声を失ったSubはDomの名を呼びたい

第六章

百五十三話 俺にとっての幸せ

　夢だったら、なんて都合のいいことを考える。
　全部夢で、次に起きたらそばには律樹さんが眠っていて、「おはよう」ってふにゃりとした表情かおで笑いかけてくれるんだ。今日は寒いから布団から出たくないね、このまま寝ちゃおうかなんて二人で布団にくるまりながら笑って。

　けれど、目を開けた先にあるのは無機質な白の天井だけ。ここには見慣れたカーテンレールもカーテンもないけれど、その白色だけはかなり覚えのあるもので、俺はそっと息を吐き出した。
　消毒液の匂いが鼻腔を擽る。ここが病院だから当たり前なんだけれど、嗅ぎ慣れたそれに俺は顔を顰めた。

　ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。いつの間に部屋を移ったのか、そこは病院の個室のようだった。別に大部屋でもいいのにと思いながらも、他に人の気配がないことにほっと息を吐く。しかし同時に寂しくもあった。

（りつきさん……）

　ここで目を覚ます前のことは断片的にではあるが覚えている。朝から壱弦と出掛けて、神社に行って、それから……告白されたことも、家に帰ってから少し眠ったことも――それから先にお風呂場に行った律樹さんがそこで倒れていたことも。全部、全部覚えていた。

　これは昨日お見舞いに来てくれた壱弦と保科さんから聞いたことなんだけど、どうやら俺はあの日二人に助けを求めたらしい。すぐに出られてよかったと壱弦はほっとしたような顔で言っていた。
　だが多分俺はその時に大きな間違いを犯してしまったらしい。なぜなら彼のすぐ後ろに立っていた保科先生の表情がいつもよりもずっと固かった気がするから。……いや固かったというよりも、俺を睨んでいるみたいな……まあそれも当然のことなのかもしれないな。だって俺がいながら、彼の大事な友人である律樹さんを危険な目に合わせたんだから。

　律樹さんは今、同じ病棟のDom専用の階で入院をしているらしい。重症軽症問わず、DomやSubが一緒の階や部屋で過ごすリスクを考慮し、すぐに行き来出来ないように階を分けているのだそうだ。以前俺が入院していた時にDomである兄が侵入してきたことがあったが、あの件以降、さらに厳しくなったのだという。確かにあの時は本当に生きた心地がしなかったから有難いんだけど、今は少しそれが憎い。

「――おはよう。調子はどうだい？」

　コンコンというノックの後、開かれた扉から入ってきたのは担当医である竹中先生だった。
　俺がこくりと小さく頷くと、先生は嬉しそうにそうかそうかと言いながら頷いている。

「顔色は……うん、まだ悪いねぇ。本当は瀬名さんと一緒にプレイしてもらった方が良いんだけど……」
「……っ」
「ん？ああ……」

　瀬名さんという名前に反応した俺に気付いた先生が、ああと目元を緩めた。瀬名さん――つまり律樹さんは大丈夫なのかという俺の視線に、先生はただ大丈夫だから安心してと笑う。

「瀬名さんは大丈夫だよ。倒れた拍子に頭を打ったみたいだからそこが心配だけど、でも検査の結果は異常なかったから。薬の投与もしていることだし……寧ろ僕は君の方が心配だよ」

　確かに俺とは違い、律樹さんの身体は薬に対して極端な拒否反応を起こすことはない。つまり薬を使っての治療が出来るということだ。今はだいぶん研究が進んでいるおかげで以前のようにプレイ不足で死に至るケースは少なくなっているという。

　それを聞いてほっと息を吐き出した俺に、先生は「でも」と続けた。

「でも君は違う。……ここには治療専門のDomもいるから……どうか考えてみてほしい」
「……」
「このままじゃ、本当に……命に関わるから」

　先生は真剣な顔でそう言った。
　……わかってる。治療薬を処方できない俺がプレイをしないとどうなるかくらい、わかってる。けれど俺は先生の言葉になにも答えなかった。曖昧に笑って、答えを誤魔化したんだ。

　午後にもう一度来るからと言い残し、竹中先生は部屋を出ていった。そして入れ替わるように、俺と歳があまり変わらないくらいの若い女性が入ってきた。看護師の彼女は声かけの後俺の腕を取り、慣れた手つきで検温と血液検査用の採血をしていく。細い針が皮膚を破り、身体の中に入っていく感覚はいつになっても慣れない。

　看護師の女性が出てすぐ、今度は食事が運ばれてきた。ベッドにつけるテーブルの上に配膳された朝食を少し食べ、そしてまた横になる。目を瞑るとまだ少し頭がぐるぐるしているような気がした。

　本当は一刻も早くプレイをしないといけないっていうのはわかってるんだけど、どうしても律樹さん以外とはする気にはなれなくてずるずると引き延ばしにしている。時間がないのは俺自身が一番よくわかっているけれど、それでも彼以外とするなんてことは考えられなかった。

（でも……無理はしてほしくないんだよなぁ……）

　……俺の生死なんて正直どうでも良い。
　俺に命の危険が迫っているなんて聞いたら、優しい律樹さんは自分の身体を押してでも俺とプレイをするだろう。でもそれは俺が望んでいることじゃない。

（俺は……律樹さんが幸せならそれで良い）

　自己犠牲？……そんなんじゃない。
　俺はただ、俺を助けてくれて、幸せを与えてくれた彼に恩を返したいだけだ。律樹さんが幸せになること、それこそがやっと見つけた俺の幸せ。……その隣に俺がいれば良いなと考えたこともあったが、今はもうない。律樹さんが目の前で倒れた時、俺じゃこの人を守れないし幸せにも出来ないのだと悟ったから。

　保科さんは俺に何かを言うことはなかったが、その目は怒りと呆れを表していた。もしかすると彼にとって大事な友人を危険に晒した危険人物だと恨まれているのかもしれない。でも俺はそれを否定する気はさらさらなかった。だって、その通りだから。

「……っ」

　なんでだろう……涙が溢れて止まらない。
　竹中先生も壱弦も、俺は悪くないと言ってくれた。でもどうしても俺自身はそうとは思えなかった。

　だって毎日一緒にいたんだ。ここ最近は顔を合わせることが少なかったかもしれないけど、それでも帰ってくるまで待つとかすれば良かった話だ。……気付けたはずなんだ……なのに。

　白いシーツにぽとぽとと雫が落ちていく。僅かに色が濃くなったそこが乾く間も無く、次から次へとまた染みが出来ていった。