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5.失恋の、その先に【全1話】

1話

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■あらすじ
 「好きです」
 放課後の教室から聞こえてきた声に思わず足を止めた。告白現場に遭遇してしまった、そう思いながら入り口で隠れていると相手の声が耳に届く。どうやら親友が告白されているようだった。そして親友は告白を受け入れた。親友の春に喜ばないといけないのに、俺は素直に喜ぶことができなかった。
 ───だって俺は、親友が好きだったから。



■本編


「好きです」

 女の子の口からその言葉を聞いたのはこれが初めてだった。俺が何度も言えずに諦めた言葉を、彼女は今事も無げに口に出した。淡い色のリップでも付けているのだろうか、彼女の唇はほんのりと色付いている。そのふっくらとした形の良い唇から発せられた言葉は俺に衝撃を与えた。

「付き合って……くれませんか?」

 心臓が煩い。どくどくと大きく速く鼓動を打っている。
 俺以外にも聞こえてしまっているんじゃないかと思うほどの音だ。

「……俺で、いいの?」

 ごくりと喉が音を立てた。
 音が、止んだ。耳が全ての音を遮断したかのように、その声が聞こえた瞬間から何も聞こえなくなった。
 さっきまであんなにうるさかった心臓の音も、開いた窓から聞こえていた吹奏楽部の楽器の音も運動部の声も、何もかもが消えた。

「えっと……その、これからよろしく」
「うん!こちらこそ!」

 俺は今にも崩れそうになる足を何とか踏ん張り、ふらりとその場を立ち去った。

 さっきの可愛らしい女の子が好意を告げていたのは俺にではない。彼女の目の前に立っていた人物、俺の親友――渡瀬歩わたらせあゆむに宛てた言葉だ。本当は立ち聞きなんてするつもりはなく、委員会が終わって教室に戻ろうとした時にたまたまこの場面に遭遇しただけだった。

 俺には好きな人がいた。ずっと昔から好きだった。けれど俺はその人にどうしても想いを伝えることができずに今日という日を迎え、まさに今俺の初恋は儚く散っていったのだ。

「……うっ……」

 階段の踊り場まで来た瞬間、視界が揺れた。頬を暖かいものが伝い、リノリウムの床へとぽたりぽたりと落ちていく。ここまで頑張って歩いてきた足も限界が来ていたようで、踊り場の壁に背中を預けながらずるずると座り込んだ。

 こんなにも胸が痛くなるのなら駄目元でも伝えればよかった。たった一言、好きだと伝えれば良かったのに、俺にはそれが出来なかった。伝えた瞬間、俺と歩の関係が全て壊れてしまう事がどうしようもなく怖かったんだ。

 とめどなく溢れる涙は行き場を失ったかのように床に水溜まりを作っていく。制服の袖で擦っても擦っても止まらない。脳裏に浮かぶのは先程女の子に告白されていた歩の事ばかり。

 ――そう俺は、親友であるあいつが大好きだった。

 親友という立場を甘んじて受け入れていたのは、それが一番歩の側にいられるからという下心からだ。多分俺が歩を好きだという事は誰にもばれてはいない、と思う。いや、もし知られていたら今日までこの関係を続けられていなかっただろうから誰にも知られてはいないだろう。これは完全に秘めたる片恋だ。

 初めに言っておくと、俺は別に男が好きなわけでない。好きだった人がたまたま同性だった、ただそれだけだ。たったそれだけのことなのに、世の中には受け入れられないのだ。

 もし俺が歩に好きだと伝えれば、ほとんどが俺から離れていくだろう。クラスメイトも友達も、あいつも。離れるくらいならいっそこの気持ちを隠したままでずっと一緒にいられれば、もしあいつに彼女が出来ても親友としてそばにいられればそれでいいなんて思っていたのに、いざあいつに彼女が出来たらこの有様だ。

 座り込んだ自分の膝に頭を置いた。早く落ち着かないと誰か通るかもしれない、そう思いながらも俺は立てずにいる。自分が思っている以上にショックを受けているのだろう。立てる気がしなかった。

「……藍沢あいさわ?」

 誰かが呼ぶ声が聞こえた気がして、のろのろと重い頭を少し上げる。どれだけ脱力していたのかわからないが、乳白色だった床はいつの間にか赤く照らされていた。床に視線を向けたままでいると何かが肩に触れ、もう一度呼ばれる。

「藍沢」
「……伊南いなみ?」

 視線を少し上げるとクラスメイトの伊南俊(いなみしゅん)がそこにいた。俺はクラスの人気者であるこいつが少し苦手だった。恐らく相手もあまりこちらの事を好いてはいないだろうと思っていたのに、肩に置かれた手は温かく、目の前の伊南の目はどこまでも優しくて俺は戸惑った。
 
「大丈夫か?保健室行くか?」
「……大丈夫……じゃあ、僕帰るから」

 差し伸べられた手に、俺は緩慢な動きで頭を横に振ってふらつきながらも一人で立ち上がった。折角手を出してくれたのに申し訳ないと思わないでもないが、兎に角今はそっとしておいてほしかった。

「ちょっ、ちょっと待てって!」

 早くその場を立ち去りたくて、伊南に背を向ける。未だ震えている足を叱咤し、何とかその場から去ろうと一歩踏み出した瞬間だった。

「……藍沢っ!!」
「あっ……」

 突然かくんと視界が一段下がった。ふわりと浮いた身体に、階段を踏み外したのだと理解した時、俺はすぐに来るであろう衝撃と痛みにぎゅっと目を閉じる。

 ――だが、いつまで待っても痛みは来なかった。

「いっ……てえ……」

 耳のすぐ横からそんな声がした。痛みがないどころか、身体全体が温かな何かに包まれている。

 恐る恐る目を開けると目の前は真っ暗だった。無意識に止めていた呼吸を再開すれば、途端に優しい香りが鼻腔をくすぐった。

「……藍沢、大丈夫か?」

 そう声を掛けられ、俺は顔を上げた。

「……いな、み……?」
「怪我はないか?どこか痛いところとか……」

 俺の脳は思考を停止しているらしく、茫然と目の前の顔を見ることしかできなかった。心配そうに顔を覗き込んでくる伊南の目には間抜け顔の俺の顔が映っている。あたりをゆっくりと見回し、ここが階段の途中であることを認識した瞬間、さあっと血の気が引いた。

「えっ……おれ、いま……っ」
「いやあ、間に合って良かった」
「いなみ、なんで……」

 先程とは別の意味でどっどっと大きな音を立てる心臓。今更ながら恐怖が襲ってきたらしく、俺の口からは辿々しい言葉が漏れていくばかりだ。

「藍沢は怪我、ないか?」

 俺は大丈夫だ、伊南の方が大丈夫じゃないだろ。
 そう言いたいのに、声が出ない。代わりに俺の視界が歪み、ぽろりと涙が溢れた。一度決壊すると今度はぽろぽろと幾つも涙は溢れ、頬を伝い、俺と伊南の制服を濡らしていく。

「ちょ、藍沢?どこか痛いのか?」
「ちが、う」
「あー怖かったよな……もう大丈夫だ。大丈夫だから」

 よしよしと頭を優しく撫でる伊南の手は温かい。いきなり泣き出した同い年の男なんて気持ち悪いだけだろうに、伊南は俺が落ち着くまでずっと撫で続けた。

 少しして落ち着いた俺は伊南の姿を見て息を呑んだ。捲れたシャツから覗く脇腹は赤黒く変色していたのだ。他にも足首が腫れていたり、肩を抑えていたりと、満身創痍な様子に再び血の気が引く。慌てて保健室に向かおうとする俺に、何故か伊南は嬉しそうに笑っていた。

 肩を貸しながら歩くこと数分、漸く着いた保健室に安堵しながら扉に手を掛けようとした時、扉が勝手に開いた。驚いて一歩下がると、保健室から出てきたのは養護教諭だった。

「あら!その怪我どうしたの!?」
「階段から落ちました」
「えっ!?階段から?!」

 驚く養護教諭に伊南は淡々と告げ、案内された保健室内の椅子に腰掛けた。怪我の具合を見るためにシャツを脱ぐよう指示され、手際よく脱いでいく伊南。先程見えた脇腹が痛々しい色をしていて、思わず俺たちは息を呑んだ。さらには俺を受け止める時に打ったらしい背中もそれはもう痛そうな色をしていた。

 階段から落ちたということで念の為病院に行くことになり、俺は感謝の気持ちを満足に伝えられないまま一人帰ることになった。ありがとう、その言葉を言えないまま、伊南と養護教諭と別れた俺は一人帰路に着いた。

 家に帰った俺の頭は、あれだけショックを受けていた告白のことではなく、伊南のことでいっぱいだった。怪我は大丈夫だろうか、そもそもなんであの場所に来たのか、なんであんなに優しいのだろうか。そんな疑問ばかりが頭に浮かんでいく。連絡先も知らないので、疑問を投げかけることは勿論、怪我の具合を聞くことも今日のお礼を言うことすらできないのが何とももどかしい。

(……明日、聞くしかないよなあ)

 連絡手段がない今、俺に出来ることは明日を待つくらいか。そう思いながらスマホを片手にベッドに入ると、何やらメッセージが届いていた。

「……っ」

 心臓が跳ねた。
 宛先を見ただけで俺の心臓は大きく鼓動し、頭は警鐘を鳴らす。今の今まで忘れていたというのに、何故俺はスマホを見てしまったのだろうか。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

「……あゆ、む」

 それは歩からのメッセージだった。
 念願の彼女が出来たという報告と、明日からの昼食は彼女と一緒なので俺とは食べられないという幸せオーラ漂う内容である。送られてくるスタンプにはどれもハートマークが付いており、第三者から見ればそれはそれは微笑ましいに違いない。ただ恋に敗れた俺にはかなり堪える内容だった。

 完全に敗れた恋。
 伝えられなかった恋。
 始まる前に終わってしまった、恋。

 俺の目からは俺の意思とは関係なくまた涙が溢れ出る。涙で視界が滲む中、なんとかスタンプ一つ返し、俺は枕に突っ伏した。掛け布団を頭まで被り、目をぎゅっと閉じる。今はもう何も見たくなかった。

 気付けば朝になっていて、俺は重い足取りで学校へと向かった。あんなに泣いたのはいつぶりだろうか。目も腫れぼったい気がするし、何より頭が重い。今日は休むべきだったか、そう何度も考えたがその度に伊南のことが頭に思い浮かんだ。伊南の怪我は俺のせいなんだからちゃんとお礼をして謝らなければ、その一心で重くなる足を引きずりながらでもここまで来ることができたのだ。

 教室の扉の前に立ち、二度深呼吸をする。取手に手を掛け、覚悟を決めてがらりと横に引けばクラスメイト達が一斉にこちらを見た。緊張からか、喉がこくりと音を立てる。しかしそれも一瞬のことですぐにクラスメイト達の視線は逸れ、元の喧騒が戻った。後から思えば、緊張で思った以上に扉を力強く引いてしまい、予想外の大きな音に驚いてこちらに視線を向けたらしい。しかしこの時の俺にはそんなことを思う余裕なんてなかった。

 あの人気者の伊南を怪我させた悪い奴だと思われているのではないか、そう瞬時に頭が判断してしまったのだ。

 本来なら悪意も何もないはずの視線にも悪意を感じてしまい、俺は足が竦んで教室の出入り口から動けなくなってしまった。額からは汗が一筋流れ、頭のてっぺんから一気に血液が下がったのを感じる。あとかうとか言葉にならない声が口から漏れるだけで、その場から一歩も動くことができなかった。

「どうしたんだ?そんなところに突っ立って……藍沢?」

 背後から掛けられた声にびくりと肩が跳ねた。

「……いなみ」

 まるで氷のようだった身体は、その声が誰のものかを理解した瞬間、溶けていった。指どころか指先すら動かせなかった状態だったにも関わらず、だ。

「おはよ」
「あ……おはよ」

 笑顔での挨拶に、反射的に挨拶を返す。
 昨日のお礼も謝罪も怪我の具合も、色々言いたいことがあったはずなのに本人を目の前にすると頭が真っ白になり、金魚のように口がぱくぱくと開閉するだけで何も発することが出来ない。

 (ま、まずはお礼、言わなきゃ……)

「あ、あの」
「藍沢は怪我なかったか?」
「えっ?あ、うん、大丈夫。……伊南が、助けてくれたから……ありがとう」
「ああ、藍沢に怪我がなくて良かった」

 爽やかな笑顔が眩しい。自分の方が怪我をしているというのに、そんなことはおくびにも出さずに俺の心配ばかりしてくれる。クラスメイトなのに、こんなにも優しい奴だったなんて知らなかった。クラスの人気者である理由にも納得できるというものだ。

「その……伊南は怪我、大丈夫か?昨日痛そうだったけど……」
「ん?ああ、大丈夫大丈夫。ちょっと打っただけだから心配すんな」

 ちょっと打っただけなんてそんなことあるはずないのに、伊南は笑ってそう言う。実際制服のスラックスから覗く足首には白い包帯が巻かれているし、白いシャツからは少しだけ包帯がのぞいていた。俺は堪らなくなって、伊南にごめんと謝った。謝って許されることではないが、それでも謝りたかった。そしてせめてもの償いに、怪我が治るまで何かと不便なこともあるだろうから手伝いをさせてほしいと頼むと、伊南は驚いた表情で俺を見た。

「……本当に、いいのか?」

 勿論だと頷けば、今まで見たことのない綺麗な笑みが返ってきて、何故か鼓動が速くなった。

 授業中はただ座っているだけなので出来れば昼休みと放課後に手伝って欲しいという伊南の希望により、手伝いは本日の昼休みからとなった。
 そう言えば今日から歩は彼女と食べるんだったかと思い出し、気分が少し沈む。歩とはクラスが一緒だったが、今日は出来立ての彼女のもとに休憩の度に通っていたので話すこともなくて少しだけ気が紛れた。
 ただいつもとは違ってやたらと伊南と視線が合うような気がしたが、俺が気にしているからそう感じるだけだったのかもしれない。

 昼休憩になり伊南のところに行くと、伊南は俺に鍵を一つ見せてきた。一つ上の階にある空き教室の鍵らしい。どうして持っているのかはわからなかったが、俺は伊南に方を貸しながらその空き教室へと向かった。

「ふう……ありがとな」
「……ここは?」
「俺、実は吹奏楽部員でさ、毎日この空き教室で練習してるんだ。ここ使うの俺だけだし、顧問の先生に頼んでここの鍵を貸してもらってて……たまにこうやって昼飯食べに来てる」

 このことは内緒な、と伊南は悪戯げに笑う。
 伊南が吹奏楽部に所属していたというのは初耳だった。いや初耳というより、今まで人気者だからという偏見だけで苦手意識を持っていたので知ろうともしていなかっただけなのだろう。今になって思えば、勝手に遠い存在として勝手に苦手という壁を作っていたのは俺だけだった。

 教室の後ろの方に寄せられている机や椅子から机一台と椅子を二脚取り出し、それぞれに腰を下ろしてお弁当を広げる。いつも歩と食べていたのに、なんだか不思議な気分だ。

 そう言えば、と俺は口を開く。

「……昨日はなんであそこに来たんだ?」

 昨日俺がいた踊り場は、放課後にはあまり人が通らない場所だったはずだ。この校舎には二つの階段があり、一つは昇降口に繋がり、もう一つは昇降口とは別の場所に繋がっている。昇降口とは別の場所に繋がっている階段は、主に移動教室の時に使用されているので放課後に利用する生徒はほとんどいない。あの時も敢えてその利用されにくい方を選んだというのに、伊南は来た。

「……知りたい?」

 伊南の言葉にこくりと頷く。困ったように笑いながらお弁当の卵焼きを食べ、咀嚼をしてからごくりと飲み込み、伊南は話し始めた。

「一つはここに来るため。もう一つは……」

 そう言ってから伊南は目を伏せた。長いまつ毛が顔に影を落とす。言いづらいなら言わなくても……そう言おうとした時、伊南は再び口を開いた。

「藍沢が泣いてると思ったから」

 かちゃん、と音がした。それは俺の手から滑り落ちた箸は机に一度当たり、その後床に転がっていった音だった。

 ……俺が、泣いていると思ったから?

「なんで……」

 なんでそう思ったんだ?あの踊り場に行くまでは泣いていなかったはずなのに。

 そんな俺の心を知ってか知らずか、目の前の彼は目元を緩ませて俺の顔をまっすぐ見てくる。

「……ずっと見てきたからわかるよ。もうずっと、俺は君を見てきた。だから知ってる。藍沢が……渡瀬を好きだったこと」
「……っ」

 誰にも気付かれていないと思っていた。まさか俺の気持ちに気付いている俺以外の人間がいるなんて思わなかった。それじゃあ俺が今まで隠してきたこの気持ちはなんだったのだろう。本人にも告げることもできず、なにも始まらずに終わった恋――それはなんだったのだろうか。

 俺の顔が歪んだことに気づいたのか、伊南は焦ったように俺以外にはばれていないと思うと言い繕っていたが、そうじゃない。……そうじゃ、ないんだ。

「……俺は……どうすれば良かったんだろうな」
「藍沢……」

 真っ直ぐに目を見るのが怖くて、俺は視線を下に向けながら自嘲気味に笑った。でもそれは失敗して、視界が揺らめく。
 
「……伊南は、その……気持ち悪くないのか?俺が歩を――男を好きだってこと」

 俺は男だ。男が男を好きっていうことは普通ではないのだと頭では分かっている。世間にどういう目で見られるのかも、よく知っている。

 言葉に詰まりながらも心の内にあった恐怖を口に出すと、視界のゆらめきが大きくなった。もう少しで溢れるという時だった。
 
「は?なんでだ?」
「えっ?」

 空き教室に、場違いな程の間抜けな声が響いた。
 ばっと顔を上げて目の前の人物を見れば、それはもう鳩が豆鉄砲を食ったようなそんな表情をしているではないか。いや、恐らく彼だけではなく自分の表情も同じような感じなのだろう。兎に角先程までの重い空気は霧散していた。

「気持ち悪くないの……?」
「いや別に?だって好きになったのが偶々そいつだったってことだろ?……それに俺も、同じだし」
「……え?」

 最後の方はごにょごにょとして聞こえづらかったが、俺の聞き間違いでなければ伊南も俺と同じで男を好きになってしまったということだろうか。もしくは同じということは、伊南も歩を好きだったということなのだろうか?

 伊南はそんな俺の思考を読んだかのように、俺は渡瀬のことは何も思っていないからなと言ってそっぽを向いた。

 よかった。伊南が俺と同じように失恋をしたわけじゃなくて本当に良かった。

 俺がほっと息を吐くと、伊南はむっとしたように眉間に皺を寄せた。

「……俺は誰にでも優しいわけじゃないよ」
「え?」
「はあ……ここまで言って通じないのは流石に傷つくな」

 長い溜息だった。少しの間伏せられていた瞳が顔を覗かせたかと思えば、次の瞬間にはすぐそばまで来ていた。
 あまりまじまじと見たことがない、というよりも顔自体をあまり見ようとしていなかったこともあってか気付かなかったが、伊南の顔の造形はとても整っていた。肌も陶器のように滑らかで綺麗だ。かっこいいというよりも綺麗という表現が似合う顔立ちだなと思いながら近付いてきた黒曜石のような瞳を見つめていると、唇に何かが触れる感触がした。

(……もしかして俺、今、伊南とキスしてる……?)

 何故、なに、どうして。
 俺の頭の中は、混沌だった。何故さっきまでの会話で突然こうなっているのだろうか。そもそもこれはキスなのだろうか。ただぶつかっただけなのかもしれない、そうだそれだ。……どれだよ。

 自分の思考にセルフで突っ込みをするが、俺の脳内はもうぐちゃぐちゃだった。ガタン、と音がした。

「……はっ……ふ、ん……」

 なんだこれなんだこれなんだこれ。
 なんか甘い卵焼きの味がするし、俺から俺の声じゃない声が聞こえる。ああ息が出来ない、頭がくらくらする。もう限界、だ。

 そう思った時、急に呼吸が楽になった。一気に肺に空気が流れ込み、げほげほと咳き込む。座っていたはずなのにいつの間にか立ち上がっていたようで俺はすとんと椅子に座り込み、整わない息もそのままに目の前の伊南を呆然と見つめた。

「俺が好きなのは……お前だ、藍沢」

 俺が好きなのは藍沢――つまり伊南の好きな人は、俺?

「ずっと藍沢のことを見てた。だからすぐに藍沢が渡瀬のことを好きだということにも気づいた。それでも、俺が好きな藍沢が笑ってくれさえいれば良かったのに……昨日、渡瀬たちがお前を泣かせた」
「え……?ちょ、ちょっとまって!ずっとっていつ……いやそれよりも、なんで歩たちのこと知って……」
「俺もあの告白現場を見ていたからだよ。……まあ偶然、だったんだけど、俺は最初藍沢を見かけたから声をかけようと思って近付いたら教室から声がしたから一回その場で止まったんだ。そうしたら女子の好きって声が聞こえてきて、その後に渡瀬の返事が聞こえてきたから慌てて藍沢の方を見たら走っていくお前が見えて追いかけた」

 つまり、全て見られていたということらしい。

 目の前で失恋をした俺が大丈夫か心配になって追いかけてきてくれた後は、俺も知っている流れだった。

「……意味、わかんない」
「そうだな、お前にとっては。……正直言うと昨日のあの告白現場を見た時も階段で怪我をした時も、俺は嬉しかった。これで藍沢は俺を見てくれるかもしれないって」
「……馬鹿じゃないの」

 伊南が俺を助けて怪我をした時、俺は血の気が引いたんだぞと声を大にして言いたかった。それなのになんで伊南はそんなに嬉しそうに、幸せそうに笑っているんだ。……こんなの、もう怒れないじゃないか。

「もう一度言う。……俺は、藍沢が好きだ。付き合って欲しい」

 真剣で、真っ直ぐな瞳。
 俺は歩が好きだったはずなのに――いや多分今もまだ好きなはずなのに、今伊南の言葉に心が揺れている。何故なのか、それは自分にもわからない。ただ言えることは、この中途半端な気持ちのまま伊南を受け入れる事は、真剣に伝えてくれた彼にとっても失礼なことだということだけだ。

 俺はぐっと気持ちを押し込め、言った。

「……ごめん」

 それが、精一杯だった。
 相手がどんな表情をしているかを確認するのが怖くて、視線を逸らす。

 視界に入ったのは食べかけのお弁当。
 ……そうだ、早く食べないと昼休みが終わってしまう。

「……そっか」

 伊南の声は少し落ち込んでいるように聞こえ、益々顔を上げることが出来なくなった。

 もしも歩じゃなくて、最初から伊南を好きだったら誰も傷つかなかったのかもしれない。けれど実際に俺が好きな人は渡瀬歩だった。ごめん、ごめんなと何度も心の中で謝っていると、かたりという音が教室内に響いた。続いて、かつん、かつんと足音が数回聞こえ、真横で止まった。視界の端に学校指定の革靴の先端が映る。

「藍沢」

 とても優しい声が、俺を呼ぶ。弾かれたように頭を上げると、伊南はとても優しげな眼差しで俺を見ながら笑っていた。

「いな……」
「今も藍沢が渡瀬のことを好きだってわかってて言ってるんだから、そんな顔しないでくれ。俺は……渡瀬が好きな藍沢も大好きなんだ。……だから、その……急に告白してごめんな。まずは友達からって言えばよかったのに……自分でも気づかない内に焦ってたんだろうな、俺」
「伊南……」

 なんでこいつはこんなにも優しいのだろうか。

 椅子に座ったままの俺に目線を合わせるように膝立ちになり、くしゃりとしたどこか困ったように笑う伊南を見て胸が締め付けられるようだった。

 ――まずは友達から。

 確かに伊南とはあまり話したこともなかったので、未だよく知らないことも多い。だからなのか、伊南のその言葉がすとんと俺の中に落ちた。

「……友達から、なら……」

 顔が、熱い。今までここまで真剣に友達になろうと言ってくれた人がいただろうか。

「……本当か?本当の、本当に?」
「うん……友達から、お願いします」

 やったーと全身で喜びを表す伊南に、自然と笑みが溢れていた。お互いに、よろしくお願いしますなんて丁寧に頭を下げれば、タイミングよく予鈴が鳴り響き、俺たちは急いでまだほとんど食べられていなかった昼食をかき込む。なんとかギリギリで食べ終え、空き教室を出る時、伊南は俺の手を引いて耳元で言った。

「ありがとう」

 俺たちは、今日ここで友達になった。
 でも恐らく、この瞬間には俺は伊南に好意を抱いていたのだろうと思う。

 俺たちが恋人になるまで、あと――





END
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