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1巻
1-1
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プロローグ
「んんっ……」
足の間にある小さな突起をくにゃりと押し潰してやると、テレサは身体を震わせた。
薄闇の中、彼女のはあはあという息遣いだけが聞こえている。
だがテレサは満足していないようだった。もう二度も絶頂を与えたのに。
これまでだったら、一度の絶頂でじゅうぶんに彼女は鎮まっていたはずだった。
今夜の彼女はこれまでと違う――
彼女に使った解呪薬に間違いがあったのだろうか。だとしたら、何がダメだったのだろう? 考えようとしたが、テレサの熱い吐息と汗ばんだ肌がエリオットから冷静さを奪っていく。
股間に、痛いくらいの血流が集中していた。
「お、お願い……エリオット……」
テレサは泣きそうな声を出した。
エリオットはテレサが何を懇願しているのかを悟る。
彼女を貫いたらどんな風だろう。何度も想像した。彼女の中に入ってみたいと、何度も夢想した。
だが実際に請われると、ひどくうろたえてしまう。
自分たちは結婚もしていなければ、恋人同士ですらない。
止むに止まれぬ事情があって致し方なく行動をともにし、彼女の発作を鎮めるために「応急処置」を行っているだけだ。これからもそうするはずだった。
一方的に彼女を慰めるだけの「応急処置」に徹していれば、いつかはまた元の関係――騎士団長と、団員の一人――に戻れると思っていたから。
けれども、いま、テレサの要求を呑んでしまったら……元の関係に戻るのは難しい気がした。
「テレサ。それは、さすがに……まずい……」
エリオットは声を絞り出す。
「でも、苦しいの……苦しいのよ……」
「けど……」
「お願い……あなたがしてくれないと、私……」
テレサの目尻から一筋の涙がこぼれた。
「……わかった」
エリオットの理性が完全に崩壊した瞬間だった。
門外漢の騎士団長
「なあ、聞いたか? これから稽古場でハインズ団長が魔法を使うんだってさ!」
「ほんとか? 見に行こうぜ!」
「待てよ、俺も行く!」
スウィーニア王国第七騎士団の詰所はちょっとした騒ぎになっていた。
テレサ・マディソンは盛りあがっている騎士たちを冷めた視線で見つめていた。
ほかの皆は魔法が見たくて仕方がないらしい。魔法――謎の呪文を唱えると不思議な現象が起こるアレのことだ――は、そんなにありがたいものなのだろうか。まあ、タダでイリュージョンを見られるのだと考えれば悪くはない。
けれどもテレサは団長の魔法をわざわざ見に行こうとは思えなかった。なぜなら――と、そのときテレサのお腹がきゅうと鳴った。
お腹をさすりながら時間を確認すると、お昼の少し前だった。皆が魔法とやらに夢中になっているうちに、早めのお昼を食べてしまおうと考える。
「ねえ、マルコム! スコット! 食堂に行かない?」
テレサは立ちあがり、同僚騎士の名前を呼んだ。二人ともハインズ騎士団長と彼が使う魔法には懐疑的な立場をとっている「同志」でもある。
だがマルコムは稽古場がある方角と、詰所の出入口をちらちらと見比べていた。
「……マルコム?」
もう一度彼の名を呼ぶと、マルコムはちょっと迷った様子で口を開く。
「テリー、おまえはさ……団長の魔法、見に行かないのか?」
「は? なんでそんなもの見なくちゃいけないのよ」
「ほら……団長の魔力の強さってやつを改めて確かめられるし、別に、見に行ったって損はないだろ?」
たしかに損はないかもしれないが、お昼を過ぎてしまったら食堂は激混みである。早めに行かないと人気メニューはすぐに品切れになってしまうのだ。団長の魔法を見に行ったがために激混みの食堂で売れ残った不人気メニューを食べる羽目に陥ったら……それはやっぱり損なのでは?
何より、いままでのマルコムはそんなセリフを吐く男ではなかった。彼は「あんな門外漢が騎士団長だなんて俺は認めないね!」と言い切っていたのだから。
「……マルコム。あなた……何言ってるの……?」
そう問うとマルコムは気まずそうに身体をすぼめたが、彼はこの騎士団一番のガタイのよさである。高身長で骨太。加えて筋肉でパンパンだ。そんな仕草をしても身体が大きすぎるせいでそれほど肩身が狭そうには見えなかった。
「あの……テリー。ぼくも、団長の魔法見に行きたいんだけど……」
マルコムに続いて弱々しく挙手をしたのはスコットだ。彼も気まずそうに身体をすぼめている。ちなみにスコットはものすごく痩せているから、とても肩身が狭そうに見えた。
「え? ちょ、ちょっと……どうしちゃったのよ、二人とも」
マルコムとスコットはアンチ・ハインズ騎士団長の立場をとる「同志」だったはずでは……?
テレサは一歩身を引き、二人をまじまじと見つめる。それからスコットが腰に佩いている剣を目にしてハッとした。
「スコット! あなたの剣、何よそれ……」
彼の剣の先がほんのりと淡い光を放っているのが、鞘越しでもわかった。どう見ても、魔法由来の怪しげな光だった。
スコットは剣に手を添え、肩を竦めつつ説明した。
「ハインズ団長が、魔法を封じ込めてくれたんだ。ほら、この前……窃盗犯を追っていたときに、ぼくの行動が遅れちゃっただろ……?」
数日前、窃盗犯を皆で追いつめたことがあった。ある者はそのまま追いかけ、ある者は先回りし、挟み撃ちにしようとした。騎士たちに囲まれると窃盗犯は観念したように蹲ったのでこちらも少し気を抜いてしまったのだが、それがよくなかった。
その窃盗犯は投げナイフの使い手で、蹲るフリをして外套に仕込んでいた小さなナイフを取り出していたのだ。素早い動きでいくつものナイフを投げてきたので、騎士たちは窃盗犯に近づけなくなった。
このとき、弓を所持していた唯一の騎士がスコットだった。彼は剣を弓に持ち替えようとした。飛び道具があることに気がついた窃盗犯はもちろんスコットを優先的に狙う。そこでマルコムが大声をあげながら突進して窃盗犯の気を逸らし、その隙に死角に回ったテレサは彼の頭を剣の鞘で殴って、なんとか捕物劇を終えたのだった。捕まえられたからよかったものの、わりと、危ない場面だったと思う。
「それで団長が剣を飛び道具として使えるようにしてくれたんだ」
スコットは説明を続ける。魔術師が放つ攻撃魔法のように強力なものではないが、狙いを定めて剣を振れば、空気弾のような衝撃波のようなものが剣先から飛び出すらしい。
「剣から弓に持ち替えるより、ずっといいだろう? 込められた魔力を使い切っちゃったら、ただの剣に戻っちゃうみたいなんだけど……そしたら、また団長が魔法を封じ込めてくれるんだって!」
スコットは嬉しそうに剣を撫でる。キラキラしていて迷いのない瞳だ。これは何かに心酔している人間の表情だと、テレサは思った。「同志」スコットは団長派に寝返ったのである。
「な、何よ……あなた、この前まで『魔法なんてインチキだ』って言ってたじゃない」
「え? いや『訳がわからない』って思ってただけで『インチキ』とまでは言ってないよ。そうだ。テリー、君も武器に魔法をかけてもらったら?」
「なっ……じょ、冗談じゃないわよ。命を預ける武器に魔法をかけるなんて……」
武器とは、強靭で健全な肉体の持ち主が扱うからこそ、最高のパフォーマンスを発揮するのである。そこに、魔法――なんだかよくわからないもの、自分には理解できそうにないもの――を混ぜるなんてとんでもない。
そう言い返したが、スコットは穏やかに微笑んだだけだった。
「けど、魔力で防具を補強してもらった人もいるし、剣の柄に魔法をかけてもらった人もいたよ。そうすると、握力が強化されるんだって。みんなやってもらってるよ」
「みんな⁉ ……みんな?」
そういえば、ほんの二、三日前まで「魔法なんて、身体能力の劣るガリ勉野郎が使う卑怯な技に過ぎない」と息巻いていたマルコムが今日はおとなしい。まさか、スコットの言う「みんな」にはマルコムも含まれているのだろうか……?
テレサは恐る恐るマルコムに視線をやった。
彼は、テレサと視線が合わないように顔を逸らした。
「ちょっと、マルコム!」
「い、いや、悪ぃ……だってさ、団長、すげえんだよ」
窃盗犯に突進した際、マルコムは怪我をしていた。ナイフが肩を掠めたらしい。本人は「掠り傷だし、大したことはない」なんて言っていたが痛みはそれなりにあったようだ。
「それで、団長に傷を見せろって言われて、そのとおりにしたら……あっという間に治してくれたんだよ! 魔法って、怪我も治せるんだな!」
「え……ええー……?」
なんとマルコムまで団長派に寝返ってしまうとは。
愕然としていると、マルコムはテレサの肩をぽんと叩く。
「俺たちは団長の魔法を見に行くけど……おまえはゆっくりメシ食って来いよ! じゃあな」
「あ、ちょ、ちょっと……」
引きとめようとしたが、二人は急ぎ足で詰所から出て行ってしまった。一人取り残されたテレサは考える。
マルコムもスコットもすっかり魔法の、ひいてはハインズ騎士団長の虜になってしまったらしい。「よく見てみればおまえの考えも変わる」とか「とにかく一緒に来い!」とか、そういう誘い方をされていたら、テレサはますます頑なになっていただろう。
だが彼らは「魔法を見に行こう」と軽く誘っただけで、無理強いは決してしなかった。
「……な、何よ……」
魔法を見たことは遠目にだけれど何度かある。魔術師が呪文を唱えると、足元の魔法陣が輝き出し、不思議なことが起こる。それは知っていた。あの美しい光をもっと近くで見てみたいなとは思っていたけれど。けれど……テレサはしばし唇を噛みしめていたが、やがて顔をあげた。
スコットはともかく、マルコムまであっさり手のひらを返してしまうなんて。騎士団長の魔法はどれほど強力で魅力的なのだろう。
「二人とも! 待ってったら!」
そうして二人を追うかたちで詰所を出る。
そう。テレサは魔法そのものに文句があるわけではない。騎士団長が魔法を使うことが気に入らないのである。体力自慢の騎士たちのトップが魔術師だなんて納得がいかない。
だから、わざわざ見に行きたいとは思えないのだ。
今回はちょっと確かめに行くだけ。自分は決して騎士団長の軍門に下ったりはしない! ほんとうに、ちょっと見に行くだけだ。
稽古場に到着すると、テレサの姿を認めたマルコムがにやりと笑った。
「なんだよ。結局来たんじゃん……メシ食いに行くんじゃなかったのか?」
「ま、まだお腹が空いてないって気づいただけだもの」
「ふーん。ま、そういうことにしといてやるか」
「あら! ほ、ほほほんとうだもの!」
「はいはい」
彼のしたり顔がなんだか腹立たしい。やっぱり来なきゃよかった……と後悔しはじめたとき、スコットが稽古場の中央を指さした。
「ほら、はじまるよ……ハインズ団長の魔法が」
見れば、所々に水たまりがあってぬかるんでいる、状態の悪い稽古場の真ん中に彼がいた。第七騎士団の濃紺の制服を身に纏った騎士団長、エリオット・ハインズが。
エリオットはついこの前まで第三魔術師団に所属していた魔術師だった。それが「ちょっと特殊な人事異動」が行われたせいで、いまは第七騎士団の騎士団長の任に就いている。
スウィーニア王国軍はもともと武器と強靭な肉体で戦う騎士団と、魔法を使う魔術師団に分けられていた。戦時中であれば上層部の命令で渋々共闘することもあるらしいが、基本的に騎士団と魔術師団の仲はよろしくない。すこぶるよろしくない。
魔術師たちは騎士のことを「脳筋軍団」とバカにしているし、騎士たちだって魔術師のことを「本より重いものを持てない、かよわいお坊ちゃん集団」だと考えている。とにかく、相容れない存在なのだ。
そういった状態なのに上層部は「騎士と魔術師の混成部隊」を作ろうと考えているらしい。その第一歩として「ちょっと特殊な人事異動」があったというわけだ。
エリオットは棒きれを持ってぐちゃぐちゃの地面に何かの模様――おそらく魔法陣――を描いていたが、描き終わったのだろうか。棒きれをぽいと放った。そして魔法陣の中央へと足を踏み入れる。エリオットを遠巻きにしていた騎士たちが静かになった。
そのまま魔法陣の中央に手を翳し、テレサには聞き取れない言葉を喋り出す。魔術師が唱える呪文には古代の言葉が使われているという話だが、テレサは「古代語ってことにして、デタラメを言っているだけなんじゃないの?」とちょっと疑っていた。
やがて地面に刻まれた魔法陣は淡い光を放ちはじめる。隣にいるマルコムが「おお……」とため息を漏らした。
ある場所からは黄色い光が、別の場所からは赤い光が出てきて、それらは帯のように絡み合ってオレンジ色となり、目も眩むような強さで発光したかと思うと、周囲の空気に吸い込まれるように消えていった。気がつくと、稽古場の地面はすっかり乾いていた。
見学していた騎士たちは「うおおー!」と歓声をあげ、拍手をしたり口笛で囃し立てたりしている。マルコムも例外ではなかったし、スコットも嬉しそうに拍手をしていた。
なるほど。今朝の激しい通り雨のせいで、水はけの悪い第七騎士団の稽古場は使い物にならなくなっていた。それをエリオットが魔法でなんとかしたというわけだ。
隣のマルコムがテレサの背中をばしばしと叩く。
「テリー、おまえも見たよな⁉」
反対側の隣にいるスコットまで、テレサの肩をゆすった。
「ね? 団長の魔法、綺麗だしすごいだろ?」
稽古場に飛び出していった騎士たちの足元には土埃が舞っている。完全に乾いているように見えた。
たしかに綺麗だったしすごいけど……騎士団が魔術師をトップに据え、頼り、持て囃すってどうなの? というモヤモヤした気持ちが拭えない。
「なあ、すごいよな?」
もう一度マルコムに問われ、テレサは曖昧に頷きながら答えた。
「な、なるほどね……。ふうん……な、なかなかのものじゃない……?」
魔法が便利なものには違いないが、新参者の上に門外漢のかよわいお坊ちゃんが団長として君臨しているのはやはり面白くない。騎士団長とは、筋肉の鎧を纏って重い武器を振り回し、誰よりも強くなくてはならないのだ!
そこで、ちらりとエリオットに目をやる。
彼は騎士団員たちにお礼を言われているところだった。
「団長! ありがとうございます!」
「水がはけるまで時間がかかると思ってたけど……魔法って、こういうこともできるんですね!」
エリオットはなんでもなさそうに首を振る。
「助けになったならよかったよ。じゃ、僕はこれで」
「はい! ほんとうにありがとうございました!」
「僕は地下の研究室にいるから、何かあったら呼んで」
「はい!」
そうしてエリオットはテレサのいるほうへ歩いてきた。
銀色の髪の毛がさらさらと揺れている。細い銀のフレームのメガネが、彼のインテリっぽい雰囲気をさらに引き立てていた。じっと見つめていたせいだろう。彼はテレサの視線に気づきこちらを見た。逆にテレサはぱっと顔を逸らす。
エリオットは筋肉の鎧こそ纏ってはいないが、背は高いし肩幅もそれなりに広い。身体の厚みはそれほどなくて騎士としてはスマートすぎるが、少なくともスコットのようにガリガリではない。彼の持つ深い青の瞳は知的で物静かな印象で――実際にエリオットは体育会系という感じでもなければ、騎士団長という感じもまったくしなかった。
結局テレサは激混みの食堂で売れ残りメニューを昼食としてとったあと、ほかの騎士団員たちの隙を窺って、一人で詰所の地下へ下りた。この先にはエリオットの研究室がある。もともと地下は予備の武器などが置いてあるだけの物置だったが、なんとエリオットはそのうちの一部屋を自分の研究室にしてしまったのだ。
彼の勝手な行動に対して団員たちの反発がなかったわけじゃない。いや、反発だらけだった。
第七騎士団は比較的若い者たちで構成されている。そこに団員たちと年齢の変わらない二十三歳の(テレサと同じ年だ)魔術師なんかがやってきたものだから、皆「ふざけんじゃねえ、舐めやがって」と思っていたのだ。エリオットがバセット侯爵家の嫡男だったせいもあり、彼に直接文句を言える者はいなかったが。でも内心「さあ、ひ弱なお坊ちゃんをどういびってやろうか?」なんて考えていた者たちは多かったはずだ。
だがエリオットは第七騎士団の雰囲気や任務内容を把握すると、研究室にこもりはじめた。そして研究室から出てきたかと思ったら屋内鍛錬場に向かい、錆だらけで使われなくなっていた鉄棒やバーベルを魔法で新品同様にして見せたのだ。
魔法を目の当たりにした者たちは「団長の描いた魔法陣が光ったかと思ったら、すっかり錆が落ちていた!」と大騒ぎだ。テレサはその場にいなかったが「なんかズルしたんじゃないの?」と魔法には懐疑的だった。この時点ではマルコムやスコットもテレサと同じ考えだった。
エリオットは、稽古場の壊れた柵も魔法で修理してみせた。騎士団員たちが何日もかけて作業するはずだったものが、一瞬で終わった。このときテレサは彼の魔法を遠目に見ていたが、何をどうやったかまではわからなかった。ただエリオットが団員たちの心をつかみはじめていることはわかった。
はじめの頃「朝礼のあとは研究室にこもりきりなんて、騎士団長のやることじゃない」と陰で文句を言っていた者たちもいたが、いまでは彼らも瞳を輝かせながら言うようになった。「そうだよ、いままでの騎士団長と同じことしてたら、人事異動の意味がないもんな。ハインズ団長はあれでいいんだよ」と。
そうしてテレサの「同志」は一人二人と減っていき、最終的にはマルコムとスコットだけになった。しかし彼らも寝返ってしまったので、アンチ団長の立場をとるものはもうテレサしかいない。
階段を下りきると、暗く長い廊下が続いている。並んでいる扉のうちの一つの前にランプが掲げられていた。エリオットの研究室である。
換気のためなのか、幸い扉は少しだけ開いていた。テレサは足音を立てないように注意しながら研究室に近づいていく。
いったいエリオットは何をやっているのだろう? うまい具合に第七騎士団の中に入り込んできたけれど、自分はまだ彼を団長として認めたわけじゃない。
テレサは多くの騎士を輩出してきたアバナシー伯爵家の娘である。父も祖父も力自慢の騎士だった。弟はいまはまだ学生だが、彼だって立派な騎士になる予定である。そんなテレサにとっては「騎士団長が魔術師」なんて以ての外なのだ。
彼が研究室にこもって何をやっているのか、この機会にぜひとも確かめてやろうではないか。研究室とは名ばかりで、ただのサボり部屋なのかもしれないのだから。テレサはそっと研究室の中を覗き込んだ。
そして息をのんだ。
部屋の奥には長机が置いてあり、その上にはビーカーやフラスコが並んでいる。魔術師というよりは科学者の研究室みたいだ。ビーカーの中には淡い黄色や水色、ピンク色の液体が入っており、それらがほんのりと発光していた。薄暗い部屋の中で光を放つビーカーは、なんとも神秘的でとても美しかったのだ。
エリオットがビーカーを動かすと光も揺れた。テレサは思わず声をあげてしまう。
「わあ……」
エリオットが振り返った。こっそり様子を窺うつもりが見つかってしまった。テレサは慌てて隠れようとしたが、遅かったようだ。
「君は、ええと、テリー……だっけ?」
彼はこちらへやってきて、扉を開ける。いまさら逃げ隠れするのも格好悪いのでテレサは胸を張り、エリオットに向かって頷いてみせた。
「どうしたの? 僕に何か用?」
「あ、あなたが普段どういうことをしてるのか知りたいと思って……その……け、見学!」
「ふうん……じゃあ、どうぞ」
エリオットが騎士団にやってきてからというもの、すれ違えば挨拶くらいは交わしているが、こうしてまともに口をきいたのは初めてかもしれない。ほんとうは見学というより偵察なのだが、意外にもエリオットはテレサを中に入れてくれた。彼に歓迎している様子はない。でも、嫌な表情をしているわけでもなかった。
「んんっ……」
足の間にある小さな突起をくにゃりと押し潰してやると、テレサは身体を震わせた。
薄闇の中、彼女のはあはあという息遣いだけが聞こえている。
だがテレサは満足していないようだった。もう二度も絶頂を与えたのに。
これまでだったら、一度の絶頂でじゅうぶんに彼女は鎮まっていたはずだった。
今夜の彼女はこれまでと違う――
彼女に使った解呪薬に間違いがあったのだろうか。だとしたら、何がダメだったのだろう? 考えようとしたが、テレサの熱い吐息と汗ばんだ肌がエリオットから冷静さを奪っていく。
股間に、痛いくらいの血流が集中していた。
「お、お願い……エリオット……」
テレサは泣きそうな声を出した。
エリオットはテレサが何を懇願しているのかを悟る。
彼女を貫いたらどんな風だろう。何度も想像した。彼女の中に入ってみたいと、何度も夢想した。
だが実際に請われると、ひどくうろたえてしまう。
自分たちは結婚もしていなければ、恋人同士ですらない。
止むに止まれぬ事情があって致し方なく行動をともにし、彼女の発作を鎮めるために「応急処置」を行っているだけだ。これからもそうするはずだった。
一方的に彼女を慰めるだけの「応急処置」に徹していれば、いつかはまた元の関係――騎士団長と、団員の一人――に戻れると思っていたから。
けれども、いま、テレサの要求を呑んでしまったら……元の関係に戻るのは難しい気がした。
「テレサ。それは、さすがに……まずい……」
エリオットは声を絞り出す。
「でも、苦しいの……苦しいのよ……」
「けど……」
「お願い……あなたがしてくれないと、私……」
テレサの目尻から一筋の涙がこぼれた。
「……わかった」
エリオットの理性が完全に崩壊した瞬間だった。
門外漢の騎士団長
「なあ、聞いたか? これから稽古場でハインズ団長が魔法を使うんだってさ!」
「ほんとか? 見に行こうぜ!」
「待てよ、俺も行く!」
スウィーニア王国第七騎士団の詰所はちょっとした騒ぎになっていた。
テレサ・マディソンは盛りあがっている騎士たちを冷めた視線で見つめていた。
ほかの皆は魔法が見たくて仕方がないらしい。魔法――謎の呪文を唱えると不思議な現象が起こるアレのことだ――は、そんなにありがたいものなのだろうか。まあ、タダでイリュージョンを見られるのだと考えれば悪くはない。
けれどもテレサは団長の魔法をわざわざ見に行こうとは思えなかった。なぜなら――と、そのときテレサのお腹がきゅうと鳴った。
お腹をさすりながら時間を確認すると、お昼の少し前だった。皆が魔法とやらに夢中になっているうちに、早めのお昼を食べてしまおうと考える。
「ねえ、マルコム! スコット! 食堂に行かない?」
テレサは立ちあがり、同僚騎士の名前を呼んだ。二人ともハインズ騎士団長と彼が使う魔法には懐疑的な立場をとっている「同志」でもある。
だがマルコムは稽古場がある方角と、詰所の出入口をちらちらと見比べていた。
「……マルコム?」
もう一度彼の名を呼ぶと、マルコムはちょっと迷った様子で口を開く。
「テリー、おまえはさ……団長の魔法、見に行かないのか?」
「は? なんでそんなもの見なくちゃいけないのよ」
「ほら……団長の魔力の強さってやつを改めて確かめられるし、別に、見に行ったって損はないだろ?」
たしかに損はないかもしれないが、お昼を過ぎてしまったら食堂は激混みである。早めに行かないと人気メニューはすぐに品切れになってしまうのだ。団長の魔法を見に行ったがために激混みの食堂で売れ残った不人気メニューを食べる羽目に陥ったら……それはやっぱり損なのでは?
何より、いままでのマルコムはそんなセリフを吐く男ではなかった。彼は「あんな門外漢が騎士団長だなんて俺は認めないね!」と言い切っていたのだから。
「……マルコム。あなた……何言ってるの……?」
そう問うとマルコムは気まずそうに身体をすぼめたが、彼はこの騎士団一番のガタイのよさである。高身長で骨太。加えて筋肉でパンパンだ。そんな仕草をしても身体が大きすぎるせいでそれほど肩身が狭そうには見えなかった。
「あの……テリー。ぼくも、団長の魔法見に行きたいんだけど……」
マルコムに続いて弱々しく挙手をしたのはスコットだ。彼も気まずそうに身体をすぼめている。ちなみにスコットはものすごく痩せているから、とても肩身が狭そうに見えた。
「え? ちょ、ちょっと……どうしちゃったのよ、二人とも」
マルコムとスコットはアンチ・ハインズ騎士団長の立場をとる「同志」だったはずでは……?
テレサは一歩身を引き、二人をまじまじと見つめる。それからスコットが腰に佩いている剣を目にしてハッとした。
「スコット! あなたの剣、何よそれ……」
彼の剣の先がほんのりと淡い光を放っているのが、鞘越しでもわかった。どう見ても、魔法由来の怪しげな光だった。
スコットは剣に手を添え、肩を竦めつつ説明した。
「ハインズ団長が、魔法を封じ込めてくれたんだ。ほら、この前……窃盗犯を追っていたときに、ぼくの行動が遅れちゃっただろ……?」
数日前、窃盗犯を皆で追いつめたことがあった。ある者はそのまま追いかけ、ある者は先回りし、挟み撃ちにしようとした。騎士たちに囲まれると窃盗犯は観念したように蹲ったのでこちらも少し気を抜いてしまったのだが、それがよくなかった。
その窃盗犯は投げナイフの使い手で、蹲るフリをして外套に仕込んでいた小さなナイフを取り出していたのだ。素早い動きでいくつものナイフを投げてきたので、騎士たちは窃盗犯に近づけなくなった。
このとき、弓を所持していた唯一の騎士がスコットだった。彼は剣を弓に持ち替えようとした。飛び道具があることに気がついた窃盗犯はもちろんスコットを優先的に狙う。そこでマルコムが大声をあげながら突進して窃盗犯の気を逸らし、その隙に死角に回ったテレサは彼の頭を剣の鞘で殴って、なんとか捕物劇を終えたのだった。捕まえられたからよかったものの、わりと、危ない場面だったと思う。
「それで団長が剣を飛び道具として使えるようにしてくれたんだ」
スコットは説明を続ける。魔術師が放つ攻撃魔法のように強力なものではないが、狙いを定めて剣を振れば、空気弾のような衝撃波のようなものが剣先から飛び出すらしい。
「剣から弓に持ち替えるより、ずっといいだろう? 込められた魔力を使い切っちゃったら、ただの剣に戻っちゃうみたいなんだけど……そしたら、また団長が魔法を封じ込めてくれるんだって!」
スコットは嬉しそうに剣を撫でる。キラキラしていて迷いのない瞳だ。これは何かに心酔している人間の表情だと、テレサは思った。「同志」スコットは団長派に寝返ったのである。
「な、何よ……あなた、この前まで『魔法なんてインチキだ』って言ってたじゃない」
「え? いや『訳がわからない』って思ってただけで『インチキ』とまでは言ってないよ。そうだ。テリー、君も武器に魔法をかけてもらったら?」
「なっ……じょ、冗談じゃないわよ。命を預ける武器に魔法をかけるなんて……」
武器とは、強靭で健全な肉体の持ち主が扱うからこそ、最高のパフォーマンスを発揮するのである。そこに、魔法――なんだかよくわからないもの、自分には理解できそうにないもの――を混ぜるなんてとんでもない。
そう言い返したが、スコットは穏やかに微笑んだだけだった。
「けど、魔力で防具を補強してもらった人もいるし、剣の柄に魔法をかけてもらった人もいたよ。そうすると、握力が強化されるんだって。みんなやってもらってるよ」
「みんな⁉ ……みんな?」
そういえば、ほんの二、三日前まで「魔法なんて、身体能力の劣るガリ勉野郎が使う卑怯な技に過ぎない」と息巻いていたマルコムが今日はおとなしい。まさか、スコットの言う「みんな」にはマルコムも含まれているのだろうか……?
テレサは恐る恐るマルコムに視線をやった。
彼は、テレサと視線が合わないように顔を逸らした。
「ちょっと、マルコム!」
「い、いや、悪ぃ……だってさ、団長、すげえんだよ」
窃盗犯に突進した際、マルコムは怪我をしていた。ナイフが肩を掠めたらしい。本人は「掠り傷だし、大したことはない」なんて言っていたが痛みはそれなりにあったようだ。
「それで、団長に傷を見せろって言われて、そのとおりにしたら……あっという間に治してくれたんだよ! 魔法って、怪我も治せるんだな!」
「え……ええー……?」
なんとマルコムまで団長派に寝返ってしまうとは。
愕然としていると、マルコムはテレサの肩をぽんと叩く。
「俺たちは団長の魔法を見に行くけど……おまえはゆっくりメシ食って来いよ! じゃあな」
「あ、ちょ、ちょっと……」
引きとめようとしたが、二人は急ぎ足で詰所から出て行ってしまった。一人取り残されたテレサは考える。
マルコムもスコットもすっかり魔法の、ひいてはハインズ騎士団長の虜になってしまったらしい。「よく見てみればおまえの考えも変わる」とか「とにかく一緒に来い!」とか、そういう誘い方をされていたら、テレサはますます頑なになっていただろう。
だが彼らは「魔法を見に行こう」と軽く誘っただけで、無理強いは決してしなかった。
「……な、何よ……」
魔法を見たことは遠目にだけれど何度かある。魔術師が呪文を唱えると、足元の魔法陣が輝き出し、不思議なことが起こる。それは知っていた。あの美しい光をもっと近くで見てみたいなとは思っていたけれど。けれど……テレサはしばし唇を噛みしめていたが、やがて顔をあげた。
スコットはともかく、マルコムまであっさり手のひらを返してしまうなんて。騎士団長の魔法はどれほど強力で魅力的なのだろう。
「二人とも! 待ってったら!」
そうして二人を追うかたちで詰所を出る。
そう。テレサは魔法そのものに文句があるわけではない。騎士団長が魔法を使うことが気に入らないのである。体力自慢の騎士たちのトップが魔術師だなんて納得がいかない。
だから、わざわざ見に行きたいとは思えないのだ。
今回はちょっと確かめに行くだけ。自分は決して騎士団長の軍門に下ったりはしない! ほんとうに、ちょっと見に行くだけだ。
稽古場に到着すると、テレサの姿を認めたマルコムがにやりと笑った。
「なんだよ。結局来たんじゃん……メシ食いに行くんじゃなかったのか?」
「ま、まだお腹が空いてないって気づいただけだもの」
「ふーん。ま、そういうことにしといてやるか」
「あら! ほ、ほほほんとうだもの!」
「はいはい」
彼のしたり顔がなんだか腹立たしい。やっぱり来なきゃよかった……と後悔しはじめたとき、スコットが稽古場の中央を指さした。
「ほら、はじまるよ……ハインズ団長の魔法が」
見れば、所々に水たまりがあってぬかるんでいる、状態の悪い稽古場の真ん中に彼がいた。第七騎士団の濃紺の制服を身に纏った騎士団長、エリオット・ハインズが。
エリオットはついこの前まで第三魔術師団に所属していた魔術師だった。それが「ちょっと特殊な人事異動」が行われたせいで、いまは第七騎士団の騎士団長の任に就いている。
スウィーニア王国軍はもともと武器と強靭な肉体で戦う騎士団と、魔法を使う魔術師団に分けられていた。戦時中であれば上層部の命令で渋々共闘することもあるらしいが、基本的に騎士団と魔術師団の仲はよろしくない。すこぶるよろしくない。
魔術師たちは騎士のことを「脳筋軍団」とバカにしているし、騎士たちだって魔術師のことを「本より重いものを持てない、かよわいお坊ちゃん集団」だと考えている。とにかく、相容れない存在なのだ。
そういった状態なのに上層部は「騎士と魔術師の混成部隊」を作ろうと考えているらしい。その第一歩として「ちょっと特殊な人事異動」があったというわけだ。
エリオットは棒きれを持ってぐちゃぐちゃの地面に何かの模様――おそらく魔法陣――を描いていたが、描き終わったのだろうか。棒きれをぽいと放った。そして魔法陣の中央へと足を踏み入れる。エリオットを遠巻きにしていた騎士たちが静かになった。
そのまま魔法陣の中央に手を翳し、テレサには聞き取れない言葉を喋り出す。魔術師が唱える呪文には古代の言葉が使われているという話だが、テレサは「古代語ってことにして、デタラメを言っているだけなんじゃないの?」とちょっと疑っていた。
やがて地面に刻まれた魔法陣は淡い光を放ちはじめる。隣にいるマルコムが「おお……」とため息を漏らした。
ある場所からは黄色い光が、別の場所からは赤い光が出てきて、それらは帯のように絡み合ってオレンジ色となり、目も眩むような強さで発光したかと思うと、周囲の空気に吸い込まれるように消えていった。気がつくと、稽古場の地面はすっかり乾いていた。
見学していた騎士たちは「うおおー!」と歓声をあげ、拍手をしたり口笛で囃し立てたりしている。マルコムも例外ではなかったし、スコットも嬉しそうに拍手をしていた。
なるほど。今朝の激しい通り雨のせいで、水はけの悪い第七騎士団の稽古場は使い物にならなくなっていた。それをエリオットが魔法でなんとかしたというわけだ。
隣のマルコムがテレサの背中をばしばしと叩く。
「テリー、おまえも見たよな⁉」
反対側の隣にいるスコットまで、テレサの肩をゆすった。
「ね? 団長の魔法、綺麗だしすごいだろ?」
稽古場に飛び出していった騎士たちの足元には土埃が舞っている。完全に乾いているように見えた。
たしかに綺麗だったしすごいけど……騎士団が魔術師をトップに据え、頼り、持て囃すってどうなの? というモヤモヤした気持ちが拭えない。
「なあ、すごいよな?」
もう一度マルコムに問われ、テレサは曖昧に頷きながら答えた。
「な、なるほどね……。ふうん……な、なかなかのものじゃない……?」
魔法が便利なものには違いないが、新参者の上に門外漢のかよわいお坊ちゃんが団長として君臨しているのはやはり面白くない。騎士団長とは、筋肉の鎧を纏って重い武器を振り回し、誰よりも強くなくてはならないのだ!
そこで、ちらりとエリオットに目をやる。
彼は騎士団員たちにお礼を言われているところだった。
「団長! ありがとうございます!」
「水がはけるまで時間がかかると思ってたけど……魔法って、こういうこともできるんですね!」
エリオットはなんでもなさそうに首を振る。
「助けになったならよかったよ。じゃ、僕はこれで」
「はい! ほんとうにありがとうございました!」
「僕は地下の研究室にいるから、何かあったら呼んで」
「はい!」
そうしてエリオットはテレサのいるほうへ歩いてきた。
銀色の髪の毛がさらさらと揺れている。細い銀のフレームのメガネが、彼のインテリっぽい雰囲気をさらに引き立てていた。じっと見つめていたせいだろう。彼はテレサの視線に気づきこちらを見た。逆にテレサはぱっと顔を逸らす。
エリオットは筋肉の鎧こそ纏ってはいないが、背は高いし肩幅もそれなりに広い。身体の厚みはそれほどなくて騎士としてはスマートすぎるが、少なくともスコットのようにガリガリではない。彼の持つ深い青の瞳は知的で物静かな印象で――実際にエリオットは体育会系という感じでもなければ、騎士団長という感じもまったくしなかった。
結局テレサは激混みの食堂で売れ残りメニューを昼食としてとったあと、ほかの騎士団員たちの隙を窺って、一人で詰所の地下へ下りた。この先にはエリオットの研究室がある。もともと地下は予備の武器などが置いてあるだけの物置だったが、なんとエリオットはそのうちの一部屋を自分の研究室にしてしまったのだ。
彼の勝手な行動に対して団員たちの反発がなかったわけじゃない。いや、反発だらけだった。
第七騎士団は比較的若い者たちで構成されている。そこに団員たちと年齢の変わらない二十三歳の(テレサと同じ年だ)魔術師なんかがやってきたものだから、皆「ふざけんじゃねえ、舐めやがって」と思っていたのだ。エリオットがバセット侯爵家の嫡男だったせいもあり、彼に直接文句を言える者はいなかったが。でも内心「さあ、ひ弱なお坊ちゃんをどういびってやろうか?」なんて考えていた者たちは多かったはずだ。
だがエリオットは第七騎士団の雰囲気や任務内容を把握すると、研究室にこもりはじめた。そして研究室から出てきたかと思ったら屋内鍛錬場に向かい、錆だらけで使われなくなっていた鉄棒やバーベルを魔法で新品同様にして見せたのだ。
魔法を目の当たりにした者たちは「団長の描いた魔法陣が光ったかと思ったら、すっかり錆が落ちていた!」と大騒ぎだ。テレサはその場にいなかったが「なんかズルしたんじゃないの?」と魔法には懐疑的だった。この時点ではマルコムやスコットもテレサと同じ考えだった。
エリオットは、稽古場の壊れた柵も魔法で修理してみせた。騎士団員たちが何日もかけて作業するはずだったものが、一瞬で終わった。このときテレサは彼の魔法を遠目に見ていたが、何をどうやったかまではわからなかった。ただエリオットが団員たちの心をつかみはじめていることはわかった。
はじめの頃「朝礼のあとは研究室にこもりきりなんて、騎士団長のやることじゃない」と陰で文句を言っていた者たちもいたが、いまでは彼らも瞳を輝かせながら言うようになった。「そうだよ、いままでの騎士団長と同じことしてたら、人事異動の意味がないもんな。ハインズ団長はあれでいいんだよ」と。
そうしてテレサの「同志」は一人二人と減っていき、最終的にはマルコムとスコットだけになった。しかし彼らも寝返ってしまったので、アンチ団長の立場をとるものはもうテレサしかいない。
階段を下りきると、暗く長い廊下が続いている。並んでいる扉のうちの一つの前にランプが掲げられていた。エリオットの研究室である。
換気のためなのか、幸い扉は少しだけ開いていた。テレサは足音を立てないように注意しながら研究室に近づいていく。
いったいエリオットは何をやっているのだろう? うまい具合に第七騎士団の中に入り込んできたけれど、自分はまだ彼を団長として認めたわけじゃない。
テレサは多くの騎士を輩出してきたアバナシー伯爵家の娘である。父も祖父も力自慢の騎士だった。弟はいまはまだ学生だが、彼だって立派な騎士になる予定である。そんなテレサにとっては「騎士団長が魔術師」なんて以ての外なのだ。
彼が研究室にこもって何をやっているのか、この機会にぜひとも確かめてやろうではないか。研究室とは名ばかりで、ただのサボり部屋なのかもしれないのだから。テレサはそっと研究室の中を覗き込んだ。
そして息をのんだ。
部屋の奥には長机が置いてあり、その上にはビーカーやフラスコが並んでいる。魔術師というよりは科学者の研究室みたいだ。ビーカーの中には淡い黄色や水色、ピンク色の液体が入っており、それらがほんのりと発光していた。薄暗い部屋の中で光を放つビーカーは、なんとも神秘的でとても美しかったのだ。
エリオットがビーカーを動かすと光も揺れた。テレサは思わず声をあげてしまう。
「わあ……」
エリオットが振り返った。こっそり様子を窺うつもりが見つかってしまった。テレサは慌てて隠れようとしたが、遅かったようだ。
「君は、ええと、テリー……だっけ?」
彼はこちらへやってきて、扉を開ける。いまさら逃げ隠れするのも格好悪いのでテレサは胸を張り、エリオットに向かって頷いてみせた。
「どうしたの? 僕に何か用?」
「あ、あなたが普段どういうことをしてるのか知りたいと思って……その……け、見学!」
「ふうん……じゃあ、どうぞ」
エリオットが騎士団にやってきてからというもの、すれ違えば挨拶くらいは交わしているが、こうしてまともに口をきいたのは初めてかもしれない。ほんとうは見学というより偵察なのだが、意外にもエリオットはテレサを中に入れてくれた。彼に歓迎している様子はない。でも、嫌な表情をしているわけでもなかった。
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