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1巻

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「実は、レヴナント様はあまり評判が良くないみたいなの。ハートレー家の長男は不真面目で成績が悪く、使用人に当たり散らして手に負えないって。弟のことをねたんでいじめているって噂もあるわ」
「っ!? そんなことはあり得ません!」
「落ち着いて、あくまで噂よ……。でも、最近では魔法属性が闇だったこともあって、何をするか不安だって言われているわ」
「彼の属性は闇と風です。それに闇属性の適性があるってだけなら他にもたくさんいるのに……」

 お母様が申し訳なさそうな表情で俺を見る。噂にはいきどおりを感じるが、お母様は俺を心配してくれているだけだというのも分かっている。
 確かにレヴナントはアーネストほど優秀ではない。それは本人も理解しているところだが、不真面目なんてことは全くない。むしろ隈ができるほど頑張っていて、こちらが心配になるくらいだというのに……。いじめの噂に関しては、むしろ彼が家族や使用人からいじめられているような状態だ。それなのになぜそんな噂が出ているのか。噂を流した奴に会ったら、殴ってやりたい。

「あなたがレヴナント様と仲が良いのは知っているわ。きっと、レヴナント様は噂のような悪い人ではないということもね。でも、あの子と付き合っているとあなたまで悪く言われてしまうのではないかと不安なのよ」

 お母様が心配そうに瞳を揺らす。その表情に自分がそうさせているのだという罪悪感が募る。

「だから、少しレヴナント様とは距離を置いてはどうかしら。少なくとも、学院で彼の実際の姿を確かめるまでは関わるのを控えてほしいの」

 その言葉に俺は体を強張らせた。お母様は、確かに自分を心配してくれているのだろう。だが、あの親友にはこんな風に心配してくれる人もいないのに。自分が離れたら誰もいなくなってしまうのではないか……。そう考えたら、母の言葉に頷くことはできなかった。

「お母様……レヴナントは噂のような人間ではありません。俺は彼をよく知っています。彼は努力家で、純粋で……。だから、彼とは今後も今まで通り付き合っていきたいです」

 そう答えると、今まで黙っていたお父様が口を挟んだ。

「ルエリ、母親をあまり心配させるものではない。そもそも、よく知っていると言っても、その子に会ったのは数回だろう。お前の前でだけ良い子を演じていたのかもしれない」

 尊敬するお父様にそう言われ、絶望感が込み上げる。確かに会ったのは数回だ。でも手紙はここ数年で数え切れないほどの数に及んでいる。今では家庭の事情や悩みなども打ち明け合っている仲だ。それが演技かもしれないなど……レヴナント本人に会えばそんなこと思わないはずなのに。そう考えて食い下がるもお父様は取り合ってくれなかった。

「良いから、今は距離を置きなさい。学院に行けば嫌でも本性が分かる。……それでも仲良くしたいと思えたなら仲良くしたら良い」

 お母様はレヴナントの家での扱いを知っているから少し同情的だが、お父様はレヴナントが噂通りの奴だと決めつけているようだ。こうなると、俺は何も言えなくなってしまった。最終的に、明日出そうと思っていた手紙は没収され、レターセットも使用禁止にされた。

(ごめん、レヴナント……)

 心の中で呟いて先程聞いた噂を思い出し、不安になる。彼は大丈夫だろうか。今こそ親友として支えなければならないというのに……。学院で会ったら真っ先に謝ろう。俺はそう考えて、もやもやした気持ちのまま眠りについた。


   ◇ ◇ ◇ 


 あれから、ルエリの手紙はぱったりと途絶えた。そのことに絶望感が押し寄せる。以前はわくわくしてポストを確認しに行っていたが、今ではただ習慣となった意味のない行動を繰り返している気分だ。気落ちした僕は、もともと少なかった食事が喉を通らなくなった。なんだか生きていることさえ馬鹿らしい。誰にも必要とされていないのに、なぜ自分はここにしがみついているのだろう。髪を結っているリボンを無意識で触りながらそんなことを思う。
 唯一、アーネストだけが僕のことを気にかけて様子を見に来るが、今は彼と話すことさえおっくうになっていた。

「お兄様……何かあったのですか? 僕には何でも話してください」
「ありがとう、アーネスト。でも、何でもないから……」

 そう言うと、アーネストは心配そうな顔をしながら、ゆっくりと僕を抱きしめた。

「僕はいつだってお兄様の味方ですから。だから辛い時は頼ってください」
「……うん、ありがとう」

 彼の言葉に弱々しく答えるとアーネストは困ったみたいに笑って、僕を抱きしめる腕に力を込めた。僕はその温かさにいくらかなぐさめられて、次第に押し寄せてきた眠気に身を任せるように目を閉じた。


   ◇ ◇ ◇ 


「お兄様……」

 自分の腕の中で眠っているお兄様を見て、何とも言えない気持ちになる。お兄様が落ち込んでいるのが心配なのに、彼には僕だけなのだと思うと無性に嬉しくなってしまう。

「僕はお兄様が大好きですからね。今までも、これからも……」

 そう言ってお兄様の癖のある黒髪を撫でる。そのせいでか、腕の中で身じろいだ彼の顔を、起こしてしまっただろうかとそっと覗き込む。すると、形のよい唇とツンとした鼻が目に入り、痩せ細ってしまってもやはりお兄様は美しいと思った。それに泣いた後の赤い目元がやけに煽情的せんじょうてきで、僕は思わず喉を鳴らした。

(ずっと、このまま僕だけのお兄様でいてくれれば良いのに……)

 ルエリという友人ができた時、もやもやしたのは、彼が他の人に奪われてしまうような気がしたからだ。お兄様はこんなにも弱々しいのに、いつも優しい兄として接してくれる。それがいじらしくて愛おしくて、僕は彼のことが大好きになったのだ。

「大人になったら、僕がお兄様のことを幸せにしてみせますから」

 僕はお兄様が寝ているのを確認してそっと彼のひたいにキスを落とす。誰も大事にしないこの人を、僕が宝物みたいに扱ってあげよう。そう考えると早く大人になりたいと気がはやった。

「でも、せめてもう少し食べてくださいね。また様子を見に来ますから」

 そうして僕はお兄様をベッドに寝かせて部屋を去った。


   ◇ ◇ ◇ 


 僕はアーネストと話した後、随分長いこと眠ってしまっていたらしい。それでも、なんとか朝一番に目が覚め、ふらふらとポストを確認しに行った。どうせ今日も僕には何も届いていないのだろう……。諦めにも似た境地で確認すると、予想に反して僕ての手紙が入っている。

(ルエリからっ……!?)

 体に力が戻った僕は、その手紙の差出人を見た。そこにはウィリアム・バーネットという名前が記されていた。

「あっ……ウィル君からだ……」

 期待した人物とは違ったけれど、僕は自分ての手紙が届いていたことにいくらかホッとして部屋へと戻った。
 その手紙には変わらないウィル君の言葉がつづってあった。ルエリからの返事が途絶えた今、そんな小さなことが何よりも嬉しい。僕は、久々に生きている心地になってペンをった。

『――親愛なるウィリアム・バーネット様。お久しぶりです。お返事をいただけてとても嬉しいです。ウィル君は忙しく過ごしているのですね。僕の方は代わり映えのない日々を送っています。なのでウィル君の手紙が何よりの楽しみです。お忙しいのにいつも付き合ってくださって本当にありがとう。――レヴナント・ハートレーより』

 本当は、忙しいなら無理をして手紙を書かなくても良い、と言ってあげられたら良かったのだが、この生活にくじけてしまいそうだった僕はわらにもすがる思いでウィル君を頼った。それでも、暗い内容は避けて当たり障りのないことを書いたつもりだ。

「一体いつまで寝ているつもり? さっさと家の手伝いをなさい!」

 また手紙を忍び込ませようと服の中にしまっていると、怒気を含んだマリアの声が響いた。僕がまだ眠っていると思った彼女が起こしにやって来たようだ。

「す、すみません」

 僕は慌てて手紙を隠し、部屋を出る。

「本当にどんくさいわね。さっさと屋敷の掃除に取りかかりなさい」

 そう言って去っていった彼女の背中を見送りながら、僕は急いで掃除道具を取り出した。

(大丈夫、僕はまだやっていける……)

 ウィル君の存在に励まされた僕は、自分に言い聞かせるようにそう思った。


 それからも、ウィル君からはきちんと返事が届き続けた。虚構ばかりの手紙に一つ一つ返事をしてくれる彼に、申し訳ない気持ちになりつつもその優しさに救われる。
 しかし、回数を重ねて幼かったころの親しさを取り戻すにつれ、困ったことが起きた。それは、彼が会いに来てはどうかと誘ってくるようになったことだ。僕は会いに行きたい気持ちに駆られたけれど、マリアが僕の外出を許してくれるはずがない。それに、今の自分を見られたら、家族と上手くいっていると書き続けてきたことが嘘だとバレてしまうのではないだろうか。そう思って、今は忙しいだとか、遠くて会いに行くのは難しいだとか様々な嘘を吐いて誘いを断り続けた。そんな返事をするたびに、『レヴは忙しいんだね。体を壊さないように気を付けて。また時間ができたらいつでも遊びにおいで――』と気遣う言葉をくれる彼に申し訳ない気持ちが募る。
 いっそ、全てを打ち明けて優しい彼に頼ってしまおうかと何度も心が揺れた。それでも、もう二度とルエリの時のようなショックを受けたくなくて、踏み込むことを恐れた僕は、ついに打ち明けることができなかった。


   ◇ ◇ ◇


 そうしてウィル君からの手紙でなんとか持ちこたえ、さらに数年が経った。今年、僕たちは十六歳になる。遂に学院に入学する歳で、僕もアーネストも入学試験には無事合格済みだ。僕は相変わらずアーネストの成績に追いつけずにいたが、それでも上位二十位には入っていた。アーネストはというと、同じ年に入学する第三王子に次いで二位という優秀な成績だったので、誰も僕の順位など気にしていなかったけれど。
 そして結局、あの魔力測定の日以降、ルエリからは音沙汰がない。以前はルエリと一緒に学院生活を送ることを楽しみにしていたが、今ではむしろこんな状況で彼に会うのは気が重い。手紙が来なくなったばかりの頃は、何か事情があるのではないかと思っていたものの、流石に二年もてば、きっと落ちこぼれの僕と友達でいることが嫌になったのだろうと諦めの気持ちが勝った。
 ウィル君の手紙には随分励まされたが、食欲までは戻らなかった僕は相変わらずがりがりのままだ。最近は食欲というものを全く感じず、食事の時間を勉強にてている。あの夜聞いた両親の言葉通りなら、学院でアーネストより良い成績を取らなければ僕は伯爵家の跡継ぎでなくなってしまうだろう。僕は、跡継ぎになりたいと強く考えていたわけではなかった。それでも、今の僕の立場では、跡を継げなかった場合、家から追い出されてしまうのではと不安が募った。居心地が悪い家だったが、他に行くところなどなかった僕は、恐怖心に駆り立てられるように机に向かった。


 無意識のうちに髪を結んでいるリボンに触れる。関係が途絶えた今も、僕はまだルエリに貰ったリボンを使い続けている。だいぶ使い古されてところどころほつれが出てきていたが、それでもこれは僕の宝物だった。学院に行けばきっとルエリに会ってしまう。そうしたらどんな風に彼に接したらよいのだろう。もう彼は友人ではなくなってしまったのだと頭では理解しているが、心の底では何か事情があったのかもしれないと淡い希望を持っている自分がいる。学院でもし無視されたりなどしたら……そう考えていると、ポタリと涙が落ちた。


「お兄様? いらっしゃいますか?」

 アーネストの声がドア越しに聞こえて、慌てて涙をぬぐう。

「いるよ。どうしたの?」

 そう言ってドアを開けると、アーネストはじっと僕の顔を見つめた。泣いていたのがばれてしまっただろうか。

「いえ、お菓子を持ってきたので一緒に食べようかと!」

 彼がわざとらしく明るい声を出す。優しいアーネストのことだ、気を遣ってくれたのかもしれない。

「ありがとう、アーネスト。でもごめん……今は食欲がなくて……」

 以前なら喜んで手を付けていたそのクッキーも、今は口に入れる気になれない。アーネストは酷く心配した表情で僕の顔を覗き込む。

「……お兄様、随分痩せてしまって……もっと何か食べないと」
「心配してくれてありがとう。でも本当に食べる気がしなくてさ……」

 心配をかけているのは分かっているが、なかなか食べ物を口に入れることができない。

「あっ。じゃあ、あれなら……。少し待っていてください!」

 考え込んでいたアーネストは何かを思いついたかと思うと、急いで部屋を出ていった。
 しばらくして戻ってきた彼の手にはミルクティーのカップがあった。

「これならどうですか? 食べられないならせめて飲み物をと思ったのですが……」

 ミルクティーはお母様が好んでいたから昔は僕もよく飲んでいた。カップから漂う懐かしい香りにこれなら飲めそうだとそっと口を付ける。

「うん、おいしい……」
「良かった! 今度からはこれを持ってきますね」
「ごめんね。アーネストに気を遣わせちゃって」

 そう言うとアーネストはぶんぶんと頭を振った。

「こうして一緒にいられるのが楽しいから良いんです。むしろ、もっと頼ってほしいくらいです」

 弟に気にかけてもらっているなんて情けない。そう思いつつ「ありがとう」と返すと、アーネストは微笑んでくれた。


   ◇ ◇ ◇


 お兄様の部屋を出た後、僕はカップをキッチンへ下げ自室へと戻った。もう随分長いことお兄様の元気がなくて心配だ。このまま消えてしまったらどうしよう。そう不安になるくらい最近のお兄様ははかなげだった。
 最初はお母様のせいかと思っていたけれど、どうやら他にも原因があるらしい。というのも、お兄様の口からルエリの話題が出なくなったのだ。僕は早々にルエリとの文通を終えていたので、気づくのに時間がかかってしまったが、あんなに親しげだったお兄様からも彼の話を聞かなくなった。その原因ははっきり分からないものの、喧嘩でもしたのだろうか。お兄様はかなりルエリを好いている様子だったから、それでショックを受けたのかもしれない。
 正直なところ、お兄様に関心を持ってもらえるルエリに嫉妬していたので、喧嘩別れしてくれたのなら自分としては喜ばしいのだが、こんなにも長く元気を失ってしまうとは……。それに、お兄様は不安な時にルエリに贈られたリボンを触る。その癖はいまだ健在で、今もなお自分よりルエリが頼られているようで腹が立った。

(学院に入ったらルエリには気を付けないと……)

 喧嘩をしたのなら仲直りなどしなくても良い。お兄様には、ルエリなしで元気になってもらえば良いだけだ。でも、これ以上悪化すればお兄様が倒れてしまう。そう思った僕は、少しでも何か口に入れさせようと毎日ミルクティーを持っていった。


   ◇ ◇ ◇


 そうして、とうとう学院の入学式の日がやってきた。僕とアーネストは数日前に学院のある王都に移動しており、今日から寮生活が始まる。正門から寮の敷地に入ると、すぐに部屋割が張り出されていたので、それを確認しに行こうとしたのだが……なぜか自分が注目を集めている気がする。

(なんだか、見られてる……?)

 他の生徒たちが僕を見てヒソヒソと話をしていて、酷く居心地が悪い。どこか変なところでもあるだろうか……。そう思って、自分の姿をチェックする。ガリガリに痩せてしまって制服がダボついていることを除いては、特に変なところはない。気のせいだろうかと思い直したところで、近くでヒソヒソ話をしていた男子学生たちの声が聞こえてきた。

「あれが噂のハートレー家の長男……なんでも相当嫌な奴なんだってな」
「ああ、使用人や弟にまで暴力を振るうらしい」
「でも見た目はすごく弱そうだな。ヒョロヒョロだし」
「どうせ本人も弱いんだろ。だから自分より下の立場の人間にしかつっかからないんだよ」

 聞こえてきた言葉に、何が起きたのか分からず愕然がくぜんとする。

(なんだ、それ……今の、僕のことなのか……?)

 彼らとは接点などないはずなのに、なぜそんな風に言われるのだろうか。

「お兄様? 今なら部屋割を確認できますよ」

 呆然と立ち尽くしていたところをアーネストに声をかけられ我に返る。前を見やると、確かに部屋割の前にいた人ごみが解消されていた。

「ああ……早く確認して、荷物を置きに行こうか」

 僕はこの居心地の悪い場所から一刻も早く離れたくて、自分の部屋の場所を確認してさっさと向かおうとした。すると、後ろから誰かが追いかけてきて、僕の肩に手を置いた。

「レヴナントっ……!」

 そこには、久々に会うルエリがいた。
 僕は、突然のことに上手く反応できず、唖然としてルエリを見つめ返した。彼は、会わない間にさらにたくましくなっていた。きっと鍛えていたのだろう。自分は彼のことでショックを受けてこんなに痩せこけてしまったというのに、その差に胸が痛んだ。

「ルエリ……久しぶり……」

 僕は、どんな表情をすれば良いのか分からないままやっとのことで声を絞り出す。まさか向こうから声をかけられると思っていなかったので、どう反応すべきか分からない。

(ずっと手紙を待っていたのに)

 なぜ、返事をくれなかったのだと、ここで責めたくなるのを必死にこらえる。

「その、俺っ!」
「お兄様、早く行きましょう!」

 ルエリが何か言おうとしたが、アーネストが横からさえぎった。随分強引なその態度に驚いている間にも、アーネストは僕の手をぐいぐいと引いてルエリから引きはがす。まるで引きずられるように去っていく僕を、ルエリは呆然と見つめていた。

「アーネスト、どうしたの?」

 ルエリが見えなくなったところで、前を歩くアーネストに話しかける。さっきのはどう考えても不自然だった。そう不思議に思っていると、アーネストは僕の声にこたえるようにこちらを振り返り、じっと顔を見つめてくる。

「お兄様、ルエリのせいで落ち込んでいたんでしょう? 詳しいことは分からないですけど、お兄様をすごく落ち込ませたのに、あんな風に話しかけてくるなんて……」

 その言葉にアーネストは僕が落ち込んでいた原因の一つを知っていたのだと気付く。

「アーネスト、怒ってくれてありがとう。僕がルエリから手紙の返事が来なくて落ち込んでいたこと、知ってたんだね」
「大好きなお兄様のことですから、当然です! お兄様が話してくれなくたって分かりますよ」
「そっか……アーネストはいつも僕を気にかけてくれてたんだね」

 アーネストの言葉に嬉しさと申し訳なさが込み上げる。でも……先ほどのルエリの様子を思い出すとどうしても気になってしまう。

(ルエリから話しかけてきたってことは、やっぱり手紙の件は何か理由があったんじゃ……)

 一度は捨てた希望がまた湧いてきた僕は、アーネストには悪いけれどルエリと話がしたいと思った。

「アーネスト、ありがとうね。でも僕、ルエリが何を言おうとしていたのか気になるんだ」

 だから、話してみる。そう続けて僕はアーネストをまっすぐ見た。せっかく気を遣ってくれた彼には申し訳ないが、できることならルエリと仲直りをしたい。アーネストはなんだか苦々しい表情をしていたけれど、溜息を吐きながら僕の両手を包むように握った。

「分かりました……。でも、ルエリに傷つけられたら僕に教えてくださいね。一発殴ってやります」

 そう力強く言ったアーネストの気持ちがくすぐったくて、つい笑って返事をする。

「ふふっ、ありがとうアーネスト」
(そうだ、ルエリと話さないと……)

 たとえそれが友情の終わりになったとしても、理由を聞かなければずっとってしまう。そう思って、次に会った時にはルエリときちんと話をしようと決意した。だが、結局その日はルエリと会う機会はないまま入学式を終えることとなった。


 授業初日、アーネストとは同じクラスだったがルエリとは別のクラスだ。そのことに落胆している自分とホッとしている自分がいる。そして、偶然にも第三王子のアルフレッド殿下とも同じクラスだった。

(緊張する……)

 学院では身分は問わないとされているが、完全に平等というわけでもない。僕はあまり関わらないようにしようと思ったけれど、アーネストは既に殿下と話をしている。その様子を見ていると、ふいに殿下と目が合った。

「……ふーん、あれが噂の」

 その言葉に思わず固まる。

(まただ……)

 入学式の日に聞こえたヒソヒソ話と同様、知らないところで自分の悪い噂が流れているようだ。身に覚えのない悪意にせんりつする。そんなわけで、入学式から今まで、アーネストに話しかける生徒はいても僕に話しかける人間は一人もおらず、皆遠巻きにこちらを見るだけだ。

(まさか学院でもこんなに居心地の悪い思いをするなんて)

 いないもの同然に扱われていた家とは違って、ここでは悪い意味で注目を集めている。僕は息苦しさを感じてノートに視線を落とした。楽しみにしていた学院生活は早くも崩れ去ってしまったけれど、嘆いていても仕方ない。今のところ実害はないのだから、とにかく無事跡継ぎになれるよう勉強を頑張れば良いのだ。そう自分に言い聞かせていないとくじけてしまいそうだった。


 授業の後、荷物をまとめて寮に戻る途中、廊下にルエリがいるのが見えた。向こうもこちらに気づいたようでお互い気まずげに立ち止まる。

(今度こそ話を聞かないと……!)

 意を決して、こちらから話しかけようとする。

「ル……!」
「ルエリ!」

 ところが、横から知らない男子生徒に割り込まれ、ルエリはその生徒に連れていかれてしまった。昨日とは逆の展開に今度は自分が呆然とした。去っていくルエリと男子生徒の会話が聞こえる。

「大丈夫か? あいつになんか絡まれてない?」
「いや……何も」
「そうか、なら良かった! あんま関わらないよう気を付けろよ。気に入らないと暴力を振るう奴だって噂だ。……まあ、そこに関してはお前なら大丈夫だろうけど」
「ああ……」

 ルエリは申し訳なさそうな顔をしてこちらを振り向いたが、何も言うことなく去っていった。その態度に胸がズキッと痛む。この二日間だけで何度も耳にした自分の噂。それをルエリも信じているのだろうか。彼があの男子生徒の話を否定してくれなかったことにほんの少し傷ついて、僕は一人寮に戻った。


   ◇ ◇ ◇


 教室を出たお兄様が肩を落として帰っていくのが見える。学院の入学式の日からどうも嫌な視線を感じているが、それはどうやらお兄様への視線のようだ。自分に向けられる視線もあるけれど、それは同情や好奇心めいたものが多い。

(お兄様、大丈夫かな……)

 入学式の日、周りから陰口を叩かれていたお兄様は顔面蒼白だった。それに加えてルエリの件もあった。お兄様とは縁を切ったのかと思いきや、いきなり話しかけてくるなんて。

(もうルエリのことなんか忘れちゃえば良いのに)

 あんなに傷ついていながらもルエリと話したいと言っているお兄様にも、なんだか嫉妬にも似た感情が湧き起こってくる。それでも、ルエリに話しかけられたからか少し顔色が明るくなったお兄様を見れば、否定することはできなかった。
 ただ、ルエリと仲直りなんかしなければ良い。心の底ではそう願っていた。


 そして、今日は初めての授業のため教室へ行く。お兄様と同じクラスなのはラッキーだった。そう思っていると近くの席にいた第三王子のアルフレッド殿下に話しかけられた。

「お前、ハートレー家の次男だろ」
「はい、僕はアーネスト・ハートレーです。よろしくお願いいたします、アルフレッド殿下」
「そうかしこまらなくて良い。それより、そうか……お前が……大変だったな」

 何が大変だったのだろうか。殿下の言いたいことが分からなくて疑問符を浮かべる。

「長男から酷いいじめを受けていたと聞いている。お前の方が出来が良いから、きっと嫉妬しているんだろうってな」

 経緯は知らないが、お兄様の噂のことを言っているようだ。初めて会った時からずっと優しかったお兄様だ。僕がいじめられているなんてあり得ないのに、一体どこからそんな話が出てきたのだろう。
 そんな僕の疑問をに、アルフレッド殿下は続けた。

「これからはなるべく俺と一緒にいると良い。そうすれば、奴も下手に手を出してこないだろう」
「へっ?」

 思わず間抜けな声がれる。「誤解です」と言おうとしたところで、授業開始のため先生が黒板を叩いた。結局殿下の思い込みを解くことができないまま授業は始まり、僕はやきもきしながら授業が終わるのを待った。


 その後、殿下だけではなく他の生徒にも僕とお兄様の噂について聞いてみた。なんでもお兄様は不真面目で勉強をサボってばかり、それでいて優秀な弟を嫉妬していじめ、気に食わないことがあると家族や使用人に暴力を振るう、悪魔のような子だという噂が流れているそうだ。

(なんだそれ……)

 事実と全く違う噂に腹が立つ。でもその噂は驚くほど広まっていて、ほとんどの生徒が最低な兄と可哀想な弟という図で僕たちを見ているらしかった。そして、あの最初の授業以来、僕は意図せず殿下と行動を共にすることが増えた。

「あんな噂のようなことはされていません。お兄様は僕にとても優しくしてくださっています」

 そう言っても、殿下は「そう言わされているのだろう?」と取り合ってくれない。こんな噂の中、お兄様は大丈夫だろうか。心配に思うのに、周りが僕とお兄様が近づくことを許さなかった。


   ◇ ◇ ◇


 あれからも、僕に話しかけてくる生徒はおらず、休み時間も黙々と勉強をするのが日常になった。
 アーネストはアルフレッド殿下に気に入られているのか、いつも殿下や友達と過ごしている。僕も一人で寂しくなった時、アーネストと話したくなるのだが、大勢に囲まれている彼に話しかけることはできなかった。それに、どうやら周りにいる人間は、僕とアーネストが関わるのを阻止しているようだ。というより、アーネストを僕から守っている、といった感じか……
 その様子を見て、ため息を吐きながらノートに視線を戻す。たった一つ良かったことは、皆が遊んでいる時間も勉強を続けたおかげで、成績が上がってきたことだ。殿下と一位、二位を争っているアーネストほどではないが、十位以内の常連にはなっている。

(アーネストより上位じゃないなら、三位も百位も変わらないけど……)

 お父様の評価基準はどちらの成績が良いかなので、自分の成績が上がったところで興味は示してもらえないだろう。それでも、数字に表れるそれは、頑張りが認められたようで嬉しかった。この調子で成績が上がれば、卒業するまでにはアーネストを越えられるかもしれない。そう思ってまた教科書に目線を落とす。


 そんな生活の中で心の支えとなったのは、ウィル君の手紙だった。

『――親愛なるレヴナント・ハートレー様。入学おめでとう。レヴももう学院に通う歳になったんだね。在学期間が被らなかったのは残念だけど、学院生活を楽しんで。今度会った時に話を聞けるのを楽しみにしているよ。ウィリアム・バーネットより――』

 ウィル君は僕の入学を唯一祝ってくれた。彼の手紙を読んでいる時だけが、人とのつながりを感じられる時間だ。
 でも、最初に吐いた家族と上手くいっているという小さな嘘は、次第につじつまを合わせることができないくらい大きな嘘となっていった。学院でも、まるで青春をおうしているかのような手紙を書く。実際の僕はこんなにもみじめなのに、手紙の中の僕は優秀でたくさんの友人がいて……貴族の子息として申し分ない人生を送っていた。そんな嘘にまみれた僕を、ウィル君が褒めてくれるたびに罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。それでも彼との関係を壊したくなくて嘘を書き続けた。いつか僕がウィル君に頼らなくても立っていられるようになったら、必ず本当のことを話そう……。そう心の中で誓って……


 そして学期末。ついに今日までルエリとは話す機会を得られなかった。学院内で度々見かけても、向こうは友達と一緒のことが多く会話することは叶わなかった。何か言いたそうな顔をしているルエリと目が合うこともあったが、自分の評判を思うと人目のある場所で気軽に声をかけることはできなかった。
 一方で、成績は順調に上がり、学年七位で学期末を終えた。アーネストは相変わらず二位を維持しているので、もっと頑張る必要はあるのだが、自分の中では頑張った方だろう。この成績だけが唯一嘘を吐かずにウィル君に報告できる内容でもあった。
 そして今日から夏休みに入るため、僕は帰宅用の荷物をまとめ正門へ向かう。学院に残るという選択肢もあったが、自分一人でここに残るより、あんな家でもアーネストと一緒に帰宅した方がましな気がした。先に馬車へ乗り込んで待っていると、アルフレッド殿下と数名の友人に別れを告げているアーネストが見えた。その様子に、視線に少しだけせんぼうが混じる。

「お兄様、お待たせしました!」

 やがて別れを終えたアーネストが馬車に乗り込んできた。

「ううん。それじゃあ帰ろうか」

 そう言うと、アーネストは「はいっ」と元気に返事をしてくれる。彼の今までと変わらない反応にややホッとして馬車を出発させる。

「それにしても……お兄様とこうしてお話しするのは久しぶりですね」

 ポツリとこぼしたアーネストに、彼も噂のことを知っているのだろうと、気まずい思いで頷く。

「そうだね……アーネストの方は、学院での生活どうだった?」
「うーん、最初は戸惑いましたけど、殿下やその周りの人たちが良くしてくれるので、それなりに楽しく過ごせました。お兄様は大丈夫でしたか? あの噂……殿下たちには違うと言ったんですが、聞き入れてもらえなくて……」
「うん、周りからの視線は痛いけど、特に何かされたわけじゃないし、なんとかやってるよ」

 そう答えると、アーネストは複雑そうな顔をしたが、「そうですか」とあいまいに笑ってこの話題は終了した。

「そういえば、お兄様は成績がものすごく上がりましたよね!」

 話題を変えようとアーネストが成績の話を口にする。

「ああ、ありがとう。まだアーネストほどじゃないけどね」

 そう言って苦笑いを返すと、アーネストは「そんなことないです!」と首を振る。

「僕も負けないように頑張らなきゃ」
「今より頑張られちゃうと僕が追いつけなくなっちゃうよ。ほどほどにしてね」

 やる気を出すアーネストに、苦笑のまま本心で返す。するとアーネストも「ふふっ、簡単には越されませんよ」と笑って、久々に兄弟二人でなごやかな時間を過ごした。


 そして、家についてからは、良くも悪くも以前と同じ日々が続いた。アーネストの成績についてはマリアがものすごく誉めていたが、僕の成績については何も言われなかった。いくら成績が上がっとはいえ両親はそんなことに興味はなく、予想通りの反応とはいえ小さなため息を吐く。
 今日も学院に行く前と同様、命じられた靴磨きをせっせとこなしていた。溜まりに溜まった靴全部を丁寧に磨いていたら日が暮れそうだ。一度もかれていないであろう新品の靴はささっと拭いてこっそりクローゼットにしまう。

(これくらいならサボったことにはならないだろう)

 そう思ってとにかく数をこなしていると、不意に後ろから声をかけられた。

「お兄様……」

 のない声音だ。珍しく元気がないアーネストを不思議に思って振り返る。

「アーネスト、どうしたの?」

 彼は少し躊躇ためらう素振りを見せた後、意を決したように尋ねてきた。

「お兄様は……この家を継ぎたいと考えていますか?」

 その質問に一瞬ドキリとする。

「そう、だね……。それ以外を考えたことがなかったから、継ぎたいとは思ってるよ……」
「そうですか……」

 僕の答えにアーネストは神妙な面持ちで頷いて去っていった。一方僕はというと、アーネストがなぜあんな質問をしてきたのかが気になって、靴磨きどころではなくなっていた。

(お母様に何か言われたのかな……)

 だとしたら、さっきの質問の意図はなんだったのだろう。気になって仕方がなかったが、まずは靴磨きを終わらせなければ。そう思い作業を再開する。気もそぞろになってやった作業は、後々マリアのチェックに引っかかり、やり直しになってしまったが……


 結局、その後アーネストに質問の意図を聞いても、「気になっただけです」という以外の答えは返ってこなかった。もっと問いただしたかったが、同時に聞くのが怖いという思いもあった僕は、気まずそうにするアーネストをそれ以上問い詰めることはしなかった。
 結果、もやもやした気持ちを抱えることになったものの、その後もアーネストとの仲は変わらず、夏休みの間は時間があれば屋根裏部屋で一緒に勉強をしていた。正直アーネストにはあまり勉強を頑張ってほしくはないが、どちらかというと自分が教えてもらっている状況なので文句は言えない。今日もアーネストがこっそりれてきてくれたミルクティーを一緒に飲みながら勉強をする。

「お兄様、ここ間違ってますよ。この部分はこっちの公式だと思います」
「ああ、そうか! 解けたよ。ありがとうアーネスト」

 お礼を言うとアーネストはにっこりと笑う。彼は教えるのも上手くて、分からなかったところがどんどん解消されていくのは楽しかった。

「アーネストのおかげで、来期はもっと良い成績が取れそうだよ!」

 そんなことを口にしたら、アーネストは一瞬躊躇ためらったが「お兄様ならきっと良い成績が取れますよ」と返してくれた。


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