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第3章 Lady Commander
08.されど、素晴らしきもの
しおりを挟むヒューイはベネディクトを元気づけるためなのか、「いつか君が行きたがっていたあの店にしよう」と提案してくれたが、そこは以前ステラと肉を食べた店であった。
ベネディクトはこれを断り、ヒューイが結婚する前はよく二人で足を運んでいたレストランにした。
格式高い店ではないが、観葉植物で各テーブルが仕切られていて、テーブルの上にあるベルを鳴らして給仕を呼ぶ方式だから、そこそこプライベートな空間が確保されていた。
「えーーーと、何から話せばいいのか、よくわかんねえんだけどよ」
ステラが新人教育課にやってきた頃、ベネディクトは彼女と衝突してばかりで──というか、一方的に反抗的な態度をとっていて──彼女のことを「腹の立つ女だ」とヒューイに愚痴っていた気がする。
そのステラに惚れて、求婚したら断られて、参ってしまったのだなんて言っても信じてもらえないのではないだろうか。
「では、君が落ち込む原因となったことだけ言いたまえ。そこから僕が質問していくかたちにする」
「あ、ああ……ハサウェイ代理にプロポーズしたら、フラれた」
そこで要点だけ述べると、ヒューイの動きが止まった。
彼は水の入ったグラスをあおり、何度か瞬きを繰り返す。
「……なんだと?」
「ステラ・ハサウェイにプロポーズした。でも断られて、それで落ち込んでんだよ……」
「し、しかし君は教官長代理とは、反りが合わなかったではないか。いきなり求婚したのか……?」
「いきなりってわけじゃねえよ。たしかにはじめは嫌な女だと思っていたが、その状態で求婚したら、俺、ただのアブねえ奴じゃん……」
それなりに段階は踏んだ。その段階も順序はめちゃくちゃだったが、自分の気持ちは伝えてあるし、そのうえで身体を重ねたんだから「いきなり」ではないと思う。
「そのー……いろいろ、あったんだよ。いつの間にか彼女に惚れてて、それは代理にも伝えてあった」
「ふむ。『いろいろ』か……」
「ああ」
意外にもヒューイはすんなりと受け入れてくれたように思えた。きっと、彼もヘザーと「いろいろ」あったからなのだろう。
「それで、君が気持ちを伝えた際、彼女は何と答えたんだ?」
「……。」
ここでベネディクトは黙った。「私も好きだ」とか、「愛している」とか、そういうハッキリとした言葉は告げられていない。それでも彼女はベネディクトを受け入れてくれた……ように思う。こちらの気持ちを知ったうえで身体を許してくれたのだから、彼女も自分に好意を抱いているのだと考えていい……はずなのだ。
「……答えを訊いていないのに求婚したのか?」
「いやいやいや、それはねえよ!」
求婚した後になるが、彼女はこう言ってもいた。「貴様のことは憎からず思っている」と。
「あのさ……『憎からず思う』って、どういう意味だと思う?」
ヒューイは腕を組み、天井を見上げて少し考えた。
「遠回しに好意を伝える言葉と考えられるが……ハ、ハサウェイ代理が、そんなことを言ったのか……? 君に……?」
「ああ……」
ベネディクトをすげなく振ってくれた直後のセリフだったから、その時は噛み砕いて考える余裕がなかったのだが、あれは遠回しな「好き」という意味にとって良いのだろうか。
彼女は豪胆でわかりやすい女だが、時折、すごくわかり難くもなる。でも、彼女のそういうとこも……すげえカワイイ……。うわ、やばい、ほんと好き……。
一瞬、落ち込みよりもときめきが上回ってしまい、ベネディクトは組んだ指をもじもじと動かした。
ヒューイはガタッと椅子の音を立てて仰け反った。
「き、気色の悪い真似はやめたまえ……!」
「なんだよ。じゃあお前はヘザーに惚れてるって自覚したとき、アタマおかしくならなかったのかよ。俺知ってるぜ。お前、なんかヘザーのことチラチラ見てソワソワしてた時期あったじゃん。言っとくけど、あれ、相当気持ち悪かったからな」
ベネディクトが言ったのは、おそらくヒューイが無自覚にヘザーを気にかけていたころ。それから、好きだと自覚したころ。あとは、周囲には二人の関係を内緒にして交際していたころのことだ。
つまり、ヘザーが自分の部下となってから、だいたいにおいてヒューイは様子がおかしかった。
「む。そ、それは……」
「な? 心当たりあるだろ?」
ヒューイまで挙動不審に陥り、ここは俯いて指をもじもじさせる男と、額に滲んだ冷や汗をハンカチで拭き拭きする男の怪しい一角となり果てた。
「と、とにかく……君の悩みが恋愛に関してのことだというのはわかった。僕では建設的な意見を述べることはできないと思うが……」
「ああ、かまわねえよ」
たしかにヒューイは色恋沙汰には疎い。昔の彼は、血筋の良い女を娶って、バークレイ家の力を拡大することしか頭になかった。だが運命の相手と恋に落ちて、彼は変わってしまったのだ。そして初めて恋をした相手に、今も夢中になっている。
ヒューイの世界はヘザーを中心に回っているから、他人の色恋沙汰に関しては門外漢と言えよう。
でも、たった一人の女、自分だけの女を手に入れたヒューイのことを羨ましいとも思うし、敬意を抱いてもいる。
次々と相手を取り替えていく経験豊富だけれど軽薄な男の話を聞くよりは、ヒューイと話していたほうがずっとためになるような気がした。
だから彼との会合は無駄なことではないと、ベネディクトも思い始めていた。悪い血を取り除くよりは、ヒューイの話を聞きたいと思う程度には。
「お前、ヘザーとの関係が危機に陥ったことって、ねえの?」
「む……。無いことは、無いな……僕は職場内での恋愛に抵抗があった。僕とヘザーが交際していると知れれば、新人騎士たちの意気込みにも関わるからな。彼女の意志をよそに仕事を辞めさせようとして、意見を違えたことがあった」
「へえ……そういや、ヘザーが辞めてすぐに婚約発表してたよな」
「うむ。結婚を決めた以上、僕は早く公にしたかった。あまり言いたくはないが、ヘザーは……」
「ああ、わかる」
ベネディクトは頷いた。ヒューイは代々続く騎士の家系に生まれたが、ヘザーは庶民出身。学校も出ておらず、十四歳の時にはもう働いていたらしい。ヒューイとの交際が表沙汰になれば、ヘザーには「上流階級の男の情人」という烙印が押されてしまっていたかもしれない。
ベネディクト自身は血筋や家柄で人を判断することはほとんどないが、世間は違うことを充分に知っている。
だからヒューイは他人に交際が知れ渡る前に、自分から公にしてしまいたかったのだ。だが、新人騎士たちのやる気に関わることを考えると、同じ任務についていながらの婚約発表もまずい。
ヒューイは当時のことを思い出しているのだろうか、しみじみとした口調で語る。
「結婚の約束を取り付けたあと、僕は彼女に退役願を書くよう迫って……意見が衝突した……。君も知るとおり、ヘザーは一人でも生きていける女だ。世間体云々よりも、僕は、彼女を捕まえようとして焦っていたのかもしれない……」
「へーえ……」
なんと、今はベタぼれ同士に見える二人にもそれなりの危機は訪れていたらしい。
ヒューイの言うとおり、ヘザーは一人でも生きていけるタイプの女だ。その剣技は一級品だし、彼女は人当たりも良い。騎士をやっていなくても充分に自分の口を養えるし、ヘザーを欲しいと思う男もそれなりにいるだろう。だから、「早く自分だけのものにしてしまわなくては」……そう焦るヒューイの気持ちも、なんとなくわかる気がした。
「で、結局ヘザーは騎士を辞めたんだよな」
「ああ。僕の助手を何期か続けて、その後……ということで折り合いをつけてもらった」
ヒューイと結婚することを決めた彼女は、騎士を辞めて花嫁修業に徹することとなった。これはベネディクトも知っている。
ヘザーは、ヒューイだけのために自分の生き方を変えたのだ。
しかしヒューイもまた、ヘザーのために変わったように見えた。
「ベネディクト。その辺、君はどう伝えたのだ? 結婚後の、彼女の仕事について」
「え……? いや、そこまで話す前にフラれた……」
「ふむ……では、君自身はどう考えているのだ? 彼女に仕事を辞めてほしいと思っているのか?」
「いや……」
実はそこまで考えていなかった。というか、ステラが家庭に収まるような女だとはまったく思っていない。そういうところも込みで惚れたのだ。
それに、彼女の存在は海軍の宝とも言えよう。彼女が辞めることになったら、黒鴎騎士団だけでなく、海軍自体も大きな影響を受けることは必至だ。
「本人が辞めたいっつうなら別だが……影響がでかすぎる。俺個人が口を出せる話じゃねえよ」
「ふむ」
ヒューイは真面目な顔をして、少しだけ身を乗り出した。
「では、今の話を彼女に伝えてみるのはどうかね。海軍における彼女の価値を君は知っている……そこを伝えてみたまえ」
ステラが求婚を断った理由はそこにあるのだろうか。
「だが、全然違う理由だったらよ……」
「そうかもしれん。だが、改めて話し合ってみるのは大事だと思うぞ。僕とヘザーのように、折り合いがつくかもしれないしな」
食事を終えて店を出ると、別れ際に、ヒューイが言った。
「それにしても、ベネディクト。君も普通の人間だったのだな」
「は?」
「君は、僕にとって……ずっと不思議な存在だった。ふざけたお調子者かと思えば、テストでは僕よりも良い点数をマークしていた……」
「ああ、学生のころの話か? でもそうだっけ? お前のほうが成績上じゃなかったか?」
「……そういうこだわりの無さも、腹立たしく思っていた時期が僕にはあった。僕は寝る間も惜しんで机に向かっていたのに、君はテスト前でも遊びに出かけたりしていて、それでも成績が落ちない……出会って間もない頃は、君のことが腹立たしくて仕方がなかった」
ベネディクトとヒューイが出会ったのは寄宿学校に入った十三歳の頃だ。入学してすぐに行われた学力テストでは、ベネディクトがトップ、ヒューイが二番目であった。
彼はベネディクトのところまで宣言しに来たのだ。「次は僕が一番になる」と。
「だが、君の答えは『へえ。別にいいんじゃねえの?』……とやる気のないものだった。僕は馬鹿にされたと思い込んで、躍起になった……」
「ああ、思い出したぞ! そうだ。お前、俺んとこきて、そんなこと言ってたな!」
ベネディクトは「面倒くさいのに絡まれた」と思っていた。
そして次のテストでは、見事にヒューイが一番をとった。なのに、彼はまたベネディクトのところへ来て「手を抜いたのではないだろうな」と疑った。
「そうだそうだ。お前、ほんっとめんどくさかったわ!」
「僕は君に勝とうと必死だったのに、君から競争心は窺えなくて悔しかった。そして君は貴族の生まれだというのに、それを鼻にかけることもない……ほんとうに、腹立たしかったぞ」
ヒューイはそこで言葉を切ったが、一瞬ののち、また続けた。
「だが、君を嫌いになることはできなかった。それを自分の中で認めたとき、君には一生敵わないのかもしれないと思った」
「え? いや……俺だってお前のこと、面倒くさいやつだとは思ってたが……嫌いだと思ったことはないぜ。今は、すげえやつだって尊敬してるしよ」
ヒューイが自分をそんな風に思っていたとは知らなかった。なんだか照れくさい。
「君は要領がいいから、恋に落ちたとしても手際よく駒を進めるのだろうと予想していた。だが……人並みに悩んだり足掻いたりするのだな。こんなことを言っては悪いが、君が普通の男で安心したぞ」
それはこっちのセリフだと思った。ベネディクトはヒューイほどの男が一人の女性に夢中になる様を──面白がっていた節もなくはないのだが──驚きながら見守っていた。あのヒューイ・バークレイが、普通の男みたいになるなんて、と。
「さて、そろそろ帰らねばな」
「あ、ああ。今日はサンキューな。助かったぜ……」
ステラとの関係はこのままかもしれないが、どん底にあったベネディクトの気持ちは、ヒューイと話すことで浮上を始めていた。
「んじゃ、ヘザーによろしくな」
「ああ。君の恋が上手くいくことを祈っているぞ」
ヒューイは軽く片手をあげて去って行った。
あのヒューイが「君の恋が」などという恥ずかしいセリフを吐くなんて、ヘザーに惚れて以来、彼のアタマはおかしくなったままなのだろう。
でも、羨ましいなと思った。
仕事場を出る前はヒューイに対して卑屈にしかなれなかったが、今はまったく違う気分になっている。ステラともう一度話をしてみようという勇気も湧いていた。これが「幸せのおすそ分け」というやつなのかもしれない。
しかしステラのところへ向かうまでもなかった。ベネディクトが宿舎の自室に戻ると、扉の前に彼女が立っていたからだ。
彼女はベネディクトの前までやってきて、頭からつま先までをじろじろと眺める。しまいにはベネディクトのまわりをぐるりと一周した。
「貴様……荷物は持っていないのか」
「え?」
「何も買ってきてはいないのだろうな?」
これは振った男に対する質問としてどうなのだろう。こちらは彼女と話し合う勇気をなんとか充填してきたと言うのに。
「買う……? 俺はヒューイと……ヒューイ・バークレイと、メシ食ってきただけですけど」
「……そうか。ならばいい」
ステラはそのまま戻って行こうとしたので、わけの分からないベネディクトは彼女を呼び止める。
「ちょっ……なんなんだよ、いったい?」
「貴様が水晶玉を買わされたのではないかと思っただけだ」
「え……」
そこで思い出した。水晶玉には心惹かれなかったが、自分はランドールのいう「先生」に、悪い血を取り除いてもらう気満々であったのだ。その後の展開と状況によっては水晶玉や金箔の入った何かを買ってしまっていたかもしれない。
ヒューイの、安定した健全な精神が寄り添ってくれたから踏みとどまることができたが、自分はなんと危うかったのだろう。
それも「いま思えば」の話だ。
あの時は悪い血のことしか考えられなくなっていた。ほんとうに参っていると、やたらと視野が狭くなることにも驚いた。
ランドールにはヒューイみたいな存在がいなかったのかもしれないし、彼の愛犬の死は、人間の家族や友人の存在をはるかに凌駕するものだったのかもしれない。そう考えると、ちょっとせつない。
「買ってませんよ。これからも、買いません」
「ならば、いい」
「あの、ハサウェイ代理」
ステラは自分を心配して待っていてくれたのだろうか。心配するということは、いまでも「憎からず思って」くれていると考えてもいいのだろうか。
「ちょっと……俺の話、訊いてくれませんか」
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