愚者の旅路

Canaan

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第1章 A Walking Lie

07.バークレイ姉弟の暮らし

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「うひゃあああ」

 ランサムは女の悲鳴で目を覚ました。かばりと起き上がって、視界に飛び込んできた見慣れぬ景色に一瞬疑問符が乱舞したが、そういえば、怪我をしてジェーンの家にお世話になっているのだった。では、今の悲鳴はジェーンのものか。
 辺りを見回してもジェーンの姿はない。立ち上がろうとして、そこでまた足首を怪我していたことに思い当たり痛みに顔を歪める。だが急いでジェーンの貸してくれた杖を手に取って、身体を起こした。
 立ち上がって部屋を見回してもやはりジェーンの姿が見当たらない。しかし、
「うおおお、かっけえ!」
 子供のはしゃぐ声が聞こえた。この元気な叫び声はロイドのものだろう。ジェーンの弟は双子で、姿も声もそっくりであったが、少なくともグレンの方は「うおおお、かっけえ」などと言いそうにない。たった一晩、少しの間話しただけだというのに、二人の違いはランサムにも良く分かっていた。

 杖を支えにしながら扉の所まで歩くと、すぐ外に黒くて大きなものが見えた。
「ヴェガ! ヴェガじゃないか……!」
 ランサムの馬である。金貨の袋を失った事は──どうせあぶく銭だ──それほど痛くなかったが、ヴェガのことは心配であった。だがこの足で探しに行く訳にもいかず、あんな夜更けにジェーンや双子たちに捜索を頼む訳にもいかない。ヴェガとはぐれたことを嘆いてもどうしようもないと分かっていたので夕べは何も言わなかったが、ならず者に盗まれたりしていないか、とても気になっていた。
「これ、貴方の馬……よね?」
 外に出てヴェガがいたからジェーンは腰を抜かしたのだろう。スカートについた土を払いながら腰を上げ、ランサムを振り返る。彼女は一度ヴェガを目にしているはずだが、弟たちの手前か曖昧に濁した。
「いかにも、私の馬だ。昨日、崖の所ではぐれてしまっていたんだが」
「へえ、じゃあランサムのこと追っかけてきたんだ。賢いなあ」
「そう、ヴェガは賢いやつなんだ」
 ロイドと言葉を交わしながらヴェガに近寄り、身体を撫でてやる。ヴェガに括り付けた荷物も無事であった。しかし、と、ランサムは周囲を見渡す。そういえば小屋の外の風景は初めて目にするものだ。中にいる時から古い小屋だと知ってはいたが、外観もかなり危なっかしい。ちょっと強い風が吹いたら壊れてしまいそうだ。
「ここは……ルルザの街なんだよね?」
「ええ、街の外れよ。貴方はあそこの川にいたの」
 ジェーンが指さした方を見れば、確かに川の流れが見える。流れを遡れば緩やかな坂道が続いていて……なるほど、あの峠の先から自分は落ちて流れてきた訳だ。
 そして川とは反対側の、道路らしきものの方を見れば、ジェーンの住む小屋と似たような作りの建物がいくつか並んでいた。街の中心からはかなり離れた場所に位置していて、道の状態も悪い。いわゆる低所得の人間が住む場所のようだ。
「……借家なの。あっちに、共用の井戸があるわ」
 ランサムの故郷モルディスにもこういった形式の家は存在していたから、これらの建物が借家だということは言われなくても分かった。だが、モルディスでは夫や息子など、つまり働き手を失って地代が払えなくなった女性や老人がこのような家に住んでいた気がする。少なくともジェーン姉弟のような、いわゆる女子供だけで暮らすことはない。
 もちろんモルディスに比べてルルザは都会だし、生活習慣や風土なども違うだろうからおかしいことだとは断言できない。とはいえ彼らには両親がいないのだろうか。なぜ姉弟だけでこんなところに住んでいるのだろうか……。
 彼らについての疑問が次々と湧いてきたが、素性や出自を伏せておきたいのはランサムも同じだ。興味本位であれこれと聞きだすのも無粋であろう。

「この辺に、草を食ませられる場所はあるかな」
 珍しそうに、或いは憧れの視線でヴェガを見やる姉弟たちにランサムはそう訊ねた。再会できたのは嬉しいが、ヴェガをこの小屋の前に置いておくわけにもいかない。馬小屋などというものもありそうにない。
「向こうの方に草むらがあるよ。小川も流れてるから、ちょうど良いんじゃないかな」
「そうなんだ、ありがとう」
 嵐が来たりしなければ、そこで過ごさせても問題ないだろう。グレンが教えてくれたその場所に向かおうとすると、ジェーンが止める。
「ちょっと、その足じゃ無理よ。私が連れて行くわ」
「……遠くに行かないように、念のため両の脚をロープで緩く繋いでおくんだけど。君、馬には慣れている?」
 ジェーンは首を振った。それではやはり危険だ。不用意に近づいて蹴飛ばされたりしては大変なことになる。
「では、貴方が転ばないようについて行くわ」
「おれも行く!」
「ぼくも行きたい」
 ジェーンと二人きりになれる、と期待したのもつかの間、双子たちも行くと言った。まあ、そうなるよな、と残念に思いながらも四人で道を歩き出す。ふと視線を感じて横を見れば、別の借家に住む人間がこちらを覗き見ていた。小屋の中が暗くてよく見えないが、中年の女性のように思えた。顔見知りなのだろう、ジェーンが会釈をしたので、ランサムもなんとなくそれに倣う。すると、覗いていた女は挨拶を返すどころか扉をぴしゃりと閉めてしまった。ジェーンが肩を落とし、ため息をついた。

 草むらは木々に囲まれていて、道路からはちょっとした目隠しを受けているような感じになっていた。これは良い場所だとランサムはさっそくヴェガに草を食ませる。
 双子たちは小川にエビがいると騒ぎ始めた。淡水生の小さなエビで食用にはならないとジェーンが言ったが、何が面白いのかロイドは捕まえようと小川に手を突っ込んでいる。
「捕まえたって、持って帰れないからね!」
 弟に向かってジェーンがそう叫び、それからランサムに向き直った。
「あの、さっきのことだけれど」
「さっき……とは?」
「他の借家の人が」
「ああ」
 あの感じの悪い女性か。と口には出さないがランサムは頷く。
「私たち、姉弟三人だけで住んでいるから、あまりよく思われていないみたいで。貴方にも厭な思いをさせてしまって、悪かったわ」
「別に私は構わないよ。それに、君が謝ることではないと思う」
 ただでさえ生活が苦しそうなのに、そこに置いて貰っている身では文句を言う立場にない。それに、これは何故姉弟三人だけで住んでいるのか、聞いてもよい流れなのだろうか。だがランサムが訊ねる前にジェーンが口を開いた。
「私たち、昔はもっと街中で暮らしていたの。五年前に母が亡くなって……半年前に、父も」
 ではジェーンは五年前から弟たちの母代わりをしていたというのか。
「大変だったんだね」
「それで、父に借金があって……住んでいた家を出なくちゃならなかったの。私たち、他に身寄りがないから家を貸してくれる人もいなくて。今住んでいるところ、やっと見つけたのよ」
 なんだかめちゃくちゃ重い話になってきた。だが「この話はもうやめよう」とも言い出し難い。
「それで、君が弟さんたちを養っているんだね」
 ついつい、余計重い方向にいきそうな相槌を打ってしまう。
「え、ええ。まあ……薬草を摘みに行って、それを薬種屋に売っていたんだけど、それだけでは足りなくて、そのー……」
 それで身を売る相手を探していたということか。気前よく振舞っておいてよかった。だが、
「ごめんよ、もう一度君を買ってあげたいけれど、あいにく先立つものがない」
 ヴェガに積んでいた荷物の底から銀貨が数枚出てきたが、これは賭場で稼ぐための元手にするつもりだ。
「わ、私はそんなつもりで言ったんじゃなくて……つまり、普段からそういう事をしてる訳じゃないというか……」
「うん、分かってるよ」
 それはそうだ。彼女は処女だったんだから。
 しかし何故私はその記念すべき瞬間を覚えていないのだ……。
 夕べジェーンに後悔していないのか念を押すと、彼女はしていないと言った。つまり自分はジェーンを抱いたのだろう。それも、悦びを与えたに違いない。
 ランサムは首をひねる。
 これまでに寝所を共にした女の子たちの名前を思い出せない事はあっても、彼女らの顔と、身体が、そしてその中の感触がどんな風だったかはきっちりと覚えている。それがジェーンの記憶だけ抜け落ちている。ランサム・ソレンソン一生の不覚である。口惜しくてならない。どうにかしてもう一度ジェーンと寝たくて、彼女の感触がどんな風か確かめたくて仕方がない。
 こうなったら杖をつきながら賭場へ行って金貨を稼いでこようかとも考えたが、いくらなんでもそれはがっつきすぎな気がする。ジェーンとて引くだろう。

「姉ちゃん見て! でっかいカエル!」
「きゃー! ちょっと、こっちに持って来ないで!」
 夕べ何度も誘いらしきものをかけたが、ジェーンには取り付く島も無かったし──やはり金貨と交換でなくてはだめだろうか──上手い具合に口説き落とせたとしても、弟たちがいるのではやりにくいよなあ……。
 そんな事を考えながら来た道を戻って小屋へ帰ると、その小屋の前に誰かがいた。ジェーンよりも年下の女の子に見えた。彼女も女の子に気が付いたようで、
「ヤーナ!」
 名前を呼びながら走っていく。近所の娘だろうか。だがジェーンはヤーナに「ちょっと待ってて」といい、いったん小屋の中へ入った。
「やあ、どうも」
 ランサムがヤーナに挨拶をする。ジェーンの友達か、近所の人間だと思ったのだ。ヤーナは怪訝そうにランサムを見上げた。
「可愛らしいお嬢さん、私はランサム。君は、ジェーンのお友達かな?」
「い、いえ」
 ヤーナは口ごもりながら後ずさる。しかしランサムは近所でのジェーンの評判を聞いたばかりだ。愛想良くしておいても損はないだろうと考えた。甘ったるい笑みを浮かべながらヤーナの髪を褒める。
「じゃあ、近所の人かな。素敵な巻毛だね。それに、可愛らしいリボンだ。君によく似合っているよ」
 しかし、ヤーナは奇妙な生き物でも見るような視線をランサムに向けたままであった。もしかして頬の生傷がいけないのだろうか、と、そこに手をやった時、
「ヤーナ、お待たせ!」
 小屋の中からジェーンが顔を出す。そしてヤーナに銀貨を手渡した。
「これ、今月分の家賃。はい」
 ヤーナはジェーンの手から銀貨をぱっと奪い取るようにすると、それを持っていた巾着にしまい込み、瞬く間に駆けて行ってしまった。
「……今のは、大家さんかな。随分若いね」
「大家さんの、娘さん」
「なるほど……私は拙いことをしてしまったのだろうか」
「彼女に何か言ったの?」
「いや、リボンと巻毛を褒めただけだよ」
 ジェーンは肩を竦めた。
「じゃあ、気にすることはないわ。彼女はいつもあんな感じだから」
 ジェーンは住まわせてもらってるだけで有難いというが、やはり姉弟三人で云々というのが理由なのだろうか。見たところ、ジェーンは真面目に暮らしているし、弟たちの世話もよくやっている。なんだか、世の中は理不尽だとランサムは思った。


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