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1巻

1-3

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 エリオットの背後では、ベルトの金具がカチャカチャと音を立てている。彼女はベッドの上で膝立ちになってベルトを締めているのだろうか……。またまた余計な想像をしてしまい、エリオットは今度は自分の太腿をつねった。
 あの魔法薬は催淫剤と睡眠薬から成分を抽出して作ったものだ。悪人から抵抗する力を奪い、頭をぼうっとさせてしまえば、捕獲も尋問も楽になる。騎士たちの負担も減るであろうと考えていた。
 しかし悪人をおとなしくさせるためには催淫剤の成分が強すぎたようだ。ちょっと酩酊したような気分にさせて、判断力を低下させるだけでいい。あんな風に離れようとした相手を発情させる必要はないのである。
 催淫剤の量についてはこれから調整していく必要があるが、テリーが男であったならば、話はもっと単純だっただろう。とりあえず「抜いて」もらっていったん落ち着いたら、実験台になってもらうことができたからだ。どのくらいの距離を取れば発情してしまうのか、その発情の強さはどの程度のものなのか、そして薬をどのように配合させれば自分の目指しているものに近づくのか――魔法薬の完成に向けて協力してもらえたはずだ。
 だがテリーは女だった。気軽に発情させるわけにはいかない。
 問題はまだある。あの魔法薬は試験的に作ってみたものに過ぎず、これから時間をかけて細かい調整をしていく予定だった。人間相手に使うつもりは、まだまだなかったのだ。つまり、解呪薬かいじゅやくもできていない。

「あの……」

 そのとき突然背後でテリーの声がして、エリオットは飛びあがりそうになった。

「な、何……?」

 平静を装い振り返ると、彼女はベッドの上で両膝を抱え、俯いていた。時折こちらの様子をうかがうように上目遣いの視線を向けてくる。
 絶頂を迎えたあとだからだろうか、それとも照れがあるのだろうか。その頬は淡い紅色に染まっていた。瞳は潤み、ほつれた髪の毛が首筋に貼りついている。彼女の様子は「情事のあと」としか言いようがない。
 どうしてテリーを男だなんて思い込んでいたのだろう? どう見ても彼女は女ではないか。

「い、いまの……いまのことだけど……」
「う、うん。何……?」

 テリーのズボンを下ろしたときに、エリオットの視界に飛び込んできた真っ白な太腿を思い返しそうになっていると、躊躇いがちに彼女が口を開いた。エリオットは慌てて取り繕う。
 彼女はぱっと顔をあげると、ひと息に吐き出した。

「だ、誰にも言わないでよねっ!」
「……い、言えるわけないだろ」

 エリオットは、テリーは何を言い出すのだろうと思った。魔法薬のせいで発情し、よがりまくっている彼女を自分が慰めてやったなんて――誰にも言えるわけがない。

「そ、それならいいんだけど!」

 彼女は髪を結っていた革紐を解いて口にくわえ、手を後ろに回して髪を纏め直した。やたらと艶めかしい仕草に思えてエリオットは唾を飲み込む。ほんとうに、どうして彼女を男だと思い込めたのだろう? メガネの度が合わなくなってきているのだろうか? メガネのつるを摘まんで位置を調整しながらエリオットは考えた。

「あっ、そうだ!」

 すると髪の毛を結い終えた彼女が短く叫び、こちらに向き直る。

「わ、私のどこが男だって言うのよ!」

 それはまさにいま、こちらも考えていたことだ。自分の目はふしあなだった。そう認める前に、精一杯の言い訳を試みる。

「……騎士団に女がいるなんて思っていなかったし、君の名前だって男みたいじゃないか」
「テレサ」
「え?」

 訊ね直すと、彼女は手のひらを胸に当て、強調するように繰り返した。

「テ・レ・サ! 『テリー』はあだ名なの」

 エリオットはこれまで生きてきて何度か「テリー」という名の男に出会ったことがある。本名が「テリー」だという人もいたし、「テレンス」を縮めてそう呼ばれている者もいた。けれどもこのパターンは初めてだ。

「…………テレサ」

 呆然とその名前を復唱すると、彼女は今度は腕を組み、満足したように頷いた。

「と、とにかく、そういうことだから……もう間違えないでよねっ」

 テレサはそう言い放つとエリオットの前をすり抜け、部屋の扉のほうへ向かう。エリオットも立ちあがり、彼女の前方へ回り込んだ。

「待った」

 背中で扉に蓋をするようにして彼女の進路を塞ぐ。

「な、何よ。まだ何かあるわけ?」

 テレサはやや狼狽の色を見せながらこちらを見あげる。エリオットは彼女の目を見ながら頷いた。

「ある」
「な、何……?」
「僕から距離を取ったら、またさっきみたいなことが起こる」
「え……?」

 いまの言葉だけではわからないようだ。テレサは瞬きを繰り返している。
 エリオットは大きく息を吸い込み、きっぱりと告げた。

「僕たちは離れられない」

 彼女は大きく目を見開いた。


     * * *


「は……はなれ、られない……?」

 テレサはばかみたいにエリオットの言葉を繰り返した。彼はゆっくりと、だが大きく頷いてみせる。

「距離を取ったら、君はまた発情する」

 テレサは先ほどのことを考えた。思い出したくはなかったが、そうする必要があるので仕方がない。
 研究室をあとにして、たしか、階段を上ろうとしたときに異変が起きた。いや、その前からなんだか身体が火照っていた気がする。そして階段に足をかけた瞬間、力が抜けて身体が言うことを聞かなくなったのだ。そのわりに足の間がズキズキ主張していて――ここまで思い返したらまた身体が熱くなってきた。でもこれは羞恥からきている熱さだと思う。

「でも、魔法薬は洗えば落ちるんでしょう?」

 いろいろあったおかげで忘れかけていたが、制服はまだ濡れたままだ。これが肌にまで染み込んだせいで、自分はあんな風になってしまったのだ。水場までエリオットについてきてもらって、テレサが身体を洗う際は後ろを向いていてもらうとかすれば、解決する話だと考えた。
 だがエリオットは唇を噛みながら首を振る。

解呪薬かいじゅやくがまだないって言っただろう? 薬の効果が自然に切れるのを待つという手もあるけど……まだ試験段階の魔法薬なんだ。効果がなくなるまでにどれくらいかかるのか、見当もつかない」
「え……」

 エリオットはここで目を細めて顎を突き出し、テレサを小ばかにするような口調で言った。

「君には理解できないかもしれないけどさ、魔法薬っていうのは複雑で繊細なものなんだ。『洗えば落ちる』みたいな簡単な話じゃない」

 要するに彼は「ま、単純な君には理解できないだろうけどね」と言いたいらしい。さすがに腹が立ってきた。そうだ。自分はこの男のインテリぶった、騎士を見下しているような態度が気に障るのだった!

「じゃ、じゃあ言わせてもらいますけどね。『悪党を無力化する薬』ですって? おかしいじゃない。あれじゃあ、あれじゃあ……無力化どころか『けだものみたいにする薬』じゃないの!」

 実際テレサは無力になった。でも、同じくらいけだものみたいな思考にとらわれた。魔法薬を浴びた悪党の近くにかよわい女性がいたりしたら、かえって危ないと思う。
 そう訴えると、エリオットは自分の顎をさすりながら低く唸る。

「だから、試験段階だったんだってば。催淫剤の成分が強すぎたみたいなんだ」
「さっ、催淫剤⁉」
「うん」
「……って、何?」

 聞き慣れない言葉だったので訊ねてみると、彼は例の呆れと見下しが混じったような視線をテレサによこした。

「媚薬。いやらしい気分になる薬」
「媚薬……」

 なるほど。たしかにテレサはこの上なくいやらしい気持ちになった。自分ではどうしようもなくて、そして……と、先ほどの出来事が頭の中に鮮明に蘇りそうになった。テレサはぎゅっと目を閉じてぶるぶるっと首を振り、さらにエリオットに訊ねる。

「悪党をいやらしい気持ちにさせてどうするのよ。その薬、根本的なところから間違ってるんじゃないの?」
「いや、合ってるよ。催淫剤の『頭がぼうっとして、力が抜ける』成分だけを抽出しようとしたんだから。そうやって悪党を従順にしておけば、捕縛どころか尋問だって容易くなるだろう。そう思わない?」

 催淫剤に含まれる「いやらしい気分になる」成分はふるい落としたつもりだったが、その辺の抽出がうまくいかなかったようだと彼は続けた。

「あ、ああー……なるほど」

 一瞬納得しそうになったが疑問はまだある。

「その『頭がぼうっとして、力が抜ける』成分って、催淫剤からじゃないと作れないの? 『いやらしい気分になる』成分までくっついてきちゃうなんて、やっぱり危ないじゃない」
「魔法薬の製造にあたって、市販薬の使える成分を応用するのは基本だよ。大幅に手間が省けるからね」

 作れないことはないが、一から作るとなると時間がかかるらしい。しかし市販薬? 催淫剤みたいな危ないものが?

「その催淫剤って、誰でも買えるものなの? ……合法なの?」

 こわごわエリオットを見あげると、彼は皮肉っぽくフッと笑う。

「残念だけど、普通の薬種やくしゅ屋には置いてないよ」

 それは嫌になるほど魅力的な表情だった。思わず彼に見惚れるようにぽかんと口を開けてしまったが、いったい何が「残念だけど」なのだろう? いけないことを企む人が簡単に手に入れられない薬ならば、残念ではなく安心ではないか。
 そこまで考えたところで、テレサは彼のセリフのあとには「だから君には買えないよ」と続くのだと思い至った。自分はいやらしい気持ちになる薬を買おうとしている女に見えるのだろうか。甚だ心外である。

「ちょ、ちょっと、私はねえ」
「だから僕たちは離れられないって、わかった?」
「え? え、ええ」
「じゃ、今後の相談をしよう。君があの階段のあたりでうずくまってたってことは……研究室からだと……僕の歩幅で十五歩くらいかな」

 テレサは怒っていたはずなのだが、エリオットが淡々と話を進めていくのでついつい素直に答えてしまった。

「待って。でも、その前からなんだか身体が熱くなって……」
「じゃ、僕の歩幅で十歩。それ以上離れたら、君はさっきみたいになる」

 その説明を受け、テレサはエリオットの足元を見やった。彼はずいぶんと足が長い。彼の十歩はテレサの十一歩くらいだろうか。そしてこれからのことを考えてみる。扉一枚隔てたところで待っていてもらうとか、衝立を用意するとかすれば着替えはできるだろう。けれど……

「え、え……? ね、寝るときはどうしたらいいの……? あ、そうだ、お風呂! お風呂は? そ、それからトイレ……!」

 多少は距離を取れるといっても、生活空間をきっかり分けるのは不可能だ。一日中、エリオット・ハインズと一緒にいなくてはならないのだろうか。

「え……ぇええ……?」

 朝から晩まで彼と一緒なのだと思うと情けない声が漏れた。
 僕たちは離れられない――いまになって彼のセリフの意味が、重みがじわじわとテレサにのし掛かってきたのだった。仕事中も一緒なのに、それ以外でもずっと一緒。文字どおり一日中、ずっとずっと一緒。食べるときも、着替えるときも、寝るときも……
 エリオットはテレサの様子を観察するようにじっと見つめていたが、やがてふうと息を吐く。

「僕は宿舎住まいだけど……君もそうだよね?」
「そうだけど……」
「じゃ、当面は僕の部屋に来てもらう。あとで君の着替えや私物を取りに行こう」
「そ、それって……あなたの部屋に一緒に住むってこと⁉」
「嫌ならいいけど」
「…………」

 そりゃ嫌だよ。嫌だけど、エリオットと離れるとさっきみたいに発情してしまうわけで……。テレサは唇を噛みながら頷いた。

「わ、わかった。荷物取りに行くから、そのときはついてきて……」
「騎士団長になってから広い部屋が割り当てられたんだ。僕はソファで寝るから、ベッドは君が使ってもいいよ。間に衝立を置けばプライバシーはそこそこ保てると思う」
「な、なるほど……」

 テレサのような肩書のない一般の騎士は狭い個室が与えられるだけだが、エリオットは騎士団長だ。たぶん広くて立派な部屋なのだろう。小さなベッドでくっついて眠ったりはしなくてもよさそうだ。トイレも……十歩くらい離れられるのならば、テレサが個室に入っているときはエリオットには外で待っていてもらえばなんとかなるだろう。しかし問題はまだある。

「あの……お風呂のときは?」

 浴場は宿舎の地下にある。男風呂の隣に女風呂が配置されているが、男性騎士のほうが圧倒的に多いから、男風呂はたいそう広いと耳にしている。男風呂と女風呂、同時に足を踏み入れたとしても身体を洗ったり湯船に入ったりしているうちに十歩以上の距離が開いてしまうのではないかと思った。
 するとエリオットは即答した。

「なんとかする」

 なんとかするって、何よ。そう返したいところだが、くやしいことに彼がそう口にすると、ほんとうになんとかなるような気がしてきた。テレサが頷くと、彼は親指で上の階を指した。

「じゃ、次は騎士団の皆へ説明しなきゃ――僕たちは、離れられないってことを」

 テレサは彼の言葉の意味を考え、焦った。

「ちょ、ちょっと待って! い、言うの⁉ わ、私が、私が……」

 別行動が取れないのだから、皆に説明して理解を得る必要があるのはたしかだ。けれどもエリオットと距離を取った途端に自分がよがり出すなんて、絶対に知られたくない。

「離れられない理由は適当にでっちあげるから大丈夫」
「大丈夫って……」
「さあ、行こう」

 エリオットが二歩ほど進み、テレサを振り返った。やっぱり彼が「大丈夫」と言えば大丈夫な気がしてくる。
 彼は力自慢の騎士団長ではないけれど、人を引っ張っていく力はあるのかもしれない。騎士団のほかの皆も、エリオットの魔法に魅了されただけではないのかもしれない。
 それを見極める時間は嫌でもたくさんある。
 だって、これからずっと一緒なのだから。

「わかったわ」

 テレサはそう答え、エリオットのあとに続いた。



   不本意な同棲のはじまり


 テレサは宿舎の自室に勢いよく入ると、クローゼットを開けた。

「何よ、何よ……」

 ぶつぶつ呟きながらカバンの中に当面の着替えを詰め込み、そして入口のところにいるエリオットを振り返る。

「あんな説明することないじゃない! もっとマシな理由だってあるでしょう?」
「そう? じゃあ、なんて言えばよかったわけ?」

 彼は腕を組んで肩を壁に預けている。動じている様子はまったくない。それどころかテレサを挑発するような口調だった。

「そ、それは……い、いろいろ……いろいろあるじゃない! 何も、あんな……あんな……」

 思い出すだけでハラワタが煮えくり返る。エリオットは騎士団の皆にとんでもない説明をしたのだ。
『開発段階の魔法薬の事故でね。テレサ・マディソンは僕から距離を取ると、恐ろしいほどの腹痛に見舞われるようになってしまったんだ。彼女がトイレに駆け込まないで済むよう、皆にも協力してほしい』――と‼
 ほかの皆は大爆笑だった。マルコムは『カッコ悪ぃ~、情けねぇ~~』と言ってお腹を押さえて笑っていたし、スコットは大声で笑いこそしなかったが、涙を流しながら呼吸困難に陥っていた。
 エリオットの適当な説明のおかげで、こちらはいい笑いものである。

「あああ、もう……もう!」

 あのときの屈辱感を思い出してキッとエリオットを睨むと、彼はしれっとした顔で答えた。

「いい案だと思うんだけど。だって君が漏らしたりしたら、周囲に甚大な被害をもたらすことになる。皆、僕と君が離れることのないように協力してくれるんじゃないかな」
「……た、たしかにそうかもしれないけど……」
「それに、君に代替案があるわけじゃないんだろう?」
「う、うぅ……そ、そうだけど……」
「じゃあ僕の案で我慢してもらうしかないよ」
「…………」

 くやしい。こちらを挑発するような物言いばかりするインテリ野郎に、何も言い返せないのがくやしい。
 彼は「テレサとエリオットが離れられない理由」「二人が離れてしまったら、ほかの皆も困ったことになる理由」をうまい具合に考えてくれたと思う。しかし解呪薬かいじゅやくができるまではテレサは皆から「漏らすかもしれない女」という目で見られるわけで……先ほど訴えたように「ほかにもっとないわけ?」とどうしても思ってしまう。
 テレサはいったん視線を落としてカバンの中身を確認する。寝巻、下着と制服のシャツ、それから非番のときに使う普段着。これだけあればしばらくは大丈夫だろう。一人で頷いて、エリオットがいるほうへ向かう。

「準備ができたわ。あなたの部屋へ行きましょう」

 そう言うと、彼はテレサの荷物をちらりと見た。

「荷物はそれだけ……? 化粧品とか、ドレスとかアクセサリーとかはいいの?」
「そんなもの、いつ使うのよ」
「……それならいいけど」

 彼の含みのある物言いにテレサははっと気がついた。自分のこういうところが、性別に関しての誤解を生んだのかもしれないと。

「も、持ってないわけじゃないのよ。どこかのパーティーに呼ばれたときはいったん実家に帰ってから着替えるの! お化粧もそのときにするし! それに王城内での催し物は、たいていは騎士団の制服で事足りるから……持ってないわけじゃないの!」

 ついつい言い訳してしまったが、言い終えたあとで「なんでこいつに対して取り繕わなくちゃいけないのよ?」と複雑な気分に陥った。男だと思われていたことは心外だったが、だからといってエリオットから「女らしい」と思われる必要はないわけで。

「あ、あの、私……」

 テレサはまたなんらかの言い訳をしそうになったが、ふと、エリオットと視線が絡んだ。彼はこちらに歩いてくると、テレサの手からカバンをさっと奪うようにする。

「あっ」
「君が忘れ物をしていないか、確認しただけだよ。別に……女らしくないなんて思ってない」
「え……?」
「準備ができたなら、行こう」

 エリオットは「別に……」のあとを濁すように早口で喋ったのでもう一度聞こうとしたが、言い直してくれることはなかった。それどころかテレサにぱっと背を向けてしまう。
 テレサが慌てて取り繕ったように、彼の言動もまた言い訳めいていたように感じたのだが、気のせいだろうか。
 それにカバンを持ってくれるなんて意外と紳士ではないか。びっくりしてお礼を言いそびれてしまった。どうにかありがとうと言おうとしてエリオットの背中に向かって口をぱくぱくさせていると、ふいに彼が言った。

「僕の部屋は一階の東側にあるんだ。あの角を曲がったところの階段から下りよう」
「え、ええ」

 一階の東側といえば、各騎士団の団長や副団長の部屋が集まっているエリアだった。外への出入りがしやすく、王城にも近い。有事の際は国王のもとへすぐに駆けつけられるようになっているのだ。三階の隅に住んでいるテレサとはえらく待遇が違うなと思った。
 一階まで下りて宿舎の中央に位置するホールへと向かう。そこから東側へ進むと、廊下の柱の装飾が立派なものになった。壁に取り付けられているランプも多くて、天井や廊下の隅までよく見える。

「え? 一階の東側って初めて来たけど……こんな風になってるの?」

 柱やランプだけではない。じゅうたんはふかふかだし、ところどころに綺麗な花を活けた花瓶も置いてある。

「貴族のお客さんがやってくることもあるからじゃない?」
「ああ、そっか」

 なるほど。騎士団長ともなると、王族や貴族が訪ねてくることもあるのだろう。そのためにこのエリアだけ豪奢な内装になっているのだ。
 そこで少し前を行くエリオットを見つめる。彼はこの場に相応しくない、テレサの使い古して擦り切れまくったカバンを持って歩いている。ちょっと申し訳なく思った。
 廊下には立派な扉が並んでいる。エリオットはそのうちの一つの前で立ち止まり、テレサを振り返った。そして重そうなドアレバーを下げる。

「ここが僕の部屋」
「お邪魔します……わぁあ」

 部屋の中に入った瞬間、テレサは地下研究室でもやったみたいに、感嘆の声をあげた。
 広い。そして天井が高い。窓も机も本棚も大きい。奥のほうにベッドが置いてあることを別にすれば、エリオットの部屋は落ち着いた書斎みたいな雰囲気だった。
 彼は奥まで歩いていくと、部屋中を見渡すようにしながら言った。

「この部屋の中でなら、離れて過ごしても大丈夫だと思う」
「う、うん」

 テレサも部屋の中とエリオットの足を見比べた。この部屋の端から端まで彼の足で歩いても、十歩以内に収まりそうだ。つまり、この部屋の中にいる限りはどんなに離れても問題はないとみえる。

「僕はこっちのソファで寝るから、ベッドは君が使っていいよ」
「あ、ありがとう……」
「それから、洗濯物はこのかごに入れておいて」

 エリオットはクローゼットの近くにある籐で編んだかごを指さした。テレサのような下っ端騎士たちは、部屋番号を刺繍してある袋に洗濯物を入れて、洗濯婦がいる洗い場まで自分で持って行かなくてはならない。けれども騎士団長ともなると、洗濯物の回収はメイドがやってくれるらしい。洗い終わった衣服も部屋まで届けてくれるのだとか。
 彼は今度はクローゼットを開けると、均等にかかっていた服をざっと左側によせた。それから持っていたカバンをテレサのほうに突き出すようにする。

「右半分は君が使うといい」

 よく見てみると、下のほうには引き出しもついていた。下着や靴下の類はここにしまっておけそうだ。
 さっきも思ったが、ベッドを使っていいと言ってくれているし、クローゼットも半分譲ってくれるし、エリオットはテレサが思っていたよりもずっと紳士的だ。

「ありがとう。優しいのね」

 カバンを受け取ってそう告げると、彼は青い目を見開いた。いまのテレサの言葉は、エリオットにとって意外なものだったらしい。彼はそっぽを向いて咳払いをする。
 優しいと言われて照れているのだろうか。ほんとうに、テレサが考えていたよりも嫌なやつではないのかもしれない。そう思い直そうとしていると、部屋の扉をノックする音がした。エリオットが返事をするとメイドが顔を出す。メイドはメモのようなものを彼に渡して去って行った。


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