渡してから、踵を返していった。

 私はその背中を途中まで見送って、それから小箱をこっそり開く。

 中身は、香水だった。それも女物の、瓶の装飾にガーネットをあしらった特注品。

「小兄様が、香水? ええ? そんな、また浮気でもしたのかしら?」

 ヴェルグラ侯爵家三男シメオン、私の小兄様は女たらしで有名すぎて、お父様の怒りを買った挙句に西方の要塞へ転属させられたとか。ひょっとして、王都に帰ってきたのかしら、などと私は思いつつ、小兄様の部屋へはしたなくもワクワクしながら向かう。あの面食いな小兄様は、今度はどんな女性と恋に落ちたのかしら。しょうがないわね、妹として知っておかないと。







 ヴェルグラ侯爵家は使用人や客のほか、放牧場や近隣の王都警備隊の駐屯地からも人が出入りするため、侵入しようと思えば容易い。多少なりとも心得があれば、出入りだけならば容易と言えるだろう。もっとも、そこから目的を果たすとなると難易度は格段に跳ね上がるが——少なくとも、誰かに危害を加えようとしていないのなら、さしたる問題ではない。

 手ぶらになった青年が、ヴェルグラ侯爵家屋敷を歩き回る。貴賓の令嬢ならば二階以上に居室を設けられることはない、一階をくまなく歩いていればいずれ痕跡は見つかるはずだ。

 そんなふうに、いくばくか緊張感を持ちながらも呑気な算段をしていた。

 ひとけのない廊下の端で、背後に突如現れた少女の気配に気付くまでは。

 青年は不意に察知した気配に敏感に反応し、振り返る。確かに見覚えのある、ブランモンターニュ伯爵家令嬢ベルティーユが、佇んでいた。この華奢で、虫の一匹も殺せそうにない少女があの爆破事件を引き起こしたなどとは今でも信じがたいが、この少女こそが青年——マントの仲間二人を死に追いやり、重傷者を多数出した張本人なのだ。

 青年は咄嗟に、笑顔を取り繕う。

「すみません、そこのお嬢様。こちらは」
「そこで止まりな」

 独特の訛りのある、とても少女とは思えない口調で、ベルティーユはマントを嘲るように咎める。

「何か用かィ、兄さん。んじゃねェかィ?」

 ——どの口が言うか。

 マントが言い返す暇もなく、いつの間にか少女の手に握られていた回転式拳銃リボルバー——おそらく先日の事件でしっかり盗んできていたのだろう——はすでに撃鉄が引かれ、あとは引き金に力を込めればいいだけだ。

 ベルティーユ……いや、忠次は、再度現れた。
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