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差し伸べられた手
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「メリル、メリル! ああ、なんてことだ……!」
慟哭ともいえる父の叫びが聞こえてくる。シリルは父母の寝室へと足を踏み入れた。部屋の中はひどく酸っぱい匂いで満ちていて、そのほとんどが寝台付近にあったことから母が嘔吐したのだと分かった。母の着衣は乱されていて、引っ掻き傷が顔に数本走っていた。きっと悪漢が家に押し入ったときに抵抗したのだろう、シリルの見たことのない痣が付いた脚には一筋の赤い血が伝い、体じゅうに白い粘りけのある液体が撒き散らされていた。吐瀉物だけではなく、白い汁からも海のような匂いが発せられていた。あまりにも生々しくむごたらしい姿だった。
「お母さん……」
首筋には噛まれた形跡があり、まだアルファやオメガの仕組みについてぼんやりとしか知らないシリルも、首筋を噛むという行為だけは知っていたので母が無理やり番つがいにされたのだと分かった。母が受けた暴力を思い浮かべるだけで、涙が溢れて世界が歪んでしまう。目に見える傷だけではない。罵声を浴び、脅され殴られて、それでも母は抵抗したのだ。
母の首筋の噛み跡を撫でる父が、聞き取れないほどの小さな声でつぶやく。
「この不規則な歯形は獣人のものだ。森にいると噂されている流れ者のアルファだろう。きっと強引にお母さんを番にしようと……!」
「お父さん」
シリルも母が好きだったが、父とはもっと昔から愛し合っていたのだ。母の亡骸を抱きしめ震える父から嘆きと憤りが伝わってくる。――おそらく今、父は泣いている。
「シリル、明日になったら領主様のところへ行って、お母さんを弔いたいとお願いしてきなさい」
「お父さんは?」
「お父さんは今から、お母さんを殺した奴を追う。……必ず後悔させてやる」
そう言うと、父は寝台にそうっと母を横たえ、部屋の隅に置いてあった猟銃を肩にかけて玄関へと大股で歩いて行った。釣られて追い掛けると「シリルはお母さんに付いていてあげなさい」と、ひどく優しい目で言われた。
玄関の扉をまっすぐに取り付けると、父は寒風吹きすさぶ雪世界へと一歩踏み出した。横殴りの風雪のせいで、あっという間に姿が見えなくなる。母は死に、父は仇を討ちに森の奥深くへ消えてしまった。シリルの日常は壊されてしまった。
「お父さん……」
雪が入ってくるのもそのままに、シリルは玄関の扉を開けたまま呆然と立ちつくした。
その翌日、父は森の奥で喉を喰い千切られた姿で発見された。母に付けられた歯形と一致したことから、犯人は同一の獣人だろう、と葬式のあいだじゅう大人たちが囁いていた。
それから暫くして大勢が集められ山狩りが行われたが、アルファの獣人――おそらく狼型と思われる――の行方は見付からず、三日後打ち切られた。
(アルファの狼型獣人……! 僕がきっと、お父さんとお母さんを殺した奴を見付けてやる)
母を嬲り殺したように残酷な方法で痛めつけ、父を殺したように喉笛を掻き切って殺してやる。父の亡骸を確認したとき、シリルはそう誓った。
シリルは一人で生きて行くのだと、今まで通り山菜やキノコを摘み、慣れない料理をして過ごした。だが、家に一人でいると、死んだ母が使っていた食器や櫛が目に入ってくる。むごい殺されかたをした母の姿を毎晩のように夢に見てしまう。ときには両親を亡くした悲しみで、胸が張り裂けそうになって声を上げて泣き叫んだこともあった。そんな日々が五日ほど過ぎ、朝洗面所で鏡を見ると、笑えるほど目の下が真っ黒で、生気のない姿が映っていた。
「ふ、ふふ……」
ひどい姿だと自分でもおかしくなった。同時に、こんな目に遭うのは自分一人で充分だと思った。森に潜む狼型獣人を、一刻も早く見つけ出し殺さねば。父の遺品である猟銃に、まだ弾丸が残っていることを確かめるとそれを背負い、玄関へと向かった。父があんなに軽々と持っていた銃は、子供のシリルにはずしりと重く感じられる。扉を開けようとしたとき、ノックがされた。
「マイヤーさんのおうちだね。私はシュレンジャー。領地の管理人をしている。この度は大変な目に遭ったと聞き、お悔やみ申し上げる」
豹の頭を持つ獣人が沈痛な表情で礼をする。アルファを仕留めに行くのだと意気込んでいたシリルは、すっかり出鼻をくじかれてしまった。
「ど、どうも」
「シリル君、この一週間ひとりでつらかっただろう。ここは領地の中でも、子供一人では暮らしにくくて危ないところだ。きみのことが領主様の耳にも届いて、ひどく心配されてね。きみを育てる家庭を募られたんだ。私の家で暮らさないかい?」
灰色のマントを被り、管理人の証であるバッヂを胸に付けている獣人を観察する。感情を抑えた声は信用出来そうだと思えた。
「おじさんの家に……? でも、僕」
背中の銃が一段と重くなった気がする。獣人のアルファを探しに行かなければいけない。今いる森よりもっと奥深くに潜んでいる悪党を裁かねば。
「おじさんはアルファですか。おうちにアルファの人はいますか……?」
「いいや? 私はベータだし、家内も同じだ。子供が一人いるが、まだどちらか分からない。……銃を背負っているね。もしかして、今からご両親の仇を討ちに行くところだった?」
「……っ!」
「悪いことは言わない、やめた方がいい。武器を持った大人が森に入ったが何人も殺されている。ひどく凶暴なアルファらしい」
「でも、ここにいるとお母さんが殺された時を思い出してしまうんです。あいつがいなくなるまで、僕は安心して眠れない」
「きみはご両親に守られ生き残った。きみが大きくなれば、その分犯人に勝てるチャンスが増える。きみが大人になるまで、私たちと一緒に暮らして獣人の弱点を探るといい」
「弱点……」
そんなことを言う獣人に初めて会った。自らの弱みを晒すなんて。
豹型の獣人がしゃがみ込み、シリルと同じ目線になる。近くで見る豹人の瞳は澄んだ薄水色で、よく晴れた空のようだと思った。
「私の子供は獣人だが、歳はきみと同じくらいでね。まるで自分の子が毎晩眠れずに思い余って、仇討ちに行くように見えて放っておけないんだ。銃はしばらく預からせてほしい。きみのような幼い子供が持っていると、殺伐としてつらいんだ。シリル君、私の家は森の入口にあって、領主様の城にも近い。きみが大きくなるまでのあいだだけでいい、一緒に暮らさないか?」
ふわふわとした毛並みを持った右手が遠慮がちに差し出される。シリルはその手を取った。それが今日の昼間の出来事だった。
慟哭ともいえる父の叫びが聞こえてくる。シリルは父母の寝室へと足を踏み入れた。部屋の中はひどく酸っぱい匂いで満ちていて、そのほとんどが寝台付近にあったことから母が嘔吐したのだと分かった。母の着衣は乱されていて、引っ掻き傷が顔に数本走っていた。きっと悪漢が家に押し入ったときに抵抗したのだろう、シリルの見たことのない痣が付いた脚には一筋の赤い血が伝い、体じゅうに白い粘りけのある液体が撒き散らされていた。吐瀉物だけではなく、白い汁からも海のような匂いが発せられていた。あまりにも生々しくむごたらしい姿だった。
「お母さん……」
首筋には噛まれた形跡があり、まだアルファやオメガの仕組みについてぼんやりとしか知らないシリルも、首筋を噛むという行為だけは知っていたので母が無理やり番つがいにされたのだと分かった。母が受けた暴力を思い浮かべるだけで、涙が溢れて世界が歪んでしまう。目に見える傷だけではない。罵声を浴び、脅され殴られて、それでも母は抵抗したのだ。
母の首筋の噛み跡を撫でる父が、聞き取れないほどの小さな声でつぶやく。
「この不規則な歯形は獣人のものだ。森にいると噂されている流れ者のアルファだろう。きっと強引にお母さんを番にしようと……!」
「お父さん」
シリルも母が好きだったが、父とはもっと昔から愛し合っていたのだ。母の亡骸を抱きしめ震える父から嘆きと憤りが伝わってくる。――おそらく今、父は泣いている。
「シリル、明日になったら領主様のところへ行って、お母さんを弔いたいとお願いしてきなさい」
「お父さんは?」
「お父さんは今から、お母さんを殺した奴を追う。……必ず後悔させてやる」
そう言うと、父は寝台にそうっと母を横たえ、部屋の隅に置いてあった猟銃を肩にかけて玄関へと大股で歩いて行った。釣られて追い掛けると「シリルはお母さんに付いていてあげなさい」と、ひどく優しい目で言われた。
玄関の扉をまっすぐに取り付けると、父は寒風吹きすさぶ雪世界へと一歩踏み出した。横殴りの風雪のせいで、あっという間に姿が見えなくなる。母は死に、父は仇を討ちに森の奥深くへ消えてしまった。シリルの日常は壊されてしまった。
「お父さん……」
雪が入ってくるのもそのままに、シリルは玄関の扉を開けたまま呆然と立ちつくした。
その翌日、父は森の奥で喉を喰い千切られた姿で発見された。母に付けられた歯形と一致したことから、犯人は同一の獣人だろう、と葬式のあいだじゅう大人たちが囁いていた。
それから暫くして大勢が集められ山狩りが行われたが、アルファの獣人――おそらく狼型と思われる――の行方は見付からず、三日後打ち切られた。
(アルファの狼型獣人……! 僕がきっと、お父さんとお母さんを殺した奴を見付けてやる)
母を嬲り殺したように残酷な方法で痛めつけ、父を殺したように喉笛を掻き切って殺してやる。父の亡骸を確認したとき、シリルはそう誓った。
シリルは一人で生きて行くのだと、今まで通り山菜やキノコを摘み、慣れない料理をして過ごした。だが、家に一人でいると、死んだ母が使っていた食器や櫛が目に入ってくる。むごい殺されかたをした母の姿を毎晩のように夢に見てしまう。ときには両親を亡くした悲しみで、胸が張り裂けそうになって声を上げて泣き叫んだこともあった。そんな日々が五日ほど過ぎ、朝洗面所で鏡を見ると、笑えるほど目の下が真っ黒で、生気のない姿が映っていた。
「ふ、ふふ……」
ひどい姿だと自分でもおかしくなった。同時に、こんな目に遭うのは自分一人で充分だと思った。森に潜む狼型獣人を、一刻も早く見つけ出し殺さねば。父の遺品である猟銃に、まだ弾丸が残っていることを確かめるとそれを背負い、玄関へと向かった。父があんなに軽々と持っていた銃は、子供のシリルにはずしりと重く感じられる。扉を開けようとしたとき、ノックがされた。
「マイヤーさんのおうちだね。私はシュレンジャー。領地の管理人をしている。この度は大変な目に遭ったと聞き、お悔やみ申し上げる」
豹の頭を持つ獣人が沈痛な表情で礼をする。アルファを仕留めに行くのだと意気込んでいたシリルは、すっかり出鼻をくじかれてしまった。
「ど、どうも」
「シリル君、この一週間ひとりでつらかっただろう。ここは領地の中でも、子供一人では暮らしにくくて危ないところだ。きみのことが領主様の耳にも届いて、ひどく心配されてね。きみを育てる家庭を募られたんだ。私の家で暮らさないかい?」
灰色のマントを被り、管理人の証であるバッヂを胸に付けている獣人を観察する。感情を抑えた声は信用出来そうだと思えた。
「おじさんの家に……? でも、僕」
背中の銃が一段と重くなった気がする。獣人のアルファを探しに行かなければいけない。今いる森よりもっと奥深くに潜んでいる悪党を裁かねば。
「おじさんはアルファですか。おうちにアルファの人はいますか……?」
「いいや? 私はベータだし、家内も同じだ。子供が一人いるが、まだどちらか分からない。……銃を背負っているね。もしかして、今からご両親の仇を討ちに行くところだった?」
「……っ!」
「悪いことは言わない、やめた方がいい。武器を持った大人が森に入ったが何人も殺されている。ひどく凶暴なアルファらしい」
「でも、ここにいるとお母さんが殺された時を思い出してしまうんです。あいつがいなくなるまで、僕は安心して眠れない」
「きみはご両親に守られ生き残った。きみが大きくなれば、その分犯人に勝てるチャンスが増える。きみが大人になるまで、私たちと一緒に暮らして獣人の弱点を探るといい」
「弱点……」
そんなことを言う獣人に初めて会った。自らの弱みを晒すなんて。
豹型の獣人がしゃがみ込み、シリルと同じ目線になる。近くで見る豹人の瞳は澄んだ薄水色で、よく晴れた空のようだと思った。
「私の子供は獣人だが、歳はきみと同じくらいでね。まるで自分の子が毎晩眠れずに思い余って、仇討ちに行くように見えて放っておけないんだ。銃はしばらく預からせてほしい。きみのような幼い子供が持っていると、殺伐としてつらいんだ。シリル君、私の家は森の入口にあって、領主様の城にも近い。きみが大きくなるまでのあいだだけでいい、一緒に暮らさないか?」
ふわふわとした毛並みを持った右手が遠慮がちに差し出される。シリルはその手を取った。それが今日の昼間の出来事だった。
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