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番外編
回顧録03~ヘザー・キャシディと魅惑の濡れシャツ
しおりを挟む※※※
ヒューイとのキスについてあれこれ思い悩む片想い中のヘザー。
本編でヘザーの母親が現れて揉めた前後、ヒューイが謎の胃痛に苛まれているあたりのエピソード。
※※※
雲行きは朝から怪しかった。
雨こそ降ってはいないが、空は濃い灰色に染まり、遠くで唸るような雷の音が響く。
そこでヒューイは、これ以上の屋外での稽古は危険だと判断したようだ。
打ち合い稽古を行っているアルドとニコラス、それからヘザーに向かって告げた。
「午前中の訓練はこれにて終了! 午後の研修は十四時から、多目的棟の二〇三号室で行う! 筆記用具を持参するように! 以上!」
アルドとニコラスは練習用の剣が入った木箱を物置小屋に戻すと、兵舎の方へと戻っていった。彼らはこれから昼休憩に入るのだ。
もちろんヘザーも、そしてヒューイも。
稽古場を去る前にヘザーはそこをぐるりと一周し、何か落としたものがないか、地面に穴が開いていないか……などなどをチェックする。
次にこの稽古場を使う者たちが、気持ちよく使えるようにするためだ。
こういうチェックを怠る研修グループも中にはあるが、ヒューイは必ず行うようにしていた。
「チェック終わりました」
「うむ。では我々も戻ろう」
ヘザーはヒューイの負担を減らすための助手なのだが、彼は、時間の許す限りはヘザーの仕事もきっちりと監督していることが多い。
ただ、彼はヘザーの仕事ぶりを黙って見ているわけではない。今はヘザーの作業が終了するまで、自分では稽古場の柵が緩んだりしていないかを見て回っていた。
はじめの頃はやり難くて嫌だったが、今は……今は、どうなのだろう。
稽古場から出て、ヒューイと二人で物置小屋に向かう。鍵を閉めるためだ。
小屋にしまってあるのは剣に槍、甲冑や盾など武器防具の類である。練習用のものとはいえ盗まれたり勝手に持ち出されたりしないよう、きちんとした管理が必要である。
扉の金具にチェーンを通し、そこに錠前をかける。
その時、地面に雨の落ちる音がした。
パラパラと降り始めたかと思ったら、あっという間に前も見えないような土砂降りになる。
「うわ、なにこれ。ひどい雨」
「うむ……参ったな」
二人は物置小屋の小さな庇に身を寄せた。
激しい雨は滝のような音を上げ、地面を打つ大きな雨粒は跳ね返って足元を濡らす。
小屋の庇など意味もないくらいに、辺りは白く煙っていた。
「もう少し早めに切り上げるんだったな」
ニコラスとアルドはぎりぎり濡れずに済んだであろう。
「私がもたもたしていたから……ごめんなさい。もうちょっと急いで動けばよかった」
「いや。僕も見回りを手伝うべきだった」
「いえ……教官は柵のチェックをしていたわけだし……」
ヘザーは口ごもりながら思った。
なんだこれ。と。
お互いがお互いのせいではないと、かばい合うような会話。なんだか妙に居心地が悪い。
この際「そうだ、君がもたもたしていたせいだ!」と怒鳴ってくれたなら、心置きなく彼に腹を立てて「やっぱりむかつく奴だった!」と嫌いになれるのに。
ヒューイが上着を脱いで脇に抱えた。
庇は「無いよりはマシ」と言った程度だ。これ以上濡らさないために脱いだのだろう。
ヘザーの肩も濡れてきていたが、今は稽古着を身に着けている。昼休憩の際に着替えるつもりのものだから、濡れたところでどうと言うこともない。
雨と土の匂いに混ざって、隣から微かにヒューイの良い香りが漂ってくる。
この人はこんな時にも良い香りをさせているのか……。
鼻をくんくんとさせながら、ヘザーはゴダール領主館での出来事を思い出した。
ヘザーはヒューイとキスをした。
彼の良い香りを、これ以上ないほど近くで嗅いだ。
そしてもう、あれほどの接触をする機会はないだろう。
彼にとっては「自分は同性愛者ではない」という単なる証明であったのかもしれない。
だがヘザーにとっては初めてのキスだった。
「……。」
俯き、なんとなく指で唇をたどる。
そう、初めてのキスだった。二十六にもなって初めてのキスである。
「…………。」
もう一度唇をたどる。
そして考えた。
いきなり舌入れるってどういうことなの……。
あれを「大人のキス」とか呼ぶのは知っている。
自分もヒューイもいい大人だから、舌を入れるのが当たり前なのだろうか。
いやそんなはずはない。そんなはずはないよ。いきなり舌は入れないよ……。
ヘザーには性的な経験も、恋愛経験もなかった。
だが男女がベッドで──時にはベッドじゃないところでも──するあれこれは、なんとなくだけれど知っている。これまで耳にした話と自分の想像力を合わせた結果の、なんとなくではあるが。
ゴダール領主館では、ファーストキスを奪われ舌まで入れられ、硬くなったものをお腹に押し付けられたわけだが、あれは性体験に近かった気がするのだ。
……自分がそう思いたいだけなのだろうか。
ヒューイ・バークレイが自分にしたことは、単なる証明ではないのだと。
しかし。しかしだ。
惚れた相手にされたことだから、ヘザーはドキドキモヤモヤしているのである。
ヘザーの唇を奪った挙句舌を入れてきて、股間の盛り上がりを押し付けてきたのが別の男だったら……変態! 変態だ!!
彼はヘザーのことを変態呼ばわりしたが、自分だって充分変態ではないか!
しかも、普段は高潔気取ってるぶんタチ悪いじゃない!
あの日のヒューイの振る舞いについて思い悩んだりちょっと腹を立てたりしていると、名前を呼ばれた。
「ヘザー君」
「えっ、はい?」
顔を上げると、ヒューイが親指で何かを訴えている。その方角を見ると雨が小降りになっており、雲の隙間からは太陽の光も差し込んでいた。
「雨が上がりそうだ。この程度ならば問題なかろう。僕は司令部に戻るが」
「あ。ええ、はい。私も……う、うわあ!?」
ヒューイの方へ視線を戻し、そこで目にしたものに、ヘザーは思わず飛びのいた。
「……どうした?」
彼は不思議そうに首を傾げたが、ヘザーはそれどころではない。だって、
ち、チクビ透けてる……!
教官のチクビ透けてる!!
それは濡れたシャツ越しに、はっきりと透けて見えていた。
ヘザーは闘技場で働いていたから、そのころから男の裸体ならばよく目にしていた。さすがに下は脱がないが、筋肉を見せつけるように露出の多い衣装を纏う人が多かった。
それにバカでかい身長の、ムキムキの男──父親のヴァルデスだ──と暮らしていたわけだし、騎士になってからも井戸の近くで身体を洗っている男騎士を目撃したこともある。
野郎どもの乳首なんぞこれまでなんとも思わなかったが、ヒューイ・バークレイの乳首となると別であった。……まったくの別物であった!
「おい。どうしたヘザー君」
「あ、あわわわ……」
ヘザーはヒューイの透け乳首を視界に入れつつも一歩二歩と後ずさり、
「さ、先に戻りますっ!」
踵を返して物置小屋を後にした。
ヘザーは兵舎の食堂で、皿の上の豆をフォークでつつき回していた。
頭の中は、先ほど目にした透け乳首のことでいっぱいである。
教官の透け乳首……。
「はぁああ……」
ため息をついて、再び豆をつつき回した。
濡れたシャツがぴったりと身体に張り付いて、彼の身体のラインがよくわかった。
胸板は分厚いというほどではないが──ただしヘザーは闘技場の男たちを見て育ったので、筋肉に関する評価は厳しめかもしれない──でも、立派な面積であったと思う。
ヒューイの服の中身は、理想的な逆三角形だ。
彼の裸の胸が眼前に迫る様を想像してみた。
しかしヘザーには想像が精一杯だ。
ヒューイの妻となる人は、彼の裸の胸を好きな時に好きなだけ眺め、触ったりできるのかなあと考え、胸がずきりと痛んだ。
彼はバークレイ家の一人息子だから、いつまでも独身でいるわけにはいかない筈だ。
そう遠くない未来に、良い家柄に生まれた愛らしい女性を妻として選ぶに違いない。
その女性が、自分ではない女性がヒューイに触れる……そう考えると胸が痛むのだ。
やばい。これ、辛いな。
なんか涙でそう。
そこで、沈んだ気持ちを打ち消す様に背筋を伸ばし、首を振る。
待て待て。ウィンドールの宿屋で、乳首どころかもっとすごいものを見たではないか! ヒューイ・バークレイのズボンの中身を! と、自分を叱咤した。
いや、ズボンの中身は妻となった女性も目にする筈だ。
いやいや、妻となった女性でもヒューイの自慰行為を見ることはないだろう。
だがあの時はヒューイのことを好きだとは思っていなくて……。
「ああ~……」
こんなことならもっとがっつり見ておけばよかったと、今さらながら後悔して肩を落とした。勿体無いことをした。
ヘザーは、過ぎたことや自分の力ではどうにもならないことを思い悩む性質ではないが、恋はそれすら変えてしまうようだ。
彼は自分みたいな女を決して選ばない。それが分かりきっている、不毛な恋だというのに。
「ああ……」
本当に面倒くさい。どこかで見切りをつけるべきだ。そう思っているのに、なかなか上手くいかない。
*
ヒューイは昼食を取るために食堂へ入ったが、そこでヘザーの姿を目にした。
彼女は浮かない表情で皿の上のものをつついていたかと思ったら、いきなり顔を上げ、机をバンバン叩いて首を振ったりしている。
終いには深いため息をついて、頭を掻き毟りだした。
「おいおい。彼女大丈夫なのか? お前、いじめたりしてるんじゃないだろうな」
一緒に来ていたベネディクトが向こう側の席にいるヘザーと、ヒューイの顔を見比べた。彼は、ヒューイの元で働くことによって、ヘザーが精神を病んだと考えたようだ。
「いじめ? そんな子供じみた真似を、この僕がするわけないだろう」
残念ながらヒューイの厳しい指導をそのように受け止める者もいるが、ヘザー・キャシディに限ってそれはない。
しかし……と、ヒューイは先ほど二人で雨宿りしたことを思い起こした。
彼女はあの時から少し様子がおかしかった。
ヒューイを見て妙な声を上げたと思ったら、慌てて立ち去ってしまったのだから。
ヘザーは皿の上のものをフォークでつついているだけで、それを口に運ぶ様子がない。
もしかして食欲がない……身体の調子が悪いのか?
午後の仕事が始まる前に彼女に確認して、必要があれば休養を取らせよう。そう考えた瞬間、
「ああ、もう! めんどくさいなあ!」
ヘザーがそう叫び、目の前の食事を一気にかき込み始めた。
食べ終わるとガタン! と音を立てて乱暴に立ち上がり、そこでトレイの上の牛乳を飲んでいないことに気付いたようだ。
彼女はそれを手に取ると、立ったまま腰に手を当てて飲み干し、食器を戻しに洗い場の方へスタスタと歩いて行った。
彼女の行動は周囲の注目を集めたが、本人はお構いなしといった風だ。
体調が悪いようにはとても見えなかった。
ヒューイの隣でベネディクトが肩を揺らしている。
「もしかしてお前、彼女を怒らしたんじゃねえの」
となると、ヘザーの言った「めんどくさい」とは自分のことなのか?
僕が何をしたというのだ……。
「しかし、ヘザーってほんと面白いよな」
続いたベネディクトの言葉に、ヒューイは口を噤んで俯いた。
ヘザーが面白いと……見ていて飽きない女だと、自分の方がもっと早くから気付いていたのに、と。
言い表しようのない妙な焦燥感に駆られ、ヒューイは胃のあたりを押さえた。
謎の胃痛は頻度が増すばかりである。
近いうちに医務室へ行って、身体を診てもらわなくては。
(番外編:回顧録03~ヘザー・キャシディと魅惑の濡れシャツ 了)
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