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1巻

1-3

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 アンブローズが現れなければ、手にしたであろう地位を失わなければ。
 ――断罪されなければ。
 かつて見た〝夢〟は実現していた。

「あの方が全てを手に入れる時、その隣にいるのはきっと俺じゃない」

 その言葉に、はっとダグラスは顔を上げる。少しの困惑を表情に乗せながら、言葉に込められた真意を探ろうと目を細めている。

「エリック様の想い人――〝彼〟をご存知ですか?」
「あ、ああ、勿論。……こんな事を君の前で言うのもなんだが、〝彼〟は王宮でも有名だから」
「ふ、遠慮しなくても大丈夫です。俺が彼に何をしたかもう聞いているのでしょう」

 本来であれば、高位貴族である俺が、たかが平民に何をしようと罪に問われる事はない。この国の身分制度と言うのは、それほどまでに差がある。
 例えば貴族の乗った馬車で平民を轢いたとする。この場合原因は平民側にあるとされ、貴族が罪を負う事はない。平民の命というのはそれほどまでに軽いのだ。
 それに比べ、俺がアンブローズにしたことと言えば王宮ですれ違いざま嫌味を言ったり、敵対心を持っている貴族をさりげなく操ったりした程度だ。その際多少命の危機や貞操の危機はあったかもしれないが、本来であればさして大事になるようなことでは無いのだ。
 それでも断罪イベントが起こるのは、ひとえにアンブローズが第一王子に愛されているからだ。
 これがアンブローズではなくただの平民だったら、そんな展開にはならない。記憶を取り戻す前の俺が匙加減を見誤ったのも無理はないのだ。
 王に継ぐ権力を以ってして、俺は裁かれる。
 だからこそ俺にとって一番都合が悪いのは、アンブローズが第一王子エリックのルートを正しく突き進んでいるという事。
 断罪イベントを成功させるには、何より第一王子の好感度が影響してくる。その点で言えば彼はこの上なく条件を満たしていた。俺が断罪イベントを避けられないと考えるのはこの理由が大きい。

「でもダグラス様。俺はそこまで彼に非道な行いをしましたか?」
「……」

 ダグラスは答えない。
 もしこれがダグラスルートであれば話は変わったかもしれないが、彼にとってアンブローズは兄である第一王子の恋人、そして〝元〟想い人と言ったところだ。アンブローズに強く惹かれていたのは過去の話。今は失恋のほろ苦い感情に胸を少し痛める程度だろう。
 そこにこの国の身分のあり方を否定するほど強い感情は存在しない。
 俺の立ち位置を考えるだけの理性がダグラスの頭には残っている。
 正妃としての教育を受け、第一王子の婚約者として生きてきた。その立場をたかが平民に奪われる。
 受けた屈辱は、こうして記憶を取り戻した今でも失われてはいない。
 俺が悪役だから、アンブローズの略奪行為は許されて然るべきなのか?
 いいや、そんなはずはない。

「エリック様は彼の明るく優しいところに惹かれたと聞きます。現にダグラス様も彼の事を憎からず思っていらっしゃった」
「それは、」
「ええ、過去のことでしょう。ねえ、ダグラス様、エリック様やあなたの言う彼の優しさって何ですか?」

 明るく、優しく、逆境に負けない強い心を持つ主人公アンブローズ。彼の優しさの根底にあるもの。それをあなた方は本当の意味で理解していない。

「明日、時間を頂けませんか?」

 それをダグラス、あんたが受け入れられるのであれば諦めもつくだろう。
 もしそうでないなら――、俺に最後まで利用されてくれ。きっと上手く、操ってみせるから。




   四日目


 その日の早朝、ブランドンは予定通り馬車を届けに来た。求めた通り、使い古した小ぶりの馬車だ。
 これなら目立たず街に馴染むことができるだろう。
 俺は一通り馬車の様子を確認すると、ブランドンを屋敷の中へと招き入れた。
 王宮勤めに推薦した使用人以外は全て実家へと帰らせているため、従者に紅茶を淹れるよう命じる。普段従者に紅茶を準備させる機会は殆どないが、一通りの仕事は仕込ませている為客人に振る舞う分にも問題はない。元来器用な質なのだろう。教えられた内容を吸収するのにそう時間はかからなかった。
 紅茶にミルクを溶かし、一口飲む。まろやかな口当たりにほっと息を吐き、ソーサーへカップを置いてからブランドンへと視線を向ける。
 俺は改めて仕事の早い商人へ賛美の言葉を送った。

「さすがだブランドン」
「お褒めいただき光栄です。ユリシーズ様にご納得いただけたようで幸いです」

 恭しく礼を取ると、ブランドンは徐に懐へ手を伸ばす。彼が取り出したのは、先日貸した精霊石の入った箱だ。

「こちらもお返し致します」
「ああ、確かに受け取った。何事もなく何よりだ」

 俺は箱を受け取ると鍵を開け中を確認する。そこには渡す前と同じように精霊石が鎮座していた。

「そういえば精霊石と言えば、こんな逸話があるそうですよ」
「ふむ?」

 ある少女は河原で一つの石を拾った。
 傍目には何の変哲もない石だったが、少女にはそれがとても特別なものに見えた。少女は石をポケットへしまいいつものように神殿へ祈りに行った。その帰りに少女は貴族の馬車に轢かれたが、何故かその身は傷一つなく無事だった。そして馬車に乗っていた貴族の男性に見初められ、少女はその男性の妻となりその後幸せに暮らしたと言う。
 その際ポケットへしまっていた石は、まるで身代わりになったかのように砕けていた。

「なるほど、ありがちだな。平民の娘が好きそうな話だ」

 よくあるシンデレラストーリーというやつだろう。現実にはそう簡単に身分差など翻らないが、ここで話に水を差すのも無粋というもの。ブランドンも分かっているのだろう、こくりと頷くと精霊石へ視線を向ける。

「それでブランドン、お前は俺に何が言いたい?」
「ええ、精霊石の逸話というと大体が今申し上げたように持ち主の身代わりになる話が多いんですが」
「そうだな。この精霊石を父が購入した時も、その類の話を真に受け良い値で買い取ったと聞く」

 身代わりになるはずの精霊石は、父の命が脅かされようとその身を砕く事はなかったが。こうして俺の手元に残っているのが何よりの証拠である。

「そう、そこが私も気になっておりまして。誠に勝手ながら精霊石に関して詳しい者に話を聞いて参りました」
「ほう、それで?」
「こちらは確かに精霊石だと。その者が言うに、どうやら精霊石には発動条件があるらしいのです」

 曰く精霊石は必ずしも持ち主の身を守る事はないらしい。
 精霊石は精霊が石に眠っている状態のものを言う。発動するには精霊を起こすほどの衝撃がなければならないとの事だ。
 例えば馬車に轢かれる。例えば高いところから落ちる。例えば落雷に打たれる。
 石そのものに対して衝撃が与えられた時、精霊が目覚めその拍子に我々が〝奇跡〟と称する事象が発生する。

「なるほど? 確かに父は剣に切られ殺された。つまりブランドンの言う精霊が目覚めるほどの衝撃とやらが無かった、というわけだ」
「そうなりますね、残念ですが」

 そうなるとゲームの断罪イベントで特に精霊石がアクションを起こさなかった事にも説明がつく。悪役だから、ではなく、条件が当てはまらなかったから、だったのだ。精霊石の使い所は随分限定的だが、それでも条件さえあえば俺に対してもきちんと効果を齎してくれると言うわけだ。
 これは馬車以上に有用な情報かもしれない。
 渇いた喉を紅茶で潤し、一息つく。

「父のことは気にしていない。それにしてもブランドン、よく短期間に精霊石のことまで調べたな。発動条件があるなど初耳だった」
「恥ずかしながら私も初めて知りました。精霊石について調べている専門家はあまりそういった事を話したがらないので。……それにこう言ってはなんですが、謎を秘めて神秘的な方が精霊石としての付加価値は上がりますしね」
「ふ、随分素直な言い分だな」
「……あなたは俺に商人としての信頼を預けて下さった。建前が不要な時は本音で話したいのです」
「本音、か」

 俺は顎に手を当て考えるそぶりをする。
 精霊石の件が思った以上に彼の自尊心を満たしたらしい。ブランドンは商人である己に確固たるプライドを持っているし、俺もそれに見合った能力を彼は有していると思う。
 商人としての顔の広さ、話術。そして何より価値あるものを見出す正確な目利き。

「少し聞いても良いだろうか」
「はい?」
「エリック様は何を買った? ……いや、買っているが正しいか」

 その言葉に、ブランドンは浮かべた笑顔を強張らせた。彼にとって聞かれたくない事だったらしい。

「俺の予想だと、贈り物用の宝飾類をいくつか購入しているはずだ」

 第一王子エリックからアンブローズへのプレゼントだ。ゲームでのアンブローズと同様、意外にも彼は宝飾類に興味がない。高価な宝石も安っぽい硝子も彼にとって価値は等しい。
 自分を飾り立てるくらいなら美味しい食事を大切な人と共に食べたい。そんな考えをする少年なのだ。
 だからブランドンから宝飾類を買ったのは、第一王子がただ貢ぎたかったからに過ぎない。それらをアンブローズがどうしようと、第一王子にとっては興味の外というわけだ。

「さぞかし誇りを傷つけられた事だろう」
「っ!」

 ブランドンの扱う宝飾類は、俺も好んで購入していたからその価値がよく分かる。指輪一つとっても計算され尽くしカットされた宝石は言わずもがな、台座でさえ精緻な細工と意匠が凝らされているのが一眼で分かる。
 第一王子とて、だからこそ愛しい彼に相応しい宝飾品をと選んだに違いない。贈られたそれらは文句なしの一級品だったのだろう。
 その価値を理解しなかったのは、贈られたアンブローズのみ。平民であるが故、宝飾類に興味が無かったが故に。

「私は……商人です。お客様の望む通りのものを売る。そしてその商品の価値が損なわれる事があってはならない。しかし彼は……」
「贈り物を売り払ったのだな」
「……ああ! その通りです」

 ゲームでは、第一王子ルートのアンブローズはスラムで炊き出しを行ったり神殿へ少なくない寄付を行なったりしていた。その金がどこから出てくるか敢えて書かれてはいなかったが、今なら分かる。
 第一王子に贈られた宝飾類を換金していたのだ。その事実を第一王子は頓着しない。彼にとって重要なのは、自分が贈り物をしたという事実だけだからだ。
 身に余る高価なそれらで自身を飾り立てるより、アンブローズは〝善行〟を選んだ。
 それが悪いとは思わない。
 平民である彼は金を持たず、施しを与えようにも実現できなかった。自分のやりたい事の為に、第一王子に金をねだることも気が引けたのだろう。そのための資金を得る為、宝飾品を金に換えた。それだけだ。
 ブランドンもそこは理解しているのだろう。きっと彼は自分の売った商品が転売されようと、〝それだけ〟ならそこまで気にならなかった。

「私は目利きには自信があります。〝あれ〟はあんな値段で買い叩かれて良い品では無かった!」

 問題は価値に見合った取引が行われなかった事。
 実際その品を見たわけではないが、あの王子が愛する相手に安物を与えるわけがない。アンブローズに贈られた品はどれも一級品だったはずだ。
 しかし彼と取引したであろう商人はアンブローズがその価値を理解しない事で必要以上に安く買い取った。もしまっとうな額で取引が行われていれば、炊き出しや寄付を行った程度なら一つ売れば釣りが出るほどに。

「王族相手に商売ができるなんて、この上なく光栄です。でも、これ以上は耐えられない」
「……ブランドン、お前は優秀な商人だと思っている。俺は可能であれば今後も付き合いを続けたい」
「ええ、ええ。それは私の方こそお願いしたいぐらいです」
「だがそれは叶わないだろう」

 ブランドンはその言葉にぴたりと動きを止める。言葉を吟味するように眉間へ手を当てた後、閉じていた瞼を開きこちらを見やる。

「それは……エリック殿下が関わっていらっしゃるので?」

 断罪イベントが起こった場合、俺はおそらく全ての地位を取り上げられ流刑に処される。流される先が鉱山になるか、はたまたとんでもなく遠い田舎になるかは分からない。
 それでも分かるのは、王侯貴族を相手に商売をする彼にそんな場所へ来てくれとは言えないという事だ。
 しかしこの未来を、俺は誰かに話す気はない。

「ああ。エリック様はおそらく正妃の座にアンブローズ殿を据えるつもりだろう」

 ある程度予想はしていたのだろう。ブランドンは頭痛を堪えるような表情を浮かべながらも、彼が取り乱すことはなかった。

「ユリシーズ様、それはさすがに……現実的にあなたを差し置いて平民である彼を正妃に据える事が可能かと言うと」
「普通に考えれば不可能だな。せいぜい側妃と言ったところか」

 ブランドンの指摘は正しい。
 しかし〝現実的に考えて〟という大前提自体が間違っているとしたら?
 このゲームの世界の強制力がどれほどのものか、記憶を取り戻した俺には分からない。
 分かるのはアンブローズを愛する第一王子が、彼を傷つけた俺を決して許しはしないだろうと言う事くらいだ。

「だがお前も知っているだろう、俺がエリック様にどう思われているか。そしてアンブローズ殿への寵愛がどれほどのものか」
「それは……」
「婚約者でありながら、正妃の座につかずに終わる我が身が、今後どうなるかは俺自身にも分からない。ただ願わくは、お前との関係がこの先も良好であれば良いと思っている」

 自嘲の笑みを浮かべれば、ブランドンの瞳が苦悩に揺らぐ。
 俺の描くシナリオの先に、ブランドンの協力は不可欠だ。だが全てを失った後の俺とまっとうに商売が続けられるほど、王家御用達である商人の名は安くない。例え商人としてのプライドを貶められようと、王子の寵を一身に受けるアンブローズと貴族としての価値さえ失うだろうユリシーズ、ふたつを天秤にかけどちらに傾くかなど火を見るより明らかだ。
 だからこそその天秤を、一度取り払わなければならない。

「……ただの戯言だ。さあ、この後も取引が入ってるのだろう。こんな所で油を売っている暇はないぞ」
「……それこそご冗談を。あなたとの時間に無駄なことなど一秒たりともありませんよ」
「商売人らしいリップサービスだが、俺にそれは不要だ。お前とは生産的な時間を過ごしたい」

 俺はソファから腰を上げると、後ろで控えていた従者に視線を向ける。従者は正しく視線の意味を捉えたのだろう、ラックにかけていた上着を持って来た。ブランドンはそれを受け取ると、しばし逡巡してから俺へと向き直る。

「……ユリシーズ様、あなたの言う〝戯言〟ですが……答えに時間を頂きたい」

 彼の沈痛な面持ちに合わせるよう、俺は神妙に頷いてみせた。
 ブランドンを見送り、再び俺はソファへ腰を下ろしていた。
 行儀が悪いと知りつつ、柔らかいソファの背もたれへと背中を落ち着けた。仰ぎみれば繊細な意匠の凝らされた天井が目に入る。来客用の部屋だけあり、他よりこの部屋は豪奢な造りをしている。思考を妨げるそれらが今は若干疎ましく、逃げるように瞼を閉じた。
 思い起こされるのは前世の自分だ。
 日本と呼ばれる平和な国で、平凡な大学生だった己の姿。仲の良い家族に程よい距離感の友人達。部活は部員数ギリギリの写真部だった。直近の記憶では確か学祭を控えていたのだったか。長袖の学生が増え出し、空気がほんのり冷たくなる季節。
 学祭ではクレープを売ることに決まって、せっかくだから部員の撮影した写真を壁一面に飾ることになったのだ。
 確かその日は、部員達とクレープを焼く練習をしていて遅い時間になったのだ。甘い生クリームに胸焼けを起こし、しばらく甘いものは食べたくないと軽口を叩きながら横断歩道を渡っていた。
 信号の無い、小さな横断歩道だった。
 不意に聞こえた車のブレーキ音と叫び声。俺の記憶はそこで途切れていた。

「――ッ!」

 はっと目を開ければ見慣れた天井が視界に広がっている。
 ソファでうたた寝をしていたらしい。かけた覚えのない毛布をどかしながら、俺はポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する。寝ていたのは半刻にも満たないようで、知らず詰めていた息をほっと吐く。

「トリスタン、いるか」
「はい、こちらに」

 時間に余裕があるとは言え、第二王子との約束に遅れるわけにはいかない。従者の名を呼べば、茶器を片付けていたらしい彼はすぐに反応を返した。

「着替えの準備を。それとダグラス様の分も」
「……仰せの通りに」

 従者の返答の妙な間に、俺は首を傾ける。

「どうした、何か言いたげだな?」
「いえ、何でもありません」
「何でもないという顔ではないが」

 普段からの無表情は今も変わらないが、従者の目には明らかに戸惑いの色が見える。俺は徐に従者との距離を詰めると、頭一つ分高い位置にある彼の両頬を掌で包んだ。ぐっと力を込めれば大した抵抗もなく彼は背中を丸める。

「主人に隠し事とは感心しないな」

 鼻先が触れそうなほど顔を近づければ、尚更動揺を目に浮かべた。わざとらしく逸らされた視線が気に入らない。
 どうやら話す気はないらしい。
 頑なな態度にふと悪戯心が湧き、触れそうな距離にあった唇に己のそれを重ねた。
 逸らされていた目は驚愕に見開かれ、漸く俺の姿を映す。緑色の瞳に感情が乗り輝きを増す様は随分と愉快で、美しいその光はそれ以上に心の内を満足させた。
 発しようとしたのは拒絶の言葉か抵抗の言葉か。思わず開いたであろう唇の隙間に舌を差し込み、奥に逃げた彼の舌を絡めとる。濡れた音が静かな室内に大袈裟なほど大きく響いた。今世では初めての口付けだが、意外にも上手くいくものだ。

「ッ!」
「ん、んんっ?」

 従者の口内を好き勝手していると、微動だにしなかった彼の舌が不意に意思を持ち絡めていた舌を逆に絡め取られる。
 今度はこちらが驚く番だった。思わず顔を引こうとするが、それより早く従者の手が後頭部へ回され逃げ道を塞がれる。

「んんぅ、っふ」
「は、ユリシーズ様……!」

 名前を呼ばれ、ほんの少し唇が解放されるが、息が整うより先に再び自由を奪われる。絡め取られた舌先をじゅっと吸われると、悪寒にも似た感覚が背筋を通り抜けた。
 口内を暴れる舌はまさしく蹂躙という表現が正しいだろう。
 息も絶え絶えになる頃、ようやく唇が解放された。どちらのものとも分からない唾液が細く糸を繋ぎ、ぷつりと途切れる。俺は肩で息をしながら従者をじろりと睨め付けた。

「はぁっ、がっつきすぎだ馬鹿者。発情期の犬かお前は」
「ッ、申し訳ありません」

 従者は恐縮するように肩を縮こめると、勢いよく頭を下げた。その体勢で暫く無言の時間が続いたが、従者が一向に頭を上げる気配がない為俺は小さくため息を吐くと彼の頭を軽く叩いた。

「はあ、良いから顔を上げろ。俺に他人の頭を見ながら会話する趣味は無い」

 腰から曲げ、背筋はピンと伸ばされている。お手本のような謝罪の姿勢を崩さず、従者は頭だけを上げちらりとこちらの様子を伺ってくる。意図しているわけではないだろうが、悪事を働いた事が主人にバレた飼い犬のような態度だ。前世で飼っていた愛犬の姿を彷彿とさせ、思わずふっと頬を緩める。
 従者ははっと目を見張ると、緩慢な動作で上半身を戻した。

「やはりあなたは変わられました。数日前までのあなたであれば俺の愚行を許しはしなかったでしょう……いや、本当のあなたを俺たちが知ろうとしていなかったのか」

 従者の中で俺は何やら聖人のような扱いになっているらしい。どこか恍惚と熱に浮かされた視線を向けられ、思わず眉根を寄せる。

「本当の俺?」
「はい。あなたの振る舞いには全て意味があった」

 使用人への態度の事か、金に物を言わせ望む物を手に入れてきた事か、教会への寄付の事か、はたまたアンブローズへの振る舞いを言っているのか。
 悪事に逃げ道を用意しておいたのは自分だが、それらを穿つ事なく彼は受け止めたらしい。あまりにも実直だ。
 十年近く俺の側で従者をやっているにもかかわらず、たった数日の出来事で見方を変えるとは面白くない。
 振る舞いに意味があった?
 当然あったさ。
 俺が楽しむという理由が。
 悪役令息らしく腐った性根は、たかが前世を思い出したくらいじゃ変わらない。だから残された時間が殆どないにも関わらず俺が足掻いているのはこのまま断罪されて終わるのがつまらないからだ。

「……トリスタン。お前がどう思おうと、これまで見てきた俺が〝全て〟だ」

 言葉の意味を捉えあぐねているのか、従者は困惑した表情でこちらを見てくる。先ほどまでの熱に浮かされた視線はすっかり鳴りを潜めていた。
 それに納得し、俺はわざとらしく懐中時計を開く。時間が迫っている事を察したのか、従者は準備のため急いで部屋を出て行った。
 それからは恙無つつがなく準備を終え、ブランドンが用意した馬車へ乗り込んだ。古めかしい見た目通り椅子は固く乗り心地はお世辞にも良いとは言えない。

「ユリシーズ様、それでどちらまで?」
「五番地区だ」
「……本気なんですね」
「当然だ。本気でなければ昨日の時点でダグラス様にお声を掛けるわけがないだろう」

 硝子のはまっていない窓から手をひらひらさせ、出発を促せば従者は納得いかない表情を浮かべながらも馬に鞭をしならせた。
 馬が小さく嘶くと、ゆっくりと馬車が動き出す。軋んだ音が聞こえたが流石に壊れる事はないだろう。
 五番地区。
 俺が従者と初めて出会った場所だ。最安値の奴隷としてボロ雑巾のように売られていた死にかけを買った場所。
 この国の王都は華々しく栄えているが、少し移動すれば貧民街がある。アンブローズはその事実を憂い慈善活動を行う。
 そして五番地区では炊き出しを行うのだ。今日もアンブローズはそこにいるはずだ。

「あなたが一体何を考えているのか俺には分かりかねますが、危険だと思ったら力づくでも連れて帰りますよ」

 従者の言葉に言葉を返す事はしない。五番地区の治安の悪さなど彼が一番知っている。何せ故郷なのだから。危険がないわけがないと分かっていて、そういう事を言うのだ。
 暫く馬車を走らせれば、五番地区からほど近くの場所に一つの馬車が見えて来る。煌びやかさはないものの、貴族が平民風の馬車を用意したという風情のものだ。
 御者もおそらく騎士が扮しているのだろう。平民を意識した格好をしているのだろうが、あくまで平民風に留まっている。
 どこからどう見ても〝お忍び貴族〟の見た目だ。
 従者に声をかけ近くに停めさせると、扉が開かれる前に自分で馬車から降りる。
 従者には不満げな表情をされたが無視を決めそのまま馬車へ足を進めた。
 御者は一瞬警戒するが、すぐに俺だと気付いたのだろう。素早く馬車から降り対面する。

「ユリシーズ様、勝手な事をされては困ります」
「ふむ?」

 開口一番に随分な挨拶である。
 しかし彼の言い分はもっともだ。俺はこれからダグラスを貧民街へ連れて行くつもりだ。彼を守る立場の者からしてみれば許せるわけがない。勝手な事と称されるのも無理はない。

「いい。セドリック、僕が決めた事だ」

 不意に聞こえた声はダグラスのものだ。ダグラスはさっさと自分で扉をあけ馬車から降りる。
 王子らしからぬ振る舞いに焦ったのは御者の方だった。タラップを踏むダグラスに焦った様子で手を差し出すが、その手を取られる事はない。

「しかしダグラス様、私はやはり反対です。身分あるあなたのような方が貧民街に足を運ぶなど」
「身分ある、ね。スペアとはいえ腐っても王子、か」
「そんなスペアなどと。あなた様の尊きお身体には穢れなき王家の血が流れておいでです」

 御者の言葉に耳を貸すつもりは無いのだろう。ダグラスは御者を一瞥すると俺の方へ向き直る。

「ユリシーズ殿、昨日ぶりだな」
「ええ、ダグラス様。ところでその格好」
「ああ、似合うか?」

 ダグラスは御者と似たような格好をしていた。つまりお忍び貴族の格好だ。こんな身なりをしていては、貧民街に足を踏み入れた瞬間身ぐるみ剥がされるだろう。
 俺は従者に声をかけるとダグラス用に準備していた服をもってこさせる。

「恐れながら申し上げます。その服装では身分ある者と言っているようなものです。こちらへ着替えて下さい」
「駄目か?」
「ええ、いかにも世間知らずの坊ちゃんが平民を装っているように見えます」
「貴様、ダグラス様になんと言う事を!」

 俺は怒りに肩を震わせる御者に視線を向けると態とらしくため息を吐いてみせる。

「あなたもです。護衛ならそれなりの格好をして下さい。まったく、着替えはダグラス様の分しかありませんよ」
「なっ」

 ダグラスの護衛を側から離すわけにはいかないだろう。しかし着替えは一人分しか持ってきていない。そうなると取れる方法は限られてくるが、都合の良いことに御者の彼と俺の従者は同じくらいの体格をしている。

「仕方ない、トリスタン」
「はい、ユリシーズ様」
「お前、脱げ」
「はい?」

 俺の言葉に従者はキョトンとした表情を浮かべた。しかし俺の言いたい事が分かったのだろう。眉間に深く皺を寄せた。

「お断りします。私の服をその御者に着せるつもりでしょう。それだと今度は私があなたについて行けなくなります」
「ダグラス様の護衛をこの場に残すよりはマシだ。しのごの言わずにさっさと脱げ」
「お断りします」

 従者の意思は固いらしい。しかしこの場でどうでもいい言い合いを続ける程俺は暇じゃ無い。
 俺は指先で己の唇をそっと撫で、従者に意味深な視線を向けた。

「ああ、それとも俺に脱がして欲しいのか」
「はぁ!?」

 従者の着ているシャツのボタンへ指を伸ばし、つぅっと優しく触れて見せると従者は大袈裟に後ろへ仰け反った。
 顔を赤くしたまま御者をぎっと睨みつけると豪快に脱いだシャツを投げつけた。


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