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第3章 Long Way To The Hero
01.シラカ村の領主夫妻 1
しおりを挟むロイドはデボラに連れられて、領地内の風車小屋にやって来ていた。
ここはシラカ唯一の風車小屋である。
基本的にこの領地は山の中で、何とか開墾した農地が領民の耕す分あるだけだから、風の通るような開けた場所は殆どない。
そんな土地の中でも風車小屋を建てるのに一番適している場所を探し、デボラの父が実験的に作ったものであった。
「通常、製粉は向こうの川沿いにある水車小屋で行っています」
水車小屋に不具合が生じた場合──何かが挟まったり壊れたりして水車が回らなくなったり、川の水が無くなってしまった場合──に備えて作った風車小屋らしい。
「風車小屋の方を使うことは滅多にありませんが、たまにこうして点検に来るんです」
デボラはロイドに説明をしながら、歯車についている埃を払う。
「この棒を引き抜くと、風車が作動しますので……」
「おお、ほんとだ」
歯車が回りだして軋むような音が響いた。小屋に設えてある小さな窓から、外でゆっくりと羽根が回りだしたのが確認できる。
掃除をして歯車に油を差し、風車が動作するかの確認を定期的に行わなくてはいけないようだ。
デボラの夫となったロイドは、この領地の共同統治者という扱いだ。
毎日デボラと領地や城の敷地を回り、少しずつ仕事を教えてもらっているところだった。
風車を止めた後で、デボラがふとロイドを見上げた。
「ロイド様。お疲れではないですか?」
「ん? なんで?」
「ここのところ毎日こうして、新しいことを覚えて貰っておりますから」
キドニスの街からロイドが王宮へ出した書簡は、そろそろ届いた頃だろうか。早ければ、どこかの騎士団か騎士隊がシラカへ向かっているかもしれない。
彼らが到着するまでの間、ロイドは少しでもデボラの夫らしくなりたかった。
確かに領地の管理とは、これまでの自分に縁のなかったものである。だが学生時代に苦手だった勉強とは違い、新しいことを覚えるのは全く苦ではなかった。
説明を聞くと大抵は「なるほど」と思えることだったから、すんなりと頭に入って来る。
「ぜんぜん平気!」
「なら、いいのですが……」
デボラはロイドを都会で生まれ育った男だと思い込んでいるが──実際ルルザで生まれ育ち、王都の学校に通ってそのまま騎士になったのだから、都会の人間と言えばそうなのかもしれない──今のところ都会が恋しくなることはない。
ロイドは付き合いで酒を飲むことはあったが、自分の意思で飲みに行くことはまるでなかった。それも、自分の父親が亡くなった原因が酒にあるからだ。実際に美味いとも思えず、二杯目くらいから頭がずきずきと痛み出す。
断れないような酒の誘いが無くなったのも嬉しいことの一つだ。
デボラとこうして見回りをするほかは、城の庭の手入れをしたり、現在いる領民たちにまじって水路を直したり土を均したりしている。
こういった労働は、ロイドの性に合っていた。
だがデボラは、シラカが田舎過ぎてロイドががっかりしているのではないだろうか、退屈ではないだろうかと気にしているようだ。
自分が求婚した手前、ロイドが不満を覚えることが無いよう、何かと気を配ってくれている。
ロイドはここが退屈な場所だなんて、一度も思ったことがないのに。
綺麗で可愛いお嫁さんがいると、とにかくテンションあがる!
毎日毎日楽しくて仕方がないのだ。
「デボラ……」
「ロイド様……」
自分はとても幸せだと伝えるために、ロイドはデボラの手を握り、唇を寄せた。
はじめの頃より、キスもだいぶ巧くなったのではないだろうか。
デボラの唇を食んで軽く吸ったり舐めたり、互いの唇を擦り合わせたりする。
あまり長い間続けていると止まらなくなるので、何とか顔を離して、
「じゃあ、続きは後で」
「はい……」
こんな事をのたまう余裕も出てきたところである。
手を繋いで風車小屋を出ると、向こうで農作業をしている領民たちがロイドたちに気付いてぺこりと頭を下げる。
ロイドは彼らに手を振った。
「今度、豚を捌いて皆で分けるんですが」
「豚?」
「はい」
領内では食べるための豚を飼育している。もちろん卵や乳を採取するための鶏やアヒル、牛にヤギなどもいるが、マキシムの嫌がらせでかなりの数が逃げるか盗まれるかしてしまったようだ。
もっとも、動物の世話をする領民も殆どいなくなってしまった状態なので、今のところ領民と家畜の数は均衡を保っていた。
そして牛や豚など大型の動物を捌く際は、領民たち皆で分け合うことになっている。
ロイドがここにやって来た当初はロイドを入れて人口が五人という事もあり、大型の家畜を食べることはなかったが、今は十七人だ。そろそろ新鮮な肉を食べようという事になったらしい。
そういえばシラカに来てからは肉と言えば、鶏肉と、あとは保存してあった干し肉を使った料理しか口にしていない。
湯気が立ち、脂が染み出すような作りたての肉料理を思い浮かべると、途端にお腹がすいてきた。
「ロイド様のお好きな豚肉料理はありますか?」
「俺? 俺はね、トンカツ!」
「……ポークカツレツですか」
「そうそう、それ!」
張り切って答えた後で、なんだか子供みたいなノリで答えてしまったと、ちょっと恥ずかしくなった。
デボラはくすくすと笑っている。
「では、お作りしますね」
ロイドは照れから頭をかいていたが、心地よく耳をくすぐるデボラの笑い声に、可愛らしい笑顔にぼうっとなった。
しかもなんと、デボラはロイドのためにトンカツを作ってくれるというではないか。
……幸せだ。
可愛い奥さんが自分のために料理を作ってくれるなんて、本当に幸せだ。
ロイドが所属していた騎士団の先輩が、美人だと評判の奥さんを貰った時のことを思い出す。
結婚した途端やたらと早く帰宅するようになって、帰り際は皆にからかわれていたっけなあ、と。
朴念仁で通っていた先輩は、気まずそうな怒ったような顔になって、それでも無言を貫いていたのでますます囃し立てられた。
ロイドもその場のノリで一緒になって騒ぎ立てていたが、あの当時の自分は朴念仁先輩を、そのキャラから勝手に童貞だと決めつけていて──というか、そう思い込みたかったのだ。真相はどうか知らないが──「先輩は童貞じゃなくなってしまったんだ……朴念仁のくせに……」と内心は劣等感でおかしくなりそうだった。
それが今は!
年齢の近そうな男が視界に入っても、「あいつは童貞なのだろうか、それとも……」と悶々としなくてもいい。
マキシムの問題が片付いたら領内にはもっと男が増えるのだろう。ひょっとしたら童貞もいるかもしれない。かつての自分と同じ童貞のにおいを嗅ぎ取ったら、彼にはこっそりとエールを送ってやることにしよう。
綺麗な奥さんとともに、非童貞の余裕をも手に入れたロイドはそんなことを考えていた。
城へ戻ると、デボラは掃除や繕い物をすると言って中へ入っていった。
ロイドは落ち葉を集めたり雑草を抜いたりの庭仕事に入る。
ここに来るまで庭仕事なんてしたことはなかったが、そろそろ板についてきたのではないだろうか。
今日の分の作業を終えると、鼻歌を歌いながら道具をしまいに納屋へ向かう。
その時何かの視線を感じたような気がして振り返り、
「うわあ!」
ロイドはその場に尻餅をついた。
樽の上に豚の生首が置いてあったのである。顔中血まみれで、その生気を失くした目はうつろに宙を見つめていた。
「あ、あわわわ……」
何とか立ち上がろうともがいていると、
「どうしたんですか、一体」
「ギャアアアッ!」
樽が置いてある近くの小屋から、ベティが出てきたのでまた悲鳴を上げた。
彼女はエプロンの前面と手を真っ赤に染めて、大きな包丁まで持っており、ただならぬ空気を纏っていたのだ。
ベティは呆れたようにロイドを見下ろし、ため息を吐く。
「今日は豚を捌く日だって、言いませんでしたっけ」
「あ、ああ……」
そういえばデボラが言っていた。ベティが出てきた建物は屠殺小屋なのだ。
「まったく、都会の人はこれだから……」
そう呟く彼女の背後に、ちらりと小屋の内部が見える。
大きなフックにピンク色の塊が吊るされてぶらぶらと揺れていた。
そうか。あれがトンカツになるのか……。
皿の上に乗せられる前の過程のことは考えていなかった。
肉屋に吊るしてある何かの塊は目にしたことがあるし、誰かが豚を育て、殺して捌いているからこそ、自分たちが口に出来るようになることだって知っている。
ただ、あの豚は、今朝までフゴフゴ鳴いていたやつだ。豚の触り心地を知ってみたくて、ペチペチ叩いてみたこともあったやつ。
「そうかあ……」
可哀想で食べられない、なんて言うつもりは毛頭ない。
ただ今後は、こういった風景が日常のものになるのだ。
脱童貞を果たしたことで一つ大人になったロイドであったが、また一つ大人の階段をのぼった、そんな気分であった。
*
捌いた豚が現在住んでいる領民たちに行き渡ったところを確認した後、デボラはキッチンへ向かった。
そこにはすでにベティがおり、彼女は余った肉を保存するために、塩やスパイスを塗り込んでいるところだった。
「ベティ。このパン……貰ってもいい?」
デボラはかごの中に入ったパンを一つ取る。数日前に焼いたものだから、乾燥して固くなってきていた。
「いいですけど、それ……古いやつですよ。今朝焼いたものの方が……」
「いえ。パン粉を作りたいだけだから、これでいいの」
「パン粉ですか? いったい……」
ベティーはそう言いかけたが、デボラの顔を見て何か感じ取ったらしい。ため息をついた。
「ロイドさんですか」
「あ、あの……ちゃんと、シドの分も作るわよ」
もちろんブラッドベリ司祭にも。司祭は「もてなしとして出された肉・酒・嗜好品の類は口にして構わない」という事になっているので食べるだろう。もっとも彼はそんな決まりがなくとも食べるのだろうが。
「ベティも食べるでしょう?」
慌てて取り繕ったが、ベティは半目になってデボラを見つめている。
「まあ、デボラ様が幸せなら、あたしはもう何も言いませんよ」
彼女はもう一度ため息をついて、今度は肩を竦め、自分の作業に戻った。
ベティが誤解した「シェリー様」についてだが、ロイドにそんな女性は存在しなかったとだけ伝えてある。
彼女は「ロイドさんの言い訳を鵜呑みにしてるんじゃないでしょうね」と訝しんだが、それを言うなら、まずはロイドに何の確認せず、ベティのいう「シェリー様」を鵜呑みにしていたデボラもいけなかったのだ。
「シェリー様」の誤解が解けて二人が本当の夫婦になってからは、つい思い出し笑いをしてしまったり、鼻歌を歌ってしまったりするデボラだから、ベティもロイドを悪く言うことはなくなってきた。
デボラはボウルとおろし金を用意したが、作業に取り掛かる前に両手を頬に当てた。
今の自分もそんなに分かりやすかっただろうか。
確かに……今からロイドが好きなものを作ってあげるのだと思うと、心が躍るような感覚があった。
彼がデボラの料理を口にした時の反応も楽しみだったし、ロイドに好きな食べ物を訊ねた時のあの返答。少年みたいで、とても可愛かったのだ。
ひとしきり思い出し笑いをしてしまった後で、ようやく作業を開始する。
ロイドと本当の意味で結ばれた今、デボラはとても幸せだった。
あとは全ての領民を呼び戻せたら……もう、言う事は無い。
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