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番外編

愛と平和と秘密の薬 4

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 夕食の後、ヒューイは他の招待客に呼び止められて少し話をすることになった。
 特別な用でもなんでもなくただの世間話だったし、ヘザーのところに早く行きたかったが、こういった付き合いは蔑ろにできないものだ。

 話を終えてヘザーを探すために別荘の中を歩く。
 すると、シンシアとオリヴィエが神妙な面持ちでヒューイの前にやって来た。
 なんでも先ほど、ヘザーが音楽室で奇行に走ったと言うのだ。
 無言で部屋の真ん中まで歩いてきたかと思ったら、そこで靴を脱ぎ捨て、足を持ち上げて自分の顔を近づけたのだと。その姿は、足のにおいを嗅いでいるように見えたという。
 もちろん全員──居眠りしていたもの以外──が絶句し、ピアノ奏者も周囲の空気の変化を感じ取り、演奏を止めてしまった。
 しんと静まった部屋の中で、ヘザーは「足の裏に棘が刺さったから」と説明したらしい。

「……ヘザーが、そんなことを?」
 靴の中に異物が入るのは分かる。だが、わざわざそんなところまで行って足の裏を確かめるのは、どう考えても変だ。
 信じられなかったが、晩餐時に百面相をしていたことを考えると、今日の彼女はおかしいのだと納得してしまう。
 本当にヘザーはどうしてしまったんだ?
 ヒューイが俯き加減で考えていると、シンシアが言った。
「あの……頭をぶつけられたりとか、したのでしょうか?」
「頭の中に腫物が出来たりすると、通常とは違う行動をとったりするらしいですよ。一度医者に診てもらった方が……」
 オリヴィエも頷いた。

 ヘザーは病気かもしれない。若しくは、頭を打ったか……。
 もう夜も遅いが、今からここへ来てくれる医者はいるだろうか。或いは夜明けと同時にここを発って、王都の医者の所へ連れていくか。いや、馬車の揺れはまずいだろうか?
 ヒューイは色々と考えながらヘザーを探して歩き回る。角を曲がった時、

「また……なんでよう!」
「いいじゃーん」

 ヘザーとイリオスが廊下の隅で騒いでいるのが見えた。
 二人は仲良くじゃれ合っているようだ。今のヘザーは病気には見えなかった。

 その男と何をしているんだ。
 ヘザーの腕を引っ張ってどこかの部屋に押し込み、そう問い詰めたかった。
 しかし。
 イリオスはヘザーと寝てみたいと言っていた。
 ヘザーは常にムラムラしている。
 そして自分はあの日、ヘザーにやらせなかった。挙句「君は二人きりになるとそればかりだ」と説教をした。

 ひょっとして彼女が奇行に走ったのは……ヒューイと別れてイリオスのところに行きたいからだろうか。
 わざと嫌われるようなことをして評判を落とし、ヒューイから別れを告げさせるために。

 身体を許さなかったせいで、恋人の心が離れていく話をよく耳にする。
 もしかして、自分たちもそうなってしまったのだろうか?



*


 音楽室のど真ん中で足のにおいを嗅いできたというのに、イリオスは小瓶を返してはくれなかった。
 棘が刺さったと言い訳したのがいただけないのだと、偉そうに彼は言う。
 それどころか、今度は子爵夫人のドレスを捲って来いと注文した。

「そんなこと、出来る訳ないでしょ!」
「ええー。じゃ、これは君の婚約者にお返しすることにしようかな」
「……!」
 薬のことはもう諦めようかとすると、イリオスはこれをヒューイに返すと言う。それだけは本当にやめてほしかった。

「あのねえ、私が恥をかくだけならいいの! 私と貴方以外の人間を巻き込むのは、ルール違反だと思わない?」
 この男にルールやまともなやり方を説くのは無駄な気もするが、関係のない人に迷惑をかけるのは避けたかった。
「貴方は、私に恥をかかせて楽しみたいだけなんでしょう!」
「うん。だって君、すっげえ面白いんだもん。ほんとにさ、俺とヤるつもり、ない? それでチャラにしてあげるよ」
「ふっ、ふざけるなぁああ」
 散々他人を辱めておいて今さら何が「チャラ」だ。ヘザーにとっては差し引きゼロどころか大損害である。しかも「してあげる」って、どうしてこうも上から目線なのか。



「あの。マーシャル子爵……」
「おお、君は、キャシディさんだったね。どうしたんだい。何か、足りないものでもあるのかな?」
「い、いえ。とても素晴らしい別荘で、足りないものなんて……」
 ヘザーは今回のホストであるマーシャル子爵に話しかけ、隙を窺っていた。
 とても優しい紳士だ。この人に向かって……。

『じゃあ、子爵の鼻の穴に指を突っ込んできてよ。二本同時に、しっかりとな!』

 これが今度のイリオスの命令である。
 他人を巻き込む行為には違いないのだが、子爵夫人のドレスを捲って来るよりは幾分マシな気がした。
 ヘザーは口ごもりながらも左右を見渡した。
 ここは先ほどの音楽室で、演奏に耳を傾けている者もいるが、隅のテーブルではカードゲームをしている者もいる。窓際で談笑している人たちもいた。
 たぶん、招待客のほとんどがこの部屋にいる。イリオスはどこかでヘザーの様子を監視しているに違いなかった。
 ここで、子爵の鼻に指を突っ込む……。
 ヘザーは背中側に回して握っていた手の指……人差し指と中指の二本を伸ばした。

「どうしたんだい?」
「は、はい。あ、あのう……」
 ヘザーが散々タメを作ったので、子爵は首を傾げ、近くにいた人たちも何事かとこちらに注目し始めた。
「あ、あの! 明日になったら、温室の中を見せてもらってもいいでしょうか!? 何を育てているのか、気になってたんです!」
「もちろんだとも! 異国の珍しい植物もたくさんある。説明を付けたプレートを立ててあるから、それも併せて楽しんでくれたらと思うよ」
「はい。ありがとうございます」
 ヘザーは後ろに回していた手をがくりと下ろした。
 無理無理! 鼻に指を突っ込むなんて無理! 子爵はとてもいい人そうだし、注目も集まっているし、それに……ヘザーがこれ以上の奇行に走ったら、ヒューイの評判まで落ちてしまう。もうすでに落ちているかもしれないけれど、さすがに子爵を巻き込んでの奇行は、ちょっと……。



 一度目のチャンスは逃してしまった。
 次に機会があるとしたら、ホストにお休みの挨拶をして、客間に下がるときだろうか。
 いや、でも子爵相手にそんなことは……。
 部屋の隅で壁に手をついてがっくりと項垂れていると、自分の肩に手を置くものがいる。

「ヘザー、ちょっといいか」
 ヒューイだ。
 今、ヒューイにはあんまり会いたくなかった……。
「ど、どうしたの……」
「具合でも悪いのか」
「う、ううん。元気だよ」
 そう答えるとヒューイは腕を組んで怖い顔をし、ヘザーをじっと見つめた。それから部屋の中に視線を彷徨わせ、あるところでそれを留める。
 ヘザーも彼の視線に倣うと、そこにはイリオスがいた。イリオスはヘザーと目が合うと、意味ありげにウインクをして寄越す。
 それは「さっきは失敗しただろ。次はちゃんとやれよ。見てるからな」そういう意味に違いなかった。

 だが、ヒューイは別の意味を見出したらしい。イリオスのウインクを見た後でますます怖い顔になる。
「君はあの男……イリオスと寝るつもりなのか」
「……はあっ!?」
 びっくりして思わず大きな声を出してしまい、慌てて口元をふさぐ。だがヒューイはいたって真剣な表情だ。
「ね、寝るっ!? な、ななななんでっ!?」
「君はあの男とじゃれ合ってばかりいる」
「じゃれ合って……?」
 薬を取り返そうとしていただけなのだが、ヒューイにはそんな風に見えていたようだ。
 誤解を解くためには避妊薬の瓶を取られてしまったと白状すべきなのだろうが、あれはヒューイに内緒で持ってきたものだ。
 ──君はそればかりだ
 ──僕のカラダが目当てなのか?
 あんなに怒られたのに未だにヘザーが「そういうこと」ばかりを考えていると知られたら、ヒューイは……。

 彼の反応が怖くて、ヘザーは俯いた。
 後ろめたいことはあるが、それはヒューイとのイチャイチャを期待して勝手に避妊薬を持ってきた挙句、クズ男に奪われて脅迫されていいようにオモチャにされていることであって、自分がイリオスを好きとか思っているわけではない。
 そしてイリオスは、ヘザーが自分のファンではないと知って大いに気を悪くした。思い通りに出来なかった女を、脅迫して思い通りにさせて遊んでいるのだ。たぶん、失った自尊心を埋め合わせるために。

 そんなヘザーを見て、ヒューイは疑いを強めてしまったようだ。ヘザーは自分に隠し事をしていると。
「ひょっとして、僕があの日、君にカラダを許さなかったせいなのか?」
「え……」
「それであの男の方が……まさかもう、寝たんじゃないだろうな」
「や、やめてよ。気持ち悪いこと言わないで!」
 ヒューイの悪い想像は、どんどん間違った方向に加速していく。しまいにヘザーがイリオスと寝たとか言い出した。
 想像とはいえあまりに気色悪かったので、思わず叫ぶように否定する。
 ヒューイはその言葉を聞いて、目を見開いた。
「気持ち、悪い……? イリオスが気持ち悪いのか……?」
「そうよ。気持ち悪いに決まってるじゃない。好きな人以外となんて、想像でも気持ち悪いっ」

 ヒューイはそこで腕を組み、ちょっと考えてから言った。
「では、ニコラスも気持ち悪いのか?」
「え、ニコラス……? ニコラス~ぅ?」
 ヘザーはニコラスの顔を思い浮かべ、首を傾げた。
 ニコラスは男とか女とかそういう線引きは無くて、「ニコラス」という生き物だ。ピンと来なかった。
 ヒューイも同じことを思ったらしい。
「う、うむ……愚問だったな。では、ベネディクトは?」
「ベネディクト殿のことは好きだけど、貴方が言っている意味においては無理」
「そ、そうなのか……。では、では……」
 彼はまだ誰かの名前を挙げようとしているが、ヘザーにとっては全てが愚問であった。

 男の人は気持ちが無くてもセックス自体はできるというから、彼には分からないのかもしれない。
 女にとっては──少なくともヘザーにとっては──好きな人以外に触れられるのは我慢がならないという事が。
「あのねえ、無理。貴方以外は全部無理! お願いだから、これ以上気持ち悪いこと言わないで」
「僕以外は無理……」
 ヒューイは呆然とヘザーの言葉を繰り返した。
「では、あの男と何を話していたんだ? サインを頼んでいるのか?」
 あんな男のサインなどくれると言っても要らん。ヘザーは思ったが、そういえばヒューイを誤魔化すために「アイリーンの友人の分のサインを頼んだ」と言ってしまったのだった。
「いえ、あの……」
 ヘザーは正直に言うことにした。
 ヒューイは呆れたり怒ったりするかもしれないが、彼だって気持ち悪いことを言いだしてヘザーをドン引きさせたのだから、これこそチャラというやつではないか? そう思ったからだ。



「……薬の瓶を奪われただって?」
「ご、ごめんなさあい」
 案の定ヒューイは呆れたような表情でため息をついた。
「いつ盗られたんだ」
「私の部屋に貴方が入ってきた時、イリオスがいたでしょう。あの時」
 彼はサインをしてやると言って強引に部屋に入って来て、ヘザーが自分のファンではなかったと知るや、どんどん意地悪になっていった。もっともファン相手だとしても、礼儀正しく振る舞うような男ではない気もするが。
「それで薬を返してもらうために、百面相をしたり靴を脱いだり、おかしなことをしていたのか?」
「う、うう……」
「何故すぐ僕に言わない!」
 性欲のことで怒られたばかりだったし、それに、ここに到着してすぐのヒューイはとても疲れているように見えた。
「それは……悪かった。色々あって、確かにあの時の僕には余裕がなかった」
「やっぱり何かあったんだ……?」
「ああ。家で……少しな。だが、半分は解決した」
「え? もう半分は?」
「後で話す。それより薬のことはもう捨て置きたまえ」
「うん……」
 ヒューイには白状してしまったのだから、薬を返してもらえなくても、もういいだろう。ヘザーはそう考えて返事をしたが、

「あれえ~? もしかして、彼に言っちゃった?」
 壁際でひそひそ話をするヘザーたちの様子から、イリオスはそう判断したらしい。
 彼は部屋の真ん中に立ち、必要以上に大きな声を出した。役者だけあって、イリオスの声は部屋中に響く。もちろん部屋にいた者たちがイリオスに注目した。
「じゃ、俺が持っててもしょうがない。お返しするとしますか」
 観衆の視線を充分に集めたところで、イリオスは懐から何か──たぶん避妊薬の瓶だ──を取りだし、それを握ったままゆっくりと頭上に掲げていく。

 ヘザーは青ざめた。
 招待客のほとんどはイリオスの拳に何が握られているのか、それを確かめようとしている。
 彼はああやってヘザーたちに返すものは避妊薬だと、皆に知らしめるつもりだ。
 専用の小瓶だと言うから、分かる人にはわかるだろう。ここにいる人たちは避妊薬の瓶だと騒ぎ立てることはないだろうが……ヘザーとヒューイが避妊薬を使っていること、そしてなぜかその薬をイリオスが持っていることを、不思議に思うに違いない。
 その噂に尾ひれどころか背びれまでついて社交界を駆け巡っていくところを、ヘザーは想像してしまった。

 イリオスに飛びかかって奪うべきだろうか? だが、人の目がある。散々奇行に走った後なのに、そのうえイリオスに飛びかかったりしたら、みんなはどう思うだろう。
 ヒューイの婚約者はいかれていると……自分がそう思われるのはまだいい。ヒューイの評判まで悪くなってしまう。

 イリオスはもったいぶった動きで指を開いていった。
 もうだめだ。
 ヘザーが諦めて俯いた時、ヒューイがさっと動いた。

「イリオス殿」
 イリオスに負けないくらい大きな声でその名を呼び、ヒューイは部屋の真ん中まで堂々とした足取りで進み出ていく。
 イリオスは虚を突かれたのだろう、動きを止めてヒューイを見つめたが、やがて皮肉気な笑顔を作った。「力尽くで奪うつもりか? 騒ぎになるぞ、やれるものならやってみろ」そう言いたいのだろう。
 だがヒューイはいたって無表情で……イリオスに顔を寄せ、何かを囁いた。

 途端にイリオスは真っ青になり、それから周囲をきょろきょろとし、握っていた瓶をヒューイの手に押し付けると、足早に部屋から出て行った。出ていく時には、イリオスの顔は今度は真っ赤になっていた。

 今のは何だったのだろう。何が起こったのだろう。
 ヘザーはもちろん、周囲の人間たちもざわつき始める。
 ヒューイは咳ばらいをし、
「彼の……衣服の乱れを指摘しただけです」
 そう言って上着の襟を正し、ヘザーのところまで戻ってきた。
 ヒューイの説明で、招待客たちはイリオスのズボンの前ボタンが開いていたに違いないと思ったようだ。笑ったり突っ込んだりしては失礼にあたる。そんな空気になって、暫くすると部屋の中はイリオスが騒ぎ出す前の雰囲気に戻った。

 ヘザーは胸を撫で下ろしながらも、ヒューイに訊ねる。
「ねえ。今の……本当はなんて言ったの?」
 あんな風に一瞬で、イリオスから薬の瓶を取り戻すなんて。
 ヒューイはとりすました顔で、想像もつかなかったことを言った。

「かつらがずれていると言っただけだ」



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