上 下
193 / 199
第六章

百五十話 不穏な着信(壱弦視点)

しおりを挟む

 保科先生は俺が泣き止むまでただずっとそばにいてくれた。
 何も聞かず、何も言わずにずっと、ずっと。
 ようやく涙が止まった頃、あれだけ赤く色付いていた景色が今度は群青色の世界に足を踏み入れようとしていた。未だ少し残る夕焼け色が、暗くなり始めた濃紺の空をさらに強調しているようだ。

 俺は、俺の頭を抱えたままの先生の手に自分のそれを重ねた。もう大丈夫だと伝える目的だったのだが、どうにも先生には伝わらなかったらしい。手は離されることなく、まだ俺の頭にある。
 重ねた手のひらから伝わるのは氷のような冷たさ。それほど長い時間ではなかったにしろ、この寒空の下に晒されていた彼の手は冷たい。その手の温度にようやく引っ込んだ涙がまた流れそうになった。

「あの……ありがと」

 ――ずっとそばにいてくれて。
 その思いを込めて俺が小さくお礼を言えば、先生はくすりと笑いながら「いいよ」と言った。ちらりと先生の顔を見上げれば、彼も俺を見ていたのかぱちりと視線が合う。まさか目があうとは思っていなくて、不意の出来事に胸の辺りが強く音を立てた。

 なん、だ……これ。
 思わず胸の辺りの服を握りしめると、合ったままの先生の目がすっと細められた。眉尻は下がり、鼻の先が薄らと赤らんでいる。俺を見つめる彼の視線があまりにも柔らかで優しくて、俺はふいと視線を逸らした。
 そりゃあこんな寒空の下にいたら鼻先も赤くなるよなと申し訳なく思うのと同時に、何故かほんの少しだけ嬉しさが湧き起こる。けれど思い浮かんだその感情をすぐさま打ち消すようにふるふると小さく頭を横に振った。こんなことを思っちゃいけない。
 すると何かを感じ取ったのか、俺の肩に回っていた手にぐっと力が入る。再び引き寄せられる身体。さらに頭上から降り注ぐ俺を案じる優しくて穏やかな声に俺の身体はぴしりと固まった。
 
「な……なんでも、ない」
「……そうか」

 そんな会話を最後に、俺たちの間には再び沈黙が訪れる。けれどそれは居心地の悪いものではなく、不思議なことに心地いいとさえ感じるものだった。するりと頭上に乗った大きな手のひらが撫でるように動く。鼓動がほんの僅かに速度を速めた気がした。

「次の電車は――あと十分か」

 この辺りは栄えている中心部からは少し離れているため、電車の本数はそれなりにしか存在しない。ホームも上下の線路に挟まれるように敷かれた一つだけ。その上車両が二両しかないため、長さもそれほどあるわけではない。
 俺たちが乗る電車の運用本数は基本三十分に一本程度だ。時間帯によっては一時間に一本ということもある。そう考えればあと十分で電車に乗れるというのは中々運の良い方なのかもしれない。

 この電車の終点は俺たちが乗り換えに使う大きな駅だ。ご飯を食べに行くというのも多分その大きな駅でのことなのだろう。この電車に乗ろうかという先生の言葉にこくりと頷く。あと十分かとほっとしたような、名残惜しいような気持ちを抱えながら、赤く火照った目元に僅かに冷たさの移った手のひらを当てた時だった。

 疎にしか人のいない静かなホームに聞き慣れた音が響き渡る。音が近かったために最初は俺のスマホかとも思ったが、どうやら先生のスマホへの着信だったようだ。初めは面倒くさそうだった彼の表情だが、その画面を見た瞬間に怪訝そうなものへと変わった。

「……はい」

 誰からだろうと思いはするが、流石に画面を勝手に盗み見るわけにはいかなくて、俺は隣で通話をする先生の声を聞きながら空を見上げた。あんなにも赤く色付いていた空は今は暗い。けれど月と小さな無数の星たちのお陰でほんのりと明るい。今いる場所は俺が住んでいるところに比べれば開けているせいか、なんだか空が広く見える。
 濃紺の空に輝く無数の星を見ていると、俺の悩み事なんてちっぽけなものなのかも……なんて思うから不思議だ。まあ事実、この世界にいる人間の数や他の人の悩みを思えば俺のものなんてちっぽけなものなんだろうけど。

「――え?……はい、俺も連絡してみます。はい……はい」

 先生の驚いたような声音に、思わず横を見た。さっきまで不思議そうだった表情は、今は不安に彩られている。どうかしたのかと聞きたかったが生憎まだ通話中だ。それに相手が誰かもわからないから下手に話しかけることもできない。

 それから二言三言話して、保科先生は通話を終えた。俺は何をどう話しかければいいのかわからなくて、ただおろおろと彼を見つめることしかできない。
 しばらく固まっていたかと思えば、今度は先生の指が画面の上を忙しなく動いていく。もしかして誰かに連絡を取ろうとしているのだろうか。

「……?」
「あの……どうかしたんですか?」

 口を挟むのもどうかと思ったのだが、スマホの画面を見ながら怪訝そうに首を傾げる姿に思わず声をかけてしまった。関係ないと怒られるかとも一瞬思ったが、俺の杞憂だったようだ。保科先生は少し考えるような仕草をしたあと、眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「律樹に……瀬名先生に連絡がつかないらしい」
「……え?」
「さっき電話が来ただろう?あれは数学の和泉先生からだったんだが……なんでも仕事のことで急ぎの相談があって連絡したのに、何度掛けても電話が繋がらないらしい」
「あー……でもそれってお風呂だったり……?」

 電話に出られない原因としては入浴中だったり、大分早い時間ではあるがもうすでに眠っている可能性が考えられる。しかし保科先生はそのどれもに納得していないようだ。

「あいつ……最近調子が悪そうで……今日は早く帰って休めとは言ったが……」

 不安げな保科先生に心臓の辺りがちりっと痛む。理由?……そんなのは知らない。けれど胸の辺りがざわざわとして落ち着かなかった。


 
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

愛され末っ子

西条ネア
BL
本サイトでの感想欄は感想のみでお願いします。全ての感想に返答します。 リクエストはTwitter(@NeaSaijou)にて受付中です。また、小説のストーリーに関するアンケートもTwitterにて行います。 (お知らせは本編で行います。) ******** 上園琉架(うえぞの るか)四男 理斗の双子の弟 虚弱 前髪は後々左に流し始めます。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い赤みたいなのアースアイ 後々髪の毛を肩口くらいまで伸ばしてゆるく結びます。アレルギー多め。その他の設定は各話で出てきます! 上園理斗(うえぞの りと)三男 琉架の双子の兄 琉架が心配 琉架第一&大好き 前髪は後々右に流します。髪の毛の色はご想像にお任せします。深い緑みたいなアースアイ 髪型はずっと短いままです。 琉架の元気もお母さんのお腹の中で取っちゃった、、、 上園静矢 (うえぞの せいや)長男 普通にサラッとイケメン。なんでもできちゃうマン。でも弟(特に琉架)絡むと残念。弟達溺愛。深い青色の瞳。髪の毛の色はご想像にお任せします。 上園竜葵(うえぞの りゅうき)次男 ツンデレみたいな、考えと行動が一致しないマン。でも弟達大好きで奮闘して玉砕する。弟達傷つけられたら、、、 深い青色の瞳。兄貴(静矢)と一個差 ケンカ強い でも勉強できる。料理は壊滅的 上園理玖斗(うえぞの りくと)父 息子達大好き 藍羅(あいら・妻)も愛してる 家族傷つけるやつ許さんマジ 琉架の身体が弱すぎて心配 深い緑の瞳。普通にイケメン 上園藍羅(うえぞの あいら) 母 子供達、夫大好き 母は強し、の具現化版 美人さん 息子達(特に琉架)傷つけるやつ許さんマジ。 てか普通に上園家の皆さんは顔面偏差値馬鹿高いです。 (特に琉架)の部分は家族の中で順列ができているわけではなく、特に琉架になる場面が多いという意味です。 琉架の従者 遼(はる)琉架の10歳上 理斗の従者 蘭(らん)理斗の10歳上 その他の従者は後々出します。 虚弱体質な末っ子・琉架が家族からの寵愛、溺愛を受ける物語です。 前半、BL要素少なめです。 この作品は作者の前作と違い毎日更新(予定)です。 できないな、と悟ったらこの文は消します。 ※琉架はある一定の時期から体の成長(精神も若干)がなくなる設定です。詳しくはその時に補足します。 皆様にとって最高の作品になりますように。 ※作者の近況状況欄は要チェックです! 西条ネア

処理中です...