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1.ただキスがしたかった【全1話】

1話

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※ただキスがしたい大学生の話です。



 キス――それは唇を相手の頬や瞼、手など身体に接触させて、愛情や敬意などを示す行為。

 その言葉の意味やどういったものなのかも頭では理解しているが、俺はこの20年、一度もそれをしたことがない。大学三年生にもなってファーストキスもまだだという事実に、今まさに打ちのめされていた。

 キスがしてみたい、そう思い始めたのはとあるドラマを見てからだ。偶々テレビをつけたときに流れていたドラマをぼんやりと見つめていると、突然女優と俳優のキスシーンが画面いっぱいに映ったのである。口と口を合わせるだけのその行為をした後の二人の表情がとても幸せそうで、俺も誰かとキスをしてみたいなと思ったのが一昨日のこと。

「ま、彼女もいないんだから出来るわけないんだけど」

 高校生の頃には彼女と呼べる人はいたがどの彼女も長続きはせず、全員キスをする前に別れている。この言い方だと俺に難ありと思われそうだが、実際はそうではない。今まで付き合ってきた彼女全てに浮気をされ、それが理由で別れているので俺は無実だとここに弁明しておこう。

 仲の良い友人曰く、俺の容姿は割と整っているそうだ。一見平凡そうに見えるが目鼻顔立ちは整っているし、スタイルも申し分ないらしい。なのに、彼女に必ず浮気をされてしまう。……なんだこれ。

「……彼女、ねえ」

 キスはしてみたいが、正直今までの恋愛遍歴から彼女を作ることにすら抵抗があるため、キスなど夢のまた夢だ。だからこそキスというものに憧れてしまうのかもしれない。

「なーにさっきからぶつぶつ言ってんの?」
「別になんもねーよ」

 講義室の一番後ろの席でぼんやりと窓の外を眺めていると、友人のあきらがそう声を掛けてきた。黒髪黒目の俺とは違い、央の髪は薄い茶髪に青目。本人曰く染めているわけではなく地毛なのだそうだ。確か母方の祖母が外国の方だとか言っていたか、色素が薄いのはその為らしい。容姿も整っているので女子にモテるのだと他の友人経由で聞いた。

 女子から声を掛けられることも多い央のことだ、きっとキスの一つや二つくらいしたことがあるだろうなと思いながら、ぼんやりと形の良い薄い唇を目で追う。いいなあ、キス。俺もしてみたい。

「は?キス?」

 そう央が驚いたように言った瞬間、俺は無意識のうちに思考を口に出していたのだと気付いて顔が熱くなった。慌てて手を振って誤解だというが、央は何かを考えるように顎に手を当てながら俺を見ている。

「もしかして……彼女出来た?」
「いやいや、それはないってお前が一番知ってるだろうが」

 俺と央は高校の頃からの付き合いなので、俺の恋愛遍歴のほとんどを知っている。俺に彼女が出来るはずがないことも当然知っているはずなのに、こいつは一体何を言っているのだろうか。

「でもキスって……」
「いやまあ、それは無意識に口から出たというか」

 慌てて取り繕うが、央は怪訝そうな表情で俺を見ている。普通無意識でそんな言葉が出るかと言いたげな目に、曖昧に笑うことしかできない。

 確かにそうだ、どうして俺はこんなにも『キス』というものが気になっているんだろうか。『キス』とはただの行為、それ以上でもそれ以下でもないはずなのにどうして。

 チャイムが鳴り、講義が始まった。しかし頭の中を『キス』という言葉に埋め尽くされたままの俺の耳には何も入ってこない。今までキスをしたいだなんて思ったことがなかったのに、たったあの一場面見ただけでこんな風になってしまう自分に驚く。それほどまでにあの場面は衝撃的だったのかもしれない。

 再びチャイムが鳴り、央に肩を叩かれたことで漸く我に返った俺は、そこで初めて講義が終わったことを知った。

「……やばい、何にも聞いてなかった」
「珍しいな、真面目なお前が講義中も上の空なんて」

 青褪める俺に驚く央。講義に集中できなかった理由を聞かれたが、キスについてずっと考えていましたなんて言えるわけもなく、何でもないと答えることしか出来なかった。

「この後午後まで何もなかっただろ?俺の家すぐ近くだから、昼飯ついでに家来るか?今の講義のノートも貸してやるよ」
「……神か?」

 神なのかもしれない。確かに一人暮らしの央の家は大学から徒歩5分という近さにある。実を言うと俺も一人暮らしだが、家賃を抑える為にあえて少し距離がある所を選んだので、央の家からさらに自転車で15分程掛かるのだ。

 渡りに船といった状況に俺は央に抱きついてお礼を言った。大袈裟だなあと笑う央の顔は少し赤くて、俺はこんなにも優しい友人が自分の傍にいてくれることを幸せに思った。

 近くのスーパーで昼食となる弁当を買い、央の家に向かった。相変わらず良い所に住んでいるなと少し羨ましく思いながら、オートロックなので離れないように気をつけながら央についてマンション内部へと入っていく。ひと月ほど前に来た時は殺風景だったマンションのエントランスも、今はクリスマスツリーが飾られ、少し賑やかだ。

「どうぞ」
「あ、お邪魔します」

 とても学生の一人暮らしとは思えないほど、綺麗に整った広い部屋。俺の部屋とは雲泥の差だ。
 央は親が資産家という所謂金持ちで、親が勝手に此処を選んだのだと言っていたが、確かにこれは家賃が高そうだ。1LDKの間取りなんて一大学生が一人暮らしで住む広さではないと思うが、やっぱり広いと心に余裕が生まれそうで羨ましいと思う。

 案内されたのはLDKだが、ここだけでも俺の住んでいる部屋の大きさを少しだけだが超えている。以前畳数を聞いたらLDK11畳と4.5畳の一室だと言っていたので、9.5畳の1DKに住む俺の部屋よりもここのLDKのほうがやはり広かった。

「適当に座ってて。弁当あっためてくるわ」
「俺も何か手伝おうか?」
「弁当あっためるだけだからお前は座っとけって」
「ありがとう」

 そう言って俺と自分の弁当を手に持った央はキッチンへと消えていった。消えた、とは言っても対面キッチンなので此処から様子が見えるのだが。

 俺ははあと息を吐き出した。
 ずっとキスのことを考えていたからか、さっきから央の口元にばかり目が入ってしまう。形の良い薄い唇は、テレビに映った俳優の唇にどこか似ている気がして自然と目で追ってしまうのだ。本当に俺はどうしたんだろう。

 温まった弁当を持ってきた央がテーブルの向いに座り、俺達は手を合わせた後に食べ始めた。俺とは違って育ちが良い央の食べる姿は綺麗だ。箸の持ち方は勿論、食べるときの姿勢まで美しいのだから、これは女の子達がほっとかないだろう。そう考え、俺は溜息をこぼしながら弁当に箸をつけた。

「なあ、さっき言ってたキスって……」
「……っ!ぐ、っ」
「お、おい!大丈夫か!?お、お茶……!」

 突然講義前のことを蒸し返され、思わず入れたばかりのご飯を飲み込んでしまった。苦しい、喉に詰まったと胸を叩くと、慌てた央が俺のペットボトルを開けて俺に手渡してくれる。有り難くそれを手に取り、ごくごくとお茶を飲んでいくと、苦しさがなくなった。

 俺がはあ、と息を吐き出すと、目の前の央も同じようにはあと息を吐き出した。心底安心したとでも言った表情で吐き出す央に、ありがとうと告げる。助かった、そう言うと央は俺に手を伸ばしてするりと頬に手を当てた。
 まさかそんな風に触られるとは思っていなかった俺の身体はびくっと大袈裟に跳ね、その反応に今度は央の方が驚いていた。

「あ、央……?」

 今までこんな風に優しく頬に触れられたことなんてなかった俺の心臓は、どくどくと煩く鳴っている。手が添えられた左側の頬が熱い。戸惑いながら央を見上げると、何故か熱が籠ったような青い瞳と視線がかち合った。

 瞬間、一際大きく心臓が跳ねた。
 獣のような鋭さを孕みながらも、熱に蕩けるような甘さを含んだその瞳から目が離せない。クォーターだったか、自分とは違うその瞳の色がまるで宝石のようだと思ったとき、央の親指が俺のかさかさした唇をなぞった。

「……かさかさだな」

 そう言う央は今まで見たことのないような表情をしていて、俺の心臓はどくんと大きく脈打った。かさついている俺の唇とは違い、目の前にある央の唇はしっとりと潤いを持っている。何がそんなに違うのだろうかと思いながら見つめていると、央はふっと口角を緩めた。

「キス、したかったのか?」
「な……それ、は」
「どうして?」

 どうして、そう聞かれても答えられない。いや、答えられはするんだろうけど、どうしても羞恥心が勝って口に出せないんだ。俺は口を噤みながらすっと視線を逸らした。

 央は黙り込んだ俺が気に入らなかったのか、唇に親指を当てたまま頬をするりと撫でて手を俺の顎まで移動した。そしてくいっと顎を押し上げるように手を動かされ、俺の顔が持ち上がる。

「……っ」

 上げた顔のすぐ前に央の顔があり、俺は息を呑んだ。
 こんなにも近くで央の顔を見たことがなかったが、やっぱりこいつは綺麗だった。青い瞳も目を囲む長い睫毛も、きめ細やかな健康的な肌も、全てが整っている。

「キス、したことないんだろ?」
「……なんで、それを……?」
「……俺としてみる?」

 央のその言葉を頭が処理できなかったのか、央の声がぐるぐると脳内を回り続ける。
 
(俺としてみる?……何を?)

 央が親指で俺の唇をふにふにと触る感触に、漸く央の言う言葉の意味を理解した。央はキスをしてみるかと言ったのだ。それに気がついた瞬間、俺の顔が一気に熱を帯びる。

「き、キスって……俺、男……っ!」
「男同士でもキスは出来る」
「そっ……そう、だけど……!」

 央は嫌じゃないのかと聞けば、逆に嫌なのかと聞かれてぐっと言葉に詰まる。友人同士、その上男同士なのだから普通であれば少なからず嫌悪感が湧くはずだ。なのに今の俺の心の中にはそれらの感情が一切なかった。なぜ、そう考えてもいっぱいいっぱいな頭では答えは出ない。

「……べつに」

 そう答えるだけで精一杯だった。
 顔が熱い。頭が熱でくらくらとする。

「出来るかもわからない彼女よりも、今俺とした方がすっきりするんじゃないか?」

 確かにこの先俺に彼女が出来る可能性は限りなく低い。そうなれば必然的にキスという行為自体することはほぼないに等しいだろう。

 けれど嫌悪感はなくとも罪悪感はある。央に、好きでもない男とキスをさせてしまうという罪悪感が。
 そう口を開けば、央は困ったように笑った。

「俺のことは気にするな。俺は、お前とならいいって思ってる」

 なんで、という言葉が口から溢れることはなかった。央は俺の唇をふにっと親指で押しながら、俺の目をじっと見ている。俺はどう答えたらいいのかわからなくて、俺を見つめるその青い瞳を見返していた。

「もう一度聞くぞ。……俺とキス、してみるか?」

 俺は、ゆっくりと瞬きをした。
 その行動に肯定の意味を含まれていることに気がついたのか、央はふわりと微笑んで俺の唇を親指の腹でひと撫でする。

 そうして近づいてくる央の顔。顔に掛かる僅かな息遣いがその近さを物語っている。カサついた唇にそっと触れる柔らかな感触――ではなく、俺の閉じた目の上にそれは触れた。ただ触れるだけの行為は一瞬で終わり、驚いて目を見開いた俺の目に映ったのは悪戯げに笑った央の顔だった。

 確かに瞼へのキスもキスであることに違いないはない、ないはずなのに、俺の心はざわついていた。友人同士のキスってそういうことだよなとどこか落ち込んだ気分で央を見つめていると、不意に央がその青い瞳を蕩けさせた。その変わり様に戸惑っていると、再び近づいてくる央の顔。

「……!」

 柔らかな感触が唇に触れる。軽く触れ合わせているだけなのに、じんわりと胸が暖かくなっていった。ちゅ、とリップ音を立てて離れていったかと思えば、央は俺の顎に手を添えたまま顔の左側に口を寄せてくる。

「どうだった?」
「……っ」

 耳のすぐ近く、息が掛かる程の距離でそう囁かれ、ぶるりと体が震える。央がくすくすと笑う度に耳に掛かる息が、顔をさらに熱くさせる。そんな俺の反応が面白かったのか、央は俺の左耳の縁に唇を触れさせた。
 驚いて咄嗟に耳を隠して央を見ると、央はとても幸せそうな表情で俺を見ていた。その表情がテレビで見た俳優達の表情と重なる。

 男女でも恋人同士でもなくただの友人同士、それも男同士にも関わらず、目の前の央は彼らと同じ表情をしていた。それが意味するところはまだわからないが、ただ今の俺の表情も彼らと同じ表情をしていれば良いと思った。
 
 
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