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第2章 Viva! Stupid People
01.童貞神の呪い? ~童貞狩りと童貞裁判~
しおりを挟む「お、おはよう……」
「おはようございます……」
夕べの気まずさが抜けないまま、二人は朝の挨拶を交わす。
今夜は、今夜こそはと伝えようとして振り返ると、デボラはシーツに向かって屈みこんでいた。
手には小さなナイフを持っており、ただならぬ雰囲気を感じたロイドは彼女に近寄った。
「……デボラ殿?」
「っ……」
デボラの手元を覗き込むと、彼女はナイフで自分の手のひらを傷つけたところだった。赤い血がシーツに滴り落ちる。
「デボラ殿! 何を……」
「この地方には、風習があるのです」
「風習……?」
彼女は何を言い出すのだろう。ロイドは周囲を物色し、抽斗の中から清潔そうな布を見つけてデボラに手渡した。デボラはそれで血を拭いながら、決まり悪そうに説明を始めた。
「領主は初夜のシーツを……バルコニーからぶら下げなくてはならないのです。結婚が完遂したと、村人たちに知らせるために」
「ええ!?」
「今、私たち以外のシラカの民はベティとシド、司祭様だけですが……マキシムが確認にやって来るかもしれませんので」
「あ、ああ……そうか」
ロイドは血の滴ったシーツを見下ろし、それから傷口を拭いているデボラに言った。
「言ってくれたら……俺がやったのに」
「いえ。このような風習があるなど……まずは驚くでしょうから」
たしかに。田舎の風習って結構えげつないよな……と、思わなくもない。
しかし、初夜を完遂できなかったどころか、妻に血を流させた。処女の血ではなく、シーツを偽装するという情けない理由で。
今夜こそはという決意に大きな暗い影が差した。そんな気がした。
*
午後になってから、マキシムが子分のカールを連れてシラカにやって来た。
彼は心のどこかで、デボラの結婚などはったりだと決めつけていたに違いない。バルコニーからぶら下がったシーツを目にして見事に青ざめ、そそくさと帰って行ったのだ。
あのようなマキシムの表情をみるのは初めてだったので、デボラはらしくもなく意地悪な満足感を覚えた。
夜を迎えて、夕べのように二人でベッドに横たわる。
唇を合わせ、ロイドの手が肌を這っている。だがなんとなく……昨日とは違う。
夕べはもっと、二人とも気分が高まっていたように思うのだ。緊張しながらもロイドに触れられ、デボラは興奮を覚えていた。
しかし今夜は……なんだか違う。
ロイドの動きが無機質なものに思えて仕方がないのだ。手順書に従って動いているだけのような。
彼は暫くの間、ごそごそとデボラの身体を探っていたが、やがて、
「ごめん」
小さな声でそう呟いた。
*
そして夜が明ける。
朝食の準備のためにデボラが出て行き、一人になったロイドはぐるぐると部屋の中を歩き回った。
勃たない。
焦れば焦るほどに勃たない。
また先走ってしまったらどうしよう。ロイドが童貞で見栄を張った挙句失敗したことに、さすがにデボラは気づいたのではないか。ベッドを前にすると、まずはそんな不安と恐怖に襲われた。
デボラの身体に集中しようとしたが、頭の中をこれまでの失敗シーンが過っていく。
ロイドを奮い立たせるような興奮はやって来なかった。
自分の持続力がどうなのかは分からないが、回復力にはちょっとばかり自信があった。
だから、初めての時はすぐに終わってしまうかもしれないが……デボラの様子を見ながら二度、三度と交われるだろうと考えていた。
それが。先走った後は勃起すらしない。
こんなことはロイドの人生始まって以来だった。
次こそは初夜を完遂できるよう、活力を取り戻せるように、童貞神チェリー様に祈りを捧げよう。そう考えて鞄に手を伸ばし、
「あっ!」
チェリー様を捨ててしまったことを思い出した。
「まさか……」
自分の勃起不全は、チェリー様を蔑ろにした事と関係があるのではないか?
やはり自分が童貞を捨てるまで、その過程と結果を、生温かい目で見守っていて貰うべきだったのでは?
朝食をとった後、ロイドは以前使っていた部屋へ向かった。この部屋は城の裏手の滝に面しており、景色が良い……が、それを堪能している場合でもない。
あの時、ロイドは窓の外に向かって振りかぶり……闇の中で、チェリー様が木の葉を揺らす音を聞いたのだった。
身を乗り出し、どのあたりに落ちたのか見当をつけようとした。
残念ながら繁みは結構な範囲に広がっている。人手が足りないせいで所々が伸び放題となっており、探すのにも苦労しそうだった。
「くそう、どこだ……!」
庭に出たロイドは茂みの中に顔を突っ込み、這いつくばってチェリー様の姿を探した。
ウンコとして余生を送ってくれなどと念じたから、チェリー様もお怒りなのだろうか。
「ない! ……ない!」
そうして繁みを探し回るうちに、滝つぼの方へ近づいていく。水に落ちるような音は聞かなかった筈だが、繁みを掠めた後で落ちたのだとしたら、派手な音はしないかもしれない。
ロイドはブーツと上着を脱いで水に入る。目を凝らして水の中を覗いた。
チェリー様に初めて出会った時のことを考える。
あの時もロイドはこんな風に水の中を覗いていた。そして神様を探したつもりなど無いのに手に入っていた。しかし一度手放してしまうと再びまみえるのは難しい。
すると、
「ロイド様……どうしたのですか」
デボラが怪訝そうな顔でこちらを見つめている。
「えっ? あ、あの……」
童貞神チェリー様を探してるんだ! あれが無いと勃起できないんだ! と、喋る訳にもいかず、ロイドはとっさに滝の下に入った。
「ええと……ほら、しゅ、しゅぎょう!」
小さな滝であるが、水にはそれなりの勢いがあった。肩をいからせながら滝の下に立つロイドに、彼女は何を思っただろう。
「まあ。邪魔をして申し訳ありませんでした。どうか、風邪など召されませぬよう」
「お、おう!」
ロイドは胸を叩いて見せた。それから目を閉じて精神統一している風を装う。
デボラの気配が消えてもそれを続けているうちに、水の冷たさや頭や肩を叩く水の激しさもそれほど気にならなくなってくる。
これで勃起不全が治ったりしないものだろうか。
やはりチェリー様を見つけ出し、謝罪の祈りを捧げるしかないのだろうか。
「あー……すんません、チェリー様……」
ロイドは瞑想を続けた。
***
”二十歳以上の童貞は厳罰に処す”
フェルビア王国に新しい法律が生まれ、ロイドはみすぼらしい共同体(コミューン)で暮らしていた。
この共同体を成しているのは、フェルビア王国全土から迫害されて逃げ込んできた童貞たちだ。
近くの街や村のゴミ溜めに出かけてはがらくたを拾い集め、森や川に入っては山菜や魚をとって来て皆で分け合って暮らしている。
この日は広場に熾した焚火に集い、暖をとりながら情報交換が行われていた。
『さっき、がらくた集めに街に行ってきた時耳にしたんだけどよ……なんでも、童貞年齢を引き下げるって話だぜ』
『なんだと。それは本当なのか』
これまでは二十歳の誕生日までは童貞でもセーフとされていたが、今後はその期限が十八歳になるそうなのだ。
つまり、これからは十代の若い男たち──哀れな童貞たち──も、この共同体に逃げ込んでくるだろう。
仲間が増えるのは頼もしいが、人口が増えすぎると共同体を維持できなくなる可能性も出てくる。
川で獲ってきた魚を炙りながら相談らしき話を続けていると、ガランガランと鐘が鳴った。
物見台にいる男が叫ぶ。
『童貞狩りだ!』
それを聞いた共同体の皆は立ち上がり、一目散に駆け出した。
『逃げろ! 童貞狩りだ!』
『童貞ハンターたちが来たぞ!』
地平線の向こう側で埃が舞っているのがわかる。
童貞ハンターが馬に乗ってロイドたちを捕らえにやってきたのだ。
『オラァ! 童貞はどこだァ!』
『出てこい、童貞ども!』
もちろん非童貞しか童貞ハンターにはなれない。彼らは持っている槍を振り回しながら、共同体の掘っ立て小屋を破壊し、童貞たちを探しはじめた。
ロイドは共同体の奥にあるボロ小屋に隠れ、ハンターたちの様子をこっそりと窺っていた。
『もうすぐここまで来るぞ! 俺たちも逃げるんだ』
先ほど一緒に焚火を囲んでいた仲間を振り返り、そう告げる。だが、彼は踝をさすりながら座り込んでいた。
『そうしたいところだけどよ……足を挫いちまった……ロイドさん、あんた一人で逃げてくれ』
『なんだって! 仲間を置いていけるものか!』
あまり時間はない。ロイドは仲間に向かって頷いた。
『ここは俺が囮になる! 君はその隙に逃げるんだ!』
『な、なにを……そんなこと、出来るわけねえ』
『だめだ、君が逃げろ』
彼は命からがらで共同体に逃げ込んだ当初のロイドに、ここでのルールや生き方を教えてくれた男でもある。そんな彼を置いて逃げることはロイドには出来なかった。
『ああ、あんた、騎士様だったんだものなあ』
仲間は涙を浮かべた。
『やっぱり立派な魂を持っている男だったんだ。こんな男を迫害するとは、国もひでえことしやがる……』
ロイドは首を振る。この共同体では出自など関係ない。
『何もかつての騎士道精神を発揮したわけじゃない。当たり前のことをしただけさ。だって俺たち皆同じ……童貞だろ?』
『あ、ああ……そうだ。そうとも! ロイドさん、あんたは童貞の星だ!』
二人はがっちりと握手を交わし、再会を誓い合った。
童貞ハンターたちが迫りくる。
ロイドはタイミングを見計らって小屋から飛び出した。
『うおお! この先には行かせん!』
そして通せんぼするように両手を広げ、ハンターたちの前に立ちはだかる。
『おい、童貞が出てきやがったぞ!』
『ひっ捕らえろ!』
こちらは丸腰なので、ロイドは容易く捕まってしまう。これから童貞裁判にかけられるのだろうが……童貞の誇りは守れた。気分は晴れやかであった。
その晴れやかな気分もほんの一時のものであった。
なぜなら自分を裁く裁判官は、従兄のヒューイ・バークレイであったからだ。
『ヒュ、ヒューイ……』
『ロイド。こんなことになるとは……残念だ』
ヒューイ・バークレイはロイドの知る誰よりも高潔な男である。高潔だが……彼にも妻子があった。高潔を気取ってるくせに非童貞なのである。現在、彼の妻のお腹の中には三人目の子供が入っているらしい。つまり最低でも三回はヤっている。高潔を気取ってるくせに。
それでも厳しい男だから、身内に対しても容赦はないだろう。
彼は難しい顔で手元の本──過去の判例などが記してあるようだ──を捲り、ロイドに告げる。
『ロイド。同じ童貞でも既婚童貞の罪は重い。君にはそれなりの償いをしてもらうことになるぞ』
『き、既婚童貞……!』
『うむ。君は二十歳を過ぎて童貞……法に背いている上に、夫の義務も放棄しているのだからな』
『う、うう……』
そうだった。ロイドは結婚していたのだ。初夜の重圧に耐えかねて勃起不全に陥り、そんな時に理不尽で新しい法律が出来て童貞狩りが開始された。ロイドは法からも義務からも逃げ出したのだ。
『では判決を言い渡す。有罪! 懲役二百年!』
『二百年!?』
容赦なく言い渡された後、ロイドは作業場に連れて行かれた。
そこでは童貞たちが鞭打たれながら、大きな円柱に取り付けられた棒を掴み、数人組でそれをぐるぐると回している。地下水をくみ上げる装置だという。
『ロイド。とうとうここに来たんだね』
『あっ、お前は……!』
『今までさんざん逃げ回ってたらしいけどさ』
なんと作業の監視役は双子の弟のグレンだった。
彼は鞭を持って冷めた視線でロイドを眺めまわす。
『ここに来た以上は、兄弟だからって容赦はしないよ』
『クッ……』
『ほら、早く作業に入って』
グレンに促されてロイドは作業に取り掛かる。
くそう。あいつ、やっぱり非童貞だったのか~! と奥歯を噛みしめつつ。
ロイドは監視役の非童貞に鞭打たれ罵声を浴びせられながら、二百年間、一日中この装置をぐるぐると回さなくてはならなかった。
***
「……ハッ!!」
ロイドは瞑想──という名の妄想──から脱出した。
自分はどれくらいの間こうしていたのだろう。
身体についた水滴をぶるりと払い、上着を着こむ。
「既婚童貞の罪は重い、か……」
デボラの目的は、まずは未婚のまま二十三歳になることを避ける、というものだった。
ロイドと結婚したことで、デボラの領地がマキシムの手に渡ってしまうことは無くなったが……この先のことだってある。
デボラが子を産み、その子供にシラカの地を託すという目的が。
しかし自分が童貞のままでは……勃起不全を抱えたままでは、シラカの歴史が終わってしまう。
自分はどうしたら良いのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。鬱鬱とした気持ちで歩いていると、前方にデボラの姿が見えた。
彼女はいつもの質素なドレスに、使い込んだエプロンをつけていた。
「ロイド様。鍛錬は終わったのですか」
「う、うん」
「では、休憩になさいますか? 私、ロイド様にお茶を……」
「あ。いや、待って!」
デボラは驚いた表情でロイドを見上げた。
「君が普段……どんなことしてるのか知りたい」
彼女はいつも城のどこかを歩き回っている気がする。四人──ロイドを入れて五人──しかいないなりにも、忙しそうなのだ。
「これから作業場の掃除をするつもりです」
「作業場?」
その単語に、棒の付いた円柱をぐるぐる回す場所を思い浮かべてしまったロイドであったが、デボラの向かった場所にそのようなものはなかった。
城と集落との真ん中くらいの場所に、小屋、と呼ぶには大きな建物があった。
「農作業に従事しない者たちは、ここで石鹸や蝋燭を作っているのです」
主に女性や、身体の弱い人がそういった作業を請け負っていたという。だがその村人たちもアッサズへ行ってしまった。
「彼らがこの作業場にいつ戻って来ても良いように、清潔に保っておきたいのです」
デボラは作業場の木窓を開け、部屋の隅にまとめてあった掃除用具を手に取る。
「あ……じゃあ、俺、水汲んで来るよ」
「そんな。ロイド様のお手を煩わせるわけには」
「いや。俺だって……シラカのために何かしたいよ」
今の状態ではデボラに跡継ぎを授けてやれない。ちょっと掃除を手伝ったくらいで埋め合わせできるものでもないが。
建物脇の井戸で水を汲み、戻ろうとして振り返る。
開け放した扉の向こうで、デボラは床を掃いていた。
丈夫な素材のドレスを身に着け、髪を一本に縛っている。装飾品の類は見当たらない。
初めて会った頃に、どうして飾り気がないのだろう、こんなに綺麗な人なのに勿体ないと、そう感じたことがある。
彼女は領地のことを一番に考えていて、きっと村に活気があった頃でも自分のための贅沢はしない女性だった……そんな気がする。
ロイドの夢は、お姫様を助けてあげるカッコいい騎士になることだった。
デボラは絵本に出てくるようなキラキラした格好のお姫様ではないが……だが、充分に気高く尊い女性だ。
結婚するにあたって、デボラは「自分を愛してくれなくても構わない」と言っていたが、ロイドは充分に彼女を尊敬し……そして愛しそうになっている。
ただ、自分の方に重大な不具合が発生してしまい、気後れするあまり、デボラに向かう筈のロイドの気持ちは途中で踏みとどまっている状態だ。
二人でシラカの地を盛り立てる……彼女と歩み寄るには初夜を乗り越えなくてはならなくて、そのためにはロイドの不具合を何とかしなくてはならず……。
王都や大きな街の薬種屋には精力剤の類が取り揃えてあるのだろうが、こういった田舎では手に入らないだろう。
ロイドはため息を吐いた。これまで勃起不全の話を聞いたことがあっても、すべては他人事だったのだ。まさか自分にそんな問題が襲い掛かってくるとは、夢にも思わなかった。
その時、
「デボラ様! デボラ様ー!」
アッサズ方面へ向かう道から、そう叫んで手を振っている者たちがいる。
「まあ、みなさん……!?」
その声を訊いたデボラが小屋の中から飛び出してきた。
「デボラ様ー!」
「ま、まあ……」
デボラは震える声で呟き、瞳を潤ませてロイドを振り返った。
「シラカの領民たちです。帰ってきてくれたのだわ!」
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