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第1章 Virgin Hard
06.童貞の国
しおりを挟むロイドが十九歳の時のことだ。
『なあグレン。ちょっと聞きたいんだけどさあ』
『……何?』
双子の弟に話しかけると、彼は面倒くさそうに読んでいた本から顔を離した。
『姉ちゃんとランサムのことなんだけどさ』
『うん?』
『ルルザを出て王都に来る時さ、ランサムが俺たちを送ってくれただろ』
『うん、それが……?』
両親を失い、ルルザの街で姉弟三人きりで生活していた頃。
三人の前に旅の騎士ランサムが現れ、ほぼ同時に自分たちには王都に伯父がいると判明した。
伯父を頼るために王都へ向かう際、女性と子供だけでは危ないと、ランサムがお供を申し出てくれたのだ。もっとも、彼も王都を目指していたのだが。
そして伯父の家にしばらく厄介になったが……姉はランサムと結婚することになって、彼の故郷モルディスについて行った。
姉とランサムは、いつの間にか恋愛関係に陥っていたらしいのだ。
『姉ちゃんたちってさ、旅の間、俺たちに隠れて、やっぱり……』
そういう事をしていたのだろうか。
姉が結婚した当初は考えもしなかったことだが、二十歳を前にして、童貞コンプレックスに陥りかけていたロイドはそんな疑問を抱いた。
姉とランサムはいつから惹かれ合っていたのだろう。旅をしている間からだとしたら、ロイドとグレンが邪魔ではなかったのだろうか。
彼らは自分たちが休んだ後……ひょっとしたら……と。
ロイドの質問に、グレンはフンと鼻を鳴らした。
『そんなの……ヤってたに決まってるだろ』
『えっ。ええっ? なんで? なんでそう思うんだよ』
『……自分で聞いておきながら、どうしてそんなに驚くんだよ』
確かにそうだ。だがロイドは心のどこかで「まさか、そんなはずは」と思っていたのだ。そしてやっぱり心のどこかで、「そんなはずないよ」というグレンの返事を期待していた気がする。
『考えてもみなよ。あの時姉さんは二十歳で、ランサムは二十三だった。そんな年頃の男女が、一緒に旅をしてきて何も無い訳ないだろ』
話はそれだけ? と、グレンは読書に戻った。
ロイドは弟を見つめながら考えた。
なんでそんなに冷めているんだろうと。
彼は男女のあれこれを何でもなさそうに、くだらないことのように語る。
ロイドとグレンは、子供の頃はそっくりの双子だと周りから言われていた。「頭のいい方」「アタマの悪い方」と区別されていたくらいで──もちろんアタマの悪い方がロイドである──外見的な違いはそれほどなかった。
それが、いつの間にかグレンの方が早く成長するようになってきて……声変わりもグレンが先で、今では「兄弟だと分かる程度には似ている」、そんな感じだ。
二人が通っていた学校は男子校であったが、それほど離れていない場所に女学校があって、時折交流会のような催し物が開かれていた。
そこで女の子が自分たち双子のことを「イケてる方」「もっさりしてる方」と呼んでいるらしいのを知った。「スタイルいい方」「筋肉の方」と呼ばれたこともあった、そういえば。
女の子たちがきゃあきゃあ騒ぐのを小馬鹿にしたように笑っていたグレンであったが、思えばその頃から彼は眉毛を弄りだしていた。興味ないフリをしながらも色気はしっかり出していたのである……! こういうのをむっつりスケベと人は呼ぶのだ。
二十歳になる前に童貞を卒業した~い! と漠然と願っていた十九歳のロイドの中に、ある疑惑が生まれた。
弟は、とっくに経験済みなのではないかと。
『グ、グレン……あのさあ』
『まだ何かあるの』
『もしかしてお前……こ、ここ、恋人とかいんの?』
『……いないけど』
たしかに、グレンに特定の女性がいる様子はない……が、ヤるだけならば、恋人である必要はない。童貞とはいえ、これくらいはロイドも知っている。
『え、えーと。じゃ、じゃあさ……』
だが。しかし。「お前って非童貞?」と訊いて「そうだよ」と言われた時のことを思うと、これ以上問い詰めるのは怖い。
悶々としていると、グレンがまた鼻で笑った。
『他人のことより自分の心配しなよ。だからいつまでたっても童貞なんだ』
『なっ……』
絶句するほかない。
グレンの言葉は「自分は童貞ではない」と宣言したも同然である。
ロイドはしばらく己のつま先を眺めていたが、グレンが本をぱらりと捲る音で我に返った。
『え……い、いつ? グレン、いつ? 相手誰?』
『別にいいだろ、そんなこと』
『よくない! い、いつっ? 何歳の時?』
『……。』
『お、教えろよ! 相手誰? 俺の知ってる人?』
グレンは黙殺して本の続きを読んでいる。
ロイドは弟に迫った。
『誰? なあ相手誰? 教えろってば』
「誰なんだよ~~~っ」
「デボラ・ステアリーと申します」
「……え?」
ロイドは見知らぬ場所の見知らぬベッドから起き上がったところだった。
壁や天井も知っているものではない。自分は裸で……だが毛布は掛けられている。肌に触れる毛布やシーツの感触から、下半身も裸のようだ。
それからベッドの脇では……。
「騎士様、申し訳ありません!」
ロイドと目が合うと、妖精のような女性が頭を下げた。この女性には見覚えがある気がした。いつ、どこで会ったのだったか……。
そこでようやく思い出してきた。
自分は道に迷っていた。そして林の中に流れる小川で洗濯をしていて……妖精と出会ったのだ。
「あっ! 君は、さっきの……」
「本当に申し訳ありませんでした。どのような罰も受けるつもりでいます」
「え? あの……」
妖精は深々と頭を下げているので、せっかくの美しい顔が見えない。そもそもどうして妖精は自分に謝っているのだ? ロイドは考えた。
……そうだ。顎が二つに割れかけた、中年のごつい女性がフライパンを振りかぶっていて……。
「あ、ああー……。そういえば、俺、殴られて……」
「私の領地で起こったことです。いかなる責任も私にあります」
なんと。妖精は女領主であるらしい。それに、先ほど彼女は名乗っていた。
「ええと。君の名前……」
「デボラ・ステアリーです」
「ステアリー!」
「はい」
そうだ。自分はステアリー領を目指していたのだ。ランサムの話では、領地は二つに分かれて名前も変わったらしいが、この女性はどちらかの領主に違いない。
「本当に申し訳ありませんでした」
「いや、もういいって」
ロイドが迷い込んだのは、デボラ・ステアリーが治めるシラカという土地であった。
彼女の使用人が、ロイドを不審者だと勘違いしたそうである。
よそ者が自分の領地をうろついていたら警戒するのは当たり前のことだ。よそ者が勝手に山菜や木の実、動物を狩ったらタコ殴りにされてもおかしくはない。
ロイドは素っ裸で林の中にいたのだから、変質者だと判断されても仕方のないことだ。そう思う。
「痛いところはありませんか? 気分が悪いとかは……」
「いや、平気平気!」
黒獅子騎士団の本業は暇とはいえ、その訓練だけはハードだ。取っ組み合いをして受け身を取り損ね、気を失ったことは一度や二度ではない。これくらいは何でもない。
それに目的地に辿り着けたようなので、結果オーライというやつではないか。
「お食事は出来そうですか? よろしければ、食堂まで案内いたします」
「え? あ、ああ。どうも」
そう言われた途端、お腹がすいてきた。ロイドはベッドから出ようとしたが、自分は素っ裸なのだと思い出す。
もしかして……デボラ・ステアリーに裸を見られたのだろうか。男の裸なんぞ見られても減るものではない筈だが、ロイドは童貞なのだ。女性の裸だって見たことがないのである。
デボラに生まれたままの姿を披露してしまったのかと思うと、ちょっとキツイ。あのごつい女性──ここの使用人で、ベティというらしい──にもあれこれ見られたのかと思うと、かなりキツイ。
「ロイド様のお荷物ですが……目についたものは、すべて持って来てあります」
馬は馬小屋にいると言う。鞄は、寝台の脇に置いてあった。それからデボラは棚の上にあった衣類をロイドに差し出す。
「こちらも、ロイド様のものですよね……?」
それは、身体を洗った後に身につけようとして鞄から出していた服だった。ロイドが用意した時のまま、つまり、茶色くて長細い童貞神チェリー様が一番上に鎮座したままだ。
それをデボラが差し出している。
「ど、どうも……」
非常にシュール、かつ申し訳ない光景であった。
「歩けそうですか?」
「ああ。平気平気!」
着替えが終わると、デボラはロイドを食堂まで誘導した。時折振り返っては申し訳なさそうに痛むところはないかと訊いてくる。
ロイドは彼女が振り返るたびにぼうっとなった。デボラはかなりの美人なのだ。どことなく、可愛らしさも残している。はっきり言ってロイドの好みであった。
こんなに綺麗な女性に親切にされては……過去の痛い思い出も蘇ってきた。
ロイドは美しい女性に優しくされると、すぐにのぼせ上がってしまうのだ。惚れた後になって相手は誰にでも親切にしていて深い意味はなかったのだと知ったり、弟のグレンが目当てだったと判明したり……いつもがっかりすることになる。
童貞だという事を抜きにしても、ロイドは単純な男であった。その自覚もある。
「ここ、段差があるので気を付けてください」
「あ、ああ」
しかし、可愛い……。ハッ、いかんいかん。ここの調査が終わったら、自分は王都へ戻るのだ。彼女に惚れたってどうにもならない。それにデボラには夫がいるかもしれないではないか。
自分を戒めながら彼女の後に続く。
歩きながら、ロイドは自分のいる建物の中を観察した。
非常に古い、石造りの城のようだ。通路の狭さや天井の高さからして、大規模な建物ではない。何世紀も前に建てられたものを、手入れしながらそのまま使っている感じがした。
ロイドはデボラの後姿を見る。
彼女はここの領主だと言う。高貴な女性と言う意味では充分にお姫様であるが、纏うドレスは非常に簡素なものだった。他人の手を借りずとも着られるよう、ボタンや紐が前についていた。
長い金の髪には美しい艶があるが、勿体ないことにそれをスカーフで一本に縛っている。
デボラはイヤリングも腕輪も指輪も身に着けておらず、まるで使用人のような恰好をしているのだ。
質実剛健をモットーとでもしているのだろうか。
ロイドは首を傾げた。
「すいませんでしたね、ほんとに」
食堂へ行くと、ベティ──ロイドの頭を殴った女性だ──がやって来て、目の前にパンとスープを運んでくれた。
「ベティは、父の代からずっとこの城に仕えてくれているのです。それで、私が小さな時からずっと守ってくれていて……」
妙な輩から女主人を守るために、ロイドを殴ったという訳だ。
「いやいや、俺の方こそ勝手に領地をうろついてたんだし」
そこでロイドはポケットにしまっていた地図を出した。どうして道に迷ってしまったのか、突き止めたかったのだ。
「俺、上からこの土地の調査を頼まれてるんだ。キドニスを出て……この大きな木のところで南下したつもりだったんだけど、林の中に入っちゃったみたいなんだよな」
デボラとベティは地図を覗き込んで顔を見合わせた。そしてベティが言う。
「その木、十年ぐらい前に折れちまってますよ」
「え?」
「腐って根元から折れたんですよ」
そのうちに原形をとどめないほどにグズグズに崩れ、やがて風化して今はもう跡形もないと言う。
持たされたのは、いったい何年前の地図だったのだろう。
「じゃ、俺が曲がった場所って間違ってたのかあ」
「ええ……その木があった場所で南へ折れると、まずはアッサズの領地の方へ出る筈ですから……」
デボラが複雑そうな顔をした。
かつてはこの地はステアリー領として統治されていた。しかしいくつか前の領主が、息子二人のために領地を分けた……というところまではランサムから聞いている。
「分かれた領地が、シラカとアッサズってことか」
「はい。私の父がシラカ、伯父がアッサズを治めておりました」
そしてデボラの父も伯父も亡くなり、それぞれの子供たちが領地を継いだ。
「現在のアッサズの領主は、私の従兄です」
「なるほど」
ロイドはそれらの情報を書き留めるために、筆記用具はないかと訊ねる。
間もなくして十二、十三歳くらいの少年がペンとインクを運んできた。
「彼はシド。シラカの領民の一人です」
「あ、そうそう。村の規模も調べろって言われてたんだ。シラカって何人ぐらい住んでるんだ?」
デボラの表情がますます複雑なものになる。
「よ、四人です……」
「え?」
「四人です……」
小さな声で答えると、彼女は見ていて気の毒なほどに縮こまった。
「え……よ、四人……?」
領地を分割してしまったせいで窮乏していく土地の話も聞くが……いくらなんでも四人は少なすぎるのではないか。
とはいえ土地と住む場所があって、領民たちを養っていけるのならば領主を名乗れる。基本的には。
シラカがどれほどの広さなのかはよく分からないが、土地の管理は四人で出来るものなのだろうか。明日になったら外に出て周辺を見て回ろう。
「現在の住人は、私とベティ、それから先ほどの少年シド。あとは、ブラッドベリ司祭様になります」
これからの予定を頭の中で考え、仕事モードになりかけていたロイドであったが、デボラの言葉で思い切り気がそれた。
「司祭?」
「はい」
領地の住人は四人。まずは妖精みたいに綺麗で可愛い領主のデボラ。なんと彼女は独身らしい! それから使用人のベティ。少年のシド。あとは、司祭。
女性が二人、男は子供と司祭。
男の姿を目にするたびに「あいつは童貞なのだろうか、それとも非童貞なのだろうか」と考え、身構えたりする必要はない。非童貞を前にして「あいつは貴族、俺は虫……」と身分制度に苦しまされることはないのだ。つまり、ここは……
ここは、童貞(ゆめ)の国ではないか。
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